すみともかがく 2007/11-12

生命のありようを探る
  福岡伸一さん 青山学院大学教授(分子生物学)

 1959年東京都生まれ。京都大学および同大学院農学研究科博士課程終了。ロックフェラー大学研究員、ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授。細胞の分泌現象・細胞膜タンパク質解析を専門とする分子細胞生物学専攻。著書に「もう牛を食べても安心か」(文春新書)、「プリオン説はほんとうか?」(講談社ブルーバックス)、「ロハスの思考」(ソトコト新書)、「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書、第29回サントリー学芸賞受賞)など。06年、第1回科学ジャーナリスト賞受賞)


分子生物学がもたらした機械論的生命観への疑問

ー 先生と分子生物学との出会いをお聞かせください。

福岡 私は、珍しいカミキリ虫を探し回ったり、チョウの卵をとってきて育てたりするような昆虫少年、自然を愛する子供でした。で、そういうことが仕事にできればいいなと思い大学に進みましたが、そこにはもはやアンリ・ファーブルや今西錦司の世界のような生物学はありませんでした。農薬の開発とか食糧を増産するための育種法といった、実学に向けて生命をどう操作するかというのが主な学問の現場で、それを知ったときは結構落胆しましたね。珍しい虫を追いかけたり、新種の昆虫を記載するというのが私の夢でしたから。
 でも、ちょうど私が大学に入った80年前後は、アメリカで初めて遺伝子組み換え技術が生まれ、生命を遺伝子のレベルで扱える「分子生物学」が勃興し、その大波が日本に押し寄せてきたんです。その衝撃はすごく大きくて、ミクロのレベルでこそ生命の神秘は調べられるんだ、という熱に冒され、私もどどっと、そっちの方向に入っていきました。
 これまで誰も知らなかった未知の分子を見つける、みんなが探し求めていた遺伝子をクローニングする。分子生物学のこうした研究には、新種の虫を見つけるのと同じような興奮や競争があります。そうなると、“昆虫少年の夢”なんていうのも色あせたものになり、忘れてしまったわけです。
 そういったことで分子生物学者として邁進し、アメリカヘ渡って修業を積みましたが、その過程では、さまざまな不思議なことというか、壁にぶっかるわけですね。
 ミクロなレベルで生命を見ると、生命は約2万5千種類のゲノムがコード(暗号)化するタンパク質がより集まってできたプラモデルのようなものだ、と言えますが、やはり単なる機械ではない。皆さんも生命現象を相手に仕事をしていると、しばしば気づくと思いますが、インプットとアウトプットの関係は厳密には関数として動かない。
 遺伝子ノックアウト技術というのがあります。ゲノム中のある一部をノックアウト(消去)して、その結果が何をもたらすかを調べる方法です。インシュリンの遺伝子をノックアウトすれば、その動物は糖尿病になる。だから「インシュリンの機能は動物を糖尿病にしないためにある」と推定できる。それはちょうど、テレビの後ろにあるパネルを開け、部品の並ぶ基板から一つの部品を抜いてみたらカラーが白黒になった、だからこの部品はカラー化に役立っていると考えるのと同様です。パーツと機能が1対1に対応する機械論的なあり方を生命現象に応用したのが、この分子生物学であり、遺伝子ノックアウト技術なんですね。
 私も苦労して遺伝子ノックアウト動物を作りましたが、すごく大事なはずの遺伝子をノックアウトしても何も異常が現れないことに直面しました。実はそんな実験例はたくさんあるんです。そういう結果は研究者の業績にはなりにくいので、あまり表には出てこない。しかし、私は、そこにこそ重要なポイントがあるのではと考えるようになりました。
 ノックアウトしても何も起こらないのは、その部品が不要ということなのか、無用の長物が生命の中にあるのかというと、決してそんなことはない。そこが機械と生命の違うところです。
 生命現象には時間の軸があり、あるプロセスで、もし部品がひとつ足りないことに気づくと、他の部品で同じ効果を産み出すようにバックアップする。その部品がないために反応経路がうまくいかないのであれば、バイパスする経路を臨機応変に立ち上げる。そういう可変性をもっています。異なる遺伝子の組み合わせでも、全体として同じ効果をもたらすということはいっぱいあるわけです。

ー 大事だからこそバイパスが2つ3つある、ということですね。

福岡 そうです。一見何も起こらないからといって、それが役立っていないとは言えない。逆に、いま1個しかない部品を増やしてやれば、そこが効率化されてうまくいくかというと、遺伝子の量を増やしただけでは必ずしもタンパク量は増えない。むしろそうすることによって、うまくいかなくなることのほうが実は多い。たとえばダウン症は、染色体が1本多いために、変調が生じてしまう。
 だとすると、生命現象は、部品の寄り集まり、個々の部品の機能が支えているというよりは、むしろ部品が寄り集まってもたらされる効果、部品間の相互作用の方に重要なポイントがあると考えられます。部品は絶え問なく動いているにもかかわらず、全体としては一定のバランスのなかにある生命、このありようを私は「動的な平衡」と呼んでいますが、そのような生命に対し、機械論的に部品を入れ替えるというアプローチは、実はあまり有効ではない局面の方が多いのではないか。むしろ操作的な介入は、その仕組みを壊す、動的な平衡を乱すことにつながりうるのでは、と考えるようになったんです。
 そうすると、かつて昆虫少年だったころの私が思い出されてくるわけです。いろいろと残酷なことをしましたからね。生命現象というのは、ちょっと人間が干渉しただけで、途絶えてしまったり発生しなかったりする。そういうことって、実は私自身ずっと昔からわかっていたことなんです。でも、それを分子生物学の言葉でもう一度言い直せるようになったんだと思いました。
 昆虫少年だったときの思いは、分子生物学に熱中したとき一度色あせたものに見えましたが、コインの表が裏返ってまた表に返るように、生命現象を機械論的にとらえすぎている現在、もう一度別の視点から、つまり動的な見方で見直すべきではないかと思って書いたのが、この本(『生物と無生物のあいだ」、以下同)です。

研究者に求められる重要な資質は、自分の仮説に固執しない自已懐疑

ー 研究成果を生み出すために、研究者として「これだけは譲れない」というポイントやモットーがあれば、お聞かせください。

福岡 図式化しすぎない、直感に頼りすぎないことが大事だと思っています。研究者は自分の仮説に固執しがちです。仮説が正しいと思って研究を進めるのですが、実験結果はそうならないことが多い。それは「仮説が間違っているから」と考えるのが自然なのですが、たいていの研究者はそう考えない。自分の仮説は正しいけれど、実験の手続きがどこかで間違っているからだ、と考える。そして実験のプロセスを検証し、仮説が立証される実験結呆が出るように努力する。大半の研究者は、実験を繰り返して何とか自分の意に沿うような結果を出すために条件を検討している。だから、実験は時間がかかるわけですよ。でも冷静に考えれば、手続きが間違っているからではなくて、そもそも仮説が間違っているからそうならないことの方が実は多いんじゃないか、と私は思うんです。
 研究者として一番重要な資質は、実験がうまく成立しないとき、仮説を疑える、つまり自分自身を疑えるということだと思いますね。

ー 自分が立てた仮説を疑い、立ち止まるボイントとは何でしようか。

福岡 生命はこうなっているんじゃないかと思って研究を始めるのですが、5年、10年と研究を続けていると、そうなってないことの方が経験値として大きいわけです。非常に限局された単純な系では、仮説どおりのように見えるけれども、in vivo (生体内)に置き換えると、そうなってないことが山ほどある。そういう経験を積むと、生命のありように単純な図式を強引に持ち込む仮説の立て方に、疑問を抱かざるを得ない。一種の「あきらめ」ですね。
 分子生物学というと、最先端のツールで人間の可能性を常に見せてくれるように思われがちです。けれども、実は分子生物学が明らかにしてるのは、「生命現象はこんなにも完成された仕組みだから、そこに人為的に介入しても大したことにはならないよ」ということです。人間の操作の限界を明らかにしているのだと思います。そういう意味で、分子生物学は「可能性の学問」というよりは、一種の「諦念の科学」と呼べるのではないでしょうか。
 これは、あまり夢のある話じゃありませんが、「あきらめ」は、ある意味では希望でもあるんです。 
 たとえば、人間の生命は無限じゃない、不老不死なんてありえない、というのはあきらめです。でも、それがあるからこそ、どう生きるべきかが重要になる。「何でも可能ですよ」と、バラ色の未来を提示するよりは、「これ以上、決して生命を改良できませんよ」という言明の方が、ある意味で人間にとっては希望である、と言えるのではないかと思います。

ー 留学体験のなかで、日本の学生や研究者との意識の違いなどを感じられたことはありましたか。

福岡 アメリカの研究室にはさまざまなタイプの人がいます。本にも書きましたが、スティーブという人は、ポスドク(学位取得後の修業研究者)となって研究者の階段を上がっていくに足るデータも能力もあるのに、ラボテクニシャンという、まあラボの雑用係みたいなものを自ら進んで務めている。それで生活費がまかなえればいいし、データの競争をやるつもりもなく、自分には別の自己実現の道があるのだという。それは彼にとって音楽なんですが、そういった生き方を目の当たりにするわけです。
 一方、日本のあり方は少し均質です。みんなが互いに競い合って研究し、インパクトファクターが高い論文を出そうとしている。それはアカデミズムであれば、特に予算の獲得に直結するという事情がありますが、どうしてもひとつの価値観にみんなが染まりやすい。日本の価値観がすべてではないことに気づかされたのがアメリカ留学でしたね。
 また、日本の研究者がインパクトファクターを集めて頑張るというのは、一見、しのぎを削っているように見えるけれども、実は受験秀才が模擬試験を競い合って勉強しているのと基本的には同じメンタリティーです。そういう意味では、ちょっと子どもっぽいなとも気づかされました。

科学は非常にシンプルで分かりやすい言葉で表されるもの

ー 教育者として、教えるということについて、何かとくに留意されていることはありますか。

福岡 私が常々考えているのは、教科書はなぜつまらないのか、ということです。教科書は、「○○はxxである」とか、「これらは△△と呼ばれる」というふうに書かれています。教科書を読んでもつまらない理由ーーそれは、すべての知識を事後的に整理し、羅列しているからです。なぜその時代に、その知識が必要とされたのかという切実さが記されていない。誰がどういう方法で、それを発見したのかというドラマもすっかり漂白されている。だから、教科書はつまらないんです。
 じゃあ、どうしたらうまく伝わるか。
 話は飛びますが、私はスキーが趣味で、スキー場へ行くとスキースクールに入ります。インストラクターはいろいろと教えてくれて「じゃあ、見本を見せますから」と華麗に滑り降りる。そのあと僕ら生徒たちがヨタヨタと滑って行くと、「ンー」ってため息をつき、「どうしてこんな簡単なことができないんでしょうね」と言わんばかりの顔をする。でもね、それには十分な理由があるんです。インストラクターは小さいころからスキー場の風となり、ゲレンデを縦横無尽に滑っている。けれど自分がうまくなつたプロセスは覚えていない。滑ることが生得的なものとして身についている。それは言葉にして誰かに伝達できないんですね。ここに、伝えること、教えることの大事なポイントがあると思います。
 私はインストラクターに何度も指導を受け、苦労してスキーを習得しました。はじめはうまくいかないけれど、何回も滑っているうちに、「ああ、こうすれば曲がれるんだ」と体感として気づく瞬間がある。このプロセスを覚えていれば、誰かに言葉として伝えられる。私は一流のスキー選手は育てられないけれど、まったくの初心者をパラレルができるくらいまでに導くことなら、インストラクターよりもひょっとしたら上手いかもしれない。なぜなら、自分が苦労し、「なるほど」とわかったプロセスを覚えているからです。
 ということは、学生に生物学を教えるときも、教科書的に伝えるのでなく、自分が生物学を理解してきたプロセス、「ああこれはこういうことなんだ」とか「これとあれとは実はこういうふうにつながっているんだ」という気づきを、自分の体験として語ればいい。その一つ一つを、事後的ではなく、自分の内部の時間の流れとして語ればいいと思ったのです。大学ではそれを実践して教えるようにしていますし、この本も、そのように記述しました。

ー 先生が本の執筆や翻訳などを始められたきっかけは、どういうことだったのですか。

福岡 科学は、データやグラフ、数式、電子顕微鏡写真といった客観的なデータで表れるものだと思われていますが、決してそうではありません。データや数値の動き、グラフの分布が何を意味しているのかを表す言葉が、科学のアウトプットです。だから、「このデータはこういう意味です」というアウトプットは、実は非常にシンプルで分かりやすい言葉で表されるものだと思うんです。
 貴重な税金を使って研究をしている以上、科学者には納税者への説明責任がある。分かりやすい言葉でアウトプットを書く責任があると思います。それはまた、私自身の考えをまとめることにもつながります。そういう意味で、一般的な著作を書くようにしています。
 逆に言うと、分かりやすい言葉で語れないサイエンスというのは、まだ十分に何かを解明していないか、あるいは、それを語っている人自身がよく分かっていないかのどちらかだと思いますね。

ー 先生が今後、情熱を傾けて取り組みたいこと、あるいは目標は、どのようなことでしょうか。

福岡 この本では書ききれなかったことがあります。つまり、"生命現象は、動的な平衡状態としてある。で、中の要素はつねにものすごい速度で分解と合成を繰り返し、入れ替わっている。でも、全体としては一種の秩序を保っていて、秩序をもっている理由は、タンパク質とタンパク質、あるいはDNAとDNAのかたちの相補性が、お互いを支え合っているからだ" というところまでは書きました。けれど、それがどうして全体として一つの生命体、あるいは一つの個体として秩序が成り立っているのかについては説明しきれていません。それは、私自身がまだ十分に言葉にできないからです。だから、今後はそういったことを考えてみたいと思っています。
 そのとき一番重要なポイントは、生命現象は時間の関数だということです。時間が流れているから、生命は秩序を保ちながら動いているのであって、実は生命現象がなければ、私たちは時間というものを自覚することもできないはずなんです。だから、これまで複雑系とかフラクタルとかオートポイエーシスとか、さまざまな言葉で語られてきましたが、ただ言葉が先行していて実際には何が起こっているのかよく分かっていない「生命と時間」、あるいはその上に成り立っている秩序の形成原理、言い換えれば、私たちは秩序をもっているけれど、それはどうやって自己組織化されているか、ということを考えてみたいですね。