大城立裕 「琉球処分」

 琉球は、資源にきわめてとぼしかったので、おりおりの易姓革命で天下をにぎったほどの傑物は、いずれも鉄材や用水を確保して民心を収攬したが、民族はさらに南方との交易によって、生活の幅をひろげた。
 14世紀のなかば、明の太祖が中華の国の威光をもって近隣の諸国へ帰順をうながしたとき、おなじ年に、本土の足利将軍義満と、沖縄島中央の豪族察度(サット)とが、いずれも臣を名乗って朝貢した。琉球からの朝貢にこたえて明国は、国王交替のたびに、"冊封"ととなえて国王任命の辞令を与えた。たびたびの進貢船は、帰航にあたって、貢品より多くの見返りの品を運んだから、能ある政治家は、つとめてその派遣をふやした。冊封とは、中華の国の自己満足のために考えだされた、ほとんど形式のみのものであったから、貧しい孤島王国は、名をすてて実をとることを覚えた。だが、一部の民のこころに、自分の国が中国の属領であるかのような錯覚をうえつけたことは、一面やむをえないことであった。
 ともあれ、15世紀にはいっては、富が「やまと旅」ととなえた日本本土からもたらされることは少なくなったが、「からは旅」ととなえたジャワ、スマトラや「唐旅」ととなえた大陸から、ゆたかに運ばれて、民生のための大土木がおこされ、政治と文化の中心としての首里王城や、後年日本国宝に指定されたかずかずの名刹伽藍、王家の陵墓玉陵(たまおどん=霊御殿)などが、そびえて輝いた。尚泰久王がかかげた巨鐘の銘には、きわめて浪漫的に、
「舟揖を以て万国の津梁となし異産至宝十方刹に充満す」
と刻まれた。
 15、6世紀のあいだに、
武器が廃され、殉死が禁じられた。のちにナポレオン・ボナパルトが、東洋に武器をもたない国があると聞いて驚いたという記録がある。
 統治に人をえて、封建制度も安定した慶長年間に、薩摩の島津氏が、この貿易益の横領をたくらんだ。かれは琉球に朝鮮の役への兵糧の供出を求め、応じないとみるや兵を派して武器をもたない琉球王国を容易に切りしたがえ、尚寧王らを虜囚とした。いらい2世紀半、島津氏は狡滑な手段をもって琉球にたいし、鵜飼いの暴をつくした。かれはまず、表向き琉球の風俗にすべての「やまとめきたるもの」を禁じて中国附庸国として擬装することにより、琉球の対中国貿易に名分を与えるとともに、日本国の他藩にたいして、「異民族を支配している」ようすをつくろって、威を示した。そして裏では、琉球の政庁はじめ人民にたいして薩摩を「おくにもと」と認識するよう強請し、政治万般を監視するための在番奉行を置いた。また、この支配体制を中国に知られないために、冊封の時期に薩摩の人士は身を郷村に隠した。
 後年倒幕に貢献した薩摩の財力は、琉球からの搾取によって蓄えられたものとされているが、琉球は2世紀半ものあいだ、その圧制に苦しまなければならなかった。この難とたたかった二大宰相が、羽地朝秀(唐名は向象賢)と具志頭(グシチャン)文若(唐名は蔡温)である。羽地は、斬新な経済政策に成功したかたわら、はじめて史書「中山世鑑」を編んで日琉同祖をとなえ、日本趣味を士分に義務づけて誇りを保つようにつとめたが、これが玉城(タマグスク)朝薫の「組踊り」創始など独特の芸能を生みだす源ともなった。具志頭は、中国と薩摩とへの両属政治をまっとうするのに最も心をくだき、
「政道の儀は、朽手縄にて馬を馳せ候儀同断」と書きのこした。
 この艱難が、元来南方的な沖縄の人間の性格に、複雑な陰影をつけたのであるとされているが、かの2世紀半のあいだに、「中国への恩」「やまとへの怨み」が民の意識にくいこんだことは否めない。
 幕末にいたって、米国の提督ペルリの黒船は沖縄にもたちよって人心を驚かし、島津斉彬がフランスから軍艦を購入しようと企てたことから、琉球にもひとつの疑獄がおこったが、これはきたるべき19世紀の国際社会へ沖縄がみずから覚らずに乗りだして行こうとする、序曲のようなものであった。ーーそして、この物語りの時代に移つていく。

封建制
 15世紀の後期に、尚真王が諸地方に割拠していた群雄の武装を解除し、首里王城の周辺に集居せしめて中央集権を強化し、厳然たる琉球王国ができたが、このときできたつぎのような身分制は、18世紀に成熟した。

 大名=1王子、按司、親方(ウエーカタ)をいう。王子は、王の次男以下をいう。按司は封建以前からの地方領主。親方は、士分から役職、勲功によって封じられた最高の身分。このつぎに、大名ではないが親雲上(ベーチン)が位し、士分が長じたときあるいは勲功が認められて、これにのぼる。以上の諸身分は、いちおう世襲だが、代をへるにしたがって、王子は按司へ、按司は親方へ、親方は親雲上へ、格を下げられる。按司の家を「御殿(ウドン)」、親方の家を「殿内(トンチ)」と呼んだ。

 土分=これを里之子(サトヌシ)筋目と筑登之(チクドン)筋目とに分け、前者が格は上である。若いうちはたいてい○○里之子あるいは○○筑登之と呼ばれる。長じると里之子筋目なら親雲上あるいはすこし下位の里之子親雲上となり、筑登之は筑登之親雲上まではあがれる。親方の長男は里之子→親雲上→親方の順でのぼり、家督をつぐ。

 士、農、工、商という区分はない。土分と百姓との区別だけがある。百姓を田舎百姓と町百姓とに分けた。

行政区画は、首里、那覇、その他の地方で分けかたが違う。
首里三平等(ヒラ)=真和志(マワシ)之平等(9カ村)、南風(ハエ)之平等(6カ村)、西之平等(5カ村)。
那覇四町=西村、東村、泉崎村、若狭町村。
 ※以上は明治12年8月現在。
久米村 泊村 那覇四町に一括して「那覇」と総括し、首里に対することがある。

間切=現代の村のこと。現代の字(アザ)を当時は村と称した。

領有制
 親雲上以上は知行地を有し、その地名を姓とした。だから、昇格あるいは代をへて知行の増減があれば、領地の変更にしたがって、姓の変更があった。ちなみにいえば、こういう制度であるから、同一人でも年により姓が違うし、同地名を名乗る姓氏でも、時代が違えば血統を異にすることがありうる。親方以上は一間切を領して総地頭といい、親雲上は一村を領して脇地頭といった。一間切をつごうにより二人で領有することがあったが、これを両総地頭という。この場合、姓の呼びかたを区別するため、一方を間切名、一方を同間切内の村名にした。中城王子と伊舎堂親方、あるいは佐敷按司と津波古親方など。


行政組織
 首里城内に評定所があり、政庁とした。最高機関は摂政で王子がなった。その下に3人合議制の3司官、これは一般土分の最高位で選挙による。その下に表15人衆。これらが議決機関かつ執行機関であった。表15人中の平等之側(ヒラノソバ)が裁判および警察を司った。このほか、鎖之側(ザシノソバ)=外交、貿易の長官、那覇里主=那覇の長官、親見世=昔は貿易事務所、のちに那覇の警察署。

間切行政
 百姓の最高責任者が地頭代、その下に5人の捌理役(サバクイ)、そのほか。これらを中央から派遣された士分の下知役が監督した。

そのほか
 久米村は特殊部落で、明代にミンからの帰化人が住みつき、みな士族。中国語を常用し、要職にのぼる者も多かった。
御内原は首里城内の後宮。
辻村は那覇の遊里。




琉球王

明に朝貢して冊封を受けてからと言われている。1404年(明: 永楽2年)2月、察度王統の二代・武寧(1356年 - 1406年)の時、明の永楽帝が冊封使を派遣し、武寧を中山王に冊封した。これが琉球最初の冊封である。

1462年、第6代・尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)は、第7代・尚徳王の薨去後、王位を継承して第二尚氏王統が始まった。正史では重臣たちが王に推挙したとあるが、金丸のクーデターであったとも言われている。1471年(明: 成化7年)、尚円は第一尚氏の時と同様、先王・尚徳の世子と偽って使者を派遣し、尚徳王の薨去を告げ、封爵を請うた。明はこれに応じて冊封使を派遣し、尚円を中山王に冊封した。その後、第二尚氏王統は、第3代・尚真王の治世に地方の諸按司を地方から首里へ移して住まわせ、中央集権化に成功した。このため、第二尚氏王統は、1879年の琉球処分まで19代・410年間に渡って続いた。

1636年、尚豊王の治世の時に、薩摩の命によって王ではなく国司の称号を用いるよう強いられた。以後、尚賢王、尚質王、尚貞王の三代76年間、薩摩に対しては琉球国司と署名した(清に対しては中山王のままである)。しかし、1712年、島津吉貴の命により、再び王号に復することになった。復号の背景には、吉貴の官位昇進問題があったとされる。

1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

1872年(明治5年)9月14日、上京していた明治維新慶賀使節に対して、明治天皇から冊封の詔勅が下され、尚泰王は琉球藩王に冊封された。藩王の称号は1879年(明治12年)の廃藩置県まで使われた。廃藩置県後、尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。

1872年(同治11年、明治5年)に、日本は強引に尚泰を琉球藩藩王に冊封し、東京に藩邸を与えた。然うして1879年(光緒5年、明治12年)の琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置されると、藩王の地位を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、華族として明治政府より東京在住を命じられた。尚泰の次男尚寅、四男尚順は後に沖縄に帰ってきている。

のち華族令の発令に伴って尚泰は侯爵となった。1901年(明治34年)に59歳で没。墓所は沖縄県那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。

 

沖縄料理家 尚 承
琉球王朝最後の王「尚 泰」のひ孫にあたる