MPCCの歴史
MPCC(Mount Pleasant Chemical Company)は初期の住化の海外進出計画の失敗例であるが、今や誰も触れようとせず、存在したことも忘れられようとしている。失敗の歴史を後に残すことは意味のあることであろう。
本プロジェクトは1972-73年頃に構想が生まれ、1975年にJV設立、1983年末に解散した。筆者は1975年9月に経理部から農薬事業部に異動となり、その後農薬事業部業務部、住化アメリカで本プロジェクトを担当し、最後は解散交渉と解散事務を担当した。それ以前の事情については農薬事業部で勤務中に関係書類の調査を通じて把握したものである。
(関連地図)

←本社 Westport,Conn.
←TCP加工
Gallipolis Ferry,W.Virginia
←工場 Mount Pleasant,Tenn.
概要
MPCCはスミチオンの米国での生産のために当時のStauffer
Chemical(以下STF) と合弁で設立した会社である。大分での増設が難しいことから当時世界中で伸びると思われたスミチオンの第二工場として米国初め北中南米や他の地域での販売のベースとしようとしたものである。
失敗の原因はいろいろある。最大の問題はスミチオンそのものにあったが、それを見抜けなかった(見抜いた人は黙っていた)のが最も大きい。パラチオンが日本と異なりつい最近まで米国で使用が認められてきたのが大きな誤算で、パラチオンよりはるかに高コストの農薬は国の予算で買う防疫用が中心で農家が自分の金で買うのは日本以外は余り例がない。(1)日本でパラチオンが禁止されスミチオンが急速に広まったように、米国初め世界各国で普及が進むと考えたのが誤りであった。
(1)この点については先行きが危なくなった時点で海外営業担当者が明言した。途中から開発の方向を変更し米国や日本政府の援助資金によるマラリア対策等が開発の中心となった
運営上も問題があった。スミチオンが伸びるのが確実で、儲かるのが確実との思いから、STFとのJVを真のJVではなく、実質的にはSTFへの製造委託に等しい製造JVとしたことである。そうであれば思い切って自分でやっておれば、何らかの対応が取れたかも分からない。そのリスクを取らなかった(取れなかった)ためにプラントの他の目的への転用もできず損失の全額を負担せざるを得なくなった。
自分のやり方以外は認めないような住化の考え方がトラブルに拍車をかけ、STFとの関係悪化につながった。
当時の農薬事業部が販売と開発の事業部で、製造については企画部と化成品事業部に任せていたことも問題を起こす一つの原因となった。(2) 肝心な時には「他人任せ」「他人の責任」とする雰囲気があったことは認めざるを得ない。責任区分が曖昧なために思惑等もからみ、危ないと分かった後で、何度も中止するチャンスがあったにもかかわらず、誰も中止を決断できなかった。
(2)当時の農薬事業部は販売と開発のみを担当し、大分製造所が化成品事業部に属したことから製造は化成品事業部となっており、立地検討も本社企画部と化成品事業部が行った。これと同時に酉島工場で製造していたピナミン等のピレスロイドも能力不足と周囲が住宅地であることからの環境問題から新立地を検討したが、三沢立地の決定も化成品事業部で行った。当時の農薬事業部には供給は化成品事業部の責任との感があった。
設立経緯
1972-73年頃スミチオン工場の増強の検討が始まった。当時大分工場は公称能力6千トンとしていたが、継ぎ足し継ぎ足しの増強で大きくしたもので、実際には4千トン程度の能力しかなかった。それに対し国内需要は順調に増加し、海外での開発も進展しつつあった。当時の殺虫剤の主力はパラチオンであったが、日本では民家の近くでの散布で問題が多発し、パラチオンより毒性の低いスミチオンの出現によりパラチオンが製造禁止となったが、海外でも同じことが起こると期待し、そのために能力増強を必要とした。
しかしながら当時は日本で環境問題が急にやかましくなった時代で、大分・新居浜・千葉などでの増設を検討したが、農薬工場の新設が認められない状況であった。このため世界中での販売ということをベースに海外立地を検討することとなり、欧米に検討チームが派遣された。
スミチオンの製造に当たっては大きな問題があった。スミチオンはメタクレゾール(MCL)と燐から造るが、MCLはプロピレンとトルエンから製造される混合クレゾールの中にパラクレゾールと併存している。MCLとパラクレゾールを分離してパラクレゾールは酸化防止剤BHTとした。MCLとしては一般に入手できないことから、海外でスミチオンを製造するためには大分と同様に、混合クレゾール、BHT、スミチオンをまとめて製造することが必要となる。(3)このためこの計画は当時の大分の製品名の略号の頭文字をとり、KBS計画と呼ばれた。
(4)
(3)スミチオンの製法
(4) MPCC計画ではKとBを後回しとし、まずSでスタートしたが、結局KとBの案がまとまらず、大分からMCLを輸送する形となり、計画失敗の採算面での一原因となった。
MCLはNew Orleans のタンクに一旦入れた後、船でWest Virginia 州Gallipolis Ferry の STF工場に運ばれTCPに加工。 DMPCT はTennessee 州Mount Pleasant のSTF 工場(MPCC 隣接、これを使った別の農薬を製造していた)で製造。MPCCではTCPを加水分解してNMCとし、これをDMPCTと縮合してスミチオンを製造した。なお一時期TCPを鹿島工業で製造して直接MPCCに輸送した。
設立交渉
検討チームが欧米を視察した結果、1973年の春に米国のStauffer
Chemical(総合化学会社で有機燐殺虫剤も製造:以下STF)と、同じく米国の工業薬品メーカーのKoppers
にKBS計画の提案を行った。並行して当時森林用にスミチオンを散布していたカナダのケベック州政府と原料持ち込みでのスミチオン製造の交渉も行った。
カナダについては競合メーカーのバイエルとの共同生産を検討したが採算が取れないということで断念した。
Koppers
からはK,Bについては関心があるが、Sについては農薬はこれまで関係していない分野であることから関心なしとの返事があった。
社内で検討の結果、Koppers
社と一緒にクレゾールとBHTを、STFとスミチオンをやるべく交渉をすることとした。
(5)
(5)Koppersは1974年に入り計画断念の返事をしてきた。この後、K,Bについては話が立ち消えとなった。
しかしスミチオンのJVの形態が問題となった。アメリカの製造については勿論 STFの協力がなければどうしようもないし、農薬の大市場である米国でスミチオンの農薬登録をとり、販売をするのも住化単独ではどうしようもない。しかし米国以外についてはカナダでは既に森林用に販売を開始しておりブラジルなどでの開発も自ら始めている。米国での生産は米国用ではなく世界全体で売っていくための大分に次ぐ第二工場の位置づけであり、それをこれまで無関係のSTFを入れたJVに販売権も含めて渡すのは了解しがたいという気持ちである。このためこのJVを一定利益(ROI (6))を保証する製造JVとし、米国・カナダについてはSTFに販売権を与え、米国以外については住化がコストベース(一定利益込み)で引き取って販売することとした。
(6)当時の住化にとりROIという概念そのものが新しかった。借入部分にまで、しかも返済が進んでも元本に対してreturnを払うというのがなかなか理解できなかった。
1973年の5月大分工場の他の農薬、パプチオン工場でガス漏れ事故があり、工場が全面操業停止となった。引き続いて同年8月今度は工場の倉庫で原因不明の火災が発生し、再度全面操業停止処分となり10月まで操業が再開できなかった。これにより本計画の推進の必要性が一挙に高まった。
1973年7月チームが
STFを訪問し、スミチオン5千トン/年のJVの計画を提案、9月にSTFチームが訪日した。
討議内容:
STF:同社では0から50%までの出資の意志あり、但し米国ではパラチオンは長続きしそうでスミチオンの販売に不安を持つ。(7) 原料DMPCT はSTFが供給するが、米国の独禁法(Robinson Patman Act) の規定で特定需要家だけに特に安くすることは出来ない。 (8)
住化:(STFがスミチオンについて知らないから不安をもっているだけと認識)住化の世界規模でのマーケティング力、STFの米国でのパラチオン販売実績、原料面での強さを総合すればJVは成功する。住化を信頼して欲しい。暫くは大半を住化が引き受ける。
これにより両社で共同研究契約を締結した。
(7)パラチオンの原料はフェノールで、MCLの半値であった。効力は同じのため低毒性ということがどれだけ評価されるかにかかった。実際に米国では無人の畑で空中散布するため、1990年代初めまで使用が認められた。
(8) 20年後にPhillips 社とPPのJVの協議で分かったが、同法では相手により価格を変えるのは違法となっているが、競合する相手に合わす場合はよいということになっており、MPCCの場合もどこか他社から安い価格のオファーを受ける形をとれば一般より安い価格も可能であったこととなる。
1974年6月同社からの要請を受け、米国での開発販売に関し初めて両社の農薬事業部が米国で会談した。
住化:スミチオンの世界での使用状況、効力、毒性などを説明し、米国市場では少なくとも1,500t/y は売れると主張。
STF:Cost/efficacy でメチルパラチオンには対抗しがたいのではないかと懸念を表明、メインの市場ではない果樹、野菜、アルファルファ、タバコで有望とした。
この結果、米国での開発に関し、開発契約を締結することとなり、1975年テスト、76年承認申請、77年承認の予定を立てた。
同年10月大阪で開発会議を開催した。STFの市場調査の結果は、アルファルファとタバコ用で当面250t、最終680tを見込むが、他の分野はまだ不明というもの。3年間の開発費を100万$と想定し折半することとした。販売については米国・カナダでの独占販売権をSTFに渡すこととし(但し既に販売しているカナダの森林用は除く)、開発契約、販売契約のドラフトを作成した。しかしJV計画が未定のため初年度はとりあえず覚書により開発を実施することとした。
1974年8月 住化の経営会議にSTFとの交渉を付議、9月米国で同社と協議した。交渉結果は以下のとおり。
・建設費 25百万$
・ROI 税引後 14%
・資本金 8百万$(残りは借入、うちボンド発行
2.5 百万$)
日本側50%のうち住商5%出資
(9)
・分担
生産はSTFに委託、販売は住化
・住化引取価格 コスト+ ROI
・解散条項
STFからは10年内に解散した場合は未回収資金を住化が保証するよう要請があった。現在では解散条項は当然のことだが、当時の住化の考えでは設立時に解散の条件を議論するなど馬鹿げた話との認識で、本件ペンディングとした。
(9)住化の農薬の輸出は当時は全面的に住商と一緒に行っており、住商の強い要請で参加を認めた。
交渉が進んだのを受け、同年9月当時の長谷川社長が
STF社を訪問した。後の話だが、この際にSTF首脳からは「この利益保証の契約は住化にとってリスクがある」との警告があった由。逆に住化社内では、社長が乗り出したこと、役員会の席で農薬事業部長が社長から誉められたことなどから、直後に問題が発生したのに対して、引き下がれない理由となった。
1974年12月経営委員会で本件の承認が得られた。資本金
8百万$、総資金 30百万$で、フル操業時(1979年)の住化利益として年間
2,040千$と想定した。(前提として
STFから購入する原料 DMPCTを55 c/lb
とし、MPCCのスミチオン価格はフルベースで4.36$/kg,
住化の売価は5.34$/kgと想定した。)
この直後に STFから連絡があり、DMPCT
が燐や電力料、排水処理費のアップで大幅に値上がりする(1977年時点で
1$/lbとなる)との連絡が入った。翌1975年2月の日本での会議では、更に建設費がインフレや廃水処処理(10)
の費用のアップで
34百万$に増加する見通しが伝えられ、計画を再検討してはどうかとの示唆があった。
住化側では(社内で正式に承認を得た直後ということもあり)同社に対し@建設費の削減A原料DMPCTの値下げBROIの引き下げの要請をするとともに、調査チームを欧米の農薬メーカーに派遣し、原料価格アップの影響を調査した。
これを受け、3月に
STFとの会談が行われた。その結果、DMPCT価格の6%ダウン、建設費を29百万$ベース(予備費込み32百万$)とすること、資本金を10百万$に増やすことで合意した。ROI引き下げについてはSTFの同意が得られなかった。STFからはスミチオンについて、原料価格・設備コスト両面で最も影響を受ける品目で競争力に欠けるのではとの懸念が示されたが、住化はSTFの分析は不十分と指摘、MCLの自製、DMPCTコスト、これまで売り込んだブランド力・販売網などから大丈夫と反論し、STFから住化が自信を持つなら異論はないとの返事を引き出した。
住化社内で見直し計画を基に社長説明を行い、承認を得た。総資金38百万$で、JVからの購入価格が前回に比し
1$/kg アップするのに対し、売価も同様に 1$/kg
アップするとし、1979年の損益は逆に 5,460千$に増加する形となっている。
1975年4月両社の役員会でJV設立が承認された。STFの会長が1978年に当社に説明したところによると、同社役員会ではこの利益保証の契約では住化にとって一方的に不利な契約となり締結すべきではないとの意見が出たが、住化が了解しているとしてこれを通したとのことであった。(11)
(10)当時の米国の排水処理は Deep well といって深さ1,500〜2,000m程度の岩塩層の下にポンプで流し込むのが認められていた。近くで岩塩層の上にモニターの井戸を掘り、排水が岩塩層の上にしみ出すのを監視する。
(11)住化としては利益が出るのが前提でSTF を一定の利益保証で押さえこんだいうことだが、非常に大きなリスクがあるという観点からは利益保証は考えにくいというもの。
MPCC設立
1975年6月5日定款が受理され、法的にJVが設立された。手続きが逆となり、9日に日銀の承認を得て同日JV契約を締結、第一回の資本金を7月1日に払い込んだ。
会社概要は次の通り
社名:Mount Pleasant Chemical Company (12)
資本金:10百万$(額面8万$) 2回払い(1975/7/1,1976/7/1)
本社:Westport, Conn (STF本社)
工場:Mount Pleasant,Tenn.(STF 農薬工場隣接地)
役員:会長 長谷川周重, 副会長 H.B.Morley(STF会長兼社長),
社長 G.Gryka (STF企画部長),副社長 相馬正三(農薬事業部長),
同 Tom 西坂(住商アメリカ兼住化アメリカ),
同 J.F.Luther (STF副社長),
取締役 H.L.Straube (STF農薬事業部長)Westport,Conn
(12)社名は工場所在地のテネシー州 Mount Pleasant から取った。
運営問題
1)資金問題
1975年9月 資金問題の協議を行い、以下の方針で実施することとした。
所要資金:建設費32百万$、運転資金8百万$、合計40百万$(折半負担)
住友:出資 5百万$、貸付(日本から)11百万$、銀行借入(保証)4百万$
STF:出資 5百万$、BOND(保証)7百万$、銀行借入(保証)8百万$これに基づき、1976年3月 住化/住商とMPCCがLoan Agreementを締結、総額11百万$(後に10百万$に修正)を住化90%/住商10%の割合で5回分割で融資することとした。
またSTFの保証で1976年5月Pollution Control Revenue Bond4百万$、Industrial Revenue Bond 1百万$を発行した。(13)(13)市がMPCCの公害防止設備及び一般設備のための市債を発行するもので、当時産業育成のための税制で認められていた。金利が非課税となるためネット利率が安くなるほか、法律上は市の財産となるため固定資産税が免除される。経理上は全くの借入扱い。STFは日本側の融資金利との差額を保証料として取ったため、MPCCは低金利のメリットを受けていない。
2)
工場長指名
1976年1月 STF側が工場長としてD.M.Crawleyを指名した。
3) 工場用地決定
1976年3月Land Agreementを締結した。面積32.74エーカーで総額29,716$という安さ。当初の協議で24エーカー(+オプション10エーカー)としていたのを相談なしに増やしたと一時問題にしようとしたが、金額を聞いてたちまち了解した。
4)MCL,TCP問題
1976年1月 STFからSTFのGallipolis Ferry工場でMCL分離だけやりたいとの提案があった。住化側はMPCCの方式(ROI保証)ではコストが高くやれないとし、住化が資金を負担し、STFに製造委託でやってもらいたいと逆提案した。しかしSTFはreturnなしの仕事はしないと、これを拒否した。
この結果当面MCLを日本から輸送し、STF(Gallipolis Ferry,West Virginia)でTCPに加工することとなった。
1976年6月 STFより、子会社の鹿島工業(のちスタウファージャパン)の操業度アップのためTCPの加工を同社でやらせて欲しいとの要請があった。同社の税務上損失繰り越し期限切れ防止、STFの税金縮小も考え、事業部の反対を押し切ったもの。住化からはSTFの損失が大きいとし確認したが鹿島工業のメリットが大きいということなので、実施に移すこととした。
原契約によるMCLの住化手取り価格でMCLを支給し、原契約によるTCP価格でMPCCが買い取ることとし、TCPに係わる関税還付(14)(輸出スミチオンに対応するもの )は住化アメリカが還付を受けた時点で鹿島工業に支払うこととした。
1978年1月TCPの第一船が出荷したが、同年8月STFより円安で採算が悪化したとして鹿島工業での加工中止の要請があり、契約を終息した。
(14)関税還付(duty drawback)の手続きは大変で、専門家を雇い、原料から製品までの流れを詳細に説明、監査を受けてまず資格を確認し、その後輸出1件ごとに詳細資料を提出、1ヶ月程度分がまとめて払い戻された。最初の入金があったのが1984年初め。SCAIではこれを個別に鹿島分、SCAI輸出分、住化仲介貿易分に配分した。手続詳細は添付
5)住化アメリカ(SCAI)の設立
MPCCを製造会社とし、住化が全量を引き取って米国(STFに独占販売権授与)及び海外に販売することとなるため、税務上アメリカ法人の設立が必要となる。このため1975年に米国に調査団を派遣し検討を行い、1976年5月、それまでの駐在員事務所を独立させ、住友化学アメリカ(SCAI)を設立した。初代社長は主席駐在員の東野俊彦、副社長に住商アメリカのTom Nishizakaが兼務で就任した。
SCAIではMPCC業務に加え、スミチオンのSCAIテリトリーのカナダ(森林用)及び中米への販売のほか、ピレスロイドの販売(S.C.Johnsonへの直売と代理店MGKへの販売)、住化の新しい農薬の米国での開発、シアノボンドの販売(当時住化が田岡品の販売受託を行っており、米国でのPacerへの販売はSCAIを経由していた)、エポキシ等の新規需要開発、及び従来の駐在員業務である情報収集サービスを行った。
6) 米国での開発
1975年11月開発会議を開催した。初年度はほぼ予想通りのデータを得たため開発を進めることとしたが、販売契約についてSTFから一定利益を保証する価格の要求が出た。住化はこれを拒否、問題を先延ばしし覚書の1年延長で開発を続けることとした。(15)
(15)1976年11月の開発会議で3年目も覚書延長で実施することとなった。
需要見通し
1976年に入り、住化内部ではスミチオンの販売が思ったほど進まないため、販売予想の見直しを行った。
輸出数量は長期計画比で1,000t以上ダウンしており、内輸計の販売予想は1977年5,600t,
78年8,190t,79年10,180tで、MPCCが動いても高操業は期待出来ない状態であった。(実際にはこの予想よりもはるかに下回った。)
事業部内ではMPCCの操業を遅らせてはどうかとの意見も出たが、この時点での提案は時期尚早ということで、中国向けも含め拡販に注力すべしということとなった。
1977年4月の検討時のスミチオンバランスは以下のとおり。
1977 1978 1979
1980
生産(大分) 5,007t 5,000t 5,000t
6,000t
(MPCC) 400t 4,000t 5,000t
6,000t
販売 5,159t 7,641t 10,090t
12,545t
在庫 3,131t 4,490t 4,400t
3,855t
操業スタート問題
1976年5月STFからMPCCの土地について法律上の問題が発生した旨連絡があった。この土地はSTFが正式に購入したものだが、前所有者が相続した時の遺言状の文言から、将来権利関係で問題を生じる恐れがあり、これを解決するには2〜3年が必要というもの。
全体の需要予想からはスタートを遅らせる絶好の機会であったが、カナダの森林用はアメリカからの出荷が好ましいことのほか、事業部としては全社的に注目を浴びているプロジェクトであることから、STFに対し生産開始は遅らせられないと返事した。この結果STFはサイトを変更することとし、それまでに整地にかかった費用915千$はSTF負担とすることとなった。
1976年12月 MPCC取締役宛の最初の報告が出された。
それによると、
@ 建設費は予算の32百万$に対し、26百万$以内でおさまる。
A 要員は当初予想比15%減の64名
B メカコンは1977年6月中旬で、7〜8月には正常操業に入る。
C General ManagerにMr.Hanleを指名したい(77年5月に正式任命)
というものであった。
1977年2月に入りSTFから連絡が入った。大雪のため建設が遅延しており、メカコンは7/1、商業生産は10月(若しくは11月)の予定だが、建設業者のストの可能性があり、その場合は更に遅れるというものであった。
住化では販売不振のため操業開始を遅らせたいとの希望が強まり、また商業生産開始以降からROI保証が開始となることから、これを好機としてSTFに対し、商業生産開始を1978年1月からとしたいとし、従業員の採用の延期と原料価格引き下げ、ROIと管理費(5%)の引き下げなどを要請した。
これに対しSTF側は、これまで建設費削減やサイト変更の費用負担など住化に協力してきたとし、時間給従業員採用を遅らせ実際の生産開始は1978年3月とすること、経理処理の変更で当初のコストを下げることには同意したが、ROIと管理費、原料価格引き下げは拒否し、ROI求償開始を77年11月からとすることを主張した。
住化ではやむなくこれを了承した。MPCCスタート後のコスト+ROIの負担はSCAIで行うことから、この対策としてSCAIの資本金を3百万$に増資した。(その後10百万$とした)(16)
(16)後述するが当時は外為法の規定で、仲介貿易の方法で赤字を住化が負担することは出来なかった。
操業トラブル
1977年7月MPCCからメカコンの通知があった。

これに対し大分からの派遣チームが問題箇所を多数指摘し完成とは言えないとしたが、STF側は問題はマイナーなものと反論、住化がこれを理由に11月からのROI発効に反対するなら時間給従業員を早期に採用し契約規定上の操業度基準を達成してでも契約を発効させるとした。住化側は今後のSTFとの関係を考慮してこれを受諾し、9月末に、時間給社員は未採用のまま、MPCCの月給社員と大分からの応援5名でオイルインを行った。しかし計装を中心にトラブルが続出、住化側が操業を中止して故障原因を究明し修理をすることを主張、これに対しMPCCでは操業を続けながら問題点の洗い出しをするのがSTFのやり方だとして意見が対立した。
この結果10月下旬に大分チームは製造所長の指示で帰国、MPCCだけで操業を再開した。しかし直後にスミチオン精製工程で熱コントロールがうまくいかずexplosion(ポンプから出火)が発生した。
住化からは、少人数でのスタートは自動計装が前提で、多数の故障個所がある状況では事故多発の恐れがあるとしたが、MPCCでは修理の上、11月中旬に操業を再開した。しかし12月下旬になり再度同じ箇所でexplosionし、操業を中止してそのままクリスマス休暇に入った。
1977年の操業実績は以下のとおり。
オンスペック 12t(大分から運んだNMCを縮合したもの)
オフスペック 45t(他に半製品30t)
1978年1月STF要請で住化チームが派遣され調査の結果、事故原因は電熱保温設備の欠陥であることが判明した。
これを受け同月STF本社で住化/STFの対策協議が行われた。
住化側が、最初の事故の時に警告したのに操業を強行したとし、商業生産開始までのROI、管理費の免除を要請。これに対しSTF側は、住化に協力して従業員の採用を延期したこと、設計の情報が不完全だったためで住化の責任であると反論。住化は詳細設計はSTFの責任分野であり、住化側から熱安定性を十分説明した上でSTFの責任で電熱保温システムを採用したものと再反論した。
住化側が契約上の不可抗力条項での支払免除を持ち出したため険悪な状況となったが、最終的に、ROIを1ヶ月分免除するというSTF提案で一応決着した。
78年3月大分チームを派遣し再スタートすることとなったが、チーム到着前の準備中に同一箇所で数度explosionが発生、STF本社でも事態を重視し三人委員会を任命して調査を指示した。その結果STFでは原因究明と安全対策確立まで操業を中止するとの結論を出した。
その後4月中旬に住化チームの判断でスタートしたがトラブルですぐに休止した。住化側の再開反対に対しMPCC側は実践の中で直していくのが米国式のやり方だと主張し、整備の上で操業を再開した。数バッチ完了後、大分チームが帰国したが、5月初旬、中旬、6月初旬と立て続けにトラブルで休止したため、操業を中止した。
事故原因について両社で協議が行われたが、住化側がSTFのやり方を批判、Crawley工場長の更迭を主張した。
リストラ協議
事故の続出による生産遅延と(住化側の)ROI負担問題で両者の関係が悪化する中で、1978年7月住化役員会で長谷川会長からROI免除交渉の指示が出され、土方社長名でMorley会長宛にROI問題の再検討依頼のレターを送付した。
これに対しMorley会長から土方社長宛に電話があり、@
STFでは組織・人事の変更を検討中、A
コミュニケーションのやり方を変えたい、過去の責任云々はやめ今後をどうするかを考えよう、B
ROI減免も考慮する、とし、9月に東京で会談することが決まった。これを受け、住化社内では現時点での解散は考えずリストラを依頼することとし、スミチオンの拡販に注力する方針を決めた。
9月12日東京でトップ会談が行われ、次の点が協議された。
1) 運営体制:MPCC工場長に日系二世のPaul Oyamaが任命された。日系ということではなく、STF社内で問題が発生した場合に解決に手腕を発揮してきたことから選ばれた。MPCCでも手腕を発揮し、工場の運営、住化との関係を好転させた。(17)
同時にこれまでの交渉窓口を変更し、トップのコミュニケーションルートがつくられた。
(17) のちSTF定年退職後住化斡旋で住商アメリカ、住化アメリカのサンフランシスコ事務所に勤務。現在田岡アメリカ勤務。
2) スタートアップ:
STFから安全対策の追加投資の検討、マニュアルの再検討、大分での教育の要請が出された。
3)1978年度運営:
STFからは過去の経緯を離れ協力するとして、ROI減免(金利控除後の利益の半減)、原料DMPCTの引き取り不足ペナルティの半減、管理費の減免の提案があった。
4) 今後の扱い:
住化より現在の体系ではやっていけないとし、STF側ローンの肩代わりを条件にSTF出資分にのみROIを支払う方法を提案した。(19)
(19) 原契約では取得価額ベース総資産(30百万$)に対し税引後14% (税引前28%)のROIを保証している。このため住化側も含め出資は10百万$なのに、住化(SCAI)は品代として8.4百万$を金利を除くコストに加算して支払うこととなる。今回の提案はローン肩代わりでSTFへの支払を減額するもの。その後の提案で住化分の配当もとりやめ、STF出資額5百万$に対し税引前24% の1.2百万$を優先株配当として支払うこととなった。5) その他
STFからは今回の協力の見返りにSTF製品の購入など、住化の協力を要請した。(20)
(20) 住化で検討したが適当なものがなく実行できなかったが、これもSTFの不満の元となった。
これを受け、1978年11月に大阪で、また12月にサンフランシスコで協議が行われ、以下の通り決定した。
1) STFローンを住化が肩代わりするとともにボンドの買い戻しも行い、STFにのみ配当を払うべく優先株の発行を行う。配当は税引前24%相当の1,200千$とする。
2) 管理費は1% とする。(当初契約 5%)
なおボンドのうち Industrial
Revenue Bond1百万$については持ち主が追跡出来ず、STFへ保証料を払うことにより(STFへのROI対象から外し)引き続き継続することとした。
本件は最終的に1979年6月住化社内で決裁を得た。なお5%の出資をしている住商はROI対象外となることに若干の抵抗を示し、何らかの保証を要請した。
米国市場開発
1977年11月 当初の3年間の開発期間を終了し、開発会議を開催した。
当初狙っていた大量分野での開発はうまくいかず、予想される分野と数量は以下のとおりとなった。
初年度 5年度
アルファルファ 36t 180t
蚊 23 45
貯穀用 9 45
森林 51 136
ゴキブリ 5 9
合計 124 418
また3年間で合計1,040千$を支出し(それまでの住化支出分も含む)折半することとしたが、STFから登録取得までの追加費用503千$の均等負担の要請があり、1年間に限り折半で負担することを了承した。(実績は452千$)
なお翌年11月の開発会議ではEPAの予期せざるデータ要求による登録遅れの事態を考慮し、1979年度の費用のうち基礎開発費分195千$についても折半負担を了承した。
1979年1月 長期間ペンディングとなっていた販売契約をSTFとSCAIの間で締結した。
1979年9月の開発会議で80年度の開発方針を協議した。その結果実際に販売を行う予定のものとしては森林用とゴキブリ用のみで、アルファルファ用は薬害や経済性で、蚊・貯穀用はマラソンとの競合で販売を諦めた。
SCAIの運営の変更
当時の外為法では仲介貿易は1件ごとに承認を必要とし、かつ赤字取引は認めないということになっていた。このためSCAIがMPCCから購入したものを外国に輸出する場合には日本の住化が仲介貿易を通して赤字を負担することは出来ず、SCAIが直接輸出するしかなかった。これによるSCAIの赤字対策として資本金を10百万$にまで増やしたが、この資本金もたちまち食い潰すことが想定され,対策に苦慮していた。
しかし1978年の外為法改正で、仲介貿易の包括申請が認められ、採算も企業の判断事項とされることとなった。これにより日本からの仲介貿易が自由に出来ることとなった。
1979年春に住化とSCAIで契約を締結し、アメリカ・カナダ・中米(SCAIのテリトリー)及び米国の援助資金(USAID)による輸出はSCAIの販売とし、それ以外の国への輸出は住化本社が仲介貿易で行い損失を負担することとした。
操業再開
1978年11月と12月に2チームに分けて2週間ずつMPCCチームの大分での実習が行われた。79年1月2,780千$の追加予算を承認し、79年3月から大分チームを派遣しての水運転が開始され、5月初めからスミチオンの生産が再開した。
MPCCでの生産量は販売不振の影響でその後も低く、1979年は5月の生産再開以後、年内に2,354tを生産したが、1980年は年間で2,676tにとどまり、うち7月初めから9月一杯まで生産調整のため工場を休止する状況であった。
撤退交渉
1981年に入っても需要の増加は期待できず、住化の仲介貿易による赤字も増大した。6月の東京でのMPCC役員会の席上、社長からSTFに対し、リストラの後もうまくいかない、住化本体も大変な状況なので早急に操業を停止したいと伝えた。これに対しSTF側も当然の決定だとし、早く決着することで合意した。
SCAIの事前の根回しでMPCCを住化が買い取り、時間をかけて償却する案を提案したが、STFはMPCCプラントはSTFの工場に隣接し一体となっているため分離できない(変なものをつくられて公害問題で巻き添えになるのは困ると)と拒否した。
このため逆にMPCCの税務メリット付きでSTFに引き取ってもらう案を検討した。当時米国ではLeveraged
leaseのように減価償却の権利を利益を出している会社が買い取り、税務上の恩恵を受けるのが流行していた。当時STFは優良会社で利益を計上していた上、MPCCは投資税額控除(21)のメリットや減価償却枠もほとんど残しており、これをSTFが利用することで得られる税務メリットを配分してもらい、住化側の損失を縮小しようというものである。
(21)ケネディ大統領時代に創設された制度で現在は廃止されている。
81年8月 STFに以下の提案を行った。
1) 1982年4月にMPCCを解散,STFに売却したい。
2) STFがMPCCを合併することで,MPCCで未利用の投資税額控除と償却をSTFで利用し節税を図って欲しい。投資税額のメリットは住化に、償却メリットは折半したい。
具体例として次の計算を示した。
例 スクラップ評価 3.0百万$
投資税額控除メリット 1.8
償却メリット 3.75 未償却分15百万$
これの税引後7.5百万$を折半
STF出資 5.0(−)
差引売却価額 3.55
3) 経過措置 早急に生産停止、レイオフを行って欲しい。
これに対しSTFでは検討の結果、合併については租税目的の合併として否認される可能性が強くリスクが大きいとして拒否。レイオフについては時間給従業員は8月末、月給制従業員は9月末に行うことを了解した。
税務上の扱いの解釈についてはSCAIのCPAであるArthur
Youngは問題なしとし、何度も協議を行った。しかしSTFはSTFにとってMPCCを取得する事業目的がないため、やるなら住化の保証が必要と強硬に反対し、合意に達しなかった。
この結果、当時の住化の損益状況からは損失の一時処理は難しいことから、経理部では、まずSTF持ち株を買い取って消却した上で、2年間程度工場を休止し、償却費・金利を住化から送金(赤字負担を分散)、その後STFに売却するという案を考えた。
1982年2月STFと交渉した結果、STFも了解し、工場の評価については評価専門家の鑑定を受けて決めることにした。
82年5月、STFが起用した専門家の評価結果を受領、土地・設備全体で1.5百万$という余りにも低い評価のため、当方でも別途評価することとし、Stone&
Webster Appraisal社に依頼した。
その結果、有姿価値で11.1百万$、有効利用価値で30.2百万$、スクラップ価値で6.1百万$という全く異なる評価報告を受けた。(その後担当者の上司が大幅減額した報告を出して、その後撤回するという裏話がある。背景は不明だが、上の評価は住化社内でもまさかというものではあった)
これを基に住化/SCAIでSTFとハードネゴを行い、双方評価について個別項目ごとに互いの妥当性を議論した。しかしこの協議では決着できず、最後は政治判断を入れて交渉当事者の別室でのトップ会議(22)
でSTF持ち株と同額の5百万$で決着、その他の条件を決めるとともに、将来に渡り公害問題などで住化に負担の来ないよう、Hold
harmless条項も勝ち取った。
(22)住化は米倉氏、STFは取締役に昇進したKent。住化本社には事後承諾。
長谷川会長、土方社長の了承を得(23) 、STFのMorley会長からも、高すぎるが、これがファイナルでこれ以上は住化から要望が出ないという条件で承認を得た。
(23)土方社長は並行して中国に設備を売却する案も考えていたが本件を了承した。
1982年7月末に諸契約を締結し、9月にSTF持ち株を買い取って消却し、MPCCは資本金5百万$、住化90%,住商10%
所有の休眠会社となった。
米国での販売
MPCCの解散交渉が行われる中、1982年3月STFからスミチオンの販売権を放棄したいとの要請が出た。実際にはゴキブリ中心のPCO向けのみが対象であったので、PCO分野でSTFが起用していた代理店3社(Prentiss, Fairfieldと、SCAIのピレスロイドの代理店のMGK)を引き続き起用してSCAIが販売を行うこととし、PCO業者の大会に出品するなど活動を開始した。(24)
(24) SCAIではスミチオンのPCO向けパンフレットを作成したが、住化作成の原案では「低毒性」という表現があり、弁護士から注意を受けた。毒性のレベルから "moderate toxicity to warm blooded animals" とすべきもので、「低毒性」とか「安全な」という日本で当時使っていた表現ではproduct liability の上で飛んでもないことになるとの指摘である。原案の多くの部分が修正となった。
しかしこの間、ゴキブリ用殺虫剤によるカーペットの着色問題が発生した。住化で調査した結果、新種の染料に起因することが明らかになり、スミチオンが最も影響を受けること、対策がないことが分かった。スミチオンのテスト散布で着色し損害賠償をしたこともあり、単なる注意書きでは済まないことも分かり1973年春に販売の取りやめの決定を行った。
MPCC解散
住化では住友アルミの損失負担などの兼ね合いでMPCCの解散時期をいつにするか検討してきたが1983年末で解散することを決め、83年9月の取締役会で決議を行った。(25)
直ちにSTFに正式通告し、公害防止債の買い戻しを行い、土地と設備をSTFに売却し、1983年12月31日MPCCは法的に解散した。
(25)取締役会決議(1983/9)の内容
結論 MPCCの解散および清算を開始し、それに伴う下記事項を実施する。
現在操業休止中であるMPCCについては、今後操業を再開する見込みがなく、かつ設備の他用途への転用の可能性もないと判断されるに至ったため同社株主総会において解散の決議を行い、清算手続を開始し同社の設備および土地のすべてをSTFに売却処分する。清算手続き上同社が債務超過を生じた場合、当社は同社に対する貸付金10,470千米ドル(約2,398百万円)の範囲内で債権放棄を行い、当該債務超過額の損失負担を行う旨の契約を締結する。
参考事項 株式4,500千米ドル(簿価1,339百万円)、債務放棄見込み額6,500千米ドル(約1,500百万円)
後日談
その後1985年にSTFはChesebrough-Pondに12.5億ドルで買収されたが、1986年にChesebrough-PondはUnileverに買収された。UnileverはSTFには関心なく、1987年6月にICIに16.9億ドルで売却した。ICIは同年8月、このうちのspecialty chemicalsをアクゾに売却、名門STFはアッと言う間になくなった。
ICI 農薬事業はその後、Zeneca となり、Astraと合併して AstraZeneca に、更にNovartis農薬部門と統合してSyngentaとなった。
1989年2月 三井東圧の取締役が、テネシー州で事業をやりたいので状況を聞きたいと来社した。筆者が応対すると驚いたことに同社はICIと合弁でトナーを製造する計画で、今やICIが買収したSTF工場であるMPCCプラントが工場の候補に上がっており、過去にexplosionがあったということで気にしており事情を聞きたいというもの。
住化としては守秘契約の期間内であることからICIに警告したが契約違反なしとの反論があったこと、守秘期間もすぐ切れることから黙認した。
1989年11月 ICIと三井東圧のJVのImage Polymers設立の発表があった。
MPCCのプラントはトナー工場として今も使われている。
三井化学ホームページ関連会社紹介から
IMAGE POLYMERS COMPANY
工 場:テネシー州マウントプレザント
事業内容:トナーバインダーの製造、販売。
ICI は後に持分を Avecia に売却。
2006年3月、三井化学がAveciaから持分を買収、三井の100%子会社となった。
MPCC計画の損失
1984年の経理部資料ではMPCC計画の損失を合計148億円としている。
内訳は以下のとおり。
1)営業損失
SMT販売損失 住化仲介貿易 6,759百万円
SCAI 1,933
MCL販売損失(大分品) 802
(以上 営業損失) 9,494
2)解散損失
1982-83固定費保証 2,589
株式評価損 1,339
債権貸倒損 1,370
(以上 解散損失) 5,298
3)総計 14,792
なおMPCC計画のメリットと言えるかどうか分からないが、MPCCのプラント設計などを通じその後大分工場のスミチオンプラントの能力が増加、少々の手直しで一時は1万トンを超える生産を行った。
MPCCの1977年9月の最初のオイルインから1981年6月の生産停止までの期間の総生産数量は7,101トンであった。