むつ小川原開発第2次基本計画

「小川原工業港の建設など総合的な産業基盤の整備により、陸奥湾、小川原湖周辺ならびに八戸、久慈一帯に巨大コンビナートの形成を図る」
 むつ小川原開発構想は高度経済成長期後期の1969年5月30日に閣議決定された新全国総合開発計画(新全総)に盛り込まれ、国家プロジェクトとしてデ ビューした。翌70年4月、県は庁内に陸奥湾小川原湖開発室(同年11月にむつ小川原開発室、98年にむつ小川原開発・エネルギー対策室に改称)を設置し て、構想の実現に着手。開発区域は最大で陸奥湾沿岸から三沢市なども含む太平洋に至る2万8千ヘクタールを想定し、石油精製、石油化学、製鉄など基幹型産 業の立地が可能という見方を強めた。まさに「世界最大の開発」だった。

 「投資総額6兆2千億円から5兆5千億円」「昭和60(85)年時の年間工業生産額は最高で4兆2千億円」「県民1人当たり所得も全国平均に上昇」。開発に県勢発展の夢を託した県の鼻息も荒かった。

 工業用地を分譲する第三セクター・むつ小川原開発株式会社(むつ会社)、用地買収を担う財団法人・青森県むつ小川原開発公社(むつ公社)は71年3月に 相次いで設立された。むつ会社の設立時の資本金は15億円(94年に60億円に増資)。出資構成は県10%(1億5千万円)、国(北海道東北開発公 庫)40%(6億円)、製鉄・石油・商社など経団連傘下の日本のトップ企業150社からなる民間50%(7億5千万円)だった。
 むつ会社の初代会長には安藤豊禄・小野田セメント相談役、副社長には阿部陽一・麻生セメント取締役が就任。役員には植村甲午郎・経団連会長、木川田一隆・経済同友会代表幹事、永野重雄・日本商工会議所会頭ら財界の重鎮がそろって名を連ねた。
 一方のむつ公社は、県が出資した2千万円を基本財産とし、理事長には菊池剛前出納長が就任。職員98人のうち、74人が県から出向者で占められるなど県庁の別働隊の色合いが濃かった。

オイルショック発生

 しかし、開発構想に対して陸奥湾漁民の反発は強く、県が71年8月に住民対策大綱とともに公表した開発対象区域では陸奥湾沿岸を除外、規模は1万7千ヘクタールに後退した。それでも住民対策大綱による住民の移転規模が予想以上だったため、関係市町村の反発も招いた。

 県は2カ月後の10月に開発区域を7千900ヘクタールにまで縮小する修正案を提示。さらに翌72年6月の第1次基本計画の決定段階では、当初構想から 鉄鋼を除外して、開発区域面積も六ケ所村を中心とする5千500ヘクタールに下方修正。2千880ヘクタールの工業用地に石油精製200万バーレル(日 量)、火力発電1千万キロワット、石油化学400万トン(年、エチレン換算)といった「石油シリーズ」を張り付ける計画に落ち着いた。

 ところが、直後の 73年12月、第4次中東戦争による石油輸出国機構の石油公示価格の引き上げと敵対国に対する石油輸出禁止措置に伴う「オイルショック」が発生。企業の工 業投資意欲は急速にしぼんでいった。75年には第2次基本計画として石油精製100万バーレル(日量)、火力発電320万キロワット、石油化学160万ト ン(年、エチレン換算)と計画をさらに縮小したが、79年の第2次オイルショックが計画に追い打ちをかけた。

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国土交通省
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/mutsu.html

現行のむつ小川原開発第2次基本計画(昭和50年青森県策定、昭和52年閣議口頭了解、昭和60年修正)では、石油コンビナート基地としての開発を目指 していますが、経済社会情勢等の変化を踏まえ、平成16年9月、青森県が「新むつ小川原開発基本計画(素案)」を公表し、現在、新計画の策定作業を進めて います。

むつ小川原地域の中心であるむつ小川原開発地区には、現在までに核(原子)燃料サイクル施設、国家石油備蓄基地等が立地するなど、我が国のエネルギー政 策上重要な地域となっています。また、ITER(国際熱核融合実験炉)計画の関連施設の立地も見込まれています。