凌霜 2021年7月号

 

菅正徳先輩(昭37営)を悼む  昭38経 藤井良隆

令和3年2月24日昼、高校の先輩から「菅君が亡くなったよ」という電話を受けた。年末に書状のやり取りがあったばかりで、まったく心配していなかったため不意を打たれた気がした。聞けば前夜来変調を訴え、朝救急搬送中に心筋便塞で亡くなったとのことであった。

思えば菅さんが2年生の昭和34年10月、当時たこ足大学と揶揄された神戸大学の現状打破を志し、有志7人と共に学長の任務を終えられたばかりの古林喜楽教授に建言し、顧問就任の快諾を頂いたうえ「神戸大学応援団総部設立趣意書」が全学に掲示された。早速、50万円(当時学卒初任給1万2千円)を目標に募金活動に取り組み、ちょうど安保条約改定の時期と重なり「安保反対アメ公帰れ」の同僚学生のジグザグデモを横目にしながら先輩を訪問し東京、大阪に分かれて募金活動に駆けずり回った。数カ月後、古林先生のお口添えもあって目標を達成し、ヤマハ神戸支店からブラスバンド楽器一式が届いた時、菅、加古、木村、の3氏が抱き合っていた姿が目に焼き付いている。

奥様のみどりさん(加古氏の妹さん)に対するあこがれも人並みはずれていた。
三菱商事入社2年目にして周囲を説得し古林先生ご夫妻のご媒酌でゴールインされ、生涯その愛をはぐくまれた。お二人の息子さんと四人のお孫さんに囲まれ晩年は笑顔のたえない家庭生活を楽しまれた。

卒業後も大学への熱い思いは変わらず大阪凌霜クラブでも活躍され、運営委員長の時に恒例のビアパーティに初めて留学生を招待し、その後「留学生を励ます会」として今も続いている。また卒業同期会(KUC37会)において大学初めてとなる全学部での同窓会開催にも尽力された。

50歳で三菱商事を早期退職されオーストラリア綿花を扱う商社を起業されたが、67歳の時胸部大動脈瘤破裂で緊急手術を施され一命を取り止められた。その後も大小8回におよぶ手術を施され、ご本人の言葉を借りると「俺は三枚におろされた」とあって健康問題にはご家族も含め細心の心配りを余儀なくされた。

最初の大手術の後遺症による神経性の激痛にも悩まされ、眠れぬ夜を英文の小説を読むことで癒されたと聞く。また80歳を過ぎてなお30年近く続けた中国語の勉強を続ける努力家でもあった。

菅さんの話は尽きることはないが、一言で表すと、自分のことは二の次三の次、母校のこと、後輩のこと、家族のこと、全てに亘って愛情をもって応援するという哲学を実践し、走り続けた82年間の生涯であった。

私たち神戸大学応援団の後輩8百数十名とその家族から見れば、大きくたたけば大きく響く大太鼓のような存在だった。

祭壇に飾られた満面の笑顔を想起しつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。


凌霜 2022年1月号

新野幸次郎先生インタビュー(2006年2月2日)
  大学文書史料室長補佐 野邑理栄子

追録 最初の全学同窓会のこと


新野先生:古林喜楽先生(第2代学長)は学舎統合をなさるときの学長でしたからね。たこの足大学ではいかんじゃないかと一生懸命やられました。神戸高商が中心になっておりましたでしょ、学問分野が専門職みたいに職業人を作るみたいな学校でしたから、それは視野が狭い、もっと総合的な勉強をしなくちゃいけない、そのためには総合大学でなくてはいけない、と。

学生相互も狭い一学部の範囲内で交流するんじゃなくてね、いろんな学部の学生が一緒になって、いろんな違う見解を述べ合うなかから新しいものを見出したり、自分とは違う考え方を持つことができるようになる、そのことで人間は成長していくんだ、と。したがって、何とかして総合大学にしなくちゃいけないということを一生懸命説得なさってたんですね。

例えば、一番いい例が、初代の応援団長をやりました菅君(菅正徳、昭和37年経営学部卒)。彼なんかは、古林さんに感激をしてね、応援団を作ろう、と。そうして全学部一緒にいろんな活動をやるようにしようじゃないか、ということを考えるようになったわけですね。ですから、私が学長の頃に菅君たちは、これが最初でしたけれども、全学の同期生を集めて同窓会をやろう、というのでやったわけです
 (1987(昭和62)年6月6日 KUC37会卒業25周年全学部合同同窓会開催)。

これ珍しいですね。旧帝大にもないと思います。あんだけ学部たくさんありますけれども全学同窓会って。応援団長だからものすごく頑張るわけですよね。これはもう、古林先生のそういう精神に感動してね、ほなわしらもやろう、ということで応援団作ったんですが。これほんとにね、今病気でちょっと倒れてますけどね、ほんとに一生懸命やってくれる男なんですよ。

応援団、いまだに非常にがっちりと固まってます。昭和37年卒でね、まだ医学部や農学部もないときですけど、すべての学部の全員集めて同窓会をやるようになったんです。僕もわざわざ出て行ったことあるんですけどね、その会にはね。何年だったか正確には覚えてないですけどね、船でもやったりしました。人が相当集まってましたね、なんせ意欲的な男ですからね、呼びかけは熱心で。それから何回生か菅君たちのようにやろうと言ってやってくれた回生がございます。

それから今、事業会(株式会社神戸学術事業会、2002(平成14)年4月創業、2020(令和2)年3月解散)の世話をしてるのは中谷君(中谷正司、昭和37年法学部卒、当時代表取締役)。彼は菅君が非常に一生懸命やってるんで、菅君のためにも頑張らないかんと言って、わざわざボランティアで頑張ってくれとる。これなんかは、古林さんの全学一本になって立派な大学づくりをせないかん、という気持ちに応えようとして、応援団が活動を始めたのと同じですね。