日本経済新聞(夕刊)2004/10/5-

医の近未来
 
@バーチャル手術
  ロボットアームで腕磨く

 幅4.5メートル、高さ2.4メートルの大型スクリーンに人の肝臓を模したコンピューターグラフィックス(CG)画像が浮かび上がる。医師が特殊な手袋をはめて仮想のメスを振り下ろすと、肝臓にさっと切れ目が入り、腫瘍の一部があらわになったーー。
 東京慈恵会医科大学・高次元医用画像工学研究所(東京都狛江市)で、外科手術を訓練できる仮想現実感(バーチャルリアリティー)装置が完成。研究者らが最後の機器調整に追われている。
 航空機パイロットが使う訓練用シミュレーター(模擬装置)の“手術版”だ。はた目には医師の指先は空を切っているだけのように見えるが、臓器を押す感覚がロボットアームを通じて指先まで伝わる。腫瘍をつかみ取るしぐさをすると、硬軟まで手袋ごしに感じ取れるという。
 画面にはメスさばきが寸分狂わず映し出され、手のわずかな震えすら見逃さない。緊張感のあまり、医師役の額からは汗が滴り落ちた。
 「医者の卵向けというよりは、むしろ名医が最適な手術法を探るのに使ってもらい、患者の利益につなげたい」と鈴木直樹所長は狙いを話す。
 執刀医の腕が治療成績を左右する外科手術。長年の経験や勘がモノをいう世界ではあるが、紛れ込んだ腫瘍を切除するのはベテランであつても至難の業。自分の腕前への過信が医療事故につながることもある。
 難しい手術の前にこの装置で予行演習を重ねておけば、ミスを防げる。実際の臓器の磁気共鳴画像装置(MRI)画像などを取り込めば患者ごとの対応も可能だ。
 慈恵医大は近く医師の研修用に装置を実用化する予定。名古屋大や東京大なども同種の装置の開発を進めており、「ブラックジャック」並みの腕前をもつ医師が育つかもしれない。

 情報技術(IT)の進展などで医療現場が変わろうとしている。医療ミスを減らし、患者の苦痛をやわらげる。患者本位の医療を目指す技術に期待が強まる。近未来の医の風景を点描する。

Aカプセル内視鏡 
  飲み薬感覚、負担小さく

 指でつまんでいるのはあめ玉、それとも薬? 正解はカプセル型の内視鏡。ごくりとのみ込むと、食道や胃を通り抜けて曲がりくねった小腸に達し、病気がないかどうかを詳しく調べてくれる。
 イスラエルの医療機器メーカー、ギブン・イメージング社が開発。欧米などでは2001年から実用化し、既に10万個以上使われた。日本でも独協医科大学と社会保険中央総合病院で臨床試験を終え、厚生労働省に承認申請済み。早ければ来年春にお目見えする。
 長さ2.6センチ、幅1.1センチのプラスチック製カプセルにカメラや電池をコンパクトに収めた。病院で水と一緒にのみ込み、家に帰ってゆっくり過ごしているうちに、小腸の内壁などおよそ5万5千カツトを撮影。約8時間後に便と一緒に排せつされ、原則1回しか使わない。
 カプセル自身が移動しながら電波を放ち、撮影画像は受診者の腹に取り付けた小型受信機に送られる。電波のやりとりにミサイル誘導技術を応用したハイテクの結晶だ。医師は後日、受信機から取り出した画像をみながら診断する。
 独協医大の中村哲也助教授は「小腸は従来の検査機器だと口やお尻から入れても届かず、いわば暗黒世界だった。カプセル型なら、かいようなど小腸の疾患が疑われる患者の9割以上を正しく診断できる」と言い切る。
 内視鏡といえばチューブ型の装置を口から差し込む胃カメラや、肛門から入れる大腸内視鏡が一般的。吐き気や痛みを伴うこともあり、検査嫌いの人は多いが、カプセル型の誕生は朗報だ。 小腸より大きい胃ではピントが合わないことやコストが高いのが課題。カプセル1個で6万円以上するため、保険が適用されたとしても患者負担は3万−4万円以上になる見通し。使い切りとはいえ、トイレで誤って流してしまったら誰が回収するのかも、関係者の悩みの種だ。

 

B体内体験
 遺伝子「実感」、新薬に生かす

 目の前に迫ってくる大きなボールは人間の細胞核。生命の設計図であるDNA(デオキシリボ核酸)がぎっしり詰まった重要な部分で、思わず抱きとめそうになった。周りにはエネルギー生産基地であるミトコンドリアなどが浮遊し、異次元を旅する錯覚に襲われる。
 「体内を探検した感想はいかがでしたか」。東京大学先端科学技術研究センターの広瀬通孝教授の声で我に返った。
 ここは同センターが生命科学と情報技術(IT)の融合研究の拠点として設けた生命知能システム研究室。部屋の隅の二面と床に大型スクリーンが据えられ、特殊なめがねをかけると、生物のさまざまな器官や細胞の映像が三次元で浮かび上がる。
 細胞核の大きさは肉眼で見えない10マイクロ(マイクロは100万分の1)メートル。この装置を使えば、身長が10万分の1に縮んで体内に潜り込んだときの光景を体験できる。別世界に入り込めるので「没入型ディスプレー」と名付けた。
 がんや糖尿病などの病気にかかりやすいかどうかはDNAの微妙な違いで左右される。DNAと日々格闘する研究者にとって、パソコンの小さな画面で暗号文字を相手にしていたのでは想像の翼が広がらない。「ミクロの世界を等身大に拡大すれば実感をもてるはず」(広瀬教授)と考え、装置が誕生した。
 ここで画期的な新薬を生み出す研究も動き始めた。DNAの一部が傷ついたり、入れ替わったりすると、病気の原因になる。その部分を見つけて大型スクリーンに投影し、患者ごとに最適な診断や治療薬を探る。
 人のゲノム(全遺伝情報)は塩基という分子が30億も集まってできている。病気はわずか数個の塩基の変異でも起こるとされ、原因遺伝子を探すのは海辺の砂をより分けるのにも似た骨の折れる作業だ。
 病気につながる遺伝子はいくつか見つかり始めており、研究成果が有望な新薬として実を結ぶ日も遠くない。


Cリアル人体模型
 忠実再現 呼吸も不整脈も

 「ちょっとここを聞いてみて」「心臓の雑音が分かるかな」
 東京女子医科大学の臨床技能研修センターで、医学部5年の女子学生たちが真剣な面持ちで聴診器を手にしている。この施設は臨床現場に出る前の医師や看護師の技能を高めようと、9月末に新設された。
 患者に接した経験の少ない医師の卵が相手にするのは、精巧な人体模型。腕の模型を使って血管への注射の仕方を学ぶ姿はおなじみだが、近年は情報技術(IT)を駆使して心臓の音や脈拍まで忠実に再現する胴体模型が登場、実習用に普及し始めた。
 「正常な心音と異常な音を聞き分けるコツをつかんでね」。指導医の石塚尚子・循環器内科講師が声をかける。学生たちも「患者さんを訓練台にするわけにはいかないが、模型なら何度でも試せるし、平常心で実習に専念できる」と好評だ。
 女子医大が導入したのは科学模型大手の京都科学(京都市、片山英伸社長)が製造を手がけ、その名も「イチロー」。1995年に第1号が誕生した際、社長と協力医が一緒に命名した。ちなみに新型の静脈注射訓練用模型は「シン(新)ジョー(静)」という。
 改良を重ねた現在のイチローはポンプの働きで腹部が膨張・収縮を繰り返し、本当に呼吸しているかのように見える。心臓の冠動脈などが発する音はスピーカーで、手首などの脈拍は空気圧で再現。パソコンにつなげると、不整脈など88の症例で典型的な心電図の波形が画面に表れる。
 実際の患者では複数の兆候が絡み合って診断は一筋縄ではいかないが、「模型で典型的な兆候を覚え込んでから、患者を診れば効果的」(東京大学医学教育国際協力研究センターの大滝純司助教授)と、模型の効用を説く専門家は多い。
 本物の人体に近づこうと進化を続ける人体模型。近い将来、体温や肌の血色まで人間そっくりの次代のイチローが活躍するかもしれない。