日本経済新聞 2001/10/11                     光学異性体

野依氏にノーベル化学賞 名大教授、日本人2年連続
 有用物質を高効率合成 新薬などに道

 スウェーデンの王立科学アカデミーは10日、2001年のノーベル化学賞を野依良治・名古屋大教授(63)と米化学大手モンサントの元研究者ウィリアム・ノーレス博士(84)、米スクリプス研究所のパリー・シャープレス教授(60)の3氏に授与すると発表した。従来の化学合成では不可能とされていた、目的とする有用な化学物質を高い効率で合成する技術に道を開いたことが評価された。日本人の受賞は昨年の白川英樹・筑波大名誉教授に次いで2年連続で、ノーベル賞全体では10人目となった。経済学賞にはジョセフ・スティグリッツ元米大統領経済諮問委員会(CEA)委員長ら米国人3人が決まった。  
 授賞理由は
「触媒による不斉(ふせい)合成反応の研究」。化学物質には形はそっくりでも、右手と左手の関係のように構造が対称的な物質がある。医薬品などの場合、通常このうち一方しか役に立たないが、これまでの化学合成では両方のタイプが半分ずつできてしまうため、有用なタイプだけを効率よく作り出すことが難しかった。  
 野依教授は66年、28歳の若さでこうした物質の作り分けを可能とする「不斉触媒」のアイデアを発表し、80年に実用的な触媒を開発することに成功。有用物質だけを量産する技術の確立に貢献した。こうした作り分けは、生物の体内で起きている生化学反応でしかできないとされていたが、これを人工的な化学反応で実現したことで、化学産業に大きなインパクトを与えた。
 
 野依教授らの成果は香料や医薬品の生産など、80年代以降、様々な分野で実用化された。必要な化学物質を効率よく生み出せるので、環境への負荷の少ない製造技術として、今後さらに応用範囲が広がると期待されている。このため、野依教授は毎年、受賞候補の筆頭と目されていた。
 
 10日夜、会見した野依教授は「ノーベル賞は自然科学を学ぶ者にとり最大の栄誉。若い人は高い志を抱いて研究に取り組んでほしい」と、後進への期待感を語った。授賞式は12月10日にストックホルムで開く。
 
 日本経済新聞社は今年4月、夕刊コラム「人間発見」で野依教授の連載記事を掲載した。

 
分子の「不斉合成」を研究
 野依教授らが開発した不斉合成は鏡に映った像のように左右が反対の立体構造を持つ化学物質(
キラル、光学異性体)を作り分ける技術。左右が逆の物質は形は似ていても、におい、味をはじめ生物に与える作用が大きく異なる。医薬品のサリドマイドでは片方に鎮静効果があり、もう片方に奇形を起こす作用があったため悲惨な薬害をもたらした。生物は役に立つ片方だけを選択して作る能力を備えるが、「人工的な方法では不可能」と、150年前にフランスの科学者、パスツールは唱えた。効率的な作り分けは化学者や化学メーカーの長年の課題だった。

野依良治氏(のより・りょうじ)
1938年(昭和13年)兵庫県芦屋市生まれ。63年京都大学大学院修了。京大助手を経て68年に名占屋大助教授。米ハーバード大学留学の後、72年に33歳の若さで名大教授に就任。2000年から同大物質科学国際研究センター長。95年日本学士院賞。2000年文化勲章。ノーベル賞受賞者を多数輩出している米化学会R・アダムス賞のほかイスラエル・ウォルフ賞など数々の受賞歴がある。63歳。
 

先端研究 巨大市場生む 産業に幅広く応用 新触媒、有用物質作り分け

 生物にしかできない化学合成を人工的に起こすーー。ノーベル化学賞の受賞が決まった名古屋大学の野依良治教授らが開発した「不斉合成」は化学の常識を覆した。その先端的な研究は医薬品や香料などの効率的な生産に道を開き、巨大市場の花を咲かせた。近年のノーベル賞は基本原理の発見だけでなく産業への応用を意識した選考傾向を見せており、日本人の受賞機会が増えてきた。
 
 野依教授らの成果は「化学合成の発祥以来の方法を転換する歴史的な意味を持つ」と小野田武・三菱化学顧問(元専務)は言う。医薬品など化学製品は不純物を多く含む生産物をつくり、そこからコストと手間をかけ目的の物質を取り出す。不斉合成は100%近くの効率で目的の物質だけを作れ、ムダをなくし完全にコントロールした化学によるモノ作りを実現する。
 
 野依教授が不斉合成に初めて成功したのは1966年。野崎一京都大学教授(当時)と共同で新しい触媒を考案して実現した。新触媒は化学反応を促す銅など金属原子に、特殊な有機分子を結合させた。この有機分子が左型と右型の物質を見分ける。
 
 ただ最初の触媒は狙った物質を10%程度しか作れなかった。収穫率が80%を超える実用的な性能を備えた不斉触媒の開発に成功したのは80年。さらに2年ほどかけて100%近くまで引き上げた。
 
 別個に不斉合成を追求していたノーレス、シャープレス博士らも相前後して触媒の開発に成功。新触媒は性能が認められ、すぐに産業界に利用が広がった。
 
 国内で大規模な応用がスタートしたのは
香料のメントール(ヘッカの成分)製造。左型のメントールはよい香りかあるが、右型にはない。野依教授は93年に高砂香料工業などと共同で左型だけの選択的な製造法を確立。同社は年間1千トンのメントールを生産する世界最大規模の工場を稼働させ、世界の需要の約3分の1を供給している。  
 米国ではモンサント社がノーレス博士の触媒を使いパーキンソン病治療薬を生産。抗炎症剤やビタミンE、抗がん作用を持つプロスタグランジンなど医薬品の合成にも利用されるようになった。
 
 野依教授は研究成果の産業応用に熱心に取り組み、発明特許の数は約150、数の多さでは日本の大学教官の中で十指に入る。
 
 不斉合成のうち野依教授とノーレス博士は「不斉水素化」と呼ばれるタイプを手掛け、シャープレス教授が「不斉酸化」という方式を開拓した。賞金1千万クローナ(約1億1千万円、1クローナ=約11円)の半分をシャープレス教授が受け取り、野依教授とノーレス博士が残り半分を折半する。

〈共同受賞者〉
ウィリアム・ノーレス氏 1917年まれ。42年、コロンビア大で博士号取得。米モンサント社の研究員として働き、86年に退職。
パリー・シャープレス氏 1941年、米国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。68年、スタンフォード大で博士号取得。90年から米スクリプス研究所教授。


野依氏「研究者は誇り持て」
 
 ノーベル化学賞の受賞が決まった野依良治名古屋大教授は10日夜、名古屋大キャンペス内で記者会見した。一問一答は次の通り。

ー 受賞の意義は。  
 「日本人のノーベル賞受賞者が少ないのは昔は貧しく研究が思うようにできなかったためでもある。私の場台そのころに温めていたアイデアがノーベル賞につながった。日本はダメだとか、研究環境か悪いとか、自虐的になる必要はない。若い研究者はもっと誇りを持って研究してほしい」

 「ノーベル賞学者として生きていくことは大変だと、すでに受賞した方から聞いたことかある。私の今後の行動は大きな責任を背負うことになる」

ー 産業応用まで考えたノーベル賞学者は少ない。
 「波及効果のある研究でないと意味がない。これは恩師である平田義正先生(故人、名古屋大教授)の『研究はユニークでなければならない』との教えに基づいている。私の研究は単純明快わかりやすくがモットーだ。わかりやすいことが国際的に認められた要因だろう」

ー 昨年の白川氏に次いで日本人の2年連続の受賞になる。
 「日本の化学分野の学術研究水準は世界に引けをとらない。他の分野でも能力のある人はいる。もっと産業界の研究者と交流し自らの成果を広く普及させる努力が必要だ」

ー 学術面での強さが産業競争力につながっていない。
 「学問の水準と産業競争力は直接は結びつかない。日本はモノづくりで生きていくべきだ。産学連携は大切だが、大学の成果をうまく産業界に移転する仕組みが機能していない。それはそれは高等教育が欧米の大学に比べて不十分だからだ」

 「技術は複合されて製品になる。いわばオーケストラだ。大学は優秀な奏者や歌手は育てられる。しかし本当に必要なのはまとめる指揮者だ。そうした人材を育てる努力が今の産業界には足りない」  

 

産学交流実り多く   製品化 抗生物質・抗菌剤や香料
 ノーベル化学賞を受賞した名古屋大教授の野依良治氏は医薬や化学など産業界とのかかわりも深い。
 
 香料最大手の高砂香料工業と共同で1983年、「不斉合成」を使い、メントールを工業生産する技術を世界で初めて確立。今年6月には同社の非常勤取締役に就任した。高砂香料の新村嘉也社長は「世界的な科学者である野依氏の理論や経験を今後のファインケミカル事業に生かしたい」と、技術的な観点から経営へのサポートを期待する。
 
 国内の医薬業界では不斉合成が定着、米ハーバード大学留学時代に交流のあった平岡哲夫・三共副社長は「野依氏の研究成果は学問上はもちろん、産業界への貢献も大きい。製薬会社ならほぼ例外なくこの技術を活用している。医薬品を非常に高い効率で作ることが可能になった」と話す。応用例としては、小野薬品工業の生理活性物質「プロスタグランジン」、第一製薬の合成抗菌剤「クラビット」などが代表例だ。ペニシリン系の抗生物質の化学合成などにも使われている。
 化学業界では、「野依氏が世界で初めて取り入れた
分子触媒という概念は画期的だった」(三井化学の山口彰宏常務)。分子触媒とは作りたいものを作るという”テーラーメード”な触媒。それ以前は最適な触媒を見つける試行錯誤の繰り返しだったという。  
 山口氏は三井化学の前身である旧三井東圧化学の出身で、旧三井東圧は研究者を野依氏のもとに派遣するなど技術レベルの向上に努めた。三井化学の触媒技術に定評があるのは「野依氏との交流が触媒技術の土台を支える一因となった」(山口氏)からだ。
 
 米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授として三菱化学の最高技術責任者(CTO)兼常務執行役員に招かれたジョージ・ステーファノポーラス氏は「不斉化学と触媒の世界で果たしてきた先駆的な研究に対する評価は遅すぎたくらいだ。野依教授の多くの深い研究成果は、多くの機能化学品の製造方法に大変革をもたらした」と評価する。

 不斉合成への関心は環境分野でも高まっている。必要な成分だけを使えば済むようになるため、廃棄物が減るからだ。医薬分野でも「本当に必要な医薬品だけを使えば済むようになる。消費者にとっても利点は大きい」とする声も多い。

不斉合成の応用例

分野  製造会社  概略  売上高
メントール  高砂香料工業  ガムや歯磨き粉などの原料  不明
医薬  高砂香料工業  抗生物質や抗菌剤など医薬品原料  不明
   小野薬品工業  末しょう血管の循環障害の治療薬  
 「オパルモン」や「プロスタグランジン」など
 200億円弱
   第一製薬  肺炎など感染症治療薬の合成抗菌剤
 
 「クラビット」 
 659億円