日本経済新聞 2006/4/3--

ドキュメント 挑戦

 関係再構築 インドネシアと日本 

1.在留邦人女性の胸騒ぎ  「親密な両国、何かが…」

 爆弾テロ事件やアチェの大津波、それ以前の暴動などの大ニュース。日本でいまや危ない国と思われている大国インドネシアだが、首都ジャカルタの日本人の多くはこんな見方に首をかしげる。
 3月17日午後6時過ぎ。高層ビルが立ち並ぶスディルマン通りに面した23階建てビル。地下1階に日本人客が続々集まってきた。人気の和風イタリア料理店「レザート」の開店十周年記念パーティーである。
 ローストビーフやカナダ直輸入の殻付き生ガキなど経営者の重田久仁子(47)の心づくしのごちそうが並ぶテーブル。談笑の中心は現地で働く若い日本人女性たちだ。駐在男性とも話が盛り上がり、会のお開きは午前2時を過ぎていた。
 客の1人、長谷川千秋(33)は広告代理店の編集スタッフで昨年から住んでいる。「親は反対しましたが、聞くと見るのは大違い。モノは何でもあるし人々は優しい」
 日系人材紹介会社ジャック・インドネシアが過去3年間に紹介した150人の半分は20から30歳代の若い女性である。三菱東京UFJ銀行支店長の安藤聡(51)は「3人の現地採用女性は、本杜採用に負けず優秀です」と相づちを打つ。
 久仁子がジャカルタにやってきたのは1986年。和食レストランの雇われ経営者、日本料亭のおかみとして働いた。お客は羽振りの良かった駐在男性ばかり。当時、日本人女性は駐在員夫人と子供たちだけだった。
 96年に独立して始めたのがレザートである。目標はワインに洋風つまみという現地になかったカジュアルレストランだ。狙いはぴたりと当たった。
 背景に日本の就職難と98年の政変後の現地企業の経営難によるコスト削減の動きがある。バリ島旅行や語学留学で現地に偏見も少ない若い女性たちがどっと現地に就職する幸運に恵まれた。
 現地従業員も32人を数える。久仁子はその体験を2003年に「インドネシアにおいでよ」(連合出版)に書きつづった。パーティーのにぎわいは、この国が若い女性にも偏見なく受け入れられ始めた証しと思え、うれしかった。
 その久仁子が気になるのがソニーをはじめ相次ぐ日本企業の同国撤退の動きである。お客としてよく来てくれた同社代表に聞いた。「なぜ」。「いろいろあって」
 「店のお客が減るからではなく」両国の関係がおかしくなり始めたことを肌で感じる。インドネシアは日本の最大の援助先である。最も親密な二国間関係を築き上げてきた盟友と聞いていたからだ。

 

2.離任の大使、笑顔の陰で 冷めた現実、口にできず

 ジャカルタの和風イタリア料理店「レザート」で十周年記念パーティーが開かれて9日後の3月26日。日曜日の正午から東京都港区の東京アメリカン・クラブ三階で、4月下旬に帰任するアブドゥル・イルサン駐日大使(67)のお別れ会が始まった。
 主催者は東京ラグラグ会である。「ラグラグ」とはインドネシア語で歌。現地歌の愛好会だ。男性は大半が民族服のバティックを着ていた。バティック地のスカート姿の日本女性コーラスグループも参加し、華やいだムードが漂う。全部で60人あまりの日本側参加者の中に元駐インドネシア大使で、外交官OBの最重要ポストとされる国際協力事業団(当時)総裁も務めた藤田公郎(73)がいた。
 ラグラグ会発足のきっかけは1974年1月、当時の田中角栄首相のインドネシア訪問時のジャカルタ反日暴動だ。洪水のような日本企業の進出に反発するデモ隊は荒れに荒れ、田中は空港にヘリコプターで脱出した。同乗していたのが当時主管課長の藤田である。
 日本人はもっと文化を良く知り現地社会にもっと溶け込む必要がある。ラグラグ会はそんな反省から現地在住の外交官や民間企業駐在員の歌好きが集まりジャカルタで発足した。帰国した関東在住の会員の集いが東京ラグラグ会である。
 会支部はスラバヤなどインドネシア国内や大阪など日本国内にも広がり会員は全部で千人あまり。手術直後なので歌は遠慮し、在京大使館員らと会員たちの歌のエール交換を聴く藤田の感慨深げな表情は歌好きだけからではなかったのだ。
 お別れ会を切り盛りしたのは東京支部代表幹事を務める安田重雄(57)だ。90年代に東京海上火災保険(当時)の現地駐在員時代にジャカルタで入会し、帰国後も活動を欠かさない。「大使のご理解で歌で友好を一段と深められまして」
 閉会に先立ち大使夫妻の肖像画が贈呈された。安田の叔父で日本芸術院会員の洋画家、庄司栄吉(89)が描いた。庄司自身、戦時中に軍属でスラウェシ島北部のトモホンに駐在、日本語や美術を教えていた。招待を受けこの1月、60年ぶりに現地を訪問、教え子たちと旧交を温めた。
 そんな友好的な雰囲気に浸りイルサン大使は「友好親善を深めるこの会に感謝の言葉もない。私のいたらなかった点はお許し願いたい」とあいさつし、会員の拍手に送られて夫人とともに上機嫌で会場を後にした。
 それを見送っていた藤田が真顔に戻りぽつりつぶやいた。「両国関係はかつてないほど難しい状況にある。困ったことだ」。イルサン大使もあいさつでのみ込んだ言葉がある。ジャカルタでも東京でも、何か穏やかでない空気の流れを感じるのだ。

 

3.安保理問題、外務省に衝撃  盟友の反発読み切れず

 2005年6月9日夕刻。東京・霞が関の外務省7階。前外務次官で顧問の竹内行夫(62)は執務室で夕刊記事の見出しに「間違いではないか」と思った。ジャカルタ発で「拡大に反対、インドネシア」とある。
 前日、ハッサン外相が国会答弁で「国連改革は尚早」と表明した。実質的に日本がドイツ、インド、ブラジルと組んで提案した安保理拡大決議案(G4案)に反対、つまり日本の安保理常任理事国入りを支持しない、それが記事の意味だった。
 直前に日本を訪れたユドヨノ大統領は小泉首相との会談で「日本は常任理事国の資格がある」と表明した。しかもインドネシアを最大の援助先として支援してきた思いがある。外務省が支持を期待するのも無理はない。
 困った外務省当局者は「中国の激しい外交攻勢にやられた」と説明した。G4案には国連加盟128カ国の支持が必要なので、1国の支持不支持が目立たなかったことも外務省には幸いした。
 だが「1国」で済ませられる国でない。それは竹内の経歴からも明らかだ。竹内は北米局長や総合政策局長、次官と最要職につく前後に、一等書記官、大使として二度のジャカルタ駐在経験がある。歴代大使をみても外務省のインドネシア重視ははっきりしている。
 東西冷戦下の米国と組んだアジア安全保障構想の下、インドネシアを戦略同盟国と位置づけてきた。中国の台頭で同様の情勢が生まれている。日本にとりインドネシアの戦略的重要性が再び高まっている中での「不支持」である。
 インドネシア駐日大使のアブドゥル・イルサン(67)もいらいらを募らせていた。「我々は日本支持を明確に再三申し上げている。ただ、G4案だと話が違う。我々はインドに反対するパキスタンなどイスラムの盟友諸国の反発に直面する」
 「貴国の支持が得られないなら今後、経済援助を再考せざるを得ない」との露骨な外交攻勢も不愉快だった。日本留学で政財界に太いパイプを持つ地方議会議長のギナンジャール・カルタサスミタ(65)も「両国はこれまで黙って助け合ってきたのに」と漏らした。
 親日派ですでに帰任した駐日大使館前政治部長のシャフリル・サキディン(47)も収まらない。ジャカルタの日本大使館担当者に「中国の圧力を言うが、我々が簡単に日本との長い関係を軽視すると思うのか。援助削減などを持ち出すから政治家が反発し、中国を利する。貴国のインドネシア理解の浅さに驚いた」と説教した。
 安保理問題が外務省に不本意な形で一段落した中で両国の不協和音は解消しない。この春から駐ジャカルタ日本大使、公使、本省の担当課長は新しい顔ぶれである。

 

4.円借款、消えた重要案件  改造内閣、直前に合意覆す

 一見すると、その日の調印式はこれまでの経済協力推進に向ける両国の和やかなエール交換の光景と変わらなかった。
 3月28日、インドネシア外務省の式典室。プリモ・アジア太平洋アフリカ局長と日本政府代表で臨時代理大使の黒木雅文(54)が2005年度の円借款案件の文書に調印した。発電所の建設など6案件、総額930億円のブロジェクトが動き出す。
 だが、サインした黒木の笑顔は複雑だった。日本側が重要案件と考える首都ジャカルタの大量高速輸送システム(MRT)の建設計画(事業費約1千億円)を、調印直前に案件リストから外さざるを得なかったからだ。
 MRT。ひどくなる市内の交通渋滞緩和の相談を受け日本側は10年以上前から建設協力準備を始めた。第1期は市内を南北に地下鉄と高架で貫く14.3キロメートル。13年の開通で市民の通勤はぐっと楽になる。
 伊藤忠商事、住友商事、三菱重工業など高度な技術を持つ日本企業グループヘの発注を前提に、円借款を供与する正式合意が昨年11月にできていた。12月6日の内閣改造後。民族主義派新閣僚が合意に異議を唱え姶め、流れが変わった。
 1月13日午前3時前。国際協力銀行(JBIC)総裁の篠沢恭助(69)は閑散としたシンガポール国際空港に成田から深夜便で到着した。朝8時発の一番機でジャカルタ入りする強行日程もユスフ・カラ副大統領以下への表敬と、MRT事業へ協力する強い意欲を伝えるためである。
 だが、直後の1月24日の夜。日本を訪問中の副大統領は東京・五反田の同国大使公邸での在京インドネシア人会合で、こう明言したのだ。「日本製は高い。融資条件も良くない」
 結局、大統領から関係閣僚まで承知していた合意が覆された。政府の最高意思決定に異変が起きているのだ。伊藤忠商事インドネシア代表の市村泰男(55)は「きちんと積み上げた国際競争力がある事業だ。実態を正しく伝える必要がある」と日本大使館との密接な連絡のもと関係方面への説得工作に入った。
 JBICでこの問題を担当する開発第一部長の松沢猛男(50)は現地事務所を通じ、副大統領周辺の真意確認を急ぎ、今月3日に副大統領が態度を軟化させたらしい、との情報をつかんだ。
 インドネシアヘの円借款供与額は累計で総額3兆9千億円に上る。中国(3兆1千億円)、インド(2兆1千億円)より多く百カ国近い国々への供与総額の17%を占める。国際機関経由も含めると対外借入残高の4割は日本からだ。
 「借款の額はそれ自体が両国の緊密な関係の象徴。今回の合意不成立は長年の信頼関係を壊しかねない。あきらめずに再交渉する」と松沢は意気込む。

 

5.LNG輸入交渉も難航  情報網を駆使、糸口探る

 環境に優しいエネルギーである液化天然ガス(LNG)の3割強を日本はインドネシアから輸入している。その安定調達は日本のエネルギー多角化政策の柱の一つとして機能していた。
 2005年11月、その輸入窓口会社、エルエヌジージャパンの専務、関ね英治(57)はジャカルタから妙な報告を受け取った。アブリザル・バクリー経済調整相(当時)が「今後はLNGを輸出せず内需に振り向ける」と発言したという。
 10年に期限切れの長期契約は更新する合意ができ、文書化するまでになっていた。
 「国内で売ると価格は輸出の4割以下で財源難の政府も困るはず」と読みながらも現地情報を探ると様子がおかしい。関根は直ちにプルノモ・エネルギー鉱業相(54)に面会を申し込んだ。
 年が明けて1月中旬、関根はエネルギー鉱業省2階の大臣室でプルノモに「長期契約更新は大丈夫ですね」と単刀直入に切り出した。答えは意外にも「私もそう望むが政府部内に議論があり約束はできない」。
 石油輸出国機構(OPEC)議長も歴任したプルノモは国際的なエネルギー事情に精通しているはずだが。関根は大きな衝撃を受けた。
 1977年春、ヘリコプターで赤道直下のカリマンタン島上空を飛んだ時の感動を思い出した。切り開いたジャングルに完成間近な巨大なドームが見える。LNG貯蔵タンクだ。「日本への長期輸出がいよいよ始まる」。国策の最前線にいる気がした。
 72年に日商岩井に入社以来ほぼ一貫してLNGビジネスに携わってきた関根である。契約を巡る様々なトラブル処理と今回の話は違う。
 関西電力、九州電力、大阪ガスなど主に西日本に多いインドネシアLNGのバイヤー(買い手企業)から怒りを込めた問い合わせが殺到した。電力、ガスの安定供給が使命の企業には燃料の長期安定調達が欠かせないからだ。
 自分の現地情報網によれば震源地はやはりユスフ・カラ副大統領らしい。ジャカルタの大量高速輸送システム(MRT)の契約交渉の難航も承知している。民族主義的発想の台頭だとするとやっかいだ、と腕を組んだ。
 3月17日、ムルデカ広場の南にある官邸応接室で副大統領は「LNGを活用した産業を興す方が長い目で国益にかなう。日本に産業振興策に協力を期待する」とLNGの内需優先策への転換の理由を説明したが根拠は明確でない。
 3月下旬、ユドヨノ大統領も内需転換の方向を示唆した。が、産業振興の具体策は不明のままだ。自社の存亡もかかる。「民族主義的気持ちも理解できるが、産業振興も一朝一夕では無理」。第三の道も探る関根のジャカルタ通いが続く。

 

6.日本企業の投資呼び戻せ 島を奔走、意識改革促す

 インドネシア投資調整庁の日本企業の投資受け入れアドバイザー梅田忍(64)は頭が痛い。2005年の日本企業の投資承認額は前年比3割減の約12億ドル。アジア経済危機以前の1997年の5分の1でしかない。
 日本輸出入銀行(現国際協力銀行、JBIC)のジャカルタ事務所長を皮切りに、10年以上に及ぶ現地勤務経験を買われての仕事だが、最近の問い合わせは、既進出企業の増設案件が中心で、新規進出は5分の1ほど。
 昨年12月、東部ジャワ島の州都スラバヤ市のホテル。
 「外国投資は地元経済に恩恵が大きい」。梅田は同州の県や市の企業誘致担当者約50人を前に懸命に説明した。日本企業の苦情の一つが、事業許認可に伴う公務員のわいろ要求だからだ。政治の民主化に伴い、初めて外資認可の権限を手にしたインドネシアの地方公務員たち。梅田は「外資は金持ち」との認識を変えることが誘致の第一歩だと話しながら思う。
 昨年は日系企業の投資実績が少ないカリマンタン島の奥地を十数回走り回った。日本全体より広い島に眠る各種鉱物など天然資源狙いの投資機会を探すためだ。最近、南カリマンタンなど4州の分厚い投資ガイド4冊を仕上げ一息ついた。
 ところがーー。3月9日、梅田の古巣のJBICはジャカルタ市内のホテルで「わが国製造企業の海外事業展開に関する調査報告」を発表した。目玉は企業が有望投資先と見る国のランキングである。昨年のインドネシアはその前の年より一つ下げて8位。4位だった01年から急降下である。JBICは理由を安全面での不安や投資環境の未整備と説明した。
 出席した経済調整相補佐官のマヘンドラ・シレガル(43)は「日本はわが国の投資環境が劣ると言うが、中国や韓国からの投資激増の事実をどう説明するのか」と挑発的に問い返した。
 これには理由がある。日系企業と個人で構成するジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)はここ数年、投資環境整備に様々な注文をつけてきた。インドネシア側の調整役として懸命に対応してきたのがシレガルなのだ。
 「JJCの要請に応えて懸命に努力してきたが日本の投資は増えない。意思決定権が現地にないなら我々がJJCと話す意味はないのでは」。日本では思いもよらぬ現地側の対応である。
 それでも梅田はインドネシアヘの支援を惜しまない。「いらいらしますなあ」とぼやきながら新たな投資誘致計画を練っている。

 

7.相互理解へ商社マン走る 人脈・情報、利害抜きで紹介

 三菱商事の業務部顧問の古宮正隆(62)は、ごく最近「インドネシアの現状」とする報告書をまとめた。A4判63ページで政治・経済の最新情勢やテロの実態を写真やグラフも使い、簡潔に分かりやすく解説した苦心の作だ。
 政・官・財・学界でインドネシアに関係する知人たちにも「ご参考に」と提供した。インドネシア大学留学やジャカルタ支店勤務で古宮の現地滞在は3回計14年に上る。現地情報分析に自信がある。
 商社マンの古宮の強みは、長年培った政府・政界や民間企業への幅広い人脈情報だ。その大切な分析結果を提供するのはわけがある。最近起きた政治、経済問題の不協和音の背景は、日本側の現地事情の情報不足とみるからだ。
 東京都千代田区丸の内の三菱商事本社。11階の業務部で古宮の毎朝は電子メディア情報のチェックで始まる。最有力紙「コンパス」や高級誌「テンポ」の電子速報版に素早く目を通すが、そこまでならちょっとした専門家なら誰でもする。
 古宮は直ちに旧知に国際電話をかける。流ちょうなインドネシア語で「おい、元気か。あの問題、本当の意味は何だい」。現地に行くと多くの人が時間を取ってくれる。蔵相のスリ・ムルヤニもその一人。政党首脳や各省の次官クラスだと枚挙にいとまがない。
 2004年9月の初の大統領直接選挙。日本の専門家の多くが「勝利の行方は不透明」とするなか、古宮はユドヨノの大統領選大勝を予測、公言した。自ら収集した情報に自信があったのだ。
 古宮は二国間関係の不協和音の背景は突き詰めれば人脈の消滅と日本側の戦略の欠如とみる。現在のインドネシア閣僚や高級官僚の多くは米国やオーストラリアヘの留学組。日本に留学し個人的に日本に人脈を持つ有力者は消滅に向かっている。「政府指導者層のつながりが薄いので、多額の援助も本当の意味で感謝されない」。旧知の友人から国際電話で日本要人の紹介を頼まれると会合の設定に走り回る。商社の利害は抜きである。
 駆け出しのころ、スハルト大統領の最側近スジョノ・フマルダニを東京で海外経済協力基金総裁だった高杉晋一に紹介したことがある。東西冷戦のまっただなかだ。高杉は「南北の反共国家インドネシア、韓国を強力に支援する」とスジョノに日本の政策をはっきり説明した。
 古宮は米国、中国の動きも探りながら「誰がどんな戦略で対応するか明確でないので日本のインドネシアヘの対応はばらばら」と自民党の有力政治家にも説く。
 それにつけても「爆弾テロ」や「津波」に限られる日本のインドネシア認識が歯がゆい。古宮リポートは現状打開に向けた個人的努力の本格化である。

 

8.市民警察への移行に汗 交番・鑑識…陣頭で伝授

 朝6時半、人口1千万人の首都ジャカルタの雑踏をクルマで抜け出す。バナナが茂るのどかな田園地帯を貫く高速道路を東南へ約40分。西ジャワ州のブカシ市は伝統社会と分譲住宅や工場が混在する新興都市である。
 午前8時前、街の中心部にあるブカシ警察署2階に日本の警察官が出勤してきた。現場責任者の警視、間野洋児はじめ通信、鑑識、薬物対策、逮捕術などの専門家で、部屋は日本の警察署の一室のような雰囲気だ。
 2002年8月に始まった警察民主化計画を支援する、日本の「インドネシア国家警察改革支援プログラム」チームである。二代目総責任者で国家警察長官アドバイザーの植松信一(52)は、ブカシ署長と打ち合わせに入る。
 ブカシ県の面積は香川県とほぼ同じで、人口は350万人。警察署といっても日本なら県警本部にあたる規模の組織への技術伝授は多岐にわたる。
 市民の犯罪通報に「誠実に」応えることや現場鑑識技術の向上、「迅速」に対応する通信指令網の整備、警察活動に市民の支援を得る「交番」業務などを連日、手取り足取り指導していく。
 プロジェクト支援の狙いは「警察が市民から基本的信頼を得る」ことだ。1998年に崩壊したスハルト独裁政権下、警察は陸海空と並び4軍の一角だった。
 犯罪摘発や交通整理より、反政府勢力監視など独裁政権を支える任務が中心だった。「オイ、コラ」と威張り、交通違反者にはカネをせびるなど国民全体に警察への不信、不快感は根強い。
 政府は警察を軍から切り離し市民警察として育成に乗り出した。ブカシ署はそんな警察全体のイメージを向上させるための改革モデルなのだ。
 その効果は出始めている。ブカシ市内に新設した交番で当番巡査は「市民の評判が変わってうれしい」と話す。
 日本の力の入れようも異例である。実は植松は、全国に26万人いる警察官の上位50位以内に位置する"超エリート"。このクラスの援助現場への派遣は他省庁では極めて異例だ。日本警察が本腰を入れているわけで、単独で送られる通常の国際協力機構(JICA)の専門家より現地での影響力ははるかに大きい。
 インドネシアの警官も02年以来100人近くが来日して研修を受けている。大阪・天王寺署で研修を受けた警察大尉のブディマンは「警察の市民への献身的態度、感情を抑制できる能力など多くを学んだ。わが国はいつああなれるのか」と帰国後、報告を書いた。
 日本側は世界的に評価が高い警察システムの移転を通じた民主化協力で、両国の信頼関係の強化を目指す。植松は「大いにやりがいがあるが、それにしても暑いですな」と汗をぬぐっている。

 

9. バリ島観光再建へ団結 テロ防げ 国籍超え自警団

 「もっとしっかり対応しなければ日本人客に推薦できない」
 バリ島の大手旅行会社ラマツアーズの社長、万亀子(まきこ)・イスカンダール(62)は、人気レストランや土産物店経営者にテロ防止対策を厳しく求めている。
 バリ島にあるデンパサール総領事館の領事、野村昇(53)は、バリ州政府当局に呼びかけ日本人が立ち寄るレストラン、土産物店など四百ヶ所をリストアップした。合同で巡回し、不審物や見慣れぬ人物を常にチェックし始めた。
 2005年10月1日午後7時40分過ぎ、バリ島で再び起きた爆弾テロ事件。その時、万亀子は日本人観光客に付き添い、野村は現地で開かれた盆踊りを見守っていた。事件への緊急対応が一段落し、二人の懸念はいま「日本人のバリ島観光の行方」にある。
 最近、バリ日本人会会長に就いた万亀子はバリ島観光に30年近く携わっている。「過去二度の爆弾事件後の日本人観光客の動きからすると、三度目が起きたらバリ観光は、再起不能になりかねない」。総領事館二階の執務室で万亀子と野村は「再発を防ぐ対策が急務」で一致した。
 日本人が最も多く行くインドネシア、といえばバリ島だろう。昔の日本に戻ったようなほっとさせてくれる優しい雰囲気と人々。日本とインドネシアを結ぶこの島が、爆弾テロ事件でつぶされてはならないーーー。
 現地日本人社会は懸命に動いている。バリ州当局が2月に発足させた官民合同の自警団組織。民間から出る140人の名誉警官に日本航空の元バリ支店長ら3人が加わった。観光再建を目指し日本とバリの人々の一体感が強まるのがうれしい。
 野村はインドネシア大学を卒業し政・官界に人脈を持つ外務省でも有数のインドネシア通だ。一方、万亀子の夫は早稲田大学に留学した日本びいきである。
 野村は05年(10月1日現在)のバリ島在留邦人数に注目する。1586人で実は前年より8%増えている。過去10年でも減った年は一度もない。年齢別だと30歳から45歳までの大人と、10歳までの子供たちが3分の1ずつを占める。彼らが家族で定着していることも、日本の人々に知ってほしいと願っている。
 3月下旬の土曜日。事件があったジンバランのビーチは昼食時なのに立ち並ぶレストランはがらがら。「事件で月給が90万ルピアから40万ルピアに減った」とジーンズ姿のウエートレスも寂しそう。
 「日本人観光客が増えることは単にバリ島とインドネシアの観光振興だけでなく、広い意味での両国の関係強化につながる」と野村は思う。万亀子は4月18日から東京、福岡、大阪、名古屋で順に開くバリ島観光キャンペーンの準備に忙しい。

 

10.大津波、NGOの闘いは続く 移動図書館で生活支援

 遠くに住宅街の通りをふさぐ横長の建物のような物体が見える。近づくと長さ40メートルほどの角張った発電船だった。
 「4キロメートル離れた海岸から大津波で運ばれてきた。水が引いて船が居座り、下の家はつぶされた」。二階建て住宅を見下ろす船のキャビンで見張り員が話す。
 2004年12月26日。20万人近い犠牲者を出したスマトラ島沖地震と大津波。アチェ州の州都バンダアチェ市では惨劇の跡がまだ生々しい。
 自衛隊員900人や多くの非政府組織(NGO〉など日本からの緊急救援隊はほとんどが引き揚げた。活動を続けているのが岡山県に本部を置くNGOのアジア医師連絡協議会(AMDA)だ。事務所は市内のまばらな住宅街の奥にあった。
 派遣先のアフリカから2005年1月に投入された現地代表の金山夏子(29)は大阪大学国際公共政策研究科博士課程に学ぶ院生である。
 緊急医療支援活動が一段落した今、金山は90人のアチェ人スタッフに主体になってもらい小・中・高校生を対象に「元の生活を一日も早くとり戻す支援活動」に取り組んでいる。
 2台の移動図書館で各地を巡回、津波で教科書や物語を失った子供たちに読む喜びを伝えようと懸命だ。この6カ月間で、巡回診療の対象も3千人にのぼる。
 災害直後からアチェヘの救援活動の後方基地となった北スマトラ州メダンの日本総領事館。総領事の橋広治(56)はひところの騒々しさが静まった今も、アチェの様子から目が離せず金山と連絡を欠かさない。
 金山は「残念ながら日本の支援活動は現地で目立っていない」と思う。人々の口に上る国は、一にトルコ、二にドイツ、三に豪州、米国で、最も巨額の支援をする日本はその次なのだ。
 3月11日午後11時すぎ。クリントン元大統領も立ち寄ったスルタン・ホテル一階のレストランで、大柄な男女6人がビールを飲みながら議論していた。イスラム国トルコの救援隊で、翌朝8時すぎ、彼らは2台の車で現場へ向かった。
 アチェ州の地元紙セランビ・インドネシア。副編集長ノルディンサムは、毎朝、大量のパンや飲料水を人々に配るトルコ救援隊に感謝する市民を見てきた。
 「日本が最大の資金援助国であることは承知している。だが援助の中心は道路復旧など建設関係で、市民が知らないのも無理ない。現地メディアヘの広報も少ない」
 日本ではマスコミ報道などで、アチェ復興に日本が最大級の貢献をしていると考えられていても、現地の多くの人々が日本の貢献を知らない情報ギャップ。橋は「金山さんを応援するためにも」、新たな広報を考えている。

 

11.小さな邦字紙、士気高く 「役立つ記事を」薄給なんの

 毎日の昼過ぎ。「皆、集まった?」。インドネシアで唯一の邦字日刊紙「じゃかるた新聞」の編集長、草野靖夫(66)の声が響く。中央銀行にほど近い25階建てオフィスビルの3階。取材から戻ってきた若い記者たちが丸テーブルを囲み編集会議が始まる。
 掲載記事の予定表を手にした草野は記者にテーマを指示し、背景や取材のポイントを説明する。14日のトップ記事は「ジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)の前理事長会見」に決めた。
 現地政治家や外務省も自国を詳しく伝える日本メディアを認知、日本大使館や邦人社会の主要な動き、催し物には必ず同紙記者の姿がある。
 日本人は女性2人を含む記者8人と広告、販売、総務や配達に携わる5人。現地スタッフを合わせ総勢40人で毎日、新聞を発行している。
 新聞は8ページ。1、7、8面がインドネシア関連面で政治・経済ニュースや社会、文化などの話題。中面は通信社電を使った日本と世界ニュース面。1カ月22万ルピア(約3千円)。公称4千部で企業の事務所や日本人家庭まで届ける。
 発刊は1998年11月。地下鉄建設技術者としてジャカルタに来ていた現社主の中村隆二(47)が「暴動時に日本語ですぐ読めるメディアがなく不安だった。在留邦人は皆同じ思いだろう」と邦字紙発刊を思い立った。
 毎日新聞のジャカルタ、マニラ支局長などを歴任した草野が共鳴して編集長を引き受け「現地生活を楽しく、豊かにするコミュニティー紙」を目指したものの発刊時は800部。現地理解が友好を深めるカギ、と主婦も興味が持てるよう工夫し、部数も増えてきた。
 もっとも現在の在留邦人数はインドネシア全体で1万数千人。部数拡張や広告獲得に限界があり自転車操業の経営は課題が山積みだ。新入り記者の給料は日本の大卒新入社員の半分程度。発刊直後から働く副編集長の上野太郎(31)も「仕事のおもしろさとやりがいだけ」で続けている。
 事業運営を巡り時々起こる中村と草野の口論も「新聞を発展させたい」一点で最後は収まる。
 じゃかるた新聞は思わぬ成果も生みつつある。草野が育てた若者がここ数年、日本の全国紙4紙や通信社に記者職で合格、編集部はさながらマスコミ塾の様相も呈してきたのだ。
 草野は「そのたび、編集の戦力ダウンになりつらいが、小さな新聞に一生働くのも無理なので喜んで送り出す。インドネシアを知る若者が日本で活躍してくれれば」と門戸をたたく若者の面接に応じている。

 

12.育て金型工業会 「すそ野」から経済界刺激

 外交関係や大型プロジェクトの推進などをめぐりぎくしゃくする両国関係を横目に、金型専門メーカーのKMKプラスチックス・インドネシアの社長、高橋誠(58)は多忙な毎日を送っている。2月22日に設立されたインドネシア金型工業会の初代会長に就任、同国の金型産業を育成する重責を担ったからだ。
 ソニーの生産技術部門で金型の海外展開を手がけ、マレーシアの現地子会社に駐在経験もある高橘がインドネシアに赴任したのは1年前。ソニーを退職し、ジャカルタ郊外のジャパベカ工業団地の日系金型メーカー、KMK社の経営立て直しを頼まれたためだ。
 経営を点検するうち、自社だけでなくインドネシアの金型産業が弱い理由が見えてきた。品質改善や競争力向上も1社だけでは限界がある。
 折から現地金型の大口ユーザーの一つ、インドネシア・エプソン・インダストリーの社長、大久保時広は現地の金型産業育成の必要性を唱えていた。現地工業会結成にあたり、金型メーカー側の代表として推薦したのが高橋だった。
 高橋は、同じ問題意識を持つ松下電器現地法人の人材育成財団事務局長、谷川逸夫(58)らと意気投合、金型産業育成には工業会結成が不可欠と意見が一致した。
 ジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)の産業競争力強化・中小企業振興委員長で日本貿易振興機構(JETRO)のジャカルタ事務所長、今清水浩介(50)も「両国の産業協力の象徴」と強力にバックアップを始めた。企業単位にとどまっていた産業技術の移転が国ぐるみで動き出したといえる。
 金型産業の成長を願っていた日系製造業や現地メーカーも一斉に参画した。金型のユーザー企業や金型会社に原材料を供給する業界も加わり、現在の会員は両国合わせ90社になった。「関連業界まで網羅する日本にもないユニークな工業会」と高橋は胸を張る。
 工業会の目標は2009年から15年までの間に現在5%程度の国内調達率を50%に引き上げると同時に、5万人の金型関係の技術者や技能工を育成することだ。
 高橋は「金型産業が立ち上がれば納期の短縮、輸送コスト削減などで産業全体の底上げが可能」と近い将来、150社に増やす計画だ。
 技術的にも経営的にも外資依存が強いインドネシアの製造業。タイやマレーシアより外資製造業の誘致で立ち遅れが目立つのも、金型産業に代表されるすそ野産業の欠如が一因である。
 高橋らが進める金型工業会の育成は、両国の産業協力強化に直結する。現地経済界を刺激する効果も期待できる。高橋はマレーシアで金型産業が育った経験から考えて「インドネシアでもやれるはず」と、確信している。




13.繊維産業 国外から再建策  競争力強化 内閣に説く

 東京・千代田区内幸町の帝人東京本社相談役室。社長、会長を8年務めアイデア経営者として知られる相談役の安居祥策(71)は、会う人ごとに「インドネシアの繊維産業は困ったものだ」と言って表情を曇らす。
 繊維産業は工業化を目指す同国の期待の星だった。1970年代から日本の大手化繊メーカーが進出している。豊富でで安い労働力に恵まれ最終製品に国際競争力があった。90年代半ばまで繊維製品の輸出額は石油・ガスに次ぎ2位だった。
 88年から4年間、現地合弁会社のテイジン・インドネシア・ファイバー・コーポレーション(TIFIC0)社長を務めた安居の頭にはそんな「強いインドネシア」がある。86年の通貨ルピアの大幅切り下げの際は繊維製品の輸出は拡大し、同社も潤った。
 個人的にも人情味豊かな同国が好きだ。アチェ州の大津波後、ジャカルタに飛びユスフ・カラ副大統領に援助金を手渡した。爆弾テロ事件が起きても現地事情を知っているので構わずバリ島へ休暇に出かける。経団連では日タイ委員長だが、インドネシアを忘れない。
 ところが、肝心の繊維産業は98年の経済危機で各社の経営はピンチに陥り、中国製品のはんらんで国内、輸出市場とも大打撃を受けている。
 だから2004年12月、経産相の中川昭一(当時)の要請を受けた時、安居はインドネシア訪問随行を快諾し、同国政府向けの繊維産業の再建策作りに乗り出した。東レ社長の榊原定征(63)とも相談し、現地業界の意向も入れ05年2月に工業省など関係省庁に再建案を提供した。
 「案は一般論。貴国の実情に応じた具体策がまとまれば日本は協力できる」と国際協力銀行からの必要資金融資の可能性も探りながら言い添えた。ところが、である。昨年夏に来日した工業相は繊維産業振興の具体策を提示せず、「融資の規模と時期はいつか」と言うばかりなのだ。
 「振興の具体策も立てず融資額を尋ねるなんて本末転倒」とさすがの安居も立腹した。工業相には個別産業の具体策を検討する力も意欲も十分でないのだ。連立各政党の思惑で適切な人材がポストに就くとは限らない、と安居は思い知る。
 大統領選挙での票を目当てにメガワティ前大統領が進めた改正労働法も似たような問題を抱える。国際競争などまったく視野になく労働者に甘すぎるので外資は同国を敬遠、失業者は増える。
 「実態無視の労働法で困るのは一般国民」と安居は同国首脳に会うたび労働法改正を訴える。ユドヨノ政権は05年12月の内閣改造で工業相を更迭、労働法再改正にも乗り出したが、反発も強い。「民主化政権で試行錯誤はやむをえない」と安居はじっくり繊維競争力強化支援に取り組む構えである。

 

14.日本人会、橋渡しの要に 「民主化支え、投資もっと」

 豊田通商インドネシアを代表する八木徹(57)は忙しい。長年務めたトーメンが豊田通商と合併し、肩書が4月1日から同社プレジデント・コミッショナーになり合併会社を軌道に乗せる責任がある。そのうえ、ジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)の新理事長に就いたからだ。
 ジャカルタ中心街のタムリン通りに面した高層ビルにあるJJC事務所会議室。4月13日午前10時半から現地日本人社会を代表するJJCの定期総会が開かれた。
 まず伊藤忠商事インドネシア代表で八木の前任者の市村康男(55)が前年度の活動報告の中で、投資・貿易促進のため両国が課題としていた問題解決策118項目のうち過去1年で39項目が解決済み、68項目が解決取組中であると成果を示した。 
 インドネシア政府の顔を立て、投資環境の改善に前向きな取り組みを評価したわけだが、JJC会員各社はその実態をよく知っている。関税総局長から税関事務所の受付時間を順守するよう通達が出ているはずなのに、現場の担当官はそれを知らず仕事は依然として思うように運ばない。
 金曜日に搬出したいのに、金、土曜日がこの調子なので結局、月曜日まで3日間の時間ロスが出てしまう。「お偉いさんは分かっていても、現場に周知徹底しないと意味がない」と日本企業のいらいらは収まらない。
 新理事長に選ばれた八木は「投資環境の改善に向けた提言や要望活動の強化、危機管理、安全・医療対策」など4項目を任期1年間の重点活動テーマに挙げたが、肝心なのはインドネシア政府に実効が上がるよう働きかけることである。
 過去3回、合計15年あまりの現地駐在経験をもつ八木だ。初の国民による直接選挙で2004年10月にユドヨノ政権が発足して以降、内外に高まり始めたJJCへの期待に強い責任を感じる。過去と違う政府の対応や日本社会の置かれた環境を肌で感じる。
 04年11月、チリでのユドヨノ大統領と小泉首相との首脳会談以来、JJCの位置づけは強固になっている。日系企業の投資促進を狙って両国の「官民合同フォーラム」設立で合意し、JJCは二国間交渉で日本民間を代表するからだ。
 八木は「ユドヨノ政権は財政健全化のための燃料補助金削減や労働者に甘すぎる労働法の改正などで国民の反発に直面している」と説き、日系企業は辛抱が必要と訴えた。同時に投資環境の整備を強く後押しする姿勢を重ねて表明した。
 過去のJJCメンバーは帰任後、大手商社の会長、社長などに就任したケースが少なくない。発展途上国の中で突出したインドネシアの重みを物語る。八木は「民主化後のいまを日本がしっかり支えないと」と思う。

 

15.「世界で2番目に大事な国」 福田氏の一言、関係者鼓舞

 「インドネシアは日本にとり米国に次ぐ2番目に大事な国です。近くにもっと大きな国もありますが」。元官房長官の福田康夫(69)の発言に参会者たちは、おやっ、という驚きを抑えながら黙って聞いていた。
 会合がつまみをつつきながらの歓談に移ると、参会者たちは「福田さん、2番目と言われましたね」。「そう。中国でなくて」。いろいろな思いで福田のあいさつに耳を傾けていた参会者も、その一点だけは、聞き逃していなかった。
 4月13日午後6時すぎ。東京・千代田区の霞が関ビル内で駐インドネシア新旧大使に対する歓送迎会が開かれた。主催者は福田が会長を務める日本インドネシア協会である。出席者は企業や個人の会員、それに外務省関係者である。
 主賓は近くフランス大使に赴く前駐インドネシア大使の飯村豊(59)と、後任の新大使である前官房副長官補の海老原紳(58)だ。福田が赤いバラを胸にした新旧大使2人を前に発したのが「2番目」だった。
 海老原の経歴は北米局長、条約局長そして今度のインドネシア大使と、前外務次官で現外務省顧問の竹内行夫と同じ。「2番目」発言は海老原をくすぐったに違いないが、参会者も溜飲を下げた。
 インドネシア関係者にとって「2番目」は当たり前だったからだ。スハルト政権時代、政治的に落ち着き、経済も「東アジアの奇跡」の代表例とされるほど順調で、日本企業が積極進出したインドネシアである。
 ところが1998年の経済危機と、政変による民主化移行で政治、社会、経済が混乱した上、中国の台頭で日本での影は急速に薄れ、インドネシア関係者に不本意な時代が始まった。
 大手企業を中心に200社を超えた協会の法人会員数は90社近くまで落ち込んだ。福田を補佐する副会長の植村純郎(74)は駐インドネシア大使や駐ソ連(ロシア)大使、外交官の親睦勉強会である霞関会の理事長も勤めた実力派外交官だが、インドネシアが忘れ難い。
 「ユドヨノ政権で立ち直ろうとしている今、我々は手を貸さねば。そのためにも日本インドネシア協会を強力にしなければならない」と、住友商事元専務でインドネシア駐在4回、計16年を数える協会参与の西田達雄(68)は会員誘致に意欲を隠さない。
 もっとも「2番目」発言は意味深にも聞こえる。次期首相候補の一人に名前が挙がる福田。中国が期待しているとのうわさもあるが、国民の嫌中ムードを考えると福田には痛しかゆしだろう。
 「そんなつもりで言ったわけでない」と福田は否定するが、「2番目」発言が日本のインドネシア派を元気づけたことは間違いない。

 

16.秘書官の小さな計らい 願い込め…首相へ1冊

 小泉純一郎首相の秘書官、山崎裕人(52)は思わずうれしくなった。「よろしければ」と首相の執務机に置いておいた小冊子を小泉が興味深そうに読んでいる。「さくらの国での微笑みに学ぶ〜インドネシア警察官の日本体験記」である。
 山崎は国際協力機構(JICA)専門家として2001年から4年半、ジャカルタで国家警察改革の支援プログラムを立ち上げた。その一環である日本研修を終えた警察官の興味深い体験記を首相に薦めたのは、改革支援の成果だけでなく「インドネシアヘの認識を深めていただく」ことを願ってのことだ。
 1988年に警察庁からジャカルタ日本大使館へ一等書記官として赴任した。東大法学部から入庁した山崎は国内勤務の後、米国で6カ月間組織犯罪の研修を積む。国際派として海外勤務を期待していたが提示されたのは「全く何も知らない」インドネシアだった。
 「目の前が真っ暗になった」が、赴任すると意外に仕事も個人生活も面白い。次第にインドネシアが経済だけでなく政治的、歴史的にも日本の極めて重要な友好国であることを理解した。政府の実権を握る国軍首脳ら多数とも知り合い、「立派な人は日本より多い」と考え出す。
 戦略家として米国も一目置いたスハルト政権の実力者、国軍司令官のベニー・ムルダニにかわいがられたのも幸運だった。「ハリー(山崎の愛称)。中国と力の均衡を保つためには、日本とインドネシアがしっかり手を組むしかない」と何度も聞かされた。
 山崎は92年から93年にかけ日本が初めて参加した国連平和維持活動の文民警察隊隊長としてカンボジアに派遣された。国内勤務の後、再び示されたインドネシア警察改革支援で喜んで赴任し、ますます「インドネシアのとりこ」になる。
 昨秋、帰国後まもなく首相秘書官に抜てきされて思いだしたのがムルダニの言葉だ。中国の台頭が著しいいま、その言葉の重みを一層感じる。
 1月24日。ユスフ・カラ副大統領が小泉を表敬した際、山崎も同席。インドネシア語で話した。首相と外国首脳の会談に同席するのは外務省からの秘書官、別所浩郎だけ。別所もジャカルタ勤務経験があり和やかな会談となった。
 山崎の本来の任務は首相警護はじめテロや地震など国家の緊急事態への対処だ。しかし「インドネシア関係だけは私にも」の思いは強い。4月13日、首相官邸ホームページ内の「小泉内閣メールマガジン」に前述の警察官の感想文の抜粋が掲載された。山崎の努力の一環だ。

 

17.巨大プラント建設始動 「復活の象徴」と期待

 今年2月、プラントメーカー、日揮の会長兼最高経営責任者(CEO)の重久吉弘(72)は、インドネシア東端のパプア州上空をヘリコプターで飛んでいた。ジャカルタから3200キロ。東京とマニラの距離である。
 見渡す限りのジャングルを切り開いた赤茶色の地肌の一帯。タングー地区で最近始まった年産760万トンの巨大な液化天然ガス(LNG)設備の工事現場だ。受注総額は約1千億円。「インドネシアの時代が戻ってきた」とつぶやいた。
 1998年に起きた政変と経済危機の後は悪夢だった、と思う。商談は途絶え、93年に全体の3割強、海外だと5割を占めたインドネシアでの売上高は、2003年から3年間は平均して全体の3%、海外の5%に激減したのである。
 近東、アフリカ市場に注力し急場をしのいできた重久だが、インドネシアが頭から離れない。世界第4の人口、広大な国土、豊富な資源で「世界で最も大きな成長可能性を持つ発展途上国」と思い込む。社内にはインドネシア語を話す200人の大部隊を抱える。
 重久は前々大統領ワヒドとの面会を思い出す。東ジャワ州トウバンの大型石油化学プラントの建設工事再開への協力要請だった。同社が請け負った工事は98年以来の混乱で中断を余儀なくされ、重久も困惑した。
 会談で大統領に同席した「体が大きく随分立派な側近」が、実は鉱業エネルギー相で現大統領のユドヨノである。重久は「石油を製品化し輸出で外貨を稼ぐ事業の国家的意義を十分理解し積極的に動いてくれた」とユドヨノに強い印象を受けた。
 伊藤忠商事、日商岩井(現双日)が始めたプロジェクトの完成は6月だ。重久は「完工式でぜひお目にかかりたい」と大統領にお礼をする機会を楽しみにしている。タングーLNGの工事開始と合わせ重久には「インドネシアの復活」と思える。両国関係再建の象徴としても期待が高まる。
 近東・アフリカでのビジネスは各種大型案件で「向こう5年間は既契約でいっぱい」だが、ピーク後は必ず下向く。重久は「いまのうちにアジア、すなわちインドネシアヘ」と大号令をかける。
 タングーLNG事業にも出資する三菱商事ジャカルタ事務所の所長、寺村元伸(57)は新規事業として温暖化ガスの排出権ビジネスを練っている。経済混乱でここ数年、年間40億ドル(約4700億円)で推移している同事務所の売上高を増やす有望分野である。
 排出権ビジネスは、外貨獲得だけでなく環境汚染対策、設備投資の拡大など同国が直面する課題の解決に役立つことが期待されている。化学、電力、エネルギーなど既存分野に加えた新分野で寺村が狙うのも「ビジネスを通じた新しい二国間関係の再構築」だ。

 

18.経済連携協定「双方のため」   効用説き粘りの交渉

 「経済連携協定(EPA)を結ぶ意義はしっかり認識している。経済発展に必要な製造業育成のカギは、日本との関係再構築ともみている。基本的にはインドネシアは日本にとり頼もしい交渉相手なのだがーー」
 4月17日、東京・霞が関の外務省で全体会議が始まったインドネシアとの二国間EPAの第四回交渉。経済産業省通商政策局審議官の三輪昭(56)は、関税問題や人の移動、知的財産などのルール作りをする交渉の進み具合がもどかしい。
 交渉にはインドネシア側から首席代表のスマディ以下約70人、日本側から首席代表(外務審議官)の籔中三十二ほか約160人が参加した。
 だが、交渉を通じて三輪に思いもよらぬことが見えてきた。まず、相手側の準備不足だ。協定締結の前提となる関連国内法規が未整備な分野も少なくないのだ。「現在、国会で審議中」と聞かされるとぼうぜんとする。これでは日本側が目指す本年7月の交渉妥結のメドが立たない。
 もう一つ、戸惑うのが相手側の「期待」の大きさだ。これまで円借款の供与や技術支援などの経緯で、日本側は助ける役割との印象がインドネシア側に強い。EPA交渉でも日本側提案に乗れば何かを得られるとの期待が感じられる。
 「双方のためになる経済協力のルール作りが狙いなのに」と三輪はここでも引っかかる。経済調整相補佐官のマヘンドラ・シレガルは「合板関税引き下げや労働力受け入れなどで成果がなければ、我々はだまされて帰ってきたと言われるだけ」と、簡単には譲りそうもない。
 19日、三輪は外務省にほど近い和食レストランでインドネシア側ナンバー2のハリダ次席代表らと昼食を共にした。交渉が迷路に入り込むと、その場を打ち切る。非公式に本音で意見を交換するのが交渉進展で生産的だと知っているからだ。
 交渉に先立つ3月6日、ジャカルタ市内のホテルで日本側主催による「EPAセミナー」が開かれた。日本側講師はEPAに関する理解を深めようと、集まった各省庁の担当官やプレスにEPAのインドネシア側への効用を説明した。
 「イ日・EPA交渉を加速すべき」。翌日の有力紙コンパスの経済面はトップニュースの見出しでこう報じ日本側はほっとしたものの、記事の中には「インドネシアの利益を損なってまで交渉を加速してはならない」との商業相マリ・パンゲスツの発言がある。
 「相手方は交渉で何を優先するか、取捨選択のプロセスがまだ出来ていない」と読む三輪。コンパス紙によるとマリは同時に「交渉の目標は、年内に終了またはおおむね終了すること」とも述べている。発展途上国大国相手に三輪の奮闘は当分続きそうだ。

 

19.「交流の担い手、次の世代に」 イ日協会再立ち上げ

 ギナンジャール・カルタサスミタ(65)。舌をかみそうな名前だが、日本のインドネシア通の間では有名だ。スカルノ、ハビビの2大統領を輩出した名門バンドン工科大学を卒業し、1960年から5年間、東京農工大学で学んだ。
 政府で鉱業エネルギー相や経済調整相など重要ポストを歴任した。日本の自民党に当たるゴルカル党を基盤に政界にも隠然たる力を持ち、かつて大統領候補にも名が挙がった。日本留学生の出世頭として当然のように日本の政財界との交流の窓口役を担う。
 この2月22日のこと。東京・霞が関ビルにある日本国際問題研究所での講演会に静かな驚きが広がった。そのギナンジャールが「政治、.経済両面で日本のインドネシアヘの関心が低下し、両国指導層の交流不足も起きている」と率直に指摘したのである。
 いまの日本に元首相の田中角栄や福田赳夫、元外相の渡辺美智雄のようにインドネシアを強く支援した自民党有力政治家はいるか。自分自身も年を取るばかりだ。一方で中国がインドネシアの戦略的重要性を見抜き、急速に接近してくる。ギナンジャールは気が気でないのだ。
 3月14日の正午。ジャカルタの最有カホテルの一つシャングリラホテルの一室。インドネシア・日本友好協会の初会合が開かれた。正確に言うと長い間、休眠状態だった協会の再立ち上げの儀式だった。
 新理事長に就任したギナンジャール、会長のラフマト・ゴーベル、事務局長のヘルー・サントソ(46)をはじめ日本留学組の長老など50人が参加した。女優のクリスティン・ハキムも愛矯を振りまく。政治・経済だけでなく文化面も含め幅広いイ日交流団体へ発展を目指している。
 ギナンジャールは、理事長としてのあいさつで「日本との友好関係を深めるには世代交代が必要だ。そしてもっと積極的に活動しなければ」と協会再立ち上げの狙いを語った。松下電器産業の現地合弁相手の御曹司であるラフマト・ゴーベルら若手に、ビジネス界だけでなく政界にも知已を広げてほしい。そんな思いをはき出した。
 イ日協会の構想を支援してきた日本大使(当時)の飯村豊は「両国関係の強化に非常に意味がある」とエールを送り返した。日本には日本インドネシア協会(会長・福田康夫元官房長官)があり、情報誌発行のほか大統領訪日時に歓迎会を開くなど友好に大きな役割を果たす。イ日協会はその相手方になる。
 ヘルーはギナンジャールの意向を受け、6月にもジャカルタで大々的な設立記念式典を開く準備を始めた。日イ協会とも密接に連絡を取り、福田康夫を始め日本の政財界側から多数の参加を望んでいる。

 インドネシア地方代表議会議長ギナンジャールというのは戦後賠償留学第一期生で、 その道でも有名です。とても頭がよく、尻尾を出さないことでも有名です。
  鉱山エネルギー大臣だったころ、輸出入商品の取り扱いトンネル会社をたしか26?ほども作り、莫大な 蓄財をしたといわれています。さらにアメリカのフリーポート社がイリアンジャヤに金鉱山を開発するにあたり、 インドネシア側投資会社の株をころがし、一億ドルは稼いだと報道されましたが、その後はなんの追及も されていないようです。いかにもインドネシアらしいですね。
 
そういう人に日本との関係を批判されるとは、小泉外交のアメリカ一辺倒が批判されたようなものでしょう。   ただ、日本にもクサイところがあって、自民党の大物政治家がこれまでインドネシアと親密な関係を持った のは、ODAの数パーセントがその政治家に還流されていたからだといわれています。 この流れは戦後賠償のときから始まりました。
 
数パーセントでも巨額で、インドネシアへ日本が最大のODAを与えてきたのも、そういう流れがあったから だといわれています。還流には、石油開発関係の投資会社が介在していたようです。
  しかしODAの縮小が始まり、さらに用途の監視が強まってきたことから、あまりおいしいチャンネルでは なくなった。むしろリスクが多くなった。政治家の関係が疎遠になってきたのも、ちょうどそういう時期と一致 しています。
  現在は山崎卓が握っているようですが、彼はメガワティ大統領のとき3ヵ月に一度はたいした用事もないのに ジャカルタに来ていました。来るたびに女優や歌手を呼んで乱痴気パーティをやったということです。 しかし還流もうまくいかなくなったようで、その後はあまり来なくなりました。 その後どうなったかは知りません。
 
これを書いている記者はそのあたり熟知しているはずですが、確証はないし、日経でもあるし、確証を つかんでも公表したら政権がひっくりかえる大スキャンダルになるから、決して言わないでしょう。 日本には、アメリカのような命をかける記者はいませんから。
  こういう記事を読むと、いろいろなことを思い出します。 面白いですね。

 

20.「生の声聞いて」再三訴え 地方自治拡大援助に課題

 東京・新宿の高層ビルにある国際協力機構(JICA)。国際協力銀行(JBlC)の役割が発展途上国にカネ、モノで支援するのに対し、「ヒト」あるいは広義の技術で発展途上国援助に取り組んできた。
 そのJ1CAがインドネシアでこのほど新事務所を設置した、首都ジャカルタから約2千キロメートルの距離にある南スラウェシ州の州都マカッサルのフィールドオフィスで、理事長の緒方貞子が打ち出した「事務所は現場近くに」との方針の第1号だ。
 理由は2つ。まず国が広すぎる。首都ジャカルタの事務所だけでは、発展に取り残されインドネシア政府もテコ入れを目指す東部地域に目が届かない。もう1点は民主化政府が進める地方自治の拡大政策を日本が支援するためには、相応の足場が必要だからである。
 一方、千葉市の幕張地区にある日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所。スマートな研究棟で、毎週水曜日の正午過ぎから国別では最大勢力のインドネシア研究者たちが「現地情報交換会」を開く。
 「労働者に甘すぎる労働法の改正機運に労働者が反発を強めている」
 「しかし投資環境が改善しないと外国企業は敬遠し、失業は増える」
 現地紙などから得た前週のインドネシアの主な出来事を様々な角度から話し合う会議を主宰する東南アジア1研究グループ長の佐藤百合(47)だ。もう20年近く、インドネシアの動向を丹念に追ってきたが最近、表情がちょっとさえない。
 各方面から現地情勢の説明を求められ、最盛時で年間40回もこなしていた講演や、外部への寄稿の回数が最近は4分の1ほどに減ってしまったからだ。
 最近忙しそうな中国やインド専門の同僚たちを横目に急激に変化するインドネシアを追う。「時流に流されずインドネシアの正しい理解を伝えないと」と、よりよき援助への判断材料提示に取り組む。
 交換会のメンバーの一人で専任調査役の、松井和久(44)。インドネシア語の方が英語より得意だ。JICA専門家として96年から01年まで5年間、南スラウェシ州の地域開発政策アドバイザーとして働いてきた。JICAのマカッサル事務所開設もその延長線上にある。
 地方政府の役人たちと一緒に働きながら「民主化」「地方自治拡大」の実態をつぶさに見つめてきた松井は「日本が効果的な援助をするにはもっと現地の生の声を聞くことが先決」と援助関係者に繰り返している。
 JICAでインドネシアを担当するアジア第1部長の小檜山覚(57)は「警察民主化協力はその成功例ですが、日本の思い込みだけでないソフトな支援がこれからの課題」と見る。

 

21.議員を知って議会を読む 出身・政党…7000人分収集

 「議員の95%は教師、一般公務員、軍人、建設業者などの中産階級の出身だ」
 政策研究大学院大学副学長の白石隆(56)はデータを前にインドネシアの政治情勢を考え込む。政治民主化とはいえ、農民や零細商人出の議員はごくわずかだ。
 京都大学東南アジア研究所(水野広祐所長)を中心に進む「地方議員の実態調査」。民主化後の1999年の選挙で選ばれた州、県、市などの議員は2万人。出生地、民族、宗教、学歴、活動暦、政党などデータを収集する途方もない作業でこれまで7千人のデータを集めた。
 文部科学省の助成金を活用し、現地研究調査機関の協力も得て蓄積したデータを通し、貴重な事実が浮かんでくる。白石は副学長室で次の報告を楽しみにしている。
 74年に起きた田中角栄首相のジャカルタ訪問時の反日暴動。メディアは「集中豪雨的な日系企業の進出に国民が反発」と報じた。東京大学で東南アジア諸国と中国の関係を研究していた白石は「因果関係について納得のいく説明が得られず」、研究対象をインドネシア政治に切り替えた。
 この時、白石が目を付けたのはスハルト独裁体制を担う国軍のメカニズム。組織を動かす「ヒト」を知るため将官など軍人の個人データ収集に打ち込んだ。分析すると面白いように政治の実態が見え、米国でも研究を重ねてインドネシア政治学で国際的評価を得た。
 その白石も98年の長期政権崩壊後の政治分析には戸惑う。国軍の影響力が後退し、浮上した議会を読むデータがなかったからだ。ユドヨノ政権も議会との調整に苦労し、日本政府や企業も振り回されている。「地方議員の実態調査」の重要性はますます高まる。
 白石は日本のインドネシア研究の先行きを楽観している。長年の交流で各方面に蓄積された情報量は多い。欧米に比べ日本人研究者がインドネシアの人々からより信頼され質の高い情報が入るのも強みで「日本の研究はいま世界最高水準にある」と自信を深める。
 インドネシアに接近著しい中国に焦る政府や民間企業に、白石は「心配することはない」と諭す。着実に友好関係を維持する努力を続ければよい。ただ、そのつながりを「量的に拡大する必要はある」とは考える。
 来年は日本の東南アジア政策の礎になっている「福田ドクトリン」の30周年である。「心と心で」とうたった対東南アジア外交の精神をもとに、ユドヨノ政権との信頼関係を築く好機と白石はとらえている。

 

22.「互いを知る」が第一歩 現地社会に飛び込もう

 4月21日。駐日インドネシア大使、アブドゥル・イルサン(67)は東京での日本に関する自著出版の紹介と間近に迫る離任の記者会見を開いた。「反日感情は?」
 日本人記者の質問にイルサンは「英国放送協会(BBC)の世論調査でも国民の80%以上が日本に好意的だ。独立戦争を戦った旧日本兵は全国の英雄墓地に眠っている。日本に事実を知ってほしい」と答えた。
 NHKの最近の現地世論調査でも同国の対日好感度は8割台。韓国1割台、中国2割台と対照的だったこともイルサンは知っていた。
 それを聞き早稲田大学国際教養学部教授でインドネシアに精通する木下俊彦(66)は「親日感情が強いだけでは両国関係はうまくいかない」とため息をついた。3月に東京で旧知の親日派代表、ギナンジャールに会った時のこと。
 日本留学以来、40年あまりの日本との付き合いを振り返り、「日本人は変わった」とつぶやいた。最近の両国関係の変調の背景に日本側の様変わりもあるという。「安全の確保」や「便利な生活」のため日本人駐在員が一戸建てから外国人アパートに移ったことで、現地社会と接点がなくなったのは木下が思い当たる身近な一例だ。
 効率を重視し、適切な企業活動を求める本社の方針で、駐在員が現地社会と交わる機会も財源も減ってきた。日本人の変化が、二国間会議で相手の気持ちを踏まえた対応ができないことに、どこかでつながるのでは、と木下は思う。
 それでいながら日本側には、東西冷戦以来の相互協力、利益から生まれた信頼関係にいまだに頼る気持ちも強い。結果的に、民族主義の高まりを背にした政府首脳の対日不信論や中国の台頭に戸惑い、うまく対応できない。
 ジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)は、インドネシア大学の求めで「インドネシアの日本ビジネスの連続講義を始めた。各社の現地トップが社会に飛び込み、理解を得る努力である。木下のアドバイスだ。
 インドネシアを日本にとって「大事な国」ととらえてきた元官房長官の福田康夫ら政治家をはじめ政府、企業、学界、個人。木下はそれぞれの分野、レベルでJJCのような新規まき直し策を具体的に進めるべきだ、と提言する。
 「ユドヨノ政権に問題は多いが当分、これ以上の政権は望みにくい」。日本のインドネシア関係者の間にはこうした見方もある。米中のはざまで日本の友人として期待できるのは東南アジア諸国かもしれない。大国インドネシアとの関係再構築はそのカギである。