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村山治(朝日新聞記者)著 「市場検察」 (2008/4 文芸春秋)

第14章 特捜部長の蹉跌


笠間(笠間治雄:2002/10〜東京地検次席検事、のち、検事総長)は、特捜検察は「万人が認める悪質な犯罪を摘発すべき」との強い信念を持っていた。
犯罪は、時代と社会を反映する。時代は移り、社会も日々変化する。何が正しくて何が悪いのか、の価値基準も刻々と変わる。検察の判断の物差しもそれに左右される。それは、神ならぬ人間のすることである以上、ある程度やむを得ないことだ。

例えば、大蔵接待汚職がそうだ。もともと、官僚が職務で関係のある業者から接待を受けることは典型的な収賄に当たるが、金額や頻度が社会常識の範囲と認められるものは摘発を猶予してきた。
バブルの時期には、世の中、花見酒気分で、金額や回数も増えたが、世の中全体に広く蔓延していたため、検察は摘発に動かなかった。しかし、バブル崩壊による金融失政で大蔵省が批判の矢面に立たされると、検察は、手のひらを返して摘発に踏み切った。

そういう「ぶれ」を笠間は極力避けたいと考えていた。そのために、その時代の多くの人が「こいつだけは絶対に許せない」と感じる悪者に絞って検察権を行使して処罰することにこだわった。

2004年のUFJ銀行の検査妨害事件で、松尾検事総長が頭取逮捕の意向を示したが、特捜部は証拠がないとして応じなかった。「笠間と松尾の戦い」

「悪性のリアリティ」へのこだわりといっていいかもしれない。UFJ銀行幹部が行った検査妨害は明確な法律違反であり、金融市場の重要プレーヤーである大銀行が情報隠匿のため検査妨害を行った行為は、市場の秩序を乱すものであり、笠間にとっては、訴追対象になった銀行マンたちの行為の悪性、犯罪性には、それなりの説得力を感じたが、「頭取の犯罪」についてはリアリティがなかった。

松尾(松尾邦弘検事総長)らからすると、時代が変わり、司法=検察が、日本の市場経済の安定運営に一定の責任を負わねばならなくなったのだから、検察運営にある程度、政策的要素が入るのは当然だと考える。
市場を歪める企業の情報開示義務違反やあらゆる業界に蔓延する談合は、真っ先に摘発しなければいけない悪である。しめしをつけるために、組織のトップの責任を問うことも必要だと考える。
松尾らは市場秩序を乱すルール違反を許さない、とし、証券取引法違反の摘発や、独禁法の談合やカルテル、刑法の談合罪の適用を積極的に進めた。

笠間は、それらの犯罪の多くに、悪性を感じられなかった。

それは感覚や哲学の問題であり、社会現象をどう捉えるかの問題でもあった。笠間からすると、談合についても、従来、必要悪として黙認してきた商慣行であり、それを経済の外側にいる検察が悪と認定し、血刀を振るうことには抵抗があった。

典型は、特捜部長時代の2000年に公取委が摘発したポリプロピレン(PP)価格カルテル事件だった。PPは複雑な形状の成形に適し、用途は自動車用部品や家電製品の各部品、食品の包装など広範囲に及んでいた。

この製造販売をめぐる値上げカルテル疑惑で公取委は2000年5月、化学メーカー7社を立ち入り検査し、「カルテルを結んだ各企業が数十億円単位で国民の利益を収奪している最大規模の独禁法違反」だとして刑事告発を目指していた。

笠間(特捜部長)は、この事件で東京高検次席の斉田国太郎から意見を求められた。公取委の事件は、検事総長が告発を受け、高検が事件処理をするが、実際の捜査は、東京地検特捜部が行うからだ。
笠間は、業績の上がらない業界の価格協定を摘発すること自体に違和感を持っていた。暴利を貧ろうというのでなければ処罰価値がないと考えたのだ。そして、法律的には、公取委の調査資料を見て、価格協定とされるものが、本当に協定各社を強制的に拘束するようなものであったのか、「拘束性」が証明されていないと受け止めていた。

公取委は、協定し、その実効性があったからこそPPが値上がりしたとの主張だった。しかし、公取委が協定の認定をしていないポリエチレンも同様の値上がりをしていた。「それをどう説明するのか。協定と値上がりとの因果関係を証明できなければ、協定に拘束力があった証明にならない」と斉田に表明した。

斉田は告発を受けないことを決め、公取委に連絡した。
「検察は独禁法がわかっていない」と公取委幹部は不満だったが、公取委は刑事告発を断念。7社に独禁法違反容疑で排除勧告を出し、審査は終了した。

企業としての違反行為を認められれば足りる独禁法上の審査と、個人の刑事責任を解明する刑事事件捜査との違いが背後にあった。刑事事件では公取委が集めた証拠をそのまま使うことができないため、検察は刑事告発を受けると証拠収集を一からやり直さなければならないという問題もあった。

しかし最も重要な点は、カルテルに対する公取委と検察の感覚のずれだった。
公取委は「競争を阻害すること自体が重大な犯罪だ」と主張した。これは、独禁法の構成要件で一目瞭然だ。

しかし、笠間の本音は「適正利益を超えて価格を引き上げたとまではいえず起訴価値がない。カルテルを決めたとされる部長会のメンバーも普通のサラリーマンで、逮捕して法廷に引っ張り出すほどの悪性は感じられない」だった。

こういってしまうと、独禁法違反の刑事立件はできなくなる。