日本経済新聞 2006/11

ドキュメント挑戦 法化社会 日本を創る

1 経済紛争の断面 製紙攻防 王子、訴訟回避悔やむ

 「裁判をしなかったことに反省すべき点がある。ここが(攻防の)最大のポイントだったと思う」。8月29日午後、北越製紙に対する敵対的買収に失敗したことを事実上認めた記者会見で、王子製紙社長の篠田和久(59)はこう述べた。
 7月3日、篠田は会長の鈴木正一郎(68)と共に、具体的な買収価格まで書き入れた統合提案を北越に持ち込んだ。「北越は泥水を飲んでも徹底抗戦、城を枕に討ち死にするかもしれない。しかし株主のことを考えれば、おかしなまねはできないはずだ」ーー。5月中旬から連日、買収戦術を練った末の提案だった。
 これに対し北越は急きょ防衛策を導入。王子の買収提案価格より安い値段で新株を大量発行し、安定株主を生み出す三菱商事への第三者割当増資も決議した。増資が終わるのは2週間以上先。
 王子の統合提案への回答期限が2日後に迫った7月22日のことだった。弁護士との相談を終えた北越社長の三輸正明(62)は東京・青山にある王子会長鈴木の自宅を突如、訪ねた。
 あいにくその日、鈴木は留守。翌日、王子が予約したホテルの部屋で二人は向き合った。刺し違える覚悟で三輸は鈴木に買収構想の撤回を執拗に迫り、強行すれば北越に生産設備増強をやめるよう圧力をかけていたことを公正取引委員会に通報すると詰め寄った、という。
 王子側は三輸からこうした話が出たことは認めるが、実際に「圧力」があったのではという見方を強く否定する。8月下旬の王子の記者会見。淡々と「敗北宣言」した社長の篠田だったが、この点を聞かれた時だけは「私は知らない」と強い口調で答えた。
 北越が防衛に成功する最大のカギとなった三菱商事への第三者割当増資について、多くの法律専門家は王子が当然、裁判所に差し止めを求めるとみていた。しかし、なぜか王子は裁判所に駆け込まなかった。
 「三菱が増資引き受けを撤回するのではないかと期待をかけ、裁判で争う機会を逸したのが最大の失敗だった」。王子の現場責任者だった執行役員の枝川知生(57)は社長篠田の敗戦の弁をこう補足する。差し止め裁判で負ければ買収そのものを断念する道があったとも振り返る。
 三菱商事OBで北越副社長の岸本哲夫(61)は話す。「裁判になれば『圧力』の証拠を提出、王子でなく三菱を選んだ理由を明らかにする計画だった」

           ◇
 様々な分野で旧来の秩序が揺らぐ日本。法化社会に向けルールを創る人々と周辺を追う。

 

2 経済紛争の断面 製紙攻防 「PR」こそ法務の金言

 「ユダヤ人の歯科医作戦」ーー。米国の企業広報の世界では知られた言葉だ。アラブ系資本に経営権を奪われそうになった米国の歯科医用器具メーカーが、買収されれば多くのユダヤ系医師から注文が途絶えるとのPR戦略を思いつき、防衛に成功した。敵対的買収の嵐が吹き始めた1975年の話である。
 約30年後の今年8月17日午後、新潟県庁前。王子製紙社長の篠田和久(59)が北越製紙の地元に理解を求めるため県庁を訪問、玄関に出てきた時のことだ。
 「北越の矢沢です。北越の思いを読んでください」。突然、同社管理職の代表者が買収反対の声明を手に飛び出してきた。王子関係者が「約束が違うじゃないか」と叫ぶなか、篠田は追いすがる北越管理職を振り切り黒塗りのハイヤーへ。
 その夜から、「北越の思い」の受け取りを拒否する篠田の姿が繰り返しテレビ放映された。
 当初、北越側では従業員がデモをかけ、篠田の県庁入りを阻止する案も浮上していたが、本社から待ったがかかった。管理職が買収反対の声明を王子に郵送することなどで話がついていた。
 しかし、北越が起用したPR会社、メディアゲイン社長の小川勝正(56)の「これは戦争だ」との意見などで、約束は一方的に破棄された。小川は当日、東京から現地の同社スタッフに指示を飛ばした。
 「声明を渡す地点はテレビカメラが回せる公共の場所。格好は作業服だ」
 小川を北越陣営に引き入れたのは弁護士の牛島信(57)。クレディ・スイス証券法人本部長の大楠泰治(59)は北越側につく際、牛島と交わした言葉が忘れられない。大楠は「高い買収価格を王子が出してくれば応じるほか無いが、それでも構わないか」と注文をつけた。牛島は「何が何でも北越を守る。徹夜で哲学論争しよう」。
 三菱商事が北越の増資に応じ、日本製紙も「業界秩序を守る」として北越株を大量に取得。北越のPR戦略もあってか、王子は8月末、あっさり敗北宣言をした。
 「流しソーメンのような負け方をしてもらっては困る」。この結末に、日本企業に敵対買収を提案してきたある金融機関の幹部は憤りを隠さない。日本企業からは「敵対案件にも興味はあるが、助言を頼むとすればまず大手の野村証券だ」と相手にされない。唇をかみ、野村の成功の後に続く日を夢見てきた。
 王子の財務アドバイザーの野村では企業情報部を軸とするチームにIBコンサルティング部長の高田明(48)も加わった。「仕掛けた以上、絶対に勝たなければならないという人もいるが、王子の株主に説明の付く範囲内でやろうと決めていた」。そして高田は付け加える。「顧客が変われば(もっと強引な)別の手法をとるかもしれない」

3 経済紛争の断面 村上ファンド 「改革旗手」37時間後の白旗

 6月5日午前11時、村上ファンド代表(当時)の村上世彰(47)は東京証券取引所で開いた記者会見でニッポン放送株の不正取引疑惑にからみ、「ライブドアが買い進めると聞いた後も、買ってしまった」と認めた。同日午後、インサイダー取引の証券取引法違反容疑で逮捕された。
 その37時間ほど前の3日午後10時10分。東京・六本木ヒルズ内でファンド幹部と弁護団の会議が始まった。村上は宿泊先の東京・日本橋蛎殻町のホテルの部屋から電話会議システムで参加した。ファンド関係者4人の逮捕説が流れたためだ。
 直前までファンド内部では逮捕者は村上を入れ最大でも3人と予想し、容疑は認めない方針だったという。
 「一人ずつ、意見を言ってくれ」。村上がファンド幹部に聞いた。ある者は「捕まるなら皆で捕まろう」と主張した。
 しかし大勢にはならなかった。「徹底抗戦すれば、多くの逮捕者が出る」「ファンドの後処理も難しくなる」。村上と、同席していた川原史郎(56)らベテランの弁護団に対し、「容疑を認めるべきだ」という幹部の意見が多かったという。
 「そうか、分かった」。村上との電話回線が突然、途絶えた。代表が罪を認めれば、逮捕者は一人で済むかもしれないーー。幹部の多数意見をこう読み取り、村上が電話をたたき切ったと感じた出席者は少なくなかった。
 翌4日早朝、村上の宿泊先ホテル。ファンド幹部と弁護団が最終の意思確認をするため集まった。部屋のいすが足りず、立っている者もいた。コーヒーに手をのばせる雰囲気ではなかった。
 「(容疑を)認めることに決めた」と村上。幹部の中には昨夜と意見を変え、村上の決断に異論をはさんだ者もいたが、村上ら幹部3人はその日のうちに自白調書にサインした、という。
 「証券取引法上の罪を犯したことを深く反省して非を認める」。5日、東証での記者会見は30分程度の予定だった。しかし質問が途絶えず、80分に及んだ。
 会見室の後方には弁護士の奥田洋一(46)の姿が見えた。近く始まる公判では元特捜検事の川原とともに村上の弁護を担当する。川原はごった返す会見室に入れず、外のテレビに見入っていた。
 村上は「自白」会見にもかかわらず、公判では無罪の主張に切り替える。起訴後に開示された証拠を検討すると、指摘時期にはライブドアによるニッポン放送株の大量取得方針を聞いていないことなどが分かったため、だという。
 一時は企業改革の旗手と持ち上げられたこともあった村上。しかしある元検察幹部は「総会屋にしては珍しい金持ちだ、と思っていた」と、にべもない。村上公判ではどのような司法ルールが示されるのだろうか。

4 経済紛争の断面 ライブドア 元特捜検事の「晴れ舞台」

 ライブドア前社長堀江貴文(34)の弁護人である高井康行(59)はこの春先、3つの目標を立てた。堀江を早期に釈放させ、無罪判決を勝ち取り、社会復帰させることだという。
 4月下旬、堀江は1月の逮捕から94日ぶりに保釈された。起訴事実を認めないと証拠隠滅の恐れから公判開始後も保釈されないことがある。堀江は全面否認したが、公判前に保釈された。
 「事件閥関係者がやりとりした多数の電子メールが証拠としてあった。検察、弁護側双方の主張が客観的に認定しやすく、証拠隠滅の恐れも極めて少なかったからでしょう」と高井。
 9月4日の初公判。Tシャツ姿で知られる堀江はスーツで東京地裁に現れた。開廷中はネクタイも。「晴れの場ですから」と堀江から言い出したという。「刑事法廷は頭を垂れる場ではない。国民が弁護士をつけて、国家に主張できる場であり、いわば晴れ舞台だ」と高井も同意した。
 国政選挙に3回落選した祖父を持つ高井は政治家かジャーナリストを目指し京大を受験するが失敗。早大法学部の入学4年目で司法試験に合格した。
 左翼運動が盛んだった。友人は「政府が腐敗しているから革命が起きる。お前が検事になったら真っ先に倒すぞ」と言った。高井は「自分は東京地検特捜部などを舞台に体制内浄化をして革金を防ぎ、自由主義体制を守ろうと考えていた」と振り返る。
 1972年、検事任官。特捜部配属を夢み、地方の検察庁へ。岐阜地検で県庁を舞台にした大型汚職事件に巡り合った。88年に発覚したリクルート事件では特捜部で文部省の元事務次官を取り調べた。「法律上は確かに犯罪だったが、あの事件では多くの良質の人たちが捕まった」
 90年、福岡地検の刑事部長に。全国の地検で初めて容疑者の起訴・不起訴などの結果を被害者に知らせる被害者等通知制度を導入し、その後、制度は全国に広がった。「被害者の支援はライフワークだ」。今年6月から日本弁護士連合会の犯罪被害者支援委員会委員長も務める。
 福岡地検刑事部長時代には忘れられないもう一つの思い出がある。ドーム球場の下請け工事業者選定にからむ詐欺事件。一審判決は懲役5年の実刑だったが控訴審では逆転無罪となった。この事件で高井は容疑者の再逮捕分の拘置請求を裁判所にはねつけられた。弁護側は逮捕時から「容疑者は任意の事情聴取に応じ資料も提出しており、自白を強要する不当な拘置だ」と反発していた。
 97年、東京高検刑事部検事を最後に弁護士に転じた。
 堀江の公判では、ドーム球場詐欺事件の拘置請求手続きにかかわった裁判官を右手に見ながら反論を続ける。

5 経済紛争の断面 市場の番犬 落としどころは探らない

 「今の不正取引の温床は証券の発行市場だ」「特定目的会社(SPC)が悪用されている」。9月、渡欧した証券取引等監視委員会委員長の高橋武生(71)は英仏独の規制当局首脳らにこう伝え、ヘッジファンド問題などで意見交換した。
 通訳を務めた監視委・特別調査課長の佐々木清隆(45)が相手国の担当者と電子メールなどで急きょ日程調整した。「1年や2年の経験では海外の専門家に相手にされない」。こう言い切る佐々木は世界の市場規制関係者に名を知られた数少ない日本人の一人。大蔵省金融検査部を経て、金融監督庁、金融庁で検査企画官を務めてきた。
 2001年、財務省国際機構課に戻った時も、米同時テロを受けた資金洗浄(マネーロンダリング)対策を担った。その後、国際通貨基金(IMF)の公募に志願。主任審査官としてオーストリアなどの金融監督体制を審査した。盛り上がる反資金洗浄の空気を活用し、カリブの島々に「押しかけ査察」に出かけたこともあるようだ。
 05年7月から特別調査課長。率いる約100人の部隊はいわば「証券マルサ」。逮捕権はないものの、裁判所の余状による強制調査権を持つ。インサイダー取引、偽計取引などを探知すれば検察に告発する。
 今年2月上旬、ライブドアがからんだ特定目的会社を調べるためスイスに二泊四日で飛んだ。現地にも親しい当局関係者がいる。1999年、クレディ・スイス・グループの検査妨害事件を手がけて以来の付き合いだ。
 このほどカナダで開かれた国際会議。「非公式面談の積み重ねが大事だ」と会議が終わるとワシントンに飛び、米証券取引委員会(SEC)に知人を訪ねた。
 「民間の人が思っている以上に、個別取引についても当局問の情報交換は密だ」。佐々木は金融機関の不祥事について、本社と海外支店間の連絡がうまくいっていないために罰金などの制裁が拡大しているとみる。
 98年の大蔵省金融検査汚職。隣の席にいた課長補佐が逮捕された。その年、大蔵省の検査・監督部門は新設の金融監督庁に移管された。
 「大蔵省時代の検査は落としどころを考えてから動いていた」、と佐々木は振り返る。舞台は巡り、「透明なルールに従い厳正に検査する監視委」(佐々木)の役割に、市場参加者からの期待が高まる。大蔵検査時代に決別を告げ、不良債権に関し都市銀行の集中検査に入る際、上司が佐々木に言い放った言葉が今も脳裏に焼き付いている。「レントゲン写真をしっかりとってこい」



6 最高裁の変心 憲法訴訟 “合憲判決”の壁は崩れたか

 「国を離れたことで、より深く日本を理解する彼らの声を国政に反映させるのが最高裁の責務ではないか」・・・。在外邦人の選挙権確認訴訟。昨年7月、最高裁大法廷で、まず弁護士の喜田村洋一(55)がこう訴えた。
 弁護団の一人である古田啓昌(40)はこの日が初の大法廷弁論。しかし「ニコニコしているあの判事は絶対、敗訴判決を書くだろうな」と思う余裕もあった。傍聴人が少ないと寂しいからと、法科大学院の教え子と妻にも招集をかけていた。
 2カ月後、大法廷は在外邦人の衆院小選挙区などでの選挙権を認める戦後7件目の違憲判決を出した。原告勝訴だったが、14人(1人の判事は回避)中2人の判事は国会の裁量を広く認め、合憲とした。その1人は古田が合憲判決を書くと予想した判事だった。
 選挙権に関する違憲判決では、「1票の格差」を巡る1976年4月の大法廷判決が広く知られる。格差が最大約5倍に達した72年衆院選挙を無効とはしなかったものの、定数配分を違憲とした。前年秋の大法廷弁論では須磨の海岸で毎朝、妻と発声練習を積み重ねた山本次郎(74)が約40分間、熱弁を振るった。
 最高裁判事が大きな政治のうねりをどの程度、意識して判決を書くのかはよく分からない。ただ、東西冷戦時代には共産圏拡大を狙うソ連が存在し、北東アジアでは日本が数少ない民主国家。違憲判決が出た76年当時はデタント(緊張緩和)が進み、日米安保を基軸とする安定した政治システムができていた。
 そうなる前に、もし都市部の票が重くなり左翼政党に流れればどうなっただろうか。「60年安保まで、インテリには社会主義が選択肢として残っていた。体制を変える判決を政治家でもない最高裁判事は書けないだろう」と成蹊大教授の安念潤司(51)。
 89年秋、ベルリンの壁は開放された。当時、外務省条約局長だった福田博(71)は95年に最高裁判事になり、2005年に退官するまで格差訴訟で「違憲」を書き続けた。福田は話す。「冷戦は終わり、体制選択の可能性はもうない。最高裁は国会に対するチェック機能をしっかり果たすべきではないか」
 最高裁は昨秋の在外邦人選挙権訴訟で立法の不作為による国家賠償請求まで認めた。しかし、最大格差が5倍を超えた04年の参院選挙についてこの10月に出した判決は合憲だった。
 「他人に2票以上与えるのは不平等」との思いで約21年間、格差訴訟をやってきた弁護士の山本だが、最近は関心が薄れたという。理由の一つは「都市部の人が投票に行かない。誰のためにやっているのか分からなくなった」こと。格差訴訟で最高裁がこのところ踏み込んだ判断をしないことが選挙不信の一因になっていないのだろうか。

7 最高裁の変心 13年目の勝訴 「常識」問うた1人の反乱

 9月13日、東京高裁で蛇の目ミシン工業の元経営者に対し900億円強の賠償を求める裁判があった。20年近く前に同社が仕手筋に翻弄された事件が、法廷で新局面を迎えた。
 「最終的に和解を検討していただけますか」。裁判官からこう問いかけられた原告側の弁護士は、傍聴席最前列に座っていた原告で元・蛇の目取締役の鈴木晃(72)に目を向けた。鈴木は首を横に振る。それを見た弁護士は「ここまで来て和解はしないということです」と裁判官に告げた。
 1987年、仕手筋「光進」元代表の小谷光浩が蛇の目株を大量に買い占めた。小谷に株の買い取りなどを強硬に求められ
た蛇の目の経営陣は関連会社に仕手集団の傘下企業の債務を引き受けさせたり、蛇の目本体も担保を提供したりした。91年、小谷は恐喝罪で起訴され、その後、懲役7年の刑が確定した。経営陣にも特別背任の疑いが指摘されたが、刑事責任は問われなかった。
 そして93年、鈴木は「経営陣が小谷の言うままになったため、蛇の目がボロボロになった」として、生え抜きを含む旧経営陣29人を相手に株主代表訴訟を起こし、民事責任の追及を始めた。
 今年4月、最高裁が被告のうち5人の過失と法的責任を最終的に認め鈴木は勝訴。9月の東京高裁での審理は具体的賠償額などを詰める差し戻し審である。
 提訴から13年。「会社の先輩を訴えた負い目からやっと解放された」。こう話す鈴木は57年に蛇の目に入社。87年に取締役になったが、1年後、鈴木を引き上げた社長は退任し、銀行出身者が社長に。翌年、鈴木は再任されなかった。
 代表訴訟を起こす前、鈴木は蛇の目を粉飾で告発しようと証券取引等監視委員会に足を運んだが、結局、告発しなかった。「蛇の目グループの粉飾に私自身が全く関与していないわけでもなかった」と鈴木は打ち明ける。代表訴訟で被告側はこの点を突き、「加害者による乱訴だ」と反論した。
 小谷は「大阪からヒットマンが2人来ている」などと被告を脅したこともあった。下級審は「暴力的な脅迫を受けており、やむを得なかった」と被告の過失を否定したが、最高裁は「恐喝されたとはいえ警察に届け出られない状況ではなかった」などと過失を認めた。
 法的責任につながる過失の有無の判断は問題の「行為が起きた時点」の社会常識が重要なモノサシ。当時の常識を振り返り判決はなされるが、被告関係者には「コンプライアンス(法令順守)がうるさくなかった時期に最高裁判決が出ていれば結論は違ったのかもしれない」と映る。
 一方、鈴木は13年の間、自問してきた。「もし自分が恐喝されていたら、はたしてノーと言えただろうか」

8 最高裁の変心 灰色金利 人の縁得て壁破る

 「6年をかけ、約650万円の減額を勝ち取ったことになりますね」。9月下旬、広島高裁で判決をもらい、近くの事務所に戻った弁護士の板根富規(54)は長期裁判をこう振り返った。
 消費者金融の借り手の連帯保証人を代理し、返済額の減額を求めてきた。今年1月、最高裁で勝訴、広島高裁で訴訟費用などを争っていた。
 多くの消費者金融は利息制限法の上限金利を超えるものの、出資法で罰せられない「灰色金利」部分などで収益を上げてきた。
 本来、灰色部分の利息は無効。しかし貸金業規制法の「みなし弁済規定」により、貸し手が書面などをきちんと交付し、借
り手が任意に支払えば有効だ。最高裁は1月、みなし弁済について小法廷判決を立て続けに3つ出し、「任意」の範囲を絞り込む判断を示した。一連の判決により、消費者金融大手各社の株価は軒並み下落。司法判断がこれほど株式市場を動かす事態はあまりなかった。
 うち1件の裁判で、板根は借り手側の主任弁護士を務めた。相手は法務部から過去5人の司法試験合格者を出し、ホームページに「最後に頼るのは最も社会的に衡平、公正である法しかない」との経営姿勢を掲げる事業者だった。
 2002年8月、板根に幸運なことがあった。白神山地で開かれた日本土地法学会。世界遺産での学会合宿で、ある学者と同じ部屋になったのだ。灰色金利の第一人者として知られる学者だが、それまで面識はなかった。02年12月、控訴審で敗訴。逆転勝訴への期待をかけた最高裁での上告審で、この学者に意見書を出してもらう契機となった。
 板根は上告理由補充書を手に5回にわたって最高裁に足を運んだ。出てくると借り手の惨状を訴えるビラを配った。
 そして今年1月。最高裁は問題となった契約が、返済金の支払いを怠った場合に年率39.8%の遅延損害金などの支払い義務があるかのような誤解を与えるものと認定した。その結果、灰色金利は法で容認される任意ではなく事実上は強制されるものだと判断し、借り手を勝たせた。
 「現状、司法の場において(みなし弁済規定はもはや)実質的に機能していない条文だ」。今年2月15日、金融庁の貸金業制度に関する懇談会の席上、アコム社長の木下盛好(57)はこう述べた。
 その後、与党との調整を経て政府は先月31日、灰色金利や、みなし弁済規定の廃止などを柱とする貸金業法案を国会に提出した。
 もっとも、すぐに灰色金利がなくなるわけではない。板根によると、最高裁判決を受け、ある業者はこんな説明を始めたという。「利息制限法を超える金利の支払い義務はありませんが、お支払いください…」

9 司法取引の衝撃 戦術転換 激しい2、3番手争い

 「公正取引委員会の事情聴取に応じるより課徴金の減免申請が先だ。早く申告しないと他社に先を越されるぞ」
 トンネル換気設備工事の談合の疑いで、公取委が三菱重工業など大手関連メーカーを立ち入り検査した3月30日、当局の動きを聞いた弁護士の岩下圭一(53)は1社に急いで電話した。法律事務所の若手弁護士に命じ、なじみの別メーカーにも同時に助言を伝えた。
 今年1月、改正独占禁止法が施行され、談合などを「自首」すると課徴金が減免されるようになった。しかし対象になるのは通報の先着順に最大3社。全額免除を狙った立ち入り前の申告企業が1社あれば、立ち入り後の申請で課徴金を3割減額されるのは2社だ。
 東京・豊洲の石川島播磨重工業の本社にはこの日の午前十時ごろ、公取委職員がやってきた。同社はその直後、法務担当者が事業部門の責任者から違反を確認。ドタバタの作業が始まった。「自白レース」に勝つためだ。総務担当役員が社長の伊藤源嗣(70)の決裁を受け、申告を終えた時、既に日は落ちていた。
 岩下は昨年、東京高検が談合で摘発した橋梁メーカー各社の顧問などを務める独禁法のベテラン弁護士。10日に東京高裁で有罪判決が出たこの事件では、公取委が先に事情聴取を続けていたが、各社の担当者はなかなか口を割らなかった。
 「岩下という人間は何者だ」。昨春、事情を知った公取委委員長の竹島一彦(63)は怒りをあらわにしたことがある。竹島の発言は岩下にも漏れ伝わっていた。実は検察が乗り出す前、岩下は公取委の聴取にあたって否認するよう多くの企業に助言をしていた。
 減免制度が導入され、岩下の弁護方針は否認から早期申告へと180度切り替わった。独禁法に強い弁護士の間でも「情報交換がしづらくなった」との声がある。岩下は30日に電話助言した2社の公取委への申告手続きは代理しなかった。早い者勝ちの制度で、2社の間で利害が対立するためだ。
 トンネル換気工事談合では2年半ほど前、川崎重工業の会議室などで7社が受注調整した。日立製作所は会合には欠席したが、荏原の担当者が日立の意向を事前に聞いたうえ、調整に臨んだという。課徴金は立ち入り検査前に申告した三菱が全額免除。立ち入り後、申告した石川島と川重は3割減額された。日立、荏原は減額されず、いずれも3億円以上となった。
 トンネル談合での立ち入り検査の2日前のこと。公取委は鋼鉄製水門工事でも約20社に立ち入り検査した。ある企業は公取委の事情聴取に応じた担当者が夜8時まで帰社できず、減免申告が翌朝になった。「出遅れたため、3番以内に入れなかったようだ」と打ち明ける企業もある。

10 司法取引の衝撃 「自首」の勧め
   豪腕委員長 生みの苦しみ

 1月4日へと日付が切り替わる直前の3日深夜、公正取引委員会のあるファクスに電源が入った。電話番号は1つだが、複数の通信がほぼ同時に来ても受信時刻は正確に記録する。4日は改正独占禁止法の施行日。談合などの違反行為ごとに、ファクスを通じ「自首」した企業に対し、先着順に3社まで課徴金を減免する国内初の"司法取引制度がスタートした瞬間だ。
 3月までの申告数は26件。その後も月平均4、5件のぺースで"密告"が続く。委員長の竹島一彦(63)は「橋梁談合で昨年、検察が動いたこともあり、これまでのところまずまずだ」と話す。
 公取委が新制度導入の検討に入ったのは2000年。経済界の反発でお蔵入りしそうになっていたが、02年夏、竹島が委員長になったことから、潮目が変わった。「豪腕」の異名を持つ竹島。前職の官房副長官補時代にはある問題で自民党の会合に勝手に出席、反対派議員を押し切ったことがある。
 竹島が委員長に就任したころ、独禁法と同じ年の上杉秋則(59)が法改正担当の経済取引局長になった。上杉には直前の審査局長時代、苦い思い出がある。日本企業もからんだビタミン剤の国際カルテル事件を米当局が減免制度を活用し摘発、総額1千億円前後の罰金を徴収した。上杉も後を追ったが、行政処分に足る情報が全く得られなかった。新制度導入では韓国にも後れをとっていた。
 竹島らは当初、04年通常国会への法案提出を目指した。しかし、当時の経団連会長の奥田碩(73)が首相官邸での会議で「拙速にやるべきではない」と発言。法案は宙に浮いた。
 「財界の注射(説得工作)は効く」。当時をこう振り返る竹島がその後、秘書を伴わず、自民党本部や議員会館などに出入りする姿が何度も目撃された。経団連幹部は引き続き反対工作に回り、二人がかち合うことも少なくなかった。
 04年秋の臨時国会で法案を提出できたが、成立しなかった。ある公取委職員が民主党の対案を「経団連の提言と似ている」と思わず漏らし、同党議員を激高させたこともあった。
 施行まで足かけ6年。独禁法は昨春、約30年ぶりに抜本改正された。委員長になる前、竹島は内閣官房で4年間、規制改革などに取り組んだ。「橋本政権から構造改革は始まっているのに、独禁法が経済の活性化や資源の有効活用に役立つことが十分に認識されていなかった」。こう話す竹島自身、公取委に来てからその重要性を痛感、「私の反省するところだ」と述懐する。

11 法解釈の奥義 ハンセン病訴訟 政治が試された控訴断念の決断

 「ハンセン病訴訟の件だが、控訴しない方向で再検討してほしい」
 2001年5月23日、官房長官の福田康夫(70)は午前7時少し前、副長官の古川貞二郎(72)の自宅に電話を入れた。控訴と見込んでいた大方の予想とは反対の決断だった。
 5月11日、らい予防法による強制隔離政策で人権を侵害されたとしてハンセン病の元患者らが国に賠償を求めた訴訟で、熊本地裁は国を負かしていた。「遅くとも1960年以降、ハンセン病は隔離の必要はなく、隔離規定の違憲性は明白。政策を改める必要があったのに怠った過失がある」として国に賠償を命じた。
 また同地裁は96年廃止された予防法自体についても、「65年以降に改廃しなかった過失がある」と国会議員の立法の不作為責任を認めた。控訴期限25日が迫っていた。
 福田が古川に電話を入れた日の前日夕、首相官邸二階の官房長官室は重苦しい空気に包まれていた。法務省官房長、但木敬一(63、現検事総長)と訟務総括審議官の都築弘(60、現札幌地裁所長)らが福田を囲み対応を協議した。
 「地裁判断は最高裁の判例に反しています。損害賠償を求められる期間についても民法の規定を逸脱しています」……。事務方が控訴が必要な法律上の理由を説明。決定はしなかったものの、控訴の方向で協議は終わった。福田は鮮明に覚えている。「そんな理由では国民は納得しないと私がゴネていたら、都築審議官が一生懸命、クビを縦に振っていた」
 1時間半の協議を終え、別の会合を済ませて深夜、自宅に戻った福田に一本の電話が入る。知り合いの報道関係者だったという。「法務省幹部には控訴しない考えもあるようだ」と関係者は言った。貴重な情報だったと福田は振り返る。
 翌早朝、福田から控訴断念への調整指示を受けた古川は但木を電話口に呼び出し、福田の意向を伝えた。古川によると、但木は「控訴は断念します。併せて全患者に立法措置を講じたらいかがでしょう」と返答した。その日の午後、首相の小泉純一郎(64)が控訴断念を発表した。
 2日後、政府声明が出た。こんな前書きで始まる。「極めて異例の判断をしたが、法律上の問題点があることを当事者である政府の立場として明らかにする」
 判決に対し、政府声明が出るのも異例のことだった。憲法が求める「三権分立」の考えに反するとの批判が予想されたため、訴訟当事者としての声明と位置づけた。古川によると、「当事者」の言葉は法制局長官の津野修(68、現最高裁判事)の提案だった。
 控訴断念への政治決断。「政治家冥利に尽きるでしょう」。古川は当時、福田にこう言ったという。古川の言葉を覚えていない福田だが、「政治主導といいながら本当にやれるのか、役人に試されていたのかもしれない」と振り返る。内閣支持率は85%に達した。

12 法解釈の奥義 知財制度改革  在野から提言 政策の目玉に

 政府・知的財産戦略推進事務局長の荒井寿光(62)は5年前、民間団体「知的財産国家戦略フォーラム」代表として政策提言の発表記者会見に臨んだ。
 ▽特許は出願されたら、すぐに審査する
 ▽知財裁判所をつくり、1年以内に判決を出す
 知財評論家の肩書で、荒井が公表した提言は古巣の特許庁や司法関係者を刺激、興奮させる内容ばかり。「荒井さん、一体どうしたんだ」。次官に次ぐポストの通産審議官までやったOBの「反乱」に、霞が関から驚きの声もあがった。
 そして2002年2月の施政方針演説。首相の小泉純一郎(64)は「知的財産戦略会議を立ち上げ、必要な政策を強力に推進する」と述べ、荒井はそのメンバーに。今に続く知財改革が一気に動き出す。
 荒井が事務局長になるきっかけは前年の夏にあった。「研究会をつくって、知恵を武器に国を興す政策をまとめてほしい」。元法相の保岡興治(67)が自室で荒井に頼み込んだ。小泉が党に国家戦略本部を創設。事務総長になった保岡は政策の目玉を探し、荒井に白羽の矢を立てた。
 荒井は特許庁長官時代、損害賠償制度の見直しなど大胆な法改正に取り組んだことがあった。同庁を「権利を認めてやる」お上体質から、サービス提供機関に脱皮させようと特許庁親切運動も提案。なかなか理解されず「鉛のプールの中を歩いているようだ」と漏らしたこともあった。
 02年の施政方針演説の直前、荒井は保岡に連れられ官房長官の福田康夫(70)を訪ねた。成蹊大教授の安念潤司(51)と、同大OBでもある官房副長官安倍晋三(52)にも面会、知財政策の必要性を訴えたこともある。首相官邸を出た荒井は施政方針案を練った。
 知財戦略会議の議論を経て03年春、知財戦略本部が発足。事務局長となった荒井の最大の攻防は05年に発足することになる知財高等裁判所問題だった。最高裁は猛反発した。当時、政府には裁判官出身者が多い司法制度改革推進本部事務局もあり、知財本部と並行して議論は進んだ。司法本部事務局は当初、消極派が多数。「つくるとしても東京高等知財裁判所だ」。司法事務局のある裁判官出身者からは「高等裁判所」の枕に「知財」が来るのは裁判所法上、不適当との解釈も飛び出した。
 結局、甘利明(57)ら商工関係議員や、キャノン社長の御手洗冨士夫(71)ら、司法の使い手である産業界の後押しで知財高裁は発足した。荒井は御手洗と意気投合したことがあるという。「審議会にはどうして反対ばかりする法律家がいるんだ」。御手洗がこぼす。荒井は「役人からみれば大きな改革がまとまらず、いいのかもしれませんね」と答えた。
 今年9月14日、特許庁を訪問した小泉は出迎えた経産相の二階俊博(67)に「荒井君がよくやってくれた」と紹介した。3年半、知財改革の旗を振ってきた荒井も近く職を辞し、知財評論家に戻る。

13 法解釈の奥義 裁判員制度  一般人比率の溝 乗り越えた妙手

 2009年にスタート予定の裁判員制度。一般人が裁判官とともに重大犯罪を裁く戦後初の試みは難産の末、日の目をみた。
 「まず卵の殻を破って生ませることが大事です」。04年1月中旬、日本弁護士連合会会長の本林徹(68)は公明党幹事長の冬柴鉄三(70、現国交相)らに電話を入れ、同党の関係者を激怒させた。この問題でハシゴを外されたと感じたからだ。
 当時、裁判員問題で有罪・無罪を合議する裁判官と一般人の人数問題で議論が紛糾していた。日弁連は「一般人がお飾りでは意味がない」とし、裁判官に対する一般人の比率が3倍以上の「裁判官2人対一般人9人」などをかねて主張。弁護士議員の多い公明党は「2人対7人」の立場だった。
 こうした案は重大犯罪などでの裁判官3人体制を見直すもので、最高裁は断固反対。自民党も「3人対4人程度」で、調整は暗礁に乗り上げていた。
 「法案がつぶれては意味がない」。こう判断した本林は公明党幹部に「3人対6人」での妥協を要請することにした。この線で、政府部内でも調整がほぼついていたようだ。
 しかし公明党は本林の苦渋の末の妥協提案を跳ねつける。党内で全権を託されていた漆原良夫(61、現国対委員長)は「これは政治の話だ」と本林の面会要請を断った。「連立与党を組んだ以上、国の骨格にかかわらないと意味が無い」。そのためには「おかしな内容の裁判員法案ならつぶれてもいい」と言い続け、ギリギリまで粘る作戦だった。
 良き伝統を重んじ、壊されるのなら裁判員法案が流れても仕方ない構えの最高裁。一方、伝統に風穴を開け、存在感を出そうとする公明党。一時、自民党議員からは「宗教戦争みたいなものだから、まとめるのは厳しい」との声が漏れた。
 与党協議はようやく26日午後、正式にまとまった。起訴事実を認め、検察官、弁護人との間に争いがない事件は「1人対4人」、そうでない事件は「3人対6人」という妙手だった。
 当時、調整が決着したのは前日の日曜日夜の東京・赤坂にあるホテルでの会合だと説明された。自民から与謝野馨(68、元税調会長)、長勢甚遠(63、現法相)、公明から漆原と魚住裕一郎(54、現副幹事長)、法務省から次官の但木敬一(63、現検事総長)、司法法制部長の寺田逸郎(58、現民事局長)らが集まった。
 午前1時半まで数について真剣な議論が続いたことになっていた。実際は裁判員の守秘義務の取り扱いを議論し、その後は「記者が外で待っているのでワインを飲んでいた」と但木。漆原らはホテルに泊まった。
 その数日前の国会内。本会議を抜け出した与謝野、長勢、漆原に、但木らが加わり、本会議場近くの会議室に潜り込んだ。その際、「1人対4人」案が浮上、法務官僚が「これならいけます」と声をあげ、調整は事実上終わっていたからだ。自民党内の一部の反発を懸念し、妙手は数日間、封印された。

14 法解釈の奥義 人質司法 指揮権の発動か社会奉仕命令か

 「司法取引をして出てきました」。数年前のこと、痴漢の疑いで逮捕された佐藤一郎(仮名)は自白し、解放された後、弁護士の川原史郎(56)に告げた。
 「事件」は佐藤が東京のJR新宿駅に向かう満員電車のなかで起きた。女性に右ほほをたたかれた佐藤は電車を降りた後、改札口に向かう女性を呼び止めた。二人は口論になり、「警察に行こう」と女性が言い出し、一緒に鉄道警察隊事務所に出向いた。
 当時、53歳であった会社役員の佐藤は警察官に容疑を否認したが、翌日、検察官に自白。罰金5万円の略式命令を受け、自由の身になった。検察庁から、荷物をとりに警察署に戻った時、川原に初めて会った。
 川原の話を聞いているうち、佐藤は「会社の仕事に穴を開けないようにしよう」との一念から自白したことを後悔、正式裁判を求めた。一審は有罪。控訴審で逆転無罪となり、確定した。
 控訴審判決は検察官調書の内容が痴漢の様子について具体的でないことや、佐藤を突き出す気のなかった女性を佐藤が呼び止めた点などを指摘。「否認を続けた場合には身柄の拘束が続く可能性がある状況では虚偽の自白をすることもあり得ないことではない」などとして、佐藤を勝たせた。
 裁判官は証拠隠滅の恐れがないときなどは検察官の意見を聞き、保釈しなければならないが、起訴事実を否認すると初公判まで保釈されないことも多い。関係者はこれを「人質司法」と呼ぶ。
 7月24日、日本記者クラブ。講演した当時法相の杉浦正健(72)は「人質司法という雪を溶かすためには体制整備が必要だ」と述べた。杉浦は省内では「刑事訴訟法の原則通りになるよう、一般的指揮権を発動しようか」と発言。同省幹部を大いに困惑させたようだ。法相は個別事件の指揮もできるが、杉浦は「政敵つぶしに使われる可能性もあり、これは行使すべきではない」と話す。
 そして7月26日、杉浦は法制審議会にある諮問をする。刑務所に収容せずに清掃などのボランティア活動を命じる「社会奉仕命令」の創設や、一定の監視下で受刑者を刑務所の外で生活させる仕組みの検討を求めた。人質司法問題に強い関心を持っていた杉浦だが、問題には直接、切り込まなかった。一体、何が起きたのだろうか。
 刑事司法の現状に疑問を抱いていた法相。しかし職員の検事は「人質司法とは思っていない」(杉浦)という。この問題に直接、手をつけず、法務関係の有力議員である法相の期待に応える策は何かないか。省内では必死の検討がなされたようだ。
 刑務所の過剰収容問題はここ数年、法務省の大きな課題で、杉浦自身も対応の必要性を痛感していた。社会奉仕命令などが導入されれば過剰収容対策だけでなく、社会復帰の促進にもつながるではないか……。
 急きょ浮上した社会奉仕命令などの構想。指揮権発動の構えから、飛び出した駒のようでもある。

15 巨大な壁 金融秩序  生保にハーバード流革命を

 生命保険のネット販売に向けた事業調査会社、ネットライフ企画)。社員3人で先月設立されたばかりだが、大手生保が「協力したい」と入れ代わりやってくる。社長の出口治明(58)が異口同音に聞かれるのは同社の商品戦略。出口が「お申し出は歓迎。ところで貴社はどのようなアイデアをお持ちか」と聞き返すと、訪問者の口は重い。
 5カ月前の米ボストン。同社副社長の岩瀬大輔(30)はハーバード大ビジネス・スクール(HBS)の祝賀パーティーに招かれていた。「資本主義の士官学校」と呼ばれるHBSで、岩瀬は日本人として十数年ぶりに上位5%に入る成績優秀者となった。彼らの初年度平均年収は4千万円から5千万円という。
 岩瀬は東大法学部4年で司法試験に合格。しかし卒業するとすぐにコンサルティング会社へ。その後、移った投資会社の先輩から「人生はマラソンだ」といわれ留学した。
 2004年秋、80カ国から約900人が集うHBSでの講義が始まる。ナチス支配下のドイツでのユダヤ人銀行家の実話がテーマになった。「亡命して再起を目指す」との岩瀬の発言にカメルーン出身者が激怒した。「同胞は絶対に見捨てない。ダイスケはいつか企業スキャンダルに巻き込まれる」。信念を持つ同世代との触れ合いが刺激だった。
 留学時代、そんな思いなどをブロゲ(日記風簡易型ホームページ)に書き込んでいた。今年6月に帰国。古巣に戻るつもりだが、ブログを読んでいた投資家、谷家衛(43)から「君なら、すぐに金を出す」と言われ、方針を変えた。
 「ベンチャーはアドベンチャーだから気概が必要。しかし方法論も大事で、粗削りなところもあるが、彼は2つとも持っている」。ネット企画に50%出資したマネックス・ビーンズ・ホールディングス社長の松本大(42)は岩瀬をこう評する。
 岩瀬の新事業には保険業免許が必要。ここ4年ほど生保の新免許は下りておらず、ネット専門となれば過去に例がないようだ。保険業法は免許条件として適正な財産基盤に加え専門の「知識や経験、十分な社会的信用」などを求める。巨大生保に挑むにはこの「法の壁」をまず乗り越えなければならない。
 準備中の保険業免許の申請について、「目的が明確なら金融庁の担当者は会って相談に乗ってくれる」と話す社長の田口は日本生命OB。在職中は経営企画畑で旧大蔵省(MOF)などをぶらり訪ねる毎日だった。「金融機関のMOF担でなければ会えない時代だった」と出口は振り返る。

 

16 巨大な壁 米国法  日本企業のため「SECを教育」

 世界中の金銭欲が資本主義のエネルギーとなって流れ込む米証券市場。強大な規制権限を武器に、米証券取引委員会(SEC)がこの暴れ馬の御者役を務める。しかし米大手法律事務所シャーマン・アンド・スターリング東京事務所の池田祐久(40)は言い切る。「SECを教育するのが仕事だ」
 2002年成立した米企業改革法。エンロンなどの経営破綻を受け、急きょ作られたため外国企業への配慮がいくつも欠けていた。一部日本企業に対し監査役の全員変更を事実上、求める条項まで含んでいた。「対応は不可能、何とかならないか」。多くの日本企業が池田にこぼした。
 適用免除をとりつけるため、池田は同年秋以降、トヨタ自動車など日本企業8社とニューヨーク証券取引所のためにSECに意見書を提出。あまりに厳しい規制をかけると、日本企業が米国上場を断念すると同取引所は懸念した。
 年が明けると直接面談によるロビイング活動に移り、SEC内で日本の企業統治の現状を訴えた。池田の指示に従い現地の同僚弁護士が、当時、SEC企業財務部長のアラン・ベラー(57)らを前に訴えた。これを日本企業関係者が見守った。03年4月、適用は事実上免除された。
 池田はサリヴァン・アンド・クロムウェルの赤井泉(51)らと並び、米証券法に強い日本人弁護士として知られる。池田の父は在ウィーン国際機関代表部大使を務めた有二(68)、義父も元外交官で国際司法裁判所判事の小和田恒(74)。中学、高校は日本で教育を受けた。1989年秋に米ハーバード大経済学部を、90年春には東大法学部も卒業、5年かけ2つの大学で学んだ。同年秋、ハーバード大ロースクールに入る。
 米ロースクールに学ぶ日本人は少なくないが、ほとんど外国人向けの1年の修士コース。池田は3年の博士課程。東大法学部を出た日本人は珍しく、同大からも入学を強く求められた。「付加価値をつけよう」と日本の司法試験受験ではなく、この過程を選んだ。
 同期は約660人。米名門事務所に入れるのは成績上位1割前後とされ、池田は93年、その一つのニューヨーク事務所へ。そこで「法律、顧客との折衝術、営業手法」を学んだのがベラーである。02年、彼がSECに移るのを機に池田は現在の事務所へ。
 「誠実ないい奴だった」と池田を評するベラーは今春までのSEC時代、企業改革法の対応や企業統治基準の導入などに尽力した。「親日家の彼がいたので、より効率的に免除を得られた」と池田。
 米政府は産業界と弁護士界と手を組み、旧東欧諸国だけでなく中国などを相手に米国法を輸出、「市場拡大」に努めてきた。池田は「相手を自分の土俵に持ち込むのは外交もビジネスも同じだ」。バブル崩壊後の失われた10年。その間に日本企業の法務スタッフも充実し、「受け身ではなく、ようやく主張できる日本にはなった」。

17 巨大な壁 当選回数 政策援言実現へ 政治も世代交代

 「郵政事業は将来、民間に委ねるのがよいとの言葉を実質的初代郵政大臣が、134年前に残していることを指摘し、賛成討論とする」ーー。カラオケ店の部屋の中をのぞくと、参院議員、世耕弘成(44)がマイクを握りしめていた。昨年8月8日のことだ。
 その日の昼、参院本会議で郵政民営化法案の審議があり、世耕は「勝負の赤いネクタイ」を締め、同じ演説をした。事前に同僚の岸信夫(47)らに、最も大きな拍手の場所には五つ星のマークをつけた草稿も渡した。しかし予想通り、法案は否決、衆院は解散された。
 世耕にとって、救いだったのは首相の小泉純一郎(64)から「演説、良かったよ」と声をかけられ、役員会で小泉が選挙に向け「候補者全員にビデオを配れ」と指示を飛ばしたことだ。
 朝まで続いた夜のカラオケ店での会合。賛成票獲得に向け汗をともに流した若手議員らが世耕を囲み、「虚脱感と、野党に転落する恐れから朝まで自棄酒を飲んだ」(岸)。しかし、昨秋の衆院選で自民は大勝、ポスト小泉争いが本格的に始まる。
 今年3月、都内の日本料理店。山本有二(54)は官房長官の安倍晋三(52)と一対一で向き合っていた。「僕なら、森(喜朗元首相、69)先生が出るなと言ったら出馬を断念する」。山本は秋の党総裁選に向けた安倍の覚悟のほどを確かめた。
 山本は司法試験の合格証と早大雄弁会の人脈などを武器に、1990年の衆院選で初当選。秋田から集団就職で上京した経験を持つ菅義偉(57、衆院当選四回)から、安倍擁立を持ちかけられていた。
 そして今年6月2日、現政権発足へ一つの流れをつくった自民党本部での「再チャレンジ支援議員連盟」設立総会。会長となった山本は「総裁選だといって集まれば、ひいきの引き倒しになる。慎重にことを運んでほしい」とあいさつ。出席した中堅以下の94人を満足そうに見回した。
 小選挙区制の導入と小泉長期政権を経て自民党の派閥は「破綻寸前だった」(山本)ものの、当選回数の壁は厚かった。党の役職はほぼ七回生以上で回され、六回生でもなかなか大臣になれずにいた。その一人の山本は振り返る。「四回生にとって天井は高くなるばかり。小泉チルドレンも出てきて、"中問管理職"の彼らには不満がたまっていた」
 政治の世代交代は「経済の新陳代謝」につながる可能性を秘める。規制の壁を突き崩し新規参入などを促すためには法改正が必要。そのためには政治の新しいパワーが欠かせない。
 世耕は首相補佐官に。安倍訪中では前日に現地入りするなど海外広報などに忙しい。合間を縫っては、税務や独禁法の審判制度といった準司法などのあり方について塩崎恭久(56、現官房長官)、林芳正(45、現内閣府副大臣)らと4年前に立ち上げた「国民と行政の関係を考える若手の会」の政策提言を実現するため動き続けている。


18 巨大な壁 オウム真理教 被害者の補償へ体を張った闘い

 「向かいのビルから発砲される恐れがあるので、窓全体をブラインドで隠してください」。1996年3月下旬、東京・愛宕警察署の職員が弁護士の阿部三郎(80)に助言した。数日後、オウム真理教は破産宣告を受けた。警察官が立ち寄った都内のこのオフィスは破産管財人事務所に切り替わり、阿部の自宅にも警官が張り付いた。
 管財人になった阿部はさっそく旧山梨県上九一色村に検分に出かける。教団施設の階段を上っていると、猛烈な勢いで信者が駆け下りてきた。「肩が当たればどうなっていただろうか」。事務所前の路上に未明、トラックで大量の砂利がまかれたこともあった。
 阿部の最初の難題は教団施設から信者を平穏に退去させることだった。しかし「死守する」と公言するものも一人ではなかった。
 幸運だったのは破壊活動防止法による教団への団体規制(解散の指定)の動きがあったこと。当時、阿部は並行して教団の資産隠しを暴く裁判手続きを進めていた。教団側はあっさり資産隠しを認める。教団の狙いが同法の適用回避にあると読んだ阿部は「破防法の審査終了前に明け渡しのメドをつける」方針を立てる。
 しかしまだ壁があった。身元が分からなければ強制執行による退去という最後の手段の「脅し」が使えない。そこで身上調査を実施することに。「名前を書き、提出した者は退去を猶予する。出さなければ即時退去を求める」と信者に伝え、調査票を配った。
 前年春に教団代表の麻原彰晃(51、本名松本智津夫)が逮捕された上九一色村の「第6サティアン」の信者も、96年11月1日、引きあげた。死者を出さずに明け渡しは終わった。
 次の課題は教団施設の解体、換金。だが、解体には莫大な費用がかかる。「そうだ、自衛隊がある」。阿部は訓練目的で壊してもらう策を思いつく。即座に行動に移したが、新聞に漏れたためか、この奇策は頓挫。方針を転換し、廃棄物処理に関する法律の規定を利用し国の約5億円の予算措置を受け、解体作業などを急いだ。
 しかし、97年末段階で被害者の補償に充てる配当原資は債権額の16%しかなかった。今度は国に債権放棄を求めることに。98年2月、鳩山由紀夫(59)が国会で質問に立つと質問の前日に聞きつけ、支援を要請した。質問に対する政府側答弁は「法律が必要だが、この場合はすぐれて政治判断だ」。
 翌日、阿部はさっそく記者会見に臨む。「中間配当をしたいが、国の債権放棄が条件だ」。大きく報道された。4月、特別法が制定され、被害者補償を優先できるようになった。「体を張った阿部さんの依頼は何でも聞こうと思った」。特別立法を水面下で応援した当時の法務官僚は振り返る。
 今年10月4日、東京地裁で開かれた債権者集会で裁判官は告げた。「皆様の前で言うべきことではありませんが、10年間、一生懸命やられた管財人に感謝している」