2019/1/7    三洋電機

 
仕事始めということで、
有機ELの話に戻ります。

有機ELというと、三洋電機を忘れてはいけません。
今はもうありませんけどね。
 
2001年のCEATECでの三洋電機のブースは感動的でもありました。
 
でかいブースで、有機ELを全面的に打ち出して、
間違いなく、有機ELディスプレイの技術では世界で一番進んでたと思います。
 
パイオニアと同じく、80年代の後半から大阪枚方の研究所で基礎研究から始め、パネル化技術、量産技術、とにかく、最先端を走ってました。
 
2001年の段階でここまでデモできる会社でした。
実用化近しを感じさせましたね。

この携帯も、フィールドテストということで、私もお借りして、約半年間使用させていただきました。
めっちゃカッコよかったです。
特に、飲みに行って、テーブルの上にこれ見よがしにおいておくと、
お店の人が、この携帯かっこいいですねえ、
と声をかけてくれるのが嬉しかったです。

で、2001年12月にはイーストマン・コダック社と有機EL生産会社(SKD)を合弁で設立しました。
 
また、製造装置に関してはアルバック が絡み、三洋、コダック、アルバックの最強トリオでした。
見た目は。

工場は三洋電機の岐阜工場。
枚方からも応援に行き、低温ポリシリコンTFTを用いた有機ELディスプレイの生産を開始しました。

しかし、2003年からデジタルカメラに搭載したものの、歩留まりが低く、数が作れないので、確か、オーストラリアとヨーロッパの地域限定販売でした。

実は、この歩留まりの低さは、TFT基板の歩留まりというよりも、むしろ有機EL部分の歩留まりの低さが原因でした。
真空蒸着で、シャドウマスクを用いてのRGBの塗り分け方式ですが、まず、蒸着方式がダメでした。

後に、蒸着機を見ましたが、あれじゃあ、まともなディスプレイはできないなあ、というような蒸着機でした。

このダメダメ蒸着機は、後にある有機EL照明パネルメーカーに引き取られることになります。

しかも、シャドウマスクの塗り分けも極めて高度な技術が必要で、マスクの位置合わせ等に問題を抱えていたと考えられます。

しかし、三洋電機がすごいのは、トッキ製の蒸着機をあらたに導入し、しかも、RGB塗り分け方式から、白色カラーフィルター方式に変更したことです。

一気に装置もカラー化方式も見直す潔さが素晴らしいです。
 
これで歩留まりが上がり、2006年にはデジタルビデオカメラ、ザクティにお搭載されることになりました。

日本のものづくり、ここにありです。
 
この時に確信しましたね。液晶の時代は終わった、と。
 
しかしです。
2005年に野中ともよ氏が会長兼CEOに就任し、赤字事業の見直しを開始。
そして、これまで赤字であった有機EL事業を2006年に解散
 
せっかく量産に成功したというのに、これからという時に、金の卵を産む鶏の首を絞めました。

三洋電機の終わりの始まりです。

当時、三洋電機の有機EL技術者が言ってました。

野中氏が工場見学に来た時に、有機ELの前で立ち止まり、サングラスを外してチラッと見て、
あら、綺麗わね。
と言って立ち去ったこととか。

技術が理解できない経営者を持った不幸でしょうか。

技術で勝って、ビジネスで負ける。
その典型でした。

野中氏も2007年に辞任されてます。

ご存知のように三洋電機は2011年にパナソニックの子会社となり、2013年にはSANYOブランドは終了しました。
三洋電機の研究、技術者の中には半島の会社に転職した人もいました。
 
こうやって技術は流出する、の典型でもあります。

もしあの時、三洋電機が有機EL事業を続けてたら、スマホ用の有機ELを量産し、どれだけの売り上げていることか。 

「もし」とか「たら」は、ナンセンスですが、平成の30年間、この国に新たなものづくり産業が生まれなかったのは、技術がありながら、
それを活かせなかった経営者の責任が大きいと思います。

 
そんなことを繰り返さないために、人材育成が急務だと思います。

 

 

 

2018年12月28日 (金)

 

NEC

(左が液晶、右は有機EL)
 
有機ELディスプレイでパイオニアといえば、次はNEC。
実はNECは携帯電話用のフルカラー有機ELディスプレイを初めて製造した会社です。
これはパッシブ型と言って、現在普及している薄膜トランジスタ(TFT)を用いたアクティブ型ではありません。
2001年に発売されたドコモのFOMAに搭載されました(写真右) 。

もちろん買いましたけど。
 
 
当時、液晶とは全く違うその高画質に、これで有機EL時代がやってきたと確信したものでした。

 
しかし、
しかし、
しかし、
その半年後、
ディスプレイはリコールされて総取っ替え、
 
 
なんと、
ディスプレイの画面にダークスポットと呼ばれる黒点が現れて、
画質が著しく下がりました。

 
これは、パネル製造時に使用したレジストのベーキング温度が低く、絶縁膜から溶剤等が徐々に放出された結果で、その後、ベーキング温度を最適化することで、もちろん問題なくなりました。

 
しかし、
それに懲りたドコモは、FOMAの次のモデルから液晶に戻り、
それ以来、有機ELディスプレイを採用することはありませんでした。
このNECの失敗は、有機ELの普及を遅らせた原因の一つだと思います。

 
実は、
NECは宮崎台の研究所で初期の頃から有機ELの研究を開始して、応用物理学会なんかでも積極的に研究発表していました。パイオニア、三洋電気とともに有機ELディスプレイの研究では最先端を走ってましたね。

 
しかし、どう言うわけか、
事業化の段階では、三星電菅(後のサムスンSDI、現在のサムスンディスプレイ)と合弁会社であるサムスンNECモバイルディスプレイを設立して、NECの相模原工場で生産を始めました。
 
ところが、
このダークスポット問題でケチをつけ、有機ELの研究開発から事業まで全て中止するという判断を下しました。そして、サムスンNECモバイルディスプレイは、NECの保有する有機EL関連特許とともに、サムスンに譲渡されてしまいました。

 
ちょうど、NECがものづくりからソリューションビジネスに舵を切った頃ですね。
このおかげで、有機EL研究で日本勢をよりずっと遅れていたサムスンは、一気に量産技術まで手に入れました。
今のサムスンの有機EL事業があるのは、NECのおかげと言っても過言ではありません。

 
NECはブラウン管技術もサムスンに供与してましたし、
日本電気と言う名前の割には、韓国のサムスンには多くの技術を供与したようです。
 
今では、宮崎台の研究もなくなり、
ご存知のように、米沢NECのノートパソコン事業もレノボに売却しました。
いったい、どうなるんでしょう、
日本電気。


 
日本のダメ企業シリーズ、
まだまだ続きます。