2016/3

私の履歴書 大山健太郎

漁業用ブイを自社開発 問屋に拒まれ 飛び込み営業

脱下請け

22歳の時に下請けからメーカーに脱皮すると決めた最大の動機は、変な話かもしれないが、正義感だった。

発注元は商習慣で半年に1回、納入価格を値切る。拒否すれば取引は終わりだ。その結果、店頭価格も下がるなら私たちの努力が消費者に還元されたと納得できる。しかし実際は発注した企業の利益になることも多かった。

ビジネスは対等でなければならない。しかし大手企業と下請けの関係は隷属という面が強く、だんだん我慢できなくなってきた。自分の製品は自分で値を決め、自分の意志で値下げしたいと思い始めた。

メーカーになるには独自商品を持たなければならない。アイデアを探すうちに、ある知人から「養殖用の漁業ブイが有望ではないか」という助言をいただいた。

当時の日本は真珠養殖ブーム。特に盛んだったのが三重県の志摩半島だ。筏を浮かベアコヤ貝を海中につるすのだが、輸出量の増加で湾内だけでなく外海でも養殖を始めていた。外海では筏はバラバラになりやすいので、大きな浮き玉(ブイ)をロープでつなげて筏に代える。当時のガラス製ブイは輸送や作業の途中で割れやすかった。しかも球体で表面にとっかかりがなくネットで覆ってからロープと結びつけるという手間を要した。

ガラスビンと同様、ブイもプラスチックに換えればいい。私は素材だけでなくデザインも工夫し、球体より安定性がいいラグビーボール型のブイを開発した。ロープを通しやすいよう耳のような輪も付けた。ささやかではあるがイノベーションである。ガラスに比べ成形が自由自在なのがプラスチックの良さだ。

ニッチ(隙間)市場とはいえ、世の中にない独自商品の第1号だ。このブイは三重県で歓迎された。ブームで養殖業者は瀬戸内や九州でも増えている。さっそく売り込もうとしたが、漁業協同組合に資材を納入している問屋が私たちと取引してくれない。

良くて安い商品は世の中に必ず普及すると考え、自ら養殖業者に売り込みに歩いた。長崎県に行くときは夜行列車に乗った。スイカほどの大きさのブイを見本として貨物に預ける。到着したら見本を抱えてタクシーに乗り、各地の養殖業者の事務所を飛び込みで訪問するのだ。

最初は警戒されたが、やがて当社の商品が受け入れられ始めた。すると漁協と取引のある有力な商社の1社から連絡が入った。「1回、ウチに顔を見せろ」。出向くと彼らは私に対し怒ったりなだめすかしたり。私は「あたなたちが扱ってくれないから直接販売しただけだ。自分で作ったものを自分で売って何が悪い」と突っぱねた。最終的にその商社で扱ってくれ、両社に利益をもたらした。

その商社の販路でホタテを養殖する北海道の漁協にも市場は広がった。竹製の籠の代替となるプラスチック製の籠も開発した。漁業など第1次産業の市場規模とその内容は、補助金を子細に調べれば把握できるというノウハウもつかんだ。

使う人が喜んでくれる商品を作れば、いずれ必ず受け入れられる。そう確信した。同時に、メーカーがいい商品を作っても流通がしばしば普及の壁になることも、このとき知った。

 

宮城に工場 東日本開拓  用地認可遅れ急きょ代替地

農業用品ヒット

初の独自商品として真珠養殖に使う漁業ブイを開発・発売したのは1966年。これを足がかりに水産業向けの品ぞろえを広げた。しかし作っても作っても間に合わなかったブイの活況は、1人の女性の登場で終わってしまう。

その頃、ヨーロッパの女性には、落ち着いたドレスやスーツに合う真珠のネックレス、イヤリングは必需品だった。輸出用の真珠生産の拡大で当社のブイも売れた。しかし英国のツイギーという女性モデルが活動的でカジュアルなミニスカートをはやらせると真珠の需要は一気に縮小。日本では養殖業者の倒産が相次ぎ、流行に乗ることの怖さを知った。

やはり地に足のついた市場を狙おう。私は農業に目を向けた。大阪には大手農機メーカーが2社あり、田植えを手植えから機械植えに変える田植え機の開発、改良を進めていた。

田植え機に必要な育苗箱の需要が拡大していた。苗を育てるための木箱だが、手づくりのため供給が間に合わない。湿気に弱く木がそり1年で使えなくなるなど使い勝手も良くなかった。丈夫で安価なプラスチック製の箱もあったが、通気性や保湿性に問題があり苗の育ちが悪いという難点を抱えていた。

私は温室を作り生育試験を重ね、プラスチック製だが苗の育ちが良い育苗箱を開発した。成長に最適な水はけになるよう底面の形状などを工夫したのだ。軽くて翌年も使え苗も良く育つのだから、もちろん大ヒット。育苗箱市場で当社のシェアは拡大した。

こうなると、当時育苗箱の生産を委託していた東大阪の下請け工場だけでは追いつかない。北海道や東北のユーザーからも地元での工場新設を求める声が寄せられていた。

ブリキ缶に替わるものとして開発したプラスチック製の灯油缶や先に見た漁業ブイなど、主にブロー成形で作る当社の製品は中が空でかさばるものが多かった。遠距離輸送では運送費がかさみ、需要家の近くで生産することは当社にもメリットが大きい。

東日本向けの工場をどこに建てるか。地図を眺めるうちに、宮城県が最適だろうと思い定めた。北海道も東京もほぼ等距離だったからだ。人を介して土地を探し、海に近い仙台空港に隣接した区画を紹介ざれた。大阪との行き来にも便利で幹線道路も近く、立地として万全だと思われた。

県知事も土地の購入・開発を了承され設計図も完成。なるべく早く稼働させようと設備を発注した。ところが県議会が全くの別件でもめ始め、そのあおりで用途地域の変更が1年遅れることになってしまった。それまで工場は建てられない。

しかし機械はまもなく到着してしまう。焦って県の協力を得て代替地を探すと、大河原町の河川沿いに用途無指定の土地が見つかった。購入手続きの時間がないので借地のまま大車輪で工場を建設。72年7月、予定より2ヵ月遅れで操業を始めたのが今の大河原工場だ。最初の従業員は150人。その後、何度も増設や拡張を重ねている。

父の死で会社を継いで8年。私は27歳になり、当初500万円だった年間売上高は7億6000万円まで伸びた。経営は順風満帆で、オイルショックという荒波が迫っていることなど想像の外だった。

 

故郷・大阪の工場閉じる 家族同然の仲間、解雇を決断


石油危機

宮城県に進出した翌年、1973年の秋。第4次中東戦争が始まり、プラスチックの原料である原油の価格が一気に高騰した。私は営業よりも原料調達に駆け回った。商品の売り上げは急速に伸びており、作りさえすれば売れる状況だったのだ。75年の売上高は2年前の2倍近い14億7000万円に達した。

しかしこの年を頂点に商品は突然、売れなくなった。不思議に思いお客様のところに行く。「何かあったのでしょうか」「大山さん、これを見てください」。倉庫の扉を開けると在庫の山があった。

原油価格は当面、上がり続けるーーー。皆がそう思い在庫を積み増したと知る。消費者のトイレットペーパー買いだめと同様、需要の先食いにすぎない。戦争勃発から2年、値上がりが一服した途端に商品がだぶつき始めたのだ。

まもなく壮絶な値崩れが始まった。大量の在庫を抱えた流通業者や競合メーカーが原価割れで投げ売りする。市況はコストダウンの限界を超え、売れば売るほど赤字が増える。売上高は毎年2割、3割と減り続け、宮城進出前の水準に戻った。

良好な関係だと思っていた問屋が手のひらを返すように値切り、取引を中止してくる。流通業者の意向次第で、時間をかけて築いた商権を突然失うこともあると知った。恨みはない。生き残るために皆、必死だっただけだ。

10年間かけてたくわえた資金は混乱の2年問で底をついた。金策に走り回り、発行した手形の不渡りを避けるため、ジャンプ(支払期日の延期依頼)を繰り返す。東京の取引先から大阪の本社に帰る新幹線の中で「もう辞めよう」と何度も思った。会社は畳むか譲るかして、勤め人として出直そうーーー。

しかし大阪の街が近づくにつれ弱気の虫は静まり、まだ頑張れるぞ、と思い直す。昔に戻れない以上、前に進むしかない。ついに会社存続のためリストラに着手した。最大の課題は工場だ。今の体力で2カ所は維持できない。

大阪の工場は父が作り、本社や自宅と一体で、近所には親戚や友人知人の家も多い。何より従業員は町工場の頃から一緒にやってきた人たちで家族同然の存在だ。

しかし宮城の工場の方が設備も最新で規模も大きい。企業存続のためには何が正解か。「宮城を残し、大阪を閉める」。ほかに道はなかった。

 

従業員 二度と見捨てぬ 経営情報共有 仕組み整える


常に利益を

リストラのため閉鎖すると決めた東大阪の工場ではその頃50人ほどの従業員が働いていた。私は「申し訳ない」と謝罪し、希望者は存続する宮城県の工場で受け入れると伝えた。しかし応じたのはわずか4人。1978年当時、大阪から見た東北はそれほど遠い場所だった。

父が始めた工場を継ぎ、工員わずか5人の時代から一緒に大きくした仲間だ。酒を飲み飯を食い、手を握り合った。32歳の私より年上の人も多い。それを、会社を救うためとはいえ辞めてもらうのだ。自分の分身を切り取られるような気がした。社員も会社の実情を理解しており、無理は言わなかった。

存続する宮城の工場も150人いた従業員を半分に減らした。金融機関には「業態を変えるから会社存続に協力してください」と頭を下げた。しばらくは漬物用の樽や塩辛の容器などをこつこつ作る。売上高は半減したが経費も減り毎年の赤字はなくなった。しかしこれではいつまでも借金は減らない。

私は自分がどこで何を間違えたのか真剣に省みた。まず、従業員のリストラだけは二度としまいと決めた。こんなつらい思いをするのはもう御免だった。

そのためには何が必要か。どの業界にも、好不況の波が必ずある。好調の時はどんどん人を採用し、不調になると事業を縮小し人を切るのは、私の目指す経営ではないと思われた。「好況のときにもうけることより、不況のときでも利益を出し続けることを大事にする会社」。一つの答えが出た。

この姿勢は後にアイリスオーヤマの企業理念の第1条として明文化した。全文を引用すると「会社の目的は永遠に存続すること。いかなる時代環境に於いても利益の出せる仕組みを確立すること」となる。社員は全員、これを暗唱できる。その裏には40年前のリストラを繰り返すまいという私の決心がある。

それまでのように私1人で開発、生産から営業や経理まで、すべてを見る体制に限界を感じた。大学を出て商社に勤務していた弟の富生に「会社を辞めてうちを手伝え」と命じる。現在専務である彼には大阪を拠点に営業や管理を任せ、私は宮城県で開発や経営に専念する。

現在も続く「幹部研修会」を始めたのもリストラの翌年だ。参加者は8人。合宿し会社の今後を徹底的に議論した。社長が経営上の判断を下せるのは情報を独占しているからであり、これをやめれば社員も8割の案件で同じ判断ができるはず。今後は広く経営情報を共有し、管理職が経営者として動ける仕組みをつくっていく。


経営者としても父親としても、このまま終わるわけにはいかない。従業員に犠牲を強い、父の作った工場を閉じ、故郷を離れてまで止血を終えた私は具体的な反転攻勢の道を探し始めた。仕事人としての第2楽章が始まった。

 

家庭園芸で「需要創造」 陰の立役者は妻 基本教わる

マーケティング

20代の私は「プロダクトアウト」、つまり商品力による競争力優位の経営をしてきた。品質のいいものを安く大量に供給してシェアを獲得するというメーカーとしては王道の作戦だ。しかし苦境に陥った。

オイルショックでプラスチック業界の8割が赤字になる中、2割の会社は利益を上げていた。規模や技術力は無関係。共通するのは「マーケットイン」、すなわちお客様のニーズに合わせサービスやものづくりをしている点だ。マーケティングというものの重要性をようやく理解した。

産業界向けのビジネスよりも消費者向けビジネスの方が好不況に左右されにくいこともわかってきた。これで方向性は見えた。

自社の強みを生かせ、収益性と将来性がありそうな分野を具体的に探す。帝国データバンクから日本企業140万社の経営データを購入、半年かけて丹念にチェックすると園芸用品の2社が目に留まった。地方企業で規模は小さいが売上高を伸ばしており利益率も高い。

従来の植木鉢は素焼きが主で、重くて割れやすくコケも生える。プラスチックなら軽く丈夫で色もカラフルだ。しかし素焼きの鉢には通気性や保水性がよく植物に優しいという長所があった。私は農業用の育苗箱作りで得た技術を生かし、メッシュの上げ底を備えた植木鉢や、底をすのこ状にしたプランターを開発した。水のやり過ぎによる根腐れや、やり忘れによる根枯れを防げ、消費者は簡便に園芸を楽しめるようになる。

映画になぞらえるなら全体構想、つまり最終的な目的は「需要創造」。描くストーリーは「快適生活」。そして宣伝などで打ち出すコンセプトは「育てる園芸」だ。今はまだマーケットは小さいが、生活が豊かになれば間違いなく大きくなる、高校時代に見た映画に登場する欧州の家庭の光景が参考になった。

開発した植木鉢やプランターをどこで売るか。種苗店は小ぶりで品ぞろえもタネが中心。総合スーパーの園芸コーナーも同じだ。

私は当時増え始めたホームセンターに注目した。金物や塗料、木材などを扱うDIYの店だ。郊外の道路沿いで売り場は広い。「タネに肥料や水をやり育てるのもDIYだ」。そう説くと、1980年、名古屋のホームセンター、カーマ(現DCMカーマ)さんが鉢やプランターを置いてくれた。すぐにヒットした。

1社で実績ができれば後は早い。特にカーマの地盤である愛知県は園芸産業が盛んで同社の客には専門家も多い。プロに認められた商品として信用も得た。

成功の陰の立役者は、実は結婚したばかりの妻だった。宮城県で育った彼女は庭いじりが好きで、新居のささやかな庭でも園芸や家庭菜園を楽しんでいた。大阪で町工場に囲まれて育った私は花などに疎く、自宅で子供たちと一緒に彼女から園芸の基本を一つ一つ学びつつ、新商品のアイデアを練った。

生活の場こそ最大の研究所だ。こんな物があれば便利だ、こうすれば使い勝手が良いなど、この庭から数々のヒット商品が生まれた。生活者の代弁者として潜在ニーズを顕在化する。そして消費者にとって買いやすい売り場で売る。まさに市場創造だった。

 

 

ペットブーム火付ける テレビで「家族の一員」と啓発


売上高2倍に

園芸マニア向けに市場は大きくなったが、植物を中心とした園芸マーケットは季節性が強くシーズンに左右される。そのため一般の家庭にも広く園芸用品を普及させようと「育てる園芸」から「飾る園芸」にコンセプトを広げた。土いじりが嫌でも庭をきれいにしたいと考える生活者は多いからだ。

それまで家庭の植木鉢は地面などの平地に置くのが普通だった。しかし庭全体の見た目を考えればラティス(木製フェンス)やワイヤスタンドで立体的に演出したくなる。

そのための木製品や金属製品の開発も手がけていった。

散水用ホースリールも多くの人に歓迎された。金属製の巻き取り用リールをプラスチック製に変え、別に売られていたホースをセットにしたのだ。後に当社の提供でテレビ番組「楽しいガーデニング」を放映。夜も楽しむ庭としてイルミネーション装飾のブームも作った。日本のガーデニング市場を創造したのは当社だと自負する。

園芸の次に目を向けたのはペットだ。子供が小学生になり庭で犬を飼いたいと言い出した。妻も私も犬は好きだった。準備のため木材などを買い犬小屋を作るうちに、ふと思う。これをプラスチックで作ったらどうだろう?

当時、家庭の犬小屋は安くて扱いやすいベニヤ板のものが多かった。水に弱く匂いもこもり、掃除も大変で不衛生になりやすい。かつて犬を飼うといえば庭の隅に小さな犬小屋を置き、床には使い古しの毛布を敷いて餌は人間の余り物という時代があった。

しかしこのころになるとペットを家族の一員として大切に育てる家庭が増えていた。「ペットはファミリー」というコンセプトで1987年、ペット用品に参入した。カラフルで水に強く清潔なプラスチック製の犬舎は爆発的と呼べるヒットになった。販売する場所は園芸用品と同じホームセンターだ。私は再び「ペット用品もDIYだ」と説いた。必需品ではなく余暇商品という点も共通していた。

一般的に犬は番犬として飼われ、一日中鎖でつながれていた。家族が鎖でつながれるのはおかしい。放し飼いにするのに使うサークル、室内で飼うためのトイレやシーツ、ケージ、移動用のキャリー、しつけのためのジャ一キー、猫にはトイレや砂、缶詰、ペット消臭用の空気清浄機、抜け毛用の掃除機。アイデアは次々と浮かぶ。飼いたい人のためにマナーや飼い方をテレビ番組を通じて啓発し、2000年以降のペットブームを作った。

存在しなかった需要を創造するためにはアイデアだけでは駄目で、マスメディアや売り場を通じた啓発活動が必須になる。メディアの活用や店頭への手厚い人員配置なしで大きな市場創造は難しい。シーズンに応じた売り場作りりやPOP(店頭販促)による啓発、チラシでの販促などをメーカーベンダーとして一から企画、提案し接客販売も請け負った。

近年の消費の減退は小売業が現場の人間を減らしすぎたことの影響も大きいと思う。この点は後に詳しく書きたい。

ビジネスが漁だとすれば、魚のいるところに船を回すのが企業のトップの役割だ。園芸に続くペット用品のヒットで売上高は2年間で2倍以上に増えた。
 

「服はどこだ」から新商品  探すイライラ解消 大ヒット

クリア収納

1987年、5月連休の早朝。海釣りに出かけるため友人が迎えに来た。この時期にしては冷え込みがきつく厚手のセーターを探すが、衣替えで冬物は既にしまいこんである。心あたりの箱を次々に開けるが見当たらない。取り出した服が床に散乱する。

ついに眠っていた妻も起こし、2人で家中の収納場所を一つずつ確かめていく。友人を待たせておりイライラが募る。口げんかも始まる。結局最後に開けた収納箱から見つかった。「こういうことはどの家でもあるのでは」。妻に聞くと「そうね」という。それなら中身が外から見える透明な衣装箱を作れば喜ばれるのでは、と思いついた。

日本には四季がある。服へのこだわりも強い。豊かになった消費者は服をたくさん持つようになった。タンスに収まらない分は段ボール箱や不透明なプラスチックケースに詰め、押し入れや納戸に保管し、季節ごとにタンスの中身を入れ替えるのが一般的だ。

しかしモノは増えても住宅は相変わらず狭く、衣類の収納場所や整理整頓に頭を悩ませる人は主婦を中心に多いと思われた。箱に「お父さんの冬物」などとラベルを貼るやり方も広がったが、何度も出し入れするうちに中身と一致しなくなる。書き換えも面倒でこれは廃れた。

目当てのものを見つけるのがこうも大変なのは、これまでの収納用具が「しまう」ことだけを目的に作られ、「探す」ことへの配慮がなかったからだ。私たちは「探す収納」をキーワードに新商品を開発することにした。

当時、家庭用のプラスチック製品には安くて加工しやすい不透明なポリプロピレン樹脂が使われており、見栄えをよくするためカラフルに着色するのが普通だった。スチロール樹脂という透明な素材もあったが、壊れやすく落とすと割れる欠点があった。

ちょうどその頃、透明なポリプロピレンが登場した。ただし使い捨て注射器という特殊な用途のために開発された素材であり、生産量は少なく価格も高かった。新商品の小売価格は従来の2割高に抑えたい。そのためには原料費を半値にする必要がある。

私は原料メーカーに「完成したら必ず大量に購入する」と約束。共同で製法などを工夫し、2年がかりで、目標とする価格で透明な原料を生産することに成功した。

ようやく透明な収納ケースを作り皆に見せると、納入先の仕入れ担当者も社内の営業部門も反対した。「服をしまうという用途は同じ。割高なものが売れるはずがない」。前例がない商品だけに無理もない反応だ。

議論の末、売り場に置いてお客様の反応を確かめることになった。公平を期するため特別な宣伝や貼り紙などはせず、色つきで不透明な従来の衣装箱と、透明な「クリア収納」を黙って並べておく。結果は歴然。2週間もたたないうちに、価格の高い透明な箱の売り上げが、色つきの従来品を上回ったのだ。

ここが勝負どころだ。正式発売と同時にテレビCMを大量に流し、クリア収納は爆発的にヒットした。この需要創造に対応するため各地に工場も建設。「探す収納」は小物や文具にも広がり、日本の、さらには世界の収納文化を変える商品に育っていく。
 

「自前で販路」転機の決断 困難な挑戦 社員も意識改革

問屋の壁

1980年に消費者向け園芸用品市場に進出したとき、頭を悩ませたのが問屋とのつきあい方だった。

当社は地方に本拠を置き名前も売れていない会社だった。しかも今まで問屋が扱ったことのない提案型の商品を作る。彼らには売れるかどうか見当がつかない。仕方なく当社の営業が問屋の担当者に同行し小売店のバイヤー(仕入れ担当)に売り込んだ。

取引量が拡大すると問屋が当社の売り込みにブレーキをかけ始めた。仕入れを絞った商品が予想外に売れると欠品が起き、バイヤーから問屋にクレームが来る。しかしそれよりも問屋は、仕入れた商品が予測より売れず過剰在庫になる方を怖がった。売れ残りを恐れた問屋が当社への発注を控え、需要のピークの春先に十分な量の商品が店頭に並ばない問題が起き始めた。「問屋の壁」だ。

やむなく当社は新興勢力のホームセンターとの間で問屋を通さず直接取引を始めた。取引規模も小さく、ホームセンターもまだ発展途上の業態だったので、単品ではなくケース単位での納品でも大目に見てもらえた。しかしヒット商品が増え取引量が大きくなると空気が変わってきた。

その当時のホームセンターは陳列や品出し、商品への値付け、改装や新店の開店準備などの作業を問屋に依存していた。取引量が拡大したことで当社にもそうした要望が増えていった。人的な手伝いや単品での納品を「ほかの問屋と同じようにやってくれ」と求められ始めたのだ。

私は二者択一を迫られた。問屋経由で商品を供給する普通のやり方に戻すか、または自社で問屋の機能を持つか。当時の規模なら大河原の工場から問屋経由で全国の小売店に配送してもらう方がコストは低い。しかし問屋の意向次第で売りたい新商品が店頭に並ばない弊害があった。

社内は「他のメーカーと同様、すべて問屋を通そう」という意見が大勢だった。私はオイルショック時の倒産の危機を思い出していた。仲間だと思っていた問屋が価格の安い他のメーカーに仕入れ先を移し、当社は大口の商権を失って年間売上高は半減した。「好不況にかかわらず利益を出す会社」を目指すなら販路は自分で確保すべきだ。

「今後はベンダー機能も自社で持つ」。私はあえて難しい道を選んだ。町工場以来の「できることは自前で手がけ、経験を社内に蓄積すべし」という姿勢にも合う。方針を決めたことで、小売店との取引拡大につながった。

「問屋外しだ」「商道徳に欠ける」。業界からは罵詈雑言を浴びた。怒った問屋から大量の返品を送りつけられたこともある。課題は多かったが「問屋にできて我々にできないはずがない」。得意先である小売業が味方である限り、勝負を決めるのはマーケットニーズだけだと私は楽観的だった。

単なるメーカー直販なら自社製品を直接納入するだけで済む。メーカーベンダーは違う。小売店への品ぞろえ提案や売り場作りも請け負う。もちろんプラスチック製品だけでは足りず、素材の違う売れ筋商品の開発もしなけれはならない。毎回の配送もケース単位ではなく単品になる。物流の仕組みや社員の意識を根本的に変える必要がある。

こうして「メーカーべンダー」という例のないビジネスモデルヘの挑戦が始まった。
 

 



「売れ筋すぐ作る」へ態勢  工場改革 生活者目線で開発

メーカー兼問屋

一般に大手小売店は売り場の効率化と在庫削減のため問屋に対し単品で発注し、きめ細かく配送するよう求める。力仕事の手伝いも要請する。問屋は方々に小さな倉庫を持ち、在庫を抱え、営業所の男性社員は店回り。1回当たりの発注量が小さいので伝票1枚分の取引くは少額で枚数が多く、伝票処理のため女性社員を大勢雇うのが普通だった。

こうした現状をまねても仕方がない。当社らしいメーカーべンダー(製造業兼問屋)の姿を追うことにした。

1987年からほぼ2年おきに工場兼物流センターを建設、15年間で全国ネットワークを完成させた。取引のあるホームセンターや量販店は8カ所の拠点からほぼ300キロ圏に入り、受注翌日の納入が可能になった。その1つが92年完成の角田ITP(インダストリアル・テクノ・パーク)だ。宮城県角田市の山35万平方メートルに工場、倉庫、研究所を集め国内での司合塔にした。

実は設備増強より難しいのは社内の意識改革だった。

これまでメーカー部門の社員は単品・大量生産を軸に機械化や効率化で生産性を向上させるのが仕事だった。しかし問屋の役割は多品種少量を単品で管理・納品すること。小売店の注文に応えられない問屋は取引を切られる。

農業用資材など産業用の商品なら需要を見通せる。しかし需要創造型の生活用品はまったく予測ができない。欠品を避けるため在庫をたくさん持てば経営を圧迫する。

販売情報を得てすぐ生産量に反映したり、注文に合わせて臨機応変に作るものを変えたりする必要があった。作った物を売るのではなく、売れた物を迅速に作るのだ。「在庫を金型で持つ」発想ともいえる。社内の製販連携ができてこそ全体の効率が上がる。「生産優先から出荷・納品優先へ」の脱皮を製造現場の人たちにじっくり説いた。

メーカーベンダーの仕組みは多くのメリットを生んだ。店頭までの運賃が商品1個単位で把握できる。犬舎など軽くてかさばるものと園芸の土など小さく重いものを混載し物流費を抑えられる。店頭売り上げを即時に把握でき生産・在庫管理の予測が容易になる。営業担当はデータをもとに商品を店に提案した。

しかし最大の効果は、小売りの現場と直結することで、他のメーカーに比べ商品開発の目線が生活者に近づいたことかもしれない。ものづくりは目的ではなく生活者の不満を解消する手段だーーー。「マーケットイン」から一段進化した「ユーザーイン」の姿勢かここで確立した。

ベンダーとしてプラスチック以外の商品を求められることが増え、作るものの幅も広がった。「ブラスチック製品のメーカー」にとどまっていたら今のアイリスはない。
大量の伝票処理のためオフコン(オフィスコンピューター)をいち早く導入。生産設備同様、プログラムは自社で開発する。業容拡大のため弟の繁生(現常務)と秀雄(現財務部長)もそれぞれの勤め先から呼び寄せた。2人は生産技術とIT(情報技術)に詳しく頼もしかった。

1991年には園芸ブランドのアイリスをもとに社名を大山ブロー工業からアイリスオーヤマに変更し企業理念も制定。品ぞろえや物流・情報システムと足場も固め、世界を舞台に第3楽章が始まった。


余った設備で米国進出 模倣品と競わず 新天地探す

世界へ羽ばたく

当社では現在毎年1000点の新商品を出し、取扱商品は1万6000点に上る。売上高の5割強を発売後3年以内の新商品が占める。ヒツトが出ると他の模倣メーカーがすぐ似たものを作ってくる。

当社は全ての商品で単品での原価管理が徹底されており、原価割れのビジネスはやらないと決めている。たとえ自社開発したオンリーワンの商品でも、値崩れによって赤字になった場合、最初のうちこそコストを下げる努力をするが、限度を超えたら新しい商品開発に力を入れ売り上げ減をカバーする道を選ぶ。

1989年に発売し大ヒットした透明な衣装箱「クリア収納」も、人気を見て国内だけで30杜が模倣品を出した。供給過剰で値崩れし、1個2000円で売っていたものが1500円、1000円、800円と下がる。こうなると材料費より安い。オイルショック後、主力商品だった農業用育苗箱が在庫過剰による乱売に陥ったのと同じだ。

収納ケースという市場を創造、独占していた当社は力で他社を追い払う手もあった。しかし私は「もうからない商売かちは撤退する」という道を選んだ。倒産の危機を経て、私は「いかなる時代環境でも利益の出る会社」を目指すと決めていた。私たちの求める価格で仕入れてくれる店との取引だけを残し、生産量をぐっと絞った。

そうなると金型など生産用の設備が余る。私は米国でクリア収納を生産、販売することを思いついた。米国には商品買い付けの事務所はあるが工場や販売拠点はない。

「米国の家は広い。収納場所に悩む人はいない」と皆が言う。米国でも従来型のプラスチック製収納箱は安く、大量に売られている。リスクはあるが、やるしかない。私は考えた。「普通の収納ケースならそうだろう。しかし米国人にも『探す』面倒への不満は必ずある」。その課題を解決する透明ケースは受け入れられるはずだ。

カリフォルニア州ストックトンで中古の倉庫を改装、日本から運んだ設備を据え付けた。収納ケースはかさばるので日本から輸出すると運賃で価格が高くなるからだ。

1994年、こうして当社初の海外工場が稼働した。立ち上げメンバーは日本から行った10人の若手と現地採用社員。日本組はほとんど英語ができない。米国社員に日本語を教えるつもりだったがうまくいかず、つたない英語でアイリス流の生産技術とマネジメントを教えていく。

当初は米国の小売業のバイヤーも「従来品より価格が2割も高くては売れない」と否定的だった。しかし日本と同じように一部の店舗でテスト販売し好評を博す。1年もたたずに大ヒットしフル生産しても追いつかない。大手小売店シアーズ・ローバックとの取引も始まり、2年後には2カ所目の工場をウィスコンシンに建てた。透明な原料は最初こそ日本から運んだが、ヒットをみた米国のメーカーが作ってくれるようになった。

こうなると日本同様、模倣メーカーが登場する。某大手ディスカウンターも下請け企業にコピー商品を安く作らせた。そこで高くても売れる専門店に出荷先を絞るのと並行し、1998年オランダに現地法人を設立。工場も建て、今度は欧州で透明の収納ケースを普及させていった。
 

大連市の「栄誉公民」に  現地採用社員、社長に抜てき

中国工場建設

かつて当社の製品はプラスチック製の鉢や犬舎など構造が比較的単純なものが多く、ロボットを使い製造工程を省力化しやすかった。しかし品ぞろえの幅が広がり、組み立て作業を伴う複雑な製品が増えてきた。数百人規模の工員を国内で確保するのは難しくなりつつあった。私は中国に着目し、1996年、大連市に工場を完成させた。

冷却に時間がかかるプラスチック工場は温暖な都市には向かない。仙台と緯度がほぼ同じで直行便もあり日本語を話す人も多い大連は適地だった。街は昭和30年ごろの大阪のような活気に満ちていた。

当初は戸惑うことも多かった。まず、現地の人たちはトイレットペーパーの使い方もわからない。社員食堂では人数分より2倍の量のご飯が消えた。弁当箱に詰めて持ち帰り家族と食べるのだ。思えばごく最近まで貧しさで腹いっぱい食べることができなかった人たちだ。とても責める気は起こらなかった。

製品の品質が安定するまでは苦労した。500人の中国人に対し50人の日本人を派遣し丁寧に教える。のみ込みは早く、2〜3年後には日本の工場に近いものが作れるようになった。

中国に進出した日本企業の間で、役人からわいろを要求される悩みをよく聞いた。袖の下を渡さないと書類に印鑑を押してくれないといった話だ。当社は一切そうしたお金は払わないと決め社員にも徹底した。1〜2年は苦労したが「アイリスからお金は取れない」との話が担当者間で浸透したせいか要求はやんだ。

また「中国人は転職が多い」と嘆く声もよく聞く。私はこれについては日本企業の側にも責任があると感じる。そうした企業には部長級以上を日本人で固めたところが多い。頑張っても課長止まりでは転職したくもなろう。

私は中国でも欧米でも幹部には現地社員を登用すると決めている。現在中国には大連に7つ、蘇州に1つの工場があり、現地従業員は4000人に増えた。しかし日本人社員は6人に減った。現地法人の総経理(社長)も、現地採用した1期生の人だ。

プラスチックメーカーとして出発した当社はホームセンターという特定の業態に合わせた「業態メーカー」の道を選んだ。大連工場で作るものも多岐にわたる。収納ケースなどのプラスチック製品。パイプやビスなど金属製品。木製の家具。フードからシーツまでのペット用品。鉢や土などの園芸用品。今ではLED電球を含む家電やマスクも作る。これら性格の違う生産ラインが隣り合わせに並ぶ。

商品は工場出荷の段階で納入先の小売店ごとにコンテナに詰め合わせる。このため流通段階での仕分けや積み替えが不要になった。需要の変動に対応できるよう従業員は異なる生産ラインを随時移れる多能工として育てた。スペースも常に3割は空け、ヒットが出ればすかさずラインを増設できるようにしてある。

商品の種類が違えば素材や部品も違ってくる。今では47通りの製造原価の明細書を使い分ける。どんぶり勘定で赤字製品を作り続けることを避けるためだ。これも当社独自の工夫だ。他に例のないこの工場を私は「デパートメントファクトリー」と呼ぶ。

2004年には大連市より多大な貢献が認められ「栄誉公民」を授与された。

 

割高路線 あえなく撤退 ペット食品にソファ 大赤字

手痛い失敗

新商品や新ビジネスのすべてが成功したわけではない。中には手痛い失敗もあった。

私は30年来の愛犬家だ。かつて飼った犬の1匹は胃腸が弱く、どのペットフードでも下痢をした。鍋で煮炊きした食事は大丈夫で妻は毎日、犬のための食事を作った。

当社がペット用品に進出した時のキーワードは「ペットも家族の一員」。プラスチック製の犬舎などに続き「餌」ではなく「食事」と呼べる、おいしく健康にいい総合栄養食を構想した。当然、価格は高めになる。価格志向が強いこの市場でどう戦うか。

食べるのは犬だが選ぶのは人、特に主婦だ。できれば大型ブランド商品に育てたい。女性社員のアイデアで「ムツゴロウ動物王国」で知られる作家の畑正憲氏に協力を依頼、趣旨に賛同いただき監修を受けた。動物の目線で物事を見る数少ない人だ。ご自宅まで出向き手料理をごちそうになったこともある。

2001年、おいしく吸収も早いペットフード「ムツゴロウのペット王国」を発売した。畑氏の知名度で、7月に都内のホテルで開いた発表会にはお得意様とメディア関係者が250人も集まった。翌月、ほぼすべてのお得意様が売り場に置くと決定、ライバル関係の問屋からも「この商品を扱わせてほしい」という申し出があったほどだ。販促費には4億円を投じた。

しかし売り上げは思うように伸びなかった。ブランド力に期待し小売価格は一般の品より2割高い。ペットフード専門問屋の抵抗は激しく、当社の商品が知らぬ間に棚から店の隅にどけられていたこともある。前評判の高さから欠品を恐れ販促を控えるなどいろいろな要因が重なり、ファン獲得には至らなかった。

私は始めるのも早いが見切りも早い。2年で製造を中止した。食品は生活用品と違い、賞味期限が切れたら廃棄するしかないことも改めて思い知った。多額の販促費を投じてブランド構築をはかる作戦とは決別し、長所や利点がシンプルで分かりやすく、手ごろな価格で質もいい。そんな従来の路線に立ち返った。

初の直営小売事業も失敗した。私の家ではリビングのソファは夏・冬と季節に応じてカバーを変えていた。気分が一新し、快適だ。また、ソファは表面が汚れがち。子供のいる家庭は特にそうだ。カバーを着せ替えできるソファならカーテン同様、季節や気分に合わせて取り換えられる。汚れても交換すればいい。大連に家具工場もある。

日本のソファ文化を変えようと04年、家具販売店「シンプルスタイル」の出店を始めた。ホームセンターから格安家具チェーンに流れたお客様を呼び戻したい狙いもあった。生活文化を変える意気込みで一時は23店まで広げた。

しかし着せ替えソファは簡単に模倣された。高級路線と低価格品の中間を狙ったが難しかった。気軽に買えるインテリア雑貨を置かず、家具だけで勝負したのも間違いだった。毎年の赤字は億単位。つい先ごろ、「10年保証」という購入者との約束を守るため自社ビル内に2店舗だけ残し、他の店は閉めた。

失敗は痛い。しかしバッターボックスに立たなければヒットもホームランも打てない。長い目でみればリスクを取らない会社こそ衰退する。これからも挑戦は続けたい。

 

家具企業再建 人切らず 福祉分野へ進出、黒字に転換


初のM&A

15年ほど前から、経営が行き詰まった会社や事業を買収・再生する機会が増えた。

2001年、家庭用の学習机で知られる老舗家具メーカー、チトセが民事再生法を申請した。これを日本経済新聞で知った私はただちに買収に動くよう車から電話で指示。
同社の事業を譲り受けアイリスチトセが発足した。初めてのM&A(合併・買収)だ。

園芸用品が売れるのは4月から。学習机は冬から3月の商品だ。ホームセンターにぜひ欲しい。この4年前、大連に家具工場を新設しており、そこで作ればちょうどいい。

しかし現実は甘くない。学習机の市場は少子化で縮み二極化していた。一つは両親が買う場合で低価格志向だから利益は薄い。もう一つは祖父母がお金を出す場合で高級品が好まれる。ただし配送などで少しでも傷が付くと大変なお叱りを受ける。手間がかかる割にクレームが多く業務はパンク。3年で撤退した。

同社にはもう一つ、有力な商材として学校で使う軽量パイプ・合板製の机と椅子があった。主に自治体が入札で買うので需要は確実だ。価格と性能で評価される「工業製品」は当社の得意分野。生産を大連に移すなどテコ入れし、首位メーカー-に育てた。

さらに少子高齢化で逆に伸びる市場は何かを考え、福祉家具に進出。車椅子の利用者に便利なテーブルや介護しやすい椅子などが好評だ。

企業再建といえば人員整理が不可避というのが経営の常識だろうか。しかし人を切れば残る人の心も荒れる。私はまず借金を肩代わりする。そして資金繰りのための安売り販売をやめさせ、付加価値優先の営業へ方針を転換する。並行して請求や回収など通常の経理業務を当社が請け負い共通経費をぐっと減らす。

これで出血は止まり、会社が黒字になる可能性が出てくる。当社から人を送り込んで支配するようなことはせず、一般社員でも経営状態がひと目で分かる資料を作り公開した。働き方次第で自分たちの会社が再浮上し、再就職先を探さずに済むと理解できると、人は頑張って付加価値を生むために頑張るものだ。

これを機にM&Aが相次いだ。05年、07年に新日本製鉄(当時)の子会社から釜石製鉄所の使い捨てカイロ事業と脱酸素剤事業を買収し従業員を引き継いだ。ドラッグストア向けの品ぞろえに生かす。

椅子メーカーのホウトクはホテルの宴会場で使われている高級感のある椅子などで高いシェアを持つ。10年に業績不振に悩む先方から相談を受けた。TOBで上場を廃止し、グループ企業の一社となった。

事業拡大に伴いコンピューターシステムを大型汎用機2台に拡張したが、変化対応の経営と複雑化する業務内容のため、毎年システム拡張に時間と費用がかかる。ユーザーサイドで迅速にシステム改造を行えるよう、社内で1994年からパソコン化の準備を進め、96年に実施した。M&Aしたグループ企業にも汎用コンピューターを捨てさせ、パソコンによりシステムを統合。グループ企業のローコスト化を図った。

グルーブの企業力を生かした経営により、買収から2年か3年で赤字企業が一転、2桁の営業利益率を確保することができた。「再生」という新たなテーマが見えてきた。

 

売り場へ人員無償派遣 提案型の営業、デフレに抗う

伸び悩む市場

園芸用品に始まりペット用品や収納ケースなど、1980年代以降の当社はホームセンターに向け生活提案型の新商品を次々に開発し、二人三脚で成長してきた。しかし90年代も末ごろから、ホームセンターの中心顧客である団塊世代の高齢化が進み市場は伸び悩み始めた。

多くのホームセンターが既存店売上高の減少に悩んでいた。売り上げの落ち込みをカバーするために新店の出店を増やすとますます既存店の売り上げが下がる。完全な悪循環である。このため目先のコストを削減しようと店員を減らす動きが広がった。

新商品などが納入されているのに売り場作りや品出しが追いつかず店が荒れていく。飾り付けや並べ方も雑になった。これでは『売り場』ではなく『置き場』だ」と私の目には映った。

店員も正社員からパートタイマーに置き換わり、十分な知識を持ちお客様の悩みに応じて的確な商品をお薦めできる人が減った。例えば園芸に関心を持った人が初めてホームセンターに来店する。土だけで何十種類もあり戸惑うのが普通だ。相談する相手がいなければ、とりあえず泥に近い安価な土を買うだろう。タネをまくが花は咲かず「やはり園芸は難しい」と最初の1回だけで諦めてしまう。そんな悪循環が生まれていた。

提案型商品は陳列だけでは良さが伝わらない。2002年、売り場作りと接客を請け負う「セールス・エイド・スタッフ(SAS)」という新しい制度を作り、得意先の店舗に派遣することにした。

人件費は当社負担だ。しかし多くの小売店は抵抗した。「そんな余裕があるならまず納入価格を下げろ」と言う。私は「お客様がこれまで購入しなかったものを買ってくれてこそ、限られたパイの奪い合いではなく需要創造になる」と持論を展開した。社内にも人事管理をどうするかと後ろ向きな意見があったが人を信じた管理をすることに決めた。

SASを導入した店の売り上げが目に見えて伸び始めた。最初は1人で派遣され職場に相談相手もいないことなどからすぐ辞める例も目立ったが、社員が巡回してフォローする体制を整備。商品知識の勉強会も開き、売り上げ増への貢献はきちんと認めて表彰する。

ある時、公正取引委員会が「SASをやめよ」と言ってきた。家電量販店などがメーカーに強要する派遣店員と同類に見られたのだ。他に例がない仕組みなので、無理もない。「小売店から強いられたわけではなく、我々の意志で派遣しているのです」と説明し理解を得た。「自分なりの工夫を自由に試したい」「家族の介護があり週3日だけ働きたい」など、SASのなり手が増え、今や850人が従事してくれている。

これから強い小売店は近くて便利でなじみの店だ。SASは地元採用者である。チェーン店の店長は異動があるためSASの方が店長よりも地域に溶け込んでいる店もある。以前買った商品を店員が覚えていてくれればお客様もうれしい。SASから本社に届く日報は年間8万件。売り場で集めた声から、データだけでは見えない潜在ニーズや既存商品の課題もわかり商品開発に生かせる。「企業の価値を作るのは従業員」という私の信念が、また一つ証明された。

 

ネット通販 そっと開始  女性スタッフ95% 運営の柱

バイヤーの壁崩す

需要創造型商品は問屋が壁になった。その壁を乗り越えるため、メーカーベンダー(製造業兼問屋)となり小売店との直接取引で販路を広げた。しかし次なる壁が立ちはだか
った。「バイヤーの壁」だ。

現場の店長はお客様が求める物を置きたい。しかし小売業の本社バイヤー(仕入れ担当)はデフレ下で既存店売上高の前年割れが続くと他店との違いだけを気にし始め、特に競合店のチラシをもとに、価格や商品の差異化のため、他社の商品に切り替えたり、納入価格の安さだけを求めたりするようになった。

競合メーカーが安い模倣品を出すと店頭の商品が入れ替わる。しかし客は使い慣れた当社の商品を求める。「どこで買えるのか」という問い合わせが増えていった。それでなくとも当社の商品は2000年ごろには1万点近くに増え、ホームセンターが置ける3000点を大きく超えていた。1カ所ですべての商品を見られる店が欲しいという声はしばしば耳に入ってきた。とりあえず電話で受注、.発送する仕組みで対応した。

この課題を抜本的に解決したのが01年に始めた公式サイトによるネット通販だった。いち早く経理のパソコン化を進めるために養成したシステム担当者が役に立った。

得意先に配慮し最初はひっそり始めた。.拠点は仙台市内のアンテナショップの一角。スタッフは5人、扱う商品も一部だけ。大型のプラスチック収納用品や折り畳みベッド等の商品は持ち帰りが困難なためネットで販売する。「なぜうちと競合するネット通販などを始めたのか」と批判されても「扱う商品はかぶらないし、大きい物は持ち帰りが大変だから」と説明。少しずつ取扱商品を広げていく。

自宅でパソコンを前にしたお客様を相手に電話で入力方法を教える、といった段階を経て、ネット通販会社であるアイリスプラザのスタッフは今や280人。毎年3割の売り上げ増になっている。

優秀な女性社員の活用を考えていた私は、ネットビジネスは女性の感性や勤勉さが向くと考え、スタッフの95%に女性を登用。お客様の目線でサイトを作り、コミュニティーを運営する。12年には仙台駅前に近い目抜き通りの9階建てビルを取得、アイリスプラザの拠点とした。

戦後の流通の近代化はアメリカから学んだチェーンイノベーションを取り入れ、日本流に進化。品ぞろえが豊富で安くて便利な店舗を展開し、消費者に利便性を与えた。ワンストップショッピングを強化するため店舗の大型化が進んだが、大型店は品ぞろえの魅力はあるが買い物に不便である。こだわりの商品や低価格商品の二ーズにはネット検索が便利だ。

パソコンからスマホが普及するにつれ、いつでも、どこでも簡単に商品選びができ、1〜2日で自宅に届く便利さにより、消費者の購買スタイルはリアル店舗とネット通販を使い分けるものになった。ネットイノベーションが日本のみならず、欧米や中国に広がっている。

ユーザーインで開発された商品は流通やバイヤーの壁がなく、直接消費者に選んでもらえる。流通業が独占してきた売上高の情報もリアルタイムでわかる。当社のような需要創造型企業にとっては飛躍のチャンスと見て、海外の生産拠点拡大を進めている。
 

小売業へ「禁を破り」進出 地域密着 新たなモデル作る

ダイシン買収

メーカーとして、お得意先と直接競合する形での小売店経営はやらないと決めてきた。しかし2008年、この禁を破ることになった。当社の地元である宮城県を地盤とするホームセンター(HC)、ダイシンが経営危機に陥り、その救済のために買収することになったのだ。

ふだんは即断即決を旨とする私だが、正直なところこの時はかなり悩んだ。大手HC各社から見れば、有力商品を作っている当社が直接、HCを経営するのは当然、穏やかな話ではない。社内にも反対する声が多かった。

ダイシンは1975年に創業し宮城県に15店を持つ年商80億円の中堅企業だった。しかし関東を地盤とする大手HCが県内に続々進出し価格競争などで押されていた。大手が土地を借りローコスト経営をする中で、ダイシンはバブル崩壊前に取得した土地や建物への過剰投資も負担になった。リーマン・ショックによる金融危機で経営は厳しさを増し、当社に救済を求めてきたのだ。

ポリシーを曲げて救済した理由の第一は、もし破綻すれば地元経済への影響が大きいこと。第二に、地域型HCのビジネスモデルを開発できれば全国の中堅HCに提案できると考えたからだ。

私は「ホームコンビニエンスストア」というコンセプトを考え09年にチラシを廃止。会員カードを持つリピーターを中心にDIY用品に加え、園芸、ペット、日用品を買う店に作り変えた。棚を低くし通路を広げ、明るく見やすい内装とレイアウトで女性客も引き付けた。地域密着路線は成功。東日本大震災では、店と顧客の信頼関係がノートに名前を書くだけでの販売や灯油の無料配布につながった。

ダイシンは地方店のモデルとして、取引先HCにノウハウを提供した。首都圏の消費者がHCに何を求めているのか売り場や品ぞろえを見直し、実験店としてHCに情報を提供するため、14年には首都圏のHC、ユニリビングを三井不動産から買収した。いずれの再建も、雇用は守りつつ利益を計画通り達成する当社のやり方を貫いた。

中国では03年、アイリス製品を集めた店「アイリスライフ」を大連に開いた。その頃私は中国を生産拠点としてしか考えていなかった。しかし大連市の人が「日本と同じ製品を中国の人も欲しがっている」と直営店の開設を要請してきたのだ。半信半疑で開いた1号店が繁盛し、7年後の10年には100店舗に拡大。中国国内向けの工場を蘇州に新設もした。

しかしその年に起きた尖閣諸島での衝突事件で空気は一変する。「アイリスライフ」は日本向けのパッケージのまま店頭で陳列していたが、尖閣の事件で「日本企業の店」に入る姿を知人に見られたくないというムードが広がってしまったのだ。

しかし当社の商品への支持が消えたわけではない。人目を気にせず購入できるネット通販は、年率2倍で伸びている、中国市場は近代化が遅れた分、一足飛びにネット社会に突入したとも言える。「アイリスライフ」は一時は165店まで店舗網を広げたが現在は30店以下まで縮小。しかしネットシフトのおかげで閉店した店舗の売り上げをカバーし、広州地区に工場建設を今計画している。

 

数分のプレゼンで即決 会議重ねず 私が全責任負う

商品開発

当社では発売3年以内の商品を新商品に分類する。1998年、売上高に占める新商品比率は50%以上と決め今も守る。ライバル品が登場したら利益率を落としてもシェアを保つのではなく次の新商品を考える。こうして営業利益率10%を死守する。

経営効率を考えれば長寿命の定番品を育てるべきか。しかし企業には10年に一度、必ず大きな危機が来る。これを「想定外」と言うようでは経営者失格だ。選択と集中の結果、定番品だけに頼れば、競合相手の登場や環境変化で会社全体が沈む。常に変化に対応している会社の方が生き延びられる。

年間1000点の新商品を生む場が毎週月曜、朝から夕方まで続く新商品開発会議、通称「プレゼン会議」だ。社員からの提案は新商品企画をはじめ販売チャネル、納入価格、販促キャンペーンなど約60件にのぼる。

始めたのは35年ほど前だ。最初は私が考えた新商品の意図などを幹部に説明する場だった。事業の幅が広がったため社員が提案し私は聞く立場に。20年余り前に角田工場を作った時、プレゼン専用室を設けた。

試作品などを前に置いた提案者を階段状の席が囲む。最前列中央に私。営業、応用研究、財務、海外事業、品質管理、知財などの責任者も同席し質問にはその場で答える。大連工場や大阪の研究所からも動画で参加する。合格なら私がその場で判子を押し、全部門が一斉に動き出す。

パワーポイントを延々見せる普通のプレゼンとは全く違う。1件5分か10分。資料は1画面。「要点から話せ」とよく叱る。前日の日曜日までの販売データは必須だ。話の途中でも合格、不合格をどしどし判断する。社員は自然にプレゼンが上手になる。

私の役割は2つある。1つはリスクの請負人。当社が得意とする提案型商品には前例や類似品が少ない。普通の会社のように社内会議を重ねれば「やめておこう」となる。判子を押すということは社長の私がリスクを取ることを意味する。失敗しても提案者にペナルティーは科さない。

私は「働く社員にとって良い会社」を作ると決めており企業理念の第3条にもそう明記してある。上司が提案を握りつぶす会社は、意欲ある社員にとって良い会社ではない。

2つ目の役割は生活者の代弁。却下や再考を命じる時は理由を明確に言う。生活のス卜ーリーを感じられない企画、今の消費の流れを追っただけのアイデア、自分のこだわりを優先する開発者には、こう反問する。「おまえの奥さん、ホントにそれ買うか?」。アイリスの仕事は現実の生活者が困っている悩みを解決すること。ものづくりは目的ではなく手段。ここを飲み込んだ社員は提案が的確になる。

提案を聞いた段階で改善策が見える場合も多い。しかし欠点だけを指摘し「再考」と突き返す。この会議は人材育成の道場でもあるからだ。

商品開発には情報が多い都会が有利に見える。しかし庭いじり、ペット飼育などは地方の方がやりやすい。実体験こそが発想を生む。地方企業の強みだ。チャンスは地方にこそある。地域と歩く第4楽章が始まった。

 

家電に狙い 一気に量産 大阪に拠点 技術者を採用大阪経済

「日本の課題」意識

2004年にLEDを使ったガーデニング用イルミネーションを発売した。豆電球は切れやすく電力の使用量が大きかったからだ。09年に鳩山由紀夫首相(当時)が二酸化炭素(C02)の排出量を20年までに1990年比で25%削減すると表明。省エネ性能に優れたLEDの時代が来たと直感し60ワット相当の電球の自社生産を命じた。

6000円前後という当時の販売価格では普及は進まない。爆発点となる価格はいくらか。1年間で元が取れれば売れると、店頭価格2000円で販売できる商品の開発を命じた。他メーカーは原価を積み上げ小売価格を設定するが、当社は引き算でコストを決める。コスト削減は外部調達比率が高いと進まない。幸い大連工場はデパートメントファクトリーとして異素材の生産を行っている。設計を一から見直し内製化比率を高め原価を下げた。発売と同時に計画を上回る注文がきた。

11年の東日本大震災で節電が日本全体の課題になった。特に深刻なのは小売業だ。店が暗ければ売り上げが減る。節電を達成しながら明るい売り場とコスト削減が求められる。照明業界では安全を推進するために新規格を決め、既存の器具に取り付けられない蛍光管タイプのLEDランプを開発していた。当社は設計を見直すことにより、既設の器具に取り付けても安全なLEDランプを開発した。

続いて家庭で使われているシーリングライトの開発に着手。経済産業省の省エネ大賞を取り日本の省エネに大きく貢献することができた。私は生活者の課題解決から日本の課題解決へと事業の幅を広げることを意識し始めた。「ジャパンソリューション」だ。

以前からホームセンター向けの事務用品としてシュレッダーやラミネーター、空気清浄機を内製化してきた。さらにLED照明で電源開発や半導体の技術を社内で確立し家電製品の設計力がついた。

09年三洋電機がパナソニックの子会社となり後に白物家電事業をハイアールに売却。三洋電機は生活家電を得意としていた。今後は当社がユーザーイン発想の生活家電を積極的に開発しようと決意し家電メーカーの経験者を毎年10人単位で採用していった。

関西地域では家電不況のため求職者が多かったが宮城県への転勤に抵抗があった。海外流出も食い止めたい。その思いから大阪の中心地である心斎橋のビルを取得、R&Dセンターとし、30人を超える技術者を採用した。

転職者が驚くのは当社のスピードだ。大手が2年かけるところを半年から1年足らずで形にする。「昔の大手は今の当社と同じスピードだった」と話すと皆納得する。また大手では開発、製造などを分担するが、当杜は発案者が生産ラインから物流まで目を配り、「作りやすさ」「使いやすさ」を念頭に図面を引く。生活者目線で「なるほど」がある商品開発を行う。

既存の家電製品は4人家族を想定し開発されているが、今は1人、2人世帯が60%。切り口はいくらでもある。こうして高齢者が使いやすい2口のIHクッキングヒーター、超軽量スティッククリーナー、部屋に対流を起こす静音サーキュレーターなどのヒットが生まれた。技術者がものづくりの喜びを取り戻し、大阪出身の私とすれば大阪経済の一助にもなったのはうれしい。
 

米卸 少量パックで参入 「安く大きく」の常識へ挑む

巨大精米所建設

2013年1月、私が会長を務める東北ニュービジネス協議会は第19回の「東北ニュービジネス大賞」に仙台市の農業生産法人、舞台ファームを選んだ。設立から10年ほどの会社で、代表者は15代続いた大農家だったが、津波で農地の3分の2が水に漬かり倒産寸前であった。

同社の取り組む6次産業化の限界を感じた私は被災地支援と東北の農業振興のため、農商工連携で「簡単・おいしい・便利」をコンセプトに米の生産・販売をすべく、共同出資で「舞台アグリイノベーション」を設立。精米工場の建設に取りかかった。

約50年前、日本人は1人当たり年間110キロの米を消費したが現在は半分ほどだ。企業などがおいしく便利なパンや麺類を開発し、マーケティング力で販売しているためだ。半面、米は店頭で5キロ、10キロ単位で売られる。「米は食品ではなく製品として販売されている」と感じていた。

政府や農協は常にプロダクトアウトの発想で農家を支援する。マーケットも主食だからと「いかに安く売るか」を重視し、1キロいくらの低価格競争に走る。消費者は保存食として1カ月分をまとめて買う。このサイクルから新たな消費は生まれない。

精米や保管も課題が多い。米は時とともに酸化し気温や湿度次第で成分が分解する。玄米も常温保存すれば劣化する。秋はおいしかった新米も春や夏には味が落ちている。新工場と倉庫の中は気温15度、湿度60%に保つ。日本最大規模の低温工場だ。ここで玄米のまま保管し、需要に応じて精米する。包装はペットフードで蓄積した技術を生かし3合(450グラム)ずつの小分けパック。脱酸素剤も入れる。玄米の投入から包装、梱包まで工程は全自動だ。

家庭で炊く直前に初めて開封するので春や夏も新米と同じ味を楽しめる。増える単身世帯向きでもある。大きい米袋は他の買い物の邪魔になるので、スーパーは内心、疎んじてきた。少量パックは流通でも歓迎されるだろう。

最後の壁は消費者自身の常識だ。酸化した高級米は、実は高級炊飯器で炊いてもおいしくならない。普通の炊飯器で当社の低温製法の米を炊く方が圧倒的においしい。そう胸を張れる米ができた。

新工場は宮城県亘理町に建てた。台湾の工場が進出するはずがリーマン・ショックで倒産、空き地のままだった5万平方メートル超の土地だ。震災ではすぐ近くまで津波が押し寄せ町内の被害も大きかった。仮設住宅も多い。従業員67人の大半は地元で雇用した。

まず角田工場にテストプラントを造り低温製法の検証を実施。14年には新工場を本格稼働させた。復興需要で人や資材が不足し新工場の完成は2ヵ月遅れ、工費も予定の50億円から80億円に膨らんだ。そうした誤算もあったが、とにかく日本最大級、24時間稼動で年間10万トンを精米できる施設ができた。スーパー以外にホームセンターでも売る。これも新しい試みだ。

米は大きな袋で安く買うものという常識の壁は厚い。低温製法による新鮮パック米は常温でも1年間は劣化せず輸出に向く。環太平洋経済連携協定(TPP)は日本のおいしい米にとって追い風だ。当社の米も現在マレーシアや米国に輸出しており、今後の期待も大きい。東北のためにも挑み続けたい。

 

創業理念守る兄弟の絆 企業の「格」のために上場せず

同属経営

当杜は株式を公開していない。何度もお誘いを受けたがお断りしてきた。私にとって大事なのは、事業内容よりも「創業の理念」がきちんと引き継がれることだ。そのためには血のつながった人間による「株式非公開の同族経営」が一番いいように思われる。「東証1部上場」は立派な会社の証明と思うが、本来、上場とは資金調達に必要だからするものだ。幸い今は資金の心配はない。今の日本には上場のメリットより問題が多いと感じる。「ガバナンスに役立つ」という主張も、実態を見れば疑問を禁じ得ない。まして企業の格や名誉のために上場を目指しては本末転倒だ。

私は自分の思う理想の会社像を追求したい。目先の株価のために事業や人を切り捨てさせ、未来の芽を摘み、株価をつり上げ売り抜ける「投機家」のために時間を費やしたくない。そうした種類の株主から口出しされ経営を誤れば被害は従業員にも及ぶ。

株式公開すれば創業者利益を手にできるのだろう。しかし志を曲げ、自由に指揮できなければ意味がない。トップに大事なのは高い志とそれを実現するリーダーシップだ。株式公開は弊害が大きい。当社の上場は当分ないだろう。
 

人事、論文と360度評価で 海外利益 吸い上げず再投資

やる気出る会社

当社は30歳前後で就く「リーダー職」以上の社員に、夏と冬以外に春もボーナスを支給する。「決算賞与」と呼び1987年に始めた制度だ。当初の原資は前12月期の税引き後利益の5%。2009年からは社員たちの努力をより反映する営業利益を基準に4%をあてている。各自の支給額は利益への貢献度で決めるが、その前にまず自分への支給額を自己申告してもらう。

本来会社は従業員のためにある。利益はなるべく従業員と分け合いたいと考えた。ただし甘やかすわけではない。目的は社員の成長だ。

会社勤めの経験がない私は「自分が会社員ならどういう会社で働きたいか」を想像した。それは「社員を正しく評価してくれる会社」だ。企業理念第3条にも「働く社員にとって良い会社」を目指すと明記し、人事評価に工夫を重ねた。鍵は透明性だ。人事への不満は理由が不明だから生じる。100%公正な人事は難しいが、全員が納得する人事なら可能だと考えた。

対象となる社員には年末年始の休暇に、私が決めたテーマで論文を書いてもらう。提出された論文は外部機関が評価をつける。2月には役員、幹部、自分と同じ階層の社員たちの前で論文の内容と前年の成果を発表する。同僚の前で誇張や粉飾はできない。こうして全員で全員の順位をつける。該当者は約500人。発表会に2週間を費やす。

03年には360度評価も取り入れた。上司、同僚、部下からの評価を点数化して本人に伝える。私も部下から評価を受ける。こうして決算賞与の額や昇進昇格を決める。

今の当社は3車線道路だ。年功序列は1車線道路。前の車が遅くても追い抜けないが自分も抜かれない。役所などは今もこれだ。多くの企業は2車線道路か。遅い人は登坂車線に入り、普通の車は走行車線を一定の速度で走る。当社は追い越し車線が加わる。能力、実力、意欲のある人はどんどん速く走ってもらう。

評価が下位10%の社員にはこっそりイエローカードを渡す。おとしめたり辞めさせたりするためではない。陰で1年間コーチをつけ、前向きになるよう手伝う。カード3枚で降格になるが、辞めてもらうことはない。給与も仕事もそれなりになるが人生は仕事だけではない。地方は生活者にとって豊かだ。通勤時間も短く、家も安く、子育てに最適。地方企業の良さだ。

「働く社員にとって良い会社」は海外でも同じだ。例えば当社は海外子会社から配当を採らない。現地法人の稼いだ利益は全額、現地での再投資や預金にあてる。

かつて当社が下請け工場だった頃、工夫して、コストダウンしても成果は発注元の企業の利益に吸い上げられた。これではやる気は起きにくい。海外子会社と日本の親会社の関係も同じだ。会社は従業員あってのもの。利益を稼ぐのは従業員だ。その利益が外国の親会社に持っていかれては不満がたまるだろう。

世界の国々が武力で国外の富や労働力を奪い合った時代がある。そうした国の姿と、今、企業が資本と技術の力で人を雇い利益を持ち帰る行為が、私には二重写しに見える。それぞれの会社で考え方があろうが、私の哲学には合わない。親が元気なら、子に食わせてもらおうと考えるべきではなかろう。

 

共助・共存の精神 今後も 日本型の経営で挑戦続ける


次世代に責任

19歳で父から継いだ工員5人、年間売上高500万円の町工場は52年後の現在、売上高3060億円の企業グループに成長した。工場は国内13カ所、海外11カ所に増え9600人が働く。扱うものもシャンプー容器などプラスチック製品の下請け製造から出発し、後に独自商品に進出。近年は家電や家具、お米にまで広がった。

成長の理由はいくつか考えられる。自分でも「運が良かった」と思うのは、終戦の年に生を受けたことだ。私の2歳から4歳下に団塊世代がいる。自然にライフスタイルや価値観の変化の先頭に立ち、自分が欲しいものを作れば巨大市場が後から付いてきた。物のない時代に私たち8人の子を生み、育ててくれた両親に感謝しなければならない。

次世代への責任を果たすべく、一日一日を大切に生きて来た。戦後の混乱も高度成長も終わると、皆が個人的な満足を求める時代になった。国の豊かさを生活者が実感するのは快適で便利な商品やサービスを享受する時だ。生活に必要なものが欲しい時に納得した価格やサービスで買える国が良い国だ。

快適な商品やサービスを提供する責任は企業にある。自分たちが売りたいものを上から押しつけてばダメだ。私は生活者の立場に立ち全力を尽くした。「ユーザーイン」の発想で「快適生活」をキーワードに新商品を開発し、「メーカーベンダー」という仕組みを通じて効率的に世の中に提供した。働く社員と共に生活者視点で変化に対応しながら、ガーデニングやペットなど新しい需要を創造した。

グローバルで豊かな社会を実現する為に、日本の生活文化が生んだこれらユーザーイン型の商品を、海外でも生産し世界の生活者に届けた。地方企業こそグローバル化できる先例を示したと思う。戦後日本のキーワードの一つが地方分権だ。東京に頼らず自立する「地方創生」の先がけという役割も果たした。

私はかねて経営判断で「本質的、多面的、長期的」であることを心がけている。経営学や経済論壇は米国型の資本主義を見習えと説く。しかし「社外取締役」など表面的な部分だけ米国式をまねても結局は機能せず、長続きもしないのではないか。私は日本企業は日本型経営の良さを捨てるべきではないと思う。相手を尊重し、共助の精神を持ち自然とも共生するのが本来の日本のビジネスだ。会社経営も無理のない仕組みの方が社員も納得でき、うまく機能するように思われる。

これから起業に挑む人にも新たなチャンスがある。例えば情報化社会に対応したユーザーインのネット販売が急速に広がる。私も買い物は主にネットを利用する。音楽も高音質のハイレゾ音源をダウンロードして臨場感のある音を楽しんでいる。

昨年古希を迎えた。今も毎朝2キロを歩き、会社のプールで毎週500メートル泳ぐ。あと20年はビジネスや社会的活動に携われるだろう。この20年で何をするか。企業理念を一歩一歩進化させ理想の組織体を作る。グローバルにもローカルにもチャンスがある。生活者にとって豊かな社会をーー。挑戦に終わりはない。

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 2016/3/31

アイリスオーヤマ、ロームのLED照明事業を買収

アイリスオーヤマは3月31日、電子部品大手ロームの照明事業を買収すると発表した。買収額は公表していないが50億円前後とみられる。
ロームの照明事業は発光ダイオード(LED)が主体で、年間売上高は57億円。約1300品目の製品を扱っている。

ロームの照明部門とLED照明器具の卸子会社アグレッド(兵庫県伊丹市)を取得する。

アイリスは2009年にLED照明事業に参入しており、15年度の売上高は245億円。ロームの製品や販路を加えることで、16年度は400億円への拡大を目指す。