毎日新聞 2009/8/10-

時代を駆ける 中村修二

大勢の敵に2人で挑戦 青色LED訴訟

〈2004年1月30日、東京地裁で注目の判決が言い渡された。日亜化学工業(徳島県阿南市)に対し、青色発光ダイオード(LED)発明の対価として、元研究員の中村さんに200億円を支払うよう命じた〉

 判決を聞いた瞬間はうれしかったです。請求金額が認められるとは期待していなかったから。低い金額だったら日本中の技術者がショックを受けると思っていたので、正直言ってほっとしました。一方、日亜は控訴してくるだろうから、高裁でどうなるかと不安もわいてきました。

〈日亜は即日控訴。1審判決から1年後の05年1月11日、東京高裁で8億4391万円で和解した〉

 和解で「中村はうまいこともうけた」と言う人たちもいましたが、金よりも、私には「勝ち」「負け」の方が重要だった。この和解は自分には「負け」だったのです。
 和解という決着も金額も納得できませんでした。でも升永さん(英俊弁護士)から「日本は判例主義で、ザラリーマンの生涯賃金の3倍、6億円を上回ることはない。最高裁で頑張っても減額されるだけ」と強く説得されました。
 米国では、原告、被告双方の記録を残らず提出させ、真相を徹底的に調べます。日本では真実を追究して正義を貫こうとしない。こんな日本の司法制度にも愛想が尽きました。とはいえ、ここまでやれたのは升永さんだったからです。かっこよくいえば、大勢の敵に2人、徒手空拳で立ち向かって、最後は死ぬ。でもいい戦いをしたなあという気分でした。

〈経営側からは「高額の報酬は経営リスクになる」「日亜にいたから製品化できたのだ」と批判的な意見が続出した〉

 日本経団連にとっても霞が関(中央官庁)にとっても私は敵ですよ。「社長は殿様、社員は家来、滅私奉公して会社に尽くす」という日本型の文化にたてついたんですから。青色LEDの開発では会社の指示を無視し黙って特許を出し、会社はそれで急成長しました。

〈提訴は日亜を辞めて渡米した後の01年8月〉

 99年の暮れに退職しました。秘密保持契約に署名を求められましたが、拒否しました。渡米してまもなく、日亜が米国の裁判所に私を訴えました。在職中の秘密を米国で漏らしているという主張でした。自分を守るため反訴を決め、日亜が米企業との間で特許訴訟をしていた時に米企業の代理人だった升永さんに相談したんです。

〈特許法35条は「職務発明の特許権は発明者にあるが、それを譲渡された会社は相当の対価を払う」とある〉

 升永さんは消極的で「中村君、勝っても100万円がせいぜい。費用を考えたら持ち出しだ」と。いったん、あきらめました。1,2ヵ月後、升永さんから電話があった。「いろいろ調べた。すごい発明だから100億、200億取れるかもしれん。やろう」と正反対の返事です。信じて任せました。(会社側が訴えた)米国での訴訟も3年後に勝訴しました。

〈8億円は発明訴訟として最高額。それだけ画期的な発明だった〉

 光の三原色のうち、赤と緑のLEDは東北大の西澤潤一先生が実現。残る青だけは世界の誰も作っていませんでした。
 大企業が優秀な人材と巨額の研究費をつぎこみながら実現できないことを、田舎の小さな企業にできるわけがないと思っていました。しかし、困難だからこそやりがいがあります。金も人もない、そんな状況でできたのは、幸運に加え日亜という会社の環境と、負けず嫌いな私の性格が影響していたかもしれません。

工学者。米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。1954年5月22日、愛媛県生まれ。79年、徳島大大学院を修了し、徳島県阿南市の蛍光体メーカー「日亜化学工業」に入社。93年、高輝度の青色発光ダイオードを世界で初めて製品化した。94年、徳島大で博士号取得。仁科記念賞(96年)、フランクリンメダル(02年)、ミレニアム技術賞〈06年)など多くの科学賞を受けている。

 

社長に直談判し米国留学

〈中村さんが就職した79年当時、日亜化学工業(徳島県阿南市)は社員200人余りの小さな会社だった〉

 徳島大学大学院での恩師、多田修先生のミニカに乗せられ、面接に行きました。田んぼの真ん中に松林があり、林の中に日亜がありました。創業者の小川信雄社長(02年死去)は私の話はほとんど聞かず、多田先生と世間話をするだけ。履歴書も出さず就職が決まりました。
 配属されたのは「開発課」。といっても課長と先輩、私の3人です。会社の本業は蛍光体製造。将来を見据えた研究開発も必要と、営業の人間が聞きつけてきたのが、半導体の原料になる物質の製造でした。

〈中村さんの課題は、半導体の原料になり、赤色発光ダイオード(LED)の素材ともなる「ガリウム燐」の開発。困難の連続だった〉

 ガリウムと赤燐を真空の石英管の中に入れ、電気炉で加熱すると、管の中で反応してガリウム燐ができます。普通の会社なら装置は買いますが、私は自分で作りました。社内の工務棟で職人さんに溶接を習い、廃物を利用して電気炉を作りました。これに半年。次は反応の舞台となる石英管。高温のバーナーを使い、管の中の空気を抜きながら密閉する。朝7時から夕方5時まで、ひたすらこの作業。来客用駐車場の屋根に壁と床を補っただけの小屋が「工場」です。冬はすき間風、夏は蒸し風呂でした。
 ある夕方、反応中に温度を上げたら、突然「ドーン」と爆発しました。大音響で小屋が揺れ、白い煙が充満して何も見えません。退社中の社員が駆けつけてきて「おーい、中村、生きとるか?」と。私は、火がついて跳ね回る燐を一生懸命消していました。
 その後も1,2ヵ月に1度は同じような爆発を起こしました。そのころには社員も「あー、また中村がやっとるわい」となれたものです。こんな作業を3年間繰り返し、ようやく製品化しました。けががなかったのは幸運でした。

〈続いて別の材料を3年で製品化、次の4年で赤色LEDも作った〉

 早い方ですよ。しかも開発費用がほとんどかかってない。大企業ならプロジェクトチームを作り、装置を買い、改良や修理は業者に頼みます。日亜の場台、スタッフは基本的に私一人、装置は手作り。金も人もないけど、作業は圧倒的に早い。理論も科学も無視です。「物を作ってなんぼじゃ」という多田先生の口癖が身にしみました。
 しかし、収益上は三つとも赤字でした。大企業に売り込みに行っても、ブランド力がないから「日亜さんのような小さな企業から買うメリットは?」と言われる。買ってもらうためには値下げしかなかった。
 悪戦苦闘の10年でしたが、会社では「おれたちが稼いだ金をドブに捨てよる」と嫌みを言われました。あまり売れないのは事実です。「すみません」と言うしかありませんでした。

〈入社10年で、切れる〉

 さすがにうんざりし、退職を考え始めました。88年1月ころ、辞めるなら好きなことを言おうと、クビを覚悟で小川社長に提案しました。「青色LEDをやりたいんです」と言ったら、顔をあげて「いいよ」。「いいんですね、そんなら5億円出してください。すぐに」と言ったら「いいよ」。ついでに「勉強のために留学したいんです」と頼んだら「いいよ」。参りました。それまではゼロから始めるのが通例でしたから。後になって、小川社長が「中村は大ボラ吹きやが、ちゃんと物を作る」と周囲に自慢していたと聞きました。小川社長には今も感謝しています。

〈製造に欠かせない結晶膜を成長させる方法を学ぶため、88年春から1年間、米フロリダ大に留学した〉

 目的の装置は他の教授が使っていて今はないという。そこで院生たちと装置を作ることにしました。装置作りは得意でしたが、私が博士号を持たず、論文も書いてないと知ると、彼らは私を技術員扱いするようになりました。悔しかった。アメリカでは、博士号が社会的地位と直結します。企業に勤めても、博士なら初任給1000万円だが修士以下は半額以下です。
 「論文を書いて博士号を取る」が私の目標になりました。論文や学会発表は会社では禁じられていましたが、絶対にやると決めました。青色LEDの研究は論文を書くのに最適でした。

孤独と集中で「寿命1000時間」

〈89年、米国留学から日亜化学工業(徳島県阿南市)に戻り、いよいよ青色発光ダイオード(LED)の製造に取り組む。材料に選んだのは、多くの研究者が「不可能」と考えていた窒化ガリウムだった>

 当時は「セレン化亜鉛」が有望とされ、窒化ガリウムに挑戦しているのは名古屋大の赤崎勇先生(現在は名城大)ぐらいでした。実を言うと、大量に論文が出ているセレン化亜鉛では博士論文が書けないと思い、窒化ガリウムを選んだのです。
 主任に昇格し、2億円の結晶膜成長装置も届きました。しかし最初の1年、まったく成果が出ません。LEDは、サファイア基板の上に気化した窒化ガリウムのガスを流し、結晶を成長させて作ります。うまくいけば透明な膜になりますが、何度やっても真っ黒。「あかん、装置を改造しよう」と決めました。負けるわけにはいかないし、認めてくれた小川信雄会長(故人)への恩義もありました。

〈悪戦苦闘の10年間の経験が、ここで生きる>

 毎朝7時に出社し、午前中に装置を改造する。飯を食って午後は反応実験。通常、1回の反応に6時間ぐらいかかるのを、状況が見えた時点で打ち切り、毎日5、6回繰り返しました。退社後も朝まで「明日はどう改造しよう」と考える。飯も風呂も上の空です。
 正月以外、毎日実験しました。白衣は真っ黒、手は傷だらけ。反応に使うアンモニアガスの異臭が部屋に漂っていました。時間が惜しくて、会議はすべて欠席。社内の付き台いも上司の命令も無視です。
 最大の課題は、反応時のガスの流れを工夫することでした。1方向だけから流していたのを、横と上から流す「ツーフロー」方式を苦労の末、考案しました。
 これは失敗の産物です。もともと減圧して反応させなければならないのに、減圧ポンプが壊れてしまい、買い替える金が惜しくて常圧(1気圧)でやっていました。ツーフローは、その条件下だから生まれたのです。1500回ぐらい試した90年10月、ついに透明な。結晶膜ができました。
 私は目標ができると、余計なものは捨てて集中します。失敗が続いても、どん底まで自分を追い詰める。そのうちに、あとは上がるしかなくなる。この「孤独と集中」で、いつも窮地から抜け出してきました。

〈中村さんは論文発表と同時に特許も出願した。論文で秘密が漏れ、会社が損をする、という判断からだ>

 会社の特許担当部署に持っていったら「出願だけで金がかかるの知っとるんか」と言われて弱りました。特許を出さないと論文が書けません。そのころ、配属された新入社員に「おれが責任取るから」と半ば強制的に出願させました。90年秋から論文は年に5報、特許は30件のぺースで出しました。
 91年6月ごろ、ようやく、暗く光る青色LEDができました。そのころ、米化学大手のスリーエム社が、セレン化亜鉛で青緑色のレーザーに成功したことを知り、落ち込みました。LEDより難しいレーザーがセレン化亜鉛で可能なら、窒化ガリウムは負けたのだと思いました。

〈それでもあきらめるつもりは、毛頭なかった>

 当時の目標は赤崎先生を超えることと「寿命10時間」。苦労して作ったLEDに電流を流し、点灯させたまま自宅に帰りました。翌朝、どきどきしながら出勤したら、暗い実験室でまだ光っている。「わっ、やった!」と小躍りしました。
 寿命が1000時間を超えたころの92年春、米セントルイスでの学会に招かれました。国際学会も英語での発表も初めて。緊張で原稿は棒読みでしたが、「寿命は1000時間」と報告したら、聴衆が立ち上がって拍手、拍手。感動しました。「負けた」と思ったセレン化亜鉛の青緑色LEDの寿命は10秒足らずだったのです。
 決め手は、独自に改造して作り上げたツーフロー式の結晶膜成長装置でした。いい窯で焼けばいい茶わんができる、という感じで、それからは何を試しても世界初、世界一のデータが出ました。例えれば、前人未到の大地を探検する探検家、宇宙遊泳する宇宙飛行士のような気分でした。

 

大手内定断り地元企業へ

〈青色発光ダイオード(LED)の開発という画期的業績を上げた中村さん。「孤独と集中」が成功の秘訣と明かすが、どのように培われたのだろうか〉

 生まれは愛媛県・佐田岬半島にある瀬戸町(現・伊方町)大久。父は四国電力の技術者、母は専業主婦です。姉と3人の男兄弟の次男。負けず嫌いで、いつもけんかしてました。父から「何しとるんじゃ」と殴られて追い出され、母親がこっそり家に入れてくれる。こんなことを中学のころまで繰り返していました。
 中学はバレー部。セッターです。二つ年上の兄貴が主将で、しごかれました。中学の校訓が「根性」です。うさぎ跳び、腹筋、ランニングと、やみくもに練習しましたが、さっぱり勝てない。「どう勝つか」という戦略より体を鍛えるだけでした。
 高校(県立大洲高校)は進学校で、普通科は成績順にクラス分けされていました。入学時は一番上のクラスでしたが成績は45人中最下位。バレーは続けましたが、試合にはやっぱり勝てなかった。スポーツ万能で成績トップの同級生を「こいつ本当に天才や」と思い、頑張っても一番になれない自分が悔しかったです。

〈本当は理論物理学者になりたかった〉

 得意だったのは数学と物理と英語。暗記が苦手で、数学も公式を暗記せず、自分で導いて解いてました。進路を決める時に「物理学科に行きたい」と先生に言ったら「理学部に行っても就職できん。工学部にしろ」と言われ、あっさり変更。大学も、友達が「徳島大に一緒に行こう」というから「ほな行こか」と。まったく世間知らずでした。
 徳島大に入学してみたら、教養課程が2年もある。先生から「大学に入れば好きな勉強だけできる。バラ色じゃ」と言われて受験勉強を頑張ったのにと、腹が立ちました。
 2週間で学校に行かなくなりました。朝5時に起きてジョギング。学食で朝飯を食い、下宿に帰って数学や物理の本を片っ端から読みました。哲学書にも手を出しましたが、昔のえらい先生が言っていることは、どれも自分が考えたことばかり。「くだらん」と思いました。

〈孤独になって、見えてきたことがあった〉

 これからは自分がやりたいことだけやろうと決めたのです。それでも母親には負けました。電話の向こうで「大学だけは行っておくれ」と涙声になっているのを聞いて、後期から学校に行き始めました。その代わり、嫌いな科目は卒業のためと割り切って適当に勉強しました。教科書を斜め読みし、試験対策だけ頑張る。そしたら卒業時の成績は学科で一番でした。高校時代の秀才の同級生を思い出し「あいつらこの方法でやっとったんか、こんちくしょう」と思いました。

〈専攻は、物質の性質を調べる固体物性物理。恩師の多田修・名誉教授と出会う〉

 多田先生は「理論より手を動かせ」という主義。私が物理の本を読んでいると、「そんなの読まんで何かせえ」と言う。専門をかじると面白くなり、大学院に行くことにしました。かっこつけて京都大を受けましたが、準備不足で不合格。やっぱり世間知らずでしたね。

〈徳島大大学院修士課程を終え、地元での就職を選んだ〉

 関西の大企業も志願したのです。京セラから内定をもらいました。最終面接は幹部と学生数人で「すき焼きパーティー」。酔わせて人間性を見ようということでしょう、焼酎をどんどん飲まされました。内定をもらったあと人事担当者から「今年は変人ばかり採用した」と聞きました。私は学生結婚で子どもまでいたので、それが「変人」の理由だったらしいです。
 しかし「こんな都会(京都)で暮らせるんかな」と迷い始めました。多田先生に相談したら「徳島大なんか出ても大企業では出世せんぞ。紹介できる会社は1社しかない」と言われました。結局、京セラの内定は断りました。その「1社」が日亜化学工業だったのです。

役立つことが化学技術

〈日亜化学工業は93年11月、青色発光ダイオード(LED)の開発に成功、急成長した。99年、中村さんは新設された「窒化物半導体研究所」の所長に“栄転"。これが退職のきっかけになった〉

 私は研究をしたかったのです。管理職になって一日中ハンコをついて、定年まで勤めても年収2000万円に届かない。「自分の人生これでいいんか」と思うようになりました。
 そのころ、米国の5企業10大学から誘われていました。企業に転職すると日亜から訴えられると思い、報酬や研究環境、治安など自分に一番合っていたのが今の職場です。
 毎朝7時半ごろ出勤し、講義をしたり会議に出たり。午後6時には仕事を終えて帰宅します。サラリーマン時代のように「帰りに同僚と一杯」ということはありませんし、指導している10人の大学院生との関係も日本よりドライです。
 日本と違って院生に報酬を支払いますが、私が研究費を獲得して金を工面しなくてはいけない。中小企業の社長みたいなもので、気は抜けません。
 日亜にいたころを懐かしく思い出すことはあります。でも、裁判で関係は一変した。裁判を通して何度も「こんちくしょう」と思ったことが、研究のエネルギーになっています。

〈研究人生を米国でまっとうしたいという中村さん。日本の研究、教育の現状への視線は厳しく、大学受験廃止が持論だ〉

 日本は好きですから、リタイアしたら帰国するかもしれません。でも、研究やビジネスは米国がいい。大学教授に定年はなく、気力が続く限りここにいます。正義と公正さが尊重され、科学者の地位が高い国、本当の意味での民主主義がある国だと思います。日本は、どの大学に入るかで一生が決まり、大企業と官僚が支配する封建社会です。「子どもの個性を伸ばす」と言いながら、小学校からひたすら大学受験に向けて知識を詰め込む。大学受験を廃止すれば、定員の何百倍もの学生が東大に集まるかもしれない。そこで競争が起き、真剣に勉強したいヤツ、賢いヤツ、頑張るヤツが生き残る。何より先生が受験指導から解放され、「個性を伸ばす」教育に専念できる。
 今の日本では、企業は大学生に期待していない。「白紙」で卒業した元気のいいのを、一から仕込むのが一番いいからです。学生は目標を持てず、何をしていいか分からない。分からないから大企業に入るか官僚になろうとする。アメリカの教育の目的は「一人で生きていける人間にする」。小学生から自分の考えを表現させ、経済の仕組みを教え、どうすれば金を稼げるかを教えます。

〈今、青色LEDの改良に取り組む。エネルギー効率を上げることで省エネにさらに貢献できる〉

 窒化ガリウムの結晶の上面ではなく、違う面を使うことで効率が上がるのです。最大60%程度を100%に近づけ、製品化できるレベルに持っていきたい。
 今春、照明器具の見本市に招待され帰国しました。展示の9割以上がLEDになっていて驚きました。白色LEDは、消費電力が白熱灯の約10分の1。温室効果ガスの排出量も格段に少なく、地球温暖化対策として注目されるでしょう。

〈毎年、ノーベル賞候補と目される〉

 いただければうれしいですが、日本のようにノーベル賞だけ特別扱いするのは変だと思いますよ。これまでの受賞で一番うれしかったのは、フィンランドの「ミレニアム技術賞」(06年)。人類の役に立つ技術革新に対して贈られるものです。資金が多い(100万ユーロ=約1億3500万円)のも魅力です。

〈一部は途上国での照明普及のために寄付した〉

 太陽光発電と充電池とLEDを組み合わせた小さな照明システムを、電気のない途上国に導入する財団を支援しています。今も理論物理学にあこがれがありますが、理論は物質や現象を説明する「言語」であり「道具」でしかない。「物を作って初めて役に立つ」と実感しています。試行錯誤の末に青色LEDを実現させた経験が「役立つことが科学技術のゴールだ」という確信につながっています。