日本経済新聞 2004/10/16

水俣病関西訴訟 国・県の責任認定 最高裁「規制遅れ被害拡大」

 関西に移り住んだ水俣病の未認定患者45人(うち15人が死亡)と遺族が、工場排水などの規制を怠ったとして、国と熊本県に損害賠償を求めた「水俣病関西訴訟」の上告審判決で最高裁第二小法廷(北川弘治裁判長)は15日、行政責任を認めた二審・大阪高裁判決を支持、「1960年1月以降、水質保全法などに基づく排水規制を怠ったのは違法」とする初判断を示した。 その上で、患者8人分を除いて国・県の上告を棄却、患者37人について国・県に賠償を命じた二審判決が確定した。賠償総額は7150万円。 
 行政責任を追及した他の水俣病訴訟は、95年の政府解決策を受け入れて終結し、受け入れを拒んだ関西訴訟だけが続いていた。第二小法廷は、59年11月の時点で▽水俣病の公式確認から約3年半が経過し、多数の患者が発生して死亡者も相当数に上っていた▽国は、原因物質が有機水銀化合物で、排出源がチッソの工場だと高度のがい然性をもって認識し得たーーなどと指摘。
 「この時点で排水規制を行っていれば被害拡大を防げたことは明らかで、60年1月以降、水質保全法などに基づく規制を怠ったのは違法」と結論付け、二審の判断を支持した。熊本県も同じ時点で、県漁業調整規則に基づく規制を行う義務があったとした。

行政の怠慢 指弾

 「行政が規制を行っていれば被害拡大を防ぐことができたのは明らか」−−。15日の水俣病関西訴訟の最高裁判決は、被害の深刻さを認識しながら住民の生命・健康を守るために権限を行使しなかった国と熊本県の怠慢を厳しく指弾した。水俣病の公式発見から半世紀近く。多くの患者が政治解決を受け入れた後も、行政責任を問い、提訴以来22年、闘い続けた未認定患者らにやっと笑顔が広がった。

判決の骨子
   
1. 国は1959年12月末には、チッソの工場排水について旧水質二法による規制権限を行使すべきだった
1. 国が60年1月以降、規制権限を行使せず被害を拡大させたのは、著しく合理性を欠き違法
1. 熊本県も国と同様の認識を持ち、漁業調整規則で規制権限を行使する義務があった
1. 国と県には、患者37人分の約7150万円の賠償責任がある
1. 59年12月末以前に転居した患者8人については、国、県の違法な不作為と損害の因果関係を認められない

「原因、認識できた」 公害放置の責任重視

 最高裁が行政の規制権限の不行使を違法と認めたのは、今年4月の筑豊じん肺訴訟の上告審判決に続き2件目。公害や薬害などの被害が発生したとき、被害拡大をくい止めるために行政に求められる役割の重さを改めて突き付けたといえる。
 第二小法廷は、最高裁が1995年のクロロキン薬害訴訟上告審判決などで示した「行政の権限不行使は、権限を与えられた趣旨・目的に照らして著しく合理性を欠くときは違法」との基準を引用。60年以降の国、県の対応を「周辺住民の生命、健康の保護という排水規制の権限の目的に照らし、著しく不合理で違法」との判断を示した。
 判断の根拠となったのは、直前の59年11月末当時の状況。「水俣病の公式発見から約3年半の間、深刻な被害が生じうる状況が継続し、国は現に多数の患者の発生を認識していた」とした。さらに同月の厚生省の食品衛生調査会による「主因はある種の有機水銀化合物」との答申などを踏まえ、「国は原因物質や排出源を高度のがい然性をもって認識し得た」などと判断した。
 59年12月末には「直ちに排水規制の権限を行使すべき状況」で、「(69年まで)規制を行わなかったために被害が拡大したのは明らか」と国を厳しく非難した。
 水俣病の被害拡大の行政責任を問う訴訟は80年代に各地で起こされ、新潟水俣病を巡る訴訟を含め計6件の地裁判決のうち3件で行政責任が認められた。しかし、原告患者の高齢化が進むなか、他訴訟の原告団は苦渋の決断の末に96年、政府解決策を受け入れて訴えを取り下げた。
 唯一続いていた関西訴訟で行政責任を認めた判決が確定した今、国、県は過去の怠慢を改めて直視し、今後の教訓として最大限に生かす努力が求められている。

水俣病訴訟を巡る動き

1956年5月

水俣病の公式発見

59年11月

厚生省(当時)の食品衛生調査会が「有機水銀が原因」と厚相に答申

68年5月

チッソ水俣工場が有機水銀の発生工程の稼働中止

9月

厚生省が「チッソ排出の有機水銀が原因」と公式見解

82年10月

大阪地裁に関西訴訟提訴

87年3月

熊本地裁が3次訴訟第一陣の判決で行政責任を初めて認める

90年9月

東京地裁が初の和解勧告。 11月までに福岡高裁など4裁判所も勧告

94年7月

関西訴訟で大阪地裁判決。行政責任を否定

95年6月

連立与党(当時)が未認定患者救済問題で合意案まとめる

9月

政府・与党(当時)が最終解決案

10月

被筈者・弁護団全国運絡会議が解決案受け入れ

12月

村山首相(当時)が遺憾の意を表明する談話

96年5月

チッソと補償協定を結び、関西訴訟以外の訴訟は取り下げ

2001年4月

関西訴訟控訴審で大阪高裁判決。行政責任認める

04年10月

関西訴訟上告審で最高裁判決。行政責任認める

患者認定 残る溝
 国、基準緩和を否定 「救済の枠外」続く

 水俣病の未認定患者らによる一連の訴訟では、一貫して国の認定基準の是非が争点になってきた。15日の最高裁判決は、二審判決が示した国の基準より緩い判断を支持し、認定制度から排除された被害者の存在を認めた。しかし国は判決後も「認定基準を見直すつもりはない」と強調しており救済のあり方を巡る溝は埋まっていない。
 「チッソが支払う補償の範囲を狭めるために、すそ野に広がる軽症患者たちを切り捨て、医学的研究の進展も妨げた」。水俣病に詳しい原田正純・熊本学園大教授(神経精神医学)は、国が1977年に定めた現行の認定基準を批判する。
視野狭さくや運動失調、知覚障害などのいずれかの症状があれば水俣病と認めたそれまでの基準に比べ、現行の基準は感覚障害と他の症状の組み合わせを要件とするより厳しいものだからだ。
 1年間に審査結果が出た件数に対する認定件数の割合は、76年が35%、77年が36%だったのに対し、現行の判断基準が運用されて以降の78年は22%、79年は13%、80年は6%と急激に低下。80年代には、関西訴訟を含め、認定から漏れた患者がチッソと国、熊本県に損害賠償を求める提訴が相次いだ。
 これらの訴訟の5件の地裁判決が採用した水俣病の判断基準は様々だったが、原告患者計約350人の8割以上を水俣病と判断した。しかし関西訴訟の上告審でも国は「認定基準は最高水準の医学的知見を基に定めたもの」と主張。
 国敗訴の最高裁判決を受けて15日午後に記者会見した環境省の滝沢秀次郎・環境保険部長は「判決は厳粛に受け止める」としながらも、「司法の認定は個別事案の立証に基づくもので、行政の認定基準とは別。基準を否定されたとは考えていない」と従来の姿勢を変えなかった。
 今後の対応については「被害者には1995年の政治的解決に基づいて手当てをしており、行政として責任は果たしている」とし、新たな補償につながる発言は一切なかった。
 政治解決では、水俣病と認めないまま手足の感覚障害のみの患者に一時金が支給され、医療費を全額補助する医療手帳が交付された。司法が水俣病と認めた関西訴訟の原告患者たちも引き続き行政上は水俣病ではないことになり、「水俣病ではない水俣病患者」として救済制度の枠外に置かれる。

関酉訴訟の原告 政治決着拒み続け
 水俣病関西訴訟の原告らは、ほかの同種訴訟が未認定患者の救済を巡る政治解決により取り下げられる中、国と県の責任を棚上げしたままの決着は受け入れられないと唯一、裁判を続けた患者たちだ。
 水俣病を巡る一連の訴訟は当初、原因となった有機水銀を排出した企業、チッソを相手に始まった。1950年代半ばから手足の感覚障害などの健康被害が多発、有機水銀が疑われてもいたが、チッソは68年に厚生省(当時)の公式見解で原因企業と名指しされる直前まで、有機水銀の発生工程の稼働を続けていた。
 チッソを相手取った一次訴訟は73年3月、熊本地裁で勝訴し、チッソの過失責任が認められた判決が確定。これを契機に、チッソとの補償協定で、認定患者に一時金(1600万−1800万円)や医療費などが支払われることになった。
 しかし一方で、国の認定から漏れる患者が続出。今度は未認定患者らが、国と県も被告に加え、国と県の責任や水俣病の判断基準を問う訴訟を、全国6地裁(新潟水俣病も含む)で相次いで起こした。各訴訟で司法判断が分かれる中、90年の5裁判所の和解勧告を経て、95年に政府が未認定患者の救済策を提示。チッソが一時金260万円を支払うなどの解決策を、関西訴訟以外の訴訟の原告団が受け入れ、翌年、訴訟を取り下げた。ただ、95年末に当時の首相が遺憾の意を表しただけで、行政の責任はあいまいなままになっていた。