杉本信行 「大地の咆哮 元上海総領事が見た中国」

 

中国 農民戸籍者に対する法的、経済的差別

 

1. 憲法の居住地選択の自由を規定した条項の削除
     1954/9の憲法第90条で保証、それ以後の5回の改正でいずれも削除

2. 職業選択の自由は農民戸籍者には存在せず
     例 上海市の94年条例
         23職種にはつけない(3Kの仕事と低賃金職種のみ)

3. 子女に対する教育差別
     公立小中学校に入れない

4. 賃金差別
     低賃金職種
     現物給与が与えられない
     欠配、遅配の恒常化

5. 都市に流入する農民工に課せられた諸費用
     暫住証、寄住証、身分証明書、就業証(Working Visa)、
     婦人に対する2ヶ月1回の不妊検査証など

6. 都市戸籍者への各種補助金が与えられない
     食料、食油、肉への補助金、住宅補助金、交通費など

7. 社会保険上の差別
     年金、失業保険、医療保険、労災保険、生活扶養金が農民工には与えられない
     特に労災は60〜70%が3Kの職種(炭鉱、建設労働、高温・高圧等で発生。

8. 資産形成上の差別
     農民戸籍者は住宅の賃貸による不労所得の取得の機会は一部の郊外農民以外には存在せず
    @都市戸籍者は1998年から2、3年間で既住住宅の廉価払い下げを受けた
      農村ではほぼ自前建設

    A都市戸籍者は払い下げを受けた住宅を賃貸に出し家賃収入を得て第二住宅を取得
      (2002年からの不動産ブーム)

    B農民は1戸1宅しか住宅建築は認められない。

9. 土地収用

    土地なし農民が4,000〜5,000万人発生
    農村のインフラ建設は農民負担
    農村の小中学校建設は農民負担
    無償労働によるインフラ建設が一般的
    75%の県は赤字

 


中国問題を解く鍵は、「過剰人口」と「戸籍制度」にあり
http://www.president.co.jp/pre/20020930/001.html

一橋大学大学院 商学研究科教授 関 満博

「二つの戸籍」で 生じる大きな格差
中国問題を解く鍵は、「過剰人口」と「戸籍制度」にあり

 「人」の問題でよく理解していかねばならない点がある。それは中国の「戸籍(戸口)制度」である。先の6月3日号で広東型委託加工を取り上げたが、その際、広東には内陸からの若い女性労働力が大量に来ていることを紹介した。実は、これは特殊な事情であり、他の地域では内陸からの「安くて豊富な労働力」を自由に導入することはできない。これは「戸籍制度」の問題なのである。
 日本では戸籍など相続のとき以外には、ほとんど問題にならなくなってきた。だが、中国は違う。戸籍がすべての前提なのである。中国では戸籍は大きく二つに分けられる。
一つは「農業人口(農村戸籍)」であり、全人口の約75%を占める。残りが「非農業人口(都市戸籍)」である。この制度は1957年頃に完成した。当初は食糧管理のためとされていた。地球にとってまことに有り難いことに、中国は食糧の自給を基本としている。中国が食糧を大量に輸入する事態など考えたくない。
 また、日本人は「中国は社会主義だから、13億の人々は平等に社会福利厚生を享受している」と勝手に思い込んでいる。だが、現実には信じ難い格差がある。住宅、医療、年金等に際立った格差が存在している。農村戸籍の人々はそれらを享受する立場にない。農民は家は自分で建てるのである。近年、社会保険を広く普及させようとしているが、もともと、農民には医療、年金等は提供されていない。社会保険が社会の隅々まで浸透していくには、20〜30年はかかるとされている。

 さらに、中国では基本的には移動の自由がない。戸籍のある場所にしか住めない。近年、上海、北京などは際立った発展を示しているが、市内には途上国にありがちなスラムは存在しない。農村から人々は自由に大都市にやってくることはできないのである。途上国として珍しくスラムがないのは戸籍管理が徹底していることによる。
 戸籍は生まれた瞬間に決定するが、両親が別々の戸籍の場合はどうなるのか。一般的には母親の戸籍を受け継ぐ。したがって、大都市の若者が農村の娘と結婚することは稀である。それでは、自分の子供は農民の戸籍になってしまう。
 では、農村戸籍の人々は都市の戸籍に変われないのか。それには幾つかの条件がある。全人民の唯一の機会は
大学に受かることである。大学は都市にしかない。大学に受かった農村戸籍の若者は大都市に居住せざるをえない。そのために、大都市側が暫住(暫定)戸籍を発行する。そして無事に卒業すれば、従来なら彼らは国有企業(単位)に配分された。そこで新たな都市戸籍を取得するのであった。
 日本では同世代の大学進学率は50%に近くなっているが、中国の場合は2%前後である。日本よりも厳しい学歴社会の中国で農村から大学に受かることは至難の業である。よほどの人材でなければ無理であろう。
 大学進学以外に手はないのか。よく知られているのは、文化大革命時代に下放された若者が戸籍を復活する場合である。文革とは実に厳しいものであり、都市のインテリは都市戸籍を剥奪され、農村で一生過ごすことを義務付けられた。
小平が復活し、改革・開放に入って以来、下放青年たちから戸籍の復活が求められ、基本的にはすべて戻すことにした。だが、都市側には受け入れる余力が小さく、当初は農村に下放されても独身を維持していた者が優先された。その後、段階的に処理され、現在ではすでに解決したとされているが、そうではない。まだ相当数の人々が取り残されている。そして、この点をめぐる問題が現代中国文壇の最大のテーマの一つとなっているのである。

 以上のほかに戸籍を変えることはできるのか。この点、私は興味深い経験をしたことがある。90年の頃、大連に日本工業団地を形成するというプロジェクトが持ち上がり、私がそのF/S(フィージビリティー・スタディー=企業化調査)を担当していた。連日、大連のオフィスで中国側と調整を重ねていたが、ある日、現場を見ようということになった。連れて行かれた場所は約200ヘクタールの広大なものであった。だが、そこは美しいリンゴ畑であり、農民が約800人居住していた。私が「これは地上げがたいへんですな」と呟くと、中国側は「なに、明日からでも工事に入れますよ」と答えてきた。
 中国の戸籍問題に関心を抱いていた私は、一瞬、「戸籍を変えるのですか」と尋ねると、中国側は「なんであなたは、そんなことを知っているのですか」と言うのであった。
 中国の都市開発、高速道路の工事などは信じ難いほど速い。その背景には、この戸籍制度の問題が横たわっている。立ち退かされた農民たちは、若干の移転補償を貰い、新たな住宅をあてがわれ、そして、新たに開発された場所で職業を補償されていく。当然、孫子の代まで福利厚生も付いてくる。「三里塚」などが起こるわけはない。
 先に見た
広東省の場合は、暫住戸籍を発行し、内陸の「安くて豊富な労働力」を大量に導入しているが、他の地域ではそうしたことは大規模に行われていない。上海、大連等の大都市では国有企業が多く、リストラに苦しんでいる。外資企業が内陸の労働力を入れたいと地方政府に申し入れても、確実に拒否される。「地元の失業者を採用してほしい」と言われることになろう。先の広東省の場合は、中国の辺境であり、すこし前までは西側(香港)と接する軍事境界線であったために、国有企業など十分に建設されていない。こうした事情から広東省はかなり自由に内陸の農民を大量に受け入れてきた。
 半面、
上海等の大都市に居住を許可されている農民とは、土木建設現場等の3K職種のみであり、地元の人々が就きたがらない部署に限定されている。したがって、公安の管理の厳しい中国の大都市には、路上生活者による大規模なスラムは形成されることはない。中国の人々の不可解な行動パターンを理解していくには、まず、これらの点から入っていかなければならないのである。



そして今回の賠償の基準となる法律は2004年5月1日に施行された、《最高人民法院規定の人身損害賠償案件に対する法律適用問題の解釈》という法規に、(被害者死亡の賠償の場合は居住する場所の平均年収に対しての最高20年分とする)という規定があり、今回のケースでは都市戸籍を持つ2名は重慶市民の平均年収から20万元が妥当とされ、農民戸籍の何源さんは当初5万8千元しか賠償できないという話になったという事です。

 


杉本信行 「大地の咆哮 元上海総領事が見た中国」 

2006/8/3逝去

2004/11に末期がんの診断を受け、本書を著作


第10章 搾取される農民

 中国には、北京の中央政府を頂点に、省、県、市、郷鎮にまで政府機関が存在する。末端の村にまで村民委員会という村の行政を司る機関とそこに従事する役人がいるわけだが、末端の役人ほど農民に対する態度がひどく、明らかに露骨な差別意識を抱いている。
 都市住民も役人同様、農民を低く見ている。農民を「外地人」、つまり、外の田舎からきた人と呼ぶことからも、その差別意識が窺えた。
 なぜこうした露骨な差別意識が出てくるのか。そこには中国特有の戸籍制度に大きな原因があるといわざるを得ない。
 現在の戸籍の基本となっているのは、58年に制定された中華人民共和国戸籍登録条例である。外国人、無国籍者、現役軍人以外、すべての中国公民を対象とする戸籍を、中央から地方まで、各行政単位の公安機関が管理している。
 戸籍登録条例によると、中国語で「農村戸口」と呼ばれる戸籍を持つ者が農民と定められている。対して、都市に住む者、あるいは農村に住むが行政に携わる役人は「城鎮戸口」を持つ。
 この戸籍制度は、日本の本籍登録と住民登録を兼ね合わせたようなもので、基本的には移動の自由がなかった時代には、住所と本籍地は必ず一致していた。
 この都市住民と農民の違い、城鎮戸口と農村戸口の違いは、天と地ほどの開きがある。都市住民であれば受けられる行政サービスが、農民は一切受けられないからである。
 農民には生産手段として、国から一定の土地の使用権が認められている。ただし、その土地使用権を得ていることで、社会主義制度の下に都市住民が享受している年金、医療保険、失業保険、最低生活保障などの社会保障が受けられない。言い換えれば、農民は、都市住民が享受しているすべての社会保障の対象外になっているのだ。
 農民が都市住民に戸籍を変えることは容易ではない。昔は農村戸口の者は四年制大学を卒業し学士号を取得して国有企業に就職するか、あるいは人民解放軍の幹部になるなどしなければ、都市住民に這い上がる機会はなかった。
 あるとき、北京でウェイトレスをしている地方出身の女性からこんな悲劇を聞かされた。「田舎の村に将来を約束した許婚がいた。しかし、成績優秀な彼が四年制大学に入ったことで、自分は身を引かざるを得なくなった」
 彼が大学を卒業すれば城鎮戸口に戸籍変更し、「身分」が変わってしまうからだというので、「彼と結婚すれば、あなたも都市戸籍になるのではないか」と聞くと、彼女は首を横に振った。「彼が都市住民になっても、結婚相手の私が農民の場合、私の戸籍も変わらないし、生まれてくる子供も農村戸口になる。だから、彼は私と結婚することなどあり得ない」
 許婚と結婚する夢が破れて、田舎から北京まで流れてきたらしい。

先富論の悲劇
 農村と都市の移動は昔から厳しく制限されていたが、例外の時期があった。
 60年の大飢饉に見舞われたときは、背に腹はかえられず、大量の都市住民が農村に逃げ込んだ。
 また、文化大革命の際にも、農村を救う「下郷運動」に約1700万人もの都市の青年が農村を目指し、その後、大きな悲劇を生んだ。文革終了後、農村から都市への流入が厳しく制限されたため、彼らは都市に戻れなくなってしまったのである。
 実際、74年、私の研修生時代は何を買うにも配給制で、まず、田舎から都市に出るために乗る列車の許可証が必要であった。運よく都市に紛れ込めたとしても、今度はいくらお金を持っていても糧票、布票がなければ食料も生活必需品も手に入らない。結局、農民は都市では生活できずに田舎に帰らざるを得ず、配給制度が人々の移動を防ぐ有効な手段として機能していたように思う。
 そして80年代に入ると、ケ小平の号令による改革・開放政策が本格的に始まり、急激に都市部が発展してきた。経済成長に伴い必然的に労働人口が不足し、それを農村人口が補完するようになり、ある程度農村から都市への移動の自由が緩和されてきた。
 その象徴がいわゆる「青色戸籍」で、98年頃、労働力が極端に逼迫した上海、アモイ、シンセン、広州などの沿岸都市において導入された。
 各都市の新規開発地区に建つ10万元以上の不動産物件を購入するか、同地区に20万米ドル、あるいは100万元以上の投資を行う条件で、その土地の都市戸籍への編入を認めたのだ。
 青色戸籍に殺到したのが、改革・開放ブームに乗って起業し豊かになった郷鎮企業経営者、いわゆる万元戸たちであった。彼らが短期間に大挙して取得しすぎたため、この新制度は2年ほどで打ち切られてしまった。
 こうしてケ小平が「先に富める者から富めよ」と唱えた「先富論」に乗り、うまく都市住民に変われた者もいたが、明らかなのは、農民と都市の貧富の格差が許容範囲を超えるほど拡大してしまったということだ。
 拡大こそすれ、決して縮小しない格差の根本原因は、そもそも両者には身分的な差別があることだ。そして、通常の世界では、発展した地域には人口流入が起こり、所得の再分配が生じるはずなのに、中国では移動の自由が規制されているため、正常な所得の再分配が行われていないという悪循環に陥っているからであろう。

土地を奪われ難民化する農民
 中国のおおいなる社会矛盾の元凶である戸籍制度については、調べれば調べるほど義憤にかられてくる。
 たとえば、都市住民に比べて所得が著しく低く、しかも、行政サービスをまったく受けられない農民の方が、税金、公共料金、教育費などの負担率が断然高いのである。これは所得再配分うんぬん以前の段階で、まるで「生かさぬよう殺さぬよう」に農民から年貢を搾り取った、江戸時代の農村政策のようだ。
 そして最近の大問題は、農民の命といっても過言ではない彼らの土地が奪われていることだろう。
 土地の失い方にはさまざまなパターンがある。
 中国の農村部の場合、農民の土地使用権は郷鎮政府の下にある村民委員会という単位が、管理している。本業だけでは食えない農民は、出稼ぎに行く際、村民委員会に登録して土地を貸し出す。ところが、その村民委員会がいい加減な処理や不正行為を行うために、土地の名義が移動していたり、登録書がすり替わっているなど、農民が出稼ぎから戻ってきてからトラブルが起きるケースが頻発しているのだ。
 最近では沿岸部の経済発展地域において、さらに深刻なケースが増えている。
 巷間いわれる経済開発区とは、もともとケ小平が指名した深セン、珠海、アモイなどの国家級の経済特区を意味していた。続いて、各省1級行政府が法律に基づき経済開発区を制定した。だが、それより下の市、県級が経済開発区と称して内外企業を誘致するなかには法的に暖味なものが混在している。
 それを真似たのが、さらに下の郷鎮政府だった。自分たちで勝手に経済開発区をっくり、税制や安いインフラ利用料などの優遇措置を武器に強引な誘致活動をし、外国企業から多額の投資を引き出した。やがて、それが錬金術となり、郷鎮政府は経済開発区づくりに狂奔するようになった。
 その経済開発区づくりに農民の土地が充当されたのだ。
 たとえば、上海市では、土地を提供する農民に対して、法律に基づく補償を行ってバランスを取った。元農村だった上海周辺のある区に開発計画が持ち上がった際、上海市政府は70万人農民から土地使用権の返上を求める代わりに、都市住民の証である城鎮戸口を与え、農民すべてを都市住民として社会保障の対象に組み入れた。
 しかし、すべての行政府が、上海市のような財政余力があるわけではない。
 江蘇省南京市が空港近くのある区に経済開発区を計画する際、行政側は土地使用権を持つ農民に対して、集合住宅を提供することと、立ち退き費用を1戸当たり30万元とすることで交渉に臨んだ。年収1万元程度の農民にしてみれば、30年分の収入が一挙に転がり込んでくるわけで、全員が即諾、それを元手に職業替えをした農民はわずかで、ほとんどが浪費、博打、無謀な投資に走り、賠償金を使い果たしてしまった。
 土地を失った彼らは、仕事がないし金もない。上海市の農民のように都市戸籍をもらっていないので、社会保障も一切ない。どうなるのか。難民化するしかないのである。
 すでにそうして土地を失い、農村を捨てた元農民たちが各都市に流入してきている。統計上、上海に300万人、北京に20万人以上が他省から移動してきているのだ。難民化した彼らの大半は暫留許可証を持つ外地人として、流入した都市で生活することとなる。
 ここでまた大きな問題が発生している。
 たとえば、300万人の外地陣がなだれこむ上海では、3、40万人におよぶ上海に戸籍を持たない外地人の子弟がいるのだが、上海市政府は彼らの教育についてダンマリを決め込んでいる。外地人側は仕方がないので、出身地ごとに組織化された互助組織が私立学校を設立している。この学校は、各出身地の行政単位から一部補助は拠出されるものの、基本的には自力で運営せざるを得ない。
 そのうちの数校を視察したが、上海市の公立学校と比較すると、言葉を失うほどみすぼらしいところばかりであった。とにかく極端に資金不足なのだ。
 ある上海市の外地人が設立した私立学校は、内陸の貧困農村と同じレベルで、あえていえば、掘っ立て小屋に裸電球がぶら下がっている教室に、90人の学童がひしめき合って勉強しているという状態だった。当然、図書館、運動場、食堂などの付帯施設などは望むべくもない。
 教室と事務室だけの学校なのに、それでも結構な学費を取るので、外地人の子供のうち4割は、こうした出身地私立学校にさえ通えないのだという。
 この私立学校に子供を通わせる父兄に聞くと、「スクールバスもなく、何らの行政サービスも受けていないのに、安全通学費など理由不明の名目で上海市から費用を徴収される」と不満を述べていた。
 彼らの生活ぶりを覗くと、上海といういまや世界有数の大都市の片隅で、ギリギリの生活を送って生きていることが痛いほど伝わってくる。
 林立する超高層ビル群から目と鼻の先に、かつての国有企業の廃屋密集地帯があり、迷路のような路地が縦横に走っている。上海市街の華やかさとは無縁の、薄汚れた、ゴミにあふれた、水洗便所など望みようのない不衛生な場所で、外地人家族は必死で生き延びている。
 一部屋に一家4人が暮らす家を訪ねて、子供たちに話を聞く機会があった。彼らは上海生まれの上海育ちであるので、両親の故郷を知らないし、帰っても仕方がないのだと話していた。彼らが傷つくのは、日常で暮らす仲間内の社会の一歩外側に出たときだ。上海の都会っ子たちは経済的に恵まれ、衣食住すべてにおいて、まさしく彼らとは別世界の生活を享受しているのだから。
 子供は正直ゆえに残酷である。貧しさを馬鹿にされ、戸籍で差別される。彼らが抱く地元の子供たちに対する凄まじいまでの敵愾心は、やがて将来恐ろしい社会問題として浮上してくるような気がしてならない。

実質30倍に拡大する都市と農村の格差
 先に述べたとおり、「都市住民」は、生活最低保証、失業保険、養老年金、一定程度の医療保険等、路頭に迷わないための最低限の社会保障の対象になっているが、「農村戸口」と呼ばれる戸籍に分類された農民は、現在の生活拠点が農村部にあろうが都市部にあろうが、都市戸籍を持っている人々が享受している社会保障の対象外となっている。
 農家では、現金収入の約3分の1を次年度の耕作のための種・肥料等の購入に充てざるを得ないのに、税金以外に、制度的に合法的な費用を徴収され、所属する地方行政単位からは各種の制度外費用まで徴収されてしまう。
 都市と農村の表面的な所得格差は、統計的に3倍程度と公表されているが、実質的な格差は、その10倍、すなわち30倍ほどあると内々報告されている。現在、このような制度的な格差を是正するため、農業税の撤廃など各種の試みがなされている。
 しかし、その過程で格差はむしろ拡大しつつあり、農村インフラの整備がさらに遅れるなど各種の矛盾が露呈しており、格差是正の根本的解消には程遠いのが現状であろう。

 都市との格差を拡大させた要因の一つに、政府が農産物の買い付け価格を引き下げたことがある。96年、初めて食料総生産が5億トン台に達し、99年までほぼ5億トンを維持する豊作が続いた。在庫過剰を招いた政府が農産物の買い付け価格を引き下げ、農民の収入が減少、まさしく豊作貧乏を地で行くこととなった。
 それに加え、80年代後半から急速に発展してきた、当時の農村余剰労働力1億3500万人を雇用して農村部に大きな収入をもたらした郷鎮企業のパフォーマンスが、96年のピーク時を境に悪化し始めた。
 郷鎮企業の不振の結果、農民の大きな副収入源が急速に収縮した。江沢民ー朱鎔基体制は、都市インフラや大型プロジェクトの建設には熱心であったが、農村インフラ建設には関心が乏しかった。このため、都市住民には積極的財政政策の恩恵が及んだのに対し、農村住民にはその恩恵がほとんど及ばなかった。
 また、農民には、日本の農業協同組合のような政治的圧力団体が存在せず、WTO加盟交渉やFTA交渉において農業の利害は常に犠牲にされてきた。私は当時中国政府がWTOの農産物関税の一律引き下げをあっさりと受け入れてしまったことに驚いたものだ。
 日本だったら農協の猛反対に遭ってとても通らない。このことは、総人口の6割以上を占める農民、差別されている農民の声を反映する組織が存在していない証といえる。
 中国の利益を代表するのは労働者階級だったはずだが、農民は労働者の範疇にさえ入っていないということなのだろうか。
 それでも共産党は歴史の教訓からか、農民が組織化することを恐れている。全国人民代表大会の農民の比率もきわめて低いのである。

理不尽な制度外費用の徴収
 ここてはいかに農民が搾取されているかをさらに説明したい。
 00年、朱鎔基首相は農民の総負担額は年間約1200億元であり、その内訳を農業税約300億元、合法的な費用徴収600億元、非合法の制度外徴収300億元と示し、負担軽減のため、農業税を廃止する方針を打ち出した。そこで安徽省はじめ10省で検討が始められた。
 ところが、そもそも朱鎔基が把握している数字自体が大きく誤っている、と社会科学院の一部の研究機関が指摘している。同機関で内々に使っている資料では、農民の負担額は1200億元を大きく上回る4000億元、そのうち合法的な費用徴収は1200億元に達するという。これが中国の統計の恐ろしさなのだ。
 悪税といわれて久しい現行の農業税は58年から施行され、80年代に人民公社が解体され、個人農家が耕作するようになっても継続されてきた。農業税とは、米、麦などの食料作物と、綿花など経済作物の平年の作柄(生産量)を課税基準とする租税で、生産額に対して全国平均で15.5%が課税される。
 これ以外の果物、お茶、水産物など(タバコを除く)には農業特産税をかけられ、こちらのほうは生産額の14.5%。また、非農業用途のための建物に対する税金として、耕地占有税を支払わなければならない。要するに、農民が自分の耕地内に住宅を建てると税金がかかるわけで、これが1平方メートルあたり1元から10元となっている。さらに、家屋や畜舎などの賃貸額にかかってくる契約税がある。
 豚・牛・羊などの家畜の解体処理・売買行為に対しても屠殺税を徴収される。家畜1頭を屠殺するごとに2元から10元と決められている。
 以上のように、農民はさまざまなかたちで税金を徴収されており、その伸び率が、国家の税収伸び率、都市住民が支払う税金の伸び率を上回っている。
 さらに問題なのが、農民が支払わなければならないのは、右に挙げた税金だけではないことだ。地方政府の権限で農民から徴収する合法的な税金以外の費用である制度内費用がそれで、「五統三提」もしくは「三提五統」と呼ばれる。
 五統とは、郷鎮政府が徴収する教育費、退役軍人慰労費、民兵訓練費、道路建設費、計画出産管理費の5種類の費用を意味する。最後の計画出産管理費とは、一人っ子政策を遂行するために、妊娠した女性を超音波機器でチェックするための費用で、胎児の性別により強制堕胎を行っているところもある。
 三提とは、郷鎮政府の下部の生産大隊である村民委員会が農民から徴収する費用を意味する。公的積立金、公益金、行政管理費と3種類に分かれているが、結局、村民委員会の役人の人件費のことで、実際はその村のボスの給与を農民が支払う仕組みになっているのだ。
 さまざまな数字が出ているので正確かどうか不明だが、五統三提に対して年間に農民1人当たり約100元、農民の年間収入の6%が支払われているといわれる。
 さらに曲者なのが、郷鎖政府や村民委員会が農民に強いる制度外費用で、これは俗にいうところの乱収費だ。中央政府からさんざん中止を勧告されているにもかかわらず、なかなか実行されていない。また、中止されたらされたで、新たな問題が発生する。
 これは五統三提に組み込めない種類の費用を農民から無理やり徴収するもので、道路費用、電力費用、学校建設費用、結婚交渉費用、住宅建設管理費用などがある。ちなみに結婚交渉費用とは、村民委員会が発行する結婚証明書に支払う費用で、こうなると地元役人のやりたい放題という感じである。
 この制度外費用の徴収が大変な額に膨張しており、農業税などの税金と制度内費用の合計の8割にもおよぶといわれる。
 私が地方の農村に出かけたとき、何度も見かけたのが、幹線道路の途中に建てられた関所である。バラックの小屋に見張りの役人がいて、道路脇に設置したバーを上げ下げして、通行税を徴収しているのだ。明らかに違法行為なのだが、そこで停めた車、オートバイ、自転車、大八車それぞれから料金表に従って通行料を徴収していた。
 そのうえ農民は「両工」と呼ばれる二種類の義務労働を課せられている。一つは防波堤建設、二っ目は道路や学校建設である。農民はそれらの建設のために無償で労働力を提供しなければならない。つまり、農村のインフラ建設とは、基本的には農民自身で行なうものとされており、それが税金投入で行われる都市とはまったく違う。ここでも農民と都市の根本的な差別があるわけである。

義務教育でも大きな差別
 都市において100%国の財政で面倒を見ている義務教育についても、農村は大変な負担を強いられている。
 中国全体の8割の小学校、6割強の中学校が農村地域にあるが、中央政府による農村の義務教育費負担率はわずか2%にすぎない。義務教育とは名ばかりであることがわかる。
 負担率の内訳は、中央政府が2%、省政府が11%、県市が9%。残りの78%を、先述した五統三提の制度内費用から末端の郷鎮政府が負担している。そこで何が起きているのかといえば、上限が決められている制度内費用の教育費として徴収するだけでは足りないので、農民から制度外費用として取り立てているのである。
 しかも、ここでも二重の差別が存在する。たとえば、上海市の1人当たりの教育費1862元に対して、貴州省は200元という具合に、100%義務教育費負担を実施している都市の受益額のほうが、結果的に大半を自己負担している農村の受益額をはるかに上回っているのだ。
 そこで、中央政府が、農民の負担を軽減するため、制度外費用の徴収禁止、義務労働の禁止の政策を実施したところ、大問題が発生した。郷鎮政府が真っ先に義務教育費を削減したため、農村部の学校教師の給与未払い問題が頻発したのだ。
 こうしたことから現時点でも農村部における九年制の義務教育の普及率は85%程度(この数字も十分精査する必要があろう)にすぎず、農民負担軽減の過程で切り捨てられる傾向にある。したがって、農民に対する基礎教育はじつに不十分であり、農民は出稼ぎに都市へ出ても単純労働や3K労働に就くしかなく、そのうちの7割近くが最も危険な建設労働に従事しているのが現状である。
 これら建設労働に駆り出される農民たちは、暫定居留証も取得しないまま、都市の建設現場の飯場に閉じ込められ、1年程度働かされた挙句、孫請け、そのまた孫請けの最終的な施工業者から資金繰りがつかない等の理由で給与未払いのまま放置される問題に晒されている。
 実際、旧正月近くになると、未払いにより故郷に現金を持って帰ることができない出稼ぎ農民が、上海の中心を流れる黄浦江にかかる大橘のアーチによじ登り、未払いの不当性を訴える事件が年中行事のように発生する。これら農氏に対する未払い給与額が1千億元以上に達するとの報告もあり、温家宝首相がこれを厳しく取り締まるよう何度も指示を出しているほど深刻である。
 以上、9億農民の現状を述べてきたが、いかに中国社会の中で、搾取されているかが伝わっただろうか。こうした社会構造こそが、彼らが都市住民と差別され、中国がこれだけ経済成長を遂げても国内消費が思うほど伸びない元凶となっているのだと思う。
 都市が農村を搾取し、富の再分配がいびつなかたちで行われている限り、投資と消費のアンバランスは是正されることはない。農村の貧困と都市の経済バブル化がさらに顕著化するだけであろう。

(中略)

役人天国と二重権力構造
 いびつな形の富の再分配に危機感を抱くようになった胡錦濤政権は、弱者対策を強調するが、掛け声ほどうまく進まないのは、社会の矛盾があまりにも根深いからだろう。
 中国の場合、共産党の一党独裁で一枚岩、中央政府が方針を決定すると命令一下、末端まで浸透するようなイメージを抱きがちであるが、実際には地方の権力者が跋扈していて、なかなか一筋縄にはいかない。彼らの態度は、一言でいえば面従腹背。既得権を手放そうとしない権力者の抵抗はじつに手ごわい。
 前述したように、河南省のエイズ村に温家宝首相自らが足を運び命じた政策を、現地の責任者が平気で無視するようなことがしょっちゅう起きるわけである。
 結局、中国とは壮大なる役人天国なのだと思う。たしかに人口は多いが、それにも増して、国家、省、県、市、郷鎮など網の目のように張り巡らされた行政単位が存在し、それぞれが必要以上の役人を抱えている。したがって、人口一人当たりの役人の数はべらぼうに多い。
 そうした非効率、無駄を整理するため公務員改革に着手したのが、豪腕といわれた朱鎔基首相であった。だが、結局それは形だけで終わった。公務員改革で中央省庁を去った国家公務員はことごとく関連機関や特殊法人、関連国有企業に再就職し、影響力を温存した。省レベルでさえまったく進まないで終わった公務員改革がその下のレベルに浸透する道理がなかった。
 朱鎔基が公務員改革に実質的に失敗したことは、あらためてこの国に寄生する人々がいかに多いかを再認識させた。省、県、市、郷鎮はそれぞれ行政府という権力機関を持つが、一方でその裏には各共産党委員会の書記以下の実力者が存在する。この二重権力構造が中国政治の最大の問題であり、矛盾を孕んでいるといえる。
 しかも、その二重権力構造の中で、党と行政府両者の思惑により、両者が重なって権力をふるっている部分とそうでない部分があるのだから始末に負えない。
 極端にいえば、通常の国家の二倍の役人を抱えているようなイメージであり、トータルな行政コストが異常にかかっているのである。
 実際、中国の党幹部や役人は凄まじい特権を享受している。日本でもマスコミが伝えてはいるが、日本人にはなかなかイメージできないかもしれない。たとえば、共産党幹部になれば、死ぬまで私設秘書、運転手がつくのが当たり前で、一人当たりの経費は膨大な額にのぼり、本人は生涯贅沢ができるようになっている。
 農村の郷鎮政府レベルの役人でさえ、好き勝手に飲食に公費を使い、運転手つきの高級公用車を支給されているような例は珍しくない。彼らが社会に寄生していて贅沢三昧をしているかぎり、富の再配分がうまくいくはずがない。
 たとえば、89年の大洪水の際、日本から大量のリサイクル衣料を提供したが、洪水が一段落して、一部の地域でどのような配分が行われたか聞き取り調査を行ったところ、案の定、提供衣料のなかで比較的高級品は事前に郷鎮政府の家族に持ち去られていたことが判明した。

 農民が蔑視されている原因の一つに、共産党の幹部のほとんどが都市出身者で占められていることが考えられる。
 「農民に学べ」とスローガンを掲げた毛沢東は農民出身だったが、毛沢東自身が農民を軽蔑していたフシがある。毛沢東は、知識分子を軽蔑すると同時に、農民に対して愚民政策をとったのだ。要するに、農民を生かさぬよう殺さぬように管理した。農民に知識を与えることで、自分たちの状況を把握させてしまうことを恐れた。不平等な現実を知って彼らが立ち上がることを恐れたのだ。
 だから、末端での教育がなおざりにされているのである。農民の教育が切り捨てられているのは、共産党が毛沢東の精神を連綿と受け継いでいる証といえるかもしれない。

 

第13章 中国経済の構造上の問題

投資と消費のアンバランス

 03年、04年、05年の「全社会固定資産投資」の伸びがそれぞれ対前年比28.4%増、25.8%増、25.7%増であるのに対し、「社会消費品小売総額」の伸びは9.1%増、13.3%増、12.9%増にすぎない。
 05年の消費者物価上昇率を見ると1.9%にとどまり、投資の伸びの割に物価がきわめて安定していることがわかる。これは投資拡大によって市場に大量の製品が放出されているにもかかわらず、製品の買い手が少ないことを意味する。
 05年1-10月期も投資の伸びは前年同期比28.6%増と高水準であり、不動産開発.鉄鋼・自動車・アルミ・セメント・電池・コークスといった一部の業種において盲目的投資・低水準の重複建設が続いている。これらの業種に対して04年春には、中央政府から繰り返し抑制するようにとの指示が出ているが、まったくその効果が見られず、投資過熱が問題となっている。
 一方、消費の伸びが減速したのは98年以降であるが、96年来の豊作で、食料買い上げ価格が調整され、農民の収入がこの年より急減したことに加え、都市部においても以下の事情が指摘できよう。
 朱鎔基内閣が誕生、国有企業の住宅保障制度の廃止や、医療保険などの社会保障機能を分離し、3年以内に再就職できない余剰人員をリストラするなどの大胆な経済改革を推進した。このため、国民の将来に対する不安が一挙に高まり、国民の貯蓄率は46%まで高まり、四大国有銀行の貸出総額300兆元に対し貯蓄額が30兆元となった。
 都市部においても、国有企業のリストラの加速により、失業者・一時帰休者といった貧困層が大量発生したことに急速な高齢化と一人っ子政策の影響が加わり、年金受給者と年金積み立てをしている給与所得者との比率が90年には10対1であったのが、2003年には3対1となっており、日本同様、年金制度は実質破綻状態に陥っていると見ていい。
 遠くない将来、1人が8人の面倒を見なければならないという試算もあるほどで、そのため、将来の不安から、貧困者のみならず一般の給与所得者の間でも消費を控える傾向が強まっている。
 都市における中産階層以上の消費は飽和状態にあり、新規消費需要は自動車、住宅、IT関連といった特定分野に限定されている。
 04年上半期主要商品需給分析報告によれば、主要600品目のうち需給均衡が138品目で全体の23%、供給超過が462品目で全体の77%を占めており、供給不足は存在しない。

 そもそも中国の計画経済は、国家計画委員会(現在の国家発展改革委員会)の計画に基づき、全国の国有企業が生産活動を行ってきた。生産のノルマさえ順調に達成されていれば、生産された製品が最終的に不良在庫として納入先の倉庫で眠っていようと、責任をとらなくてもよい体制になっていた。つまり、それはその先にある分配する側の責任で、そこで責任の所在が完結していた。
 国有企業は各計画委員会系統の指令に従ってさえいれば、何の苦労もなく国から予算が割り当てられた。新規投資が上の機関から承認されれば、必要な新規信用供与が自動的に行われる仕組みになっており、制度上、投資に対する制約がまったく欠如していたのである。
 また、これまでは社会主義の建前上、労働者の権利が最も保障されており、基本的に失業が存在しない体制になっていた。企業倒産による失業の大量発生はあってはならない事態であった。だから、破産法制が未整備だったのだ。
 だが、余剰労働人口が増え続け、このような体制を維持し続けることは、中国の財政上不可能であることが明らかとなって、朱鎔基総理は動いた。総理就任直後から大胆に社会主義の原則を曲げてまで、国有企業の改革に着手した。
 その決め手がWTOへの加盟であり、朱鎔基の本音は、「中国経済の発展のためには、お荷物となった国有企業を潰す」ことであった。
 WTO加盟により、国有企業は外国企業との苛酷な競争に晒される。競争に負ければ敗退しなければならないとの原則を甘受しなければならない。すなわち国有企業も倒産することを、いわば外からの圧力により国内に受け入れさせたわけである。外圧を利用した構造改革であった。
 しかしながら、結果的に朱鎔基改革は道半ばで、温家宝総理へとバトンタッチされることになった。
 これまで大釜の飯を食べることに慣れてきた国有企業からすると、計画経済下でのぬるま湯から抜け出す準備ができておらず、正常な市場経済原則が働かず、いまだに過大投資のメカニズムが中国全体で続いている可能性が大きい。
 とりわけ地方では、地方政府、国有企業、金融機関のそれぞれの指導者問に、もたれあい、馴れ合いの人的癒着が強く、依然として旧体制下の指令性経済の遺制が色濃く残っていることは否定できない。

なぜ不動産バブルとなったのか

 中国共産党統治の「正当性」を確保するためには、第一義的に経済成長の維持とそれに伴う国民生活水準の向上を追求せざるを得ない。
 中長期的なマクロ経済の運営上、長期持続的な成長を図ることがもっとも望ましい政策目標である。しかし、貧富の格差などにより社会不安が起こっている現状では、中長期的な目標を追求する余裕はなく、現在の指導層にとって、目の前の短期的な高い経済成長率維持が中国共産党の正当性維持にとっての至上命題となっている。
 これら任期5年の党大会のサイクルの中で結論を出す必要に迫られている指導者たちにとり、5年間で成果をあげるために一番てっとり早いのは、工場や住宅建設を中心とする固定資産投資を積極的に行うことにより経済成長率を上げることだった。不足部分については外国企業に頼ることで、短期的な経済成長の目標を達成してきた。
 こうして
経済成長率を高めることが、国家レベルから地方レベルまでの各指導者の至上命題となり、その達成度が評価基準になった。消費が伸びなくてアンバランスであろうが、固定資産投資を伸ばせば一定の成績を上げられることから、彼らはそうした政策に走らざるを得なかった。

 だから、不良債権の処理についても、本来とは逆の方向にベクトルが向いてしまった。貸出総額(分母)のうちの不良債権(分子)を減らすことが本来の姿なのだが、彼らは経済成長という至上命題を与えられているため、逆に分母を増やして、結果として不良債権比率を下げようとしたのである。