日本経済新聞 2007/4              陰る成長神話

私の履歴書  鈴木敏文 セブン&アイ・ホールディングス会長

セブンーイレブン
  米に驚くべき小型店  大型店と共栄 未来を予感

 1960年代後半になると、スーパーは新規出店のたびに地元商店街から強い拒否反応を示されるようになる。
 71年(昭和46年)に39歳で取締役に就任した私も幹部の一人として矢面に立った。説明会を開き「大型店と中小小売店は共存共栄できる」と訴えても、「強者の論理だ」「できるわけない」と相手は聞く耳を持たない。
 北海道の帯広に出店するときは地元選出の代議土と対峙した。若手タカ派として売り出し中だった中川一郎氏。出店に反対する地元に頼まれて出てきたのだ。
 永田町の料亭。伊藤社長と常務と3人で出向き、私が交渉役となって百戦錬磨の政治家と向き合う。毎回緊迫した空気の中でハードな交渉を重ねなけれぱならなかった。
 時間はいくらあっても足りない。私に続いて東販から移り、店舗開発に携わった佐藤信武君(現副会長)などは、私を通勤途中で待ち構え、満員の電車内で一緒に作戦を練っては交渉へ出かけていく。そんな毎日だった。
 店舗開発では当時の流通先進国米国の最新事情を学ぶため、社員の海外セミナーも開いた。年数回60−70人が約10日間の日程で渡米し、私も責任者として同行した。あるときカリフォルニアで移動の途中、休憩で道路脇の小さな店に立ち寄った。
 数字の「7」に「ELEVEN」の文字を重ねた看板。.セブンーイレブンといい、スーパーを小型にしたような店.で食品や雑貨がいろいろ並んでいた。
 「アメリカにもこんな小型店があるんだ」。このときはその程度の印象だった。婦国後に調べて驚く。コンビニエンスストアと呼ばれ、運営するサウスランド社は全米で4千店のチェーンを展開する超優良企業だった。
 これは相当な仕掛けがあるに違いない。日本で生かすことができれば、大型店との共存共栄のモデルを示せるはず。そう提案すると返ってきたのは社内外からの「無理だ」「やめろ」の大合唱だった。
 「スーパーが進出し、商店街のかなりの部分が衰退している。小型店が成り立つわけがない」。世の中、大きいこ.とはいいことだの時代。幹部も業界関係者も学者も異口同音に否定論を唱える。
 営業担当役員には「販売経験のない人間に何がわかる。経験がないから夢物語を言っていられるんだ」とまで言われた。だが私は逆に経験がない分、商店街の凋落を別の視点でとらえていた。
 小型店は明らかに労働の生産性が低かった。行政は「営業時間をタ方6時までに短縮」「日曜休業」といった指導を行い、それが生産性向上と従業員確保につながるとしたが、顧客の都合を無視して生産性が上がるわけがない。
 もう一つ感じたのは市場の変化だ。以前は開店と同時に売り切れた目玉商品が売れ残るようになった。これからは必ずしも安い商品を並べれぱ売れる時代ではなくなる。
 労働生産性と商品の価値、両方を高める仕組みがセブンーイレブンにはあるはずだ。否定論は規模の大小の話ばかりで生産性については一つも明確な反論はない。ならば銚戦する価値がある。私はサウスランド社との接触に踏み出す。米国でハードな交渉が待っていた。

提携交渉 
  反対の中、強気で押す 妥結後「これは失敗・・」と悶々

 「冗談ではない。こんな条件では交渉にならない!」
 私は声を荒らげ、テーブルをたたき一歩も退かない。1973年(昭和48年)7月、テキサス州ダラスにあるサウスランド本社での最終交渉は難航をきわめた。
 相手はハートフェルダー社長とオーナー家のジェリー・卜ンプソン副社長。こちらは私と業務開発担当の清水秀雄君。通訳は取引先でもある伊藤忠商事の総合開発部次長、降旗健人さん。伊藤忠きっての英語通で、交渉にたけた降旗さんもお手上げの様子だ。
 サウスランド社側も、ヨーカ堂の方がどうしてもライセンス契約をしたいというからテーブルに着いたのに「何ごとだ」と怒り心頭だったろう。しかし妥協はできない。
 1年前の72年5月、清水君がほぼ飛び込みで訪ねたときには門前払い同然だった。
 その後、ジョン・トンプソン会長と親しい人物とたまたまつながりができた伊藤忠商事の建設部門企画統括室長、若林信二さんの口利きで翌73年4月、経営陣にプレゼンテーションする機会を得た。
 トップ級は日本についての知識もあり、進出に関心を持ってくれた。視察団が来日。百項目に及ぶ質問に徹夜で回答を作成、6月、交渉が始まる。だが提示されたのは受け入れ難い条件ばかりだった。
 事業は合弁。出店地域は東日本のみ。8年間で2千店出店すること。ロイヤルティーは売上高の1%厳守。
 相手は世界最大のコンビニチェーン、こちらは日本の小売業界で15位の中堅。格が違うがこれでは手かせ足かせだ。最終交渉で私はすべてに「ノー」をたたきつけた。
 粘りに粘りの交渉で、合弁はヨーカ堂の独自子会社へ、出店地域は日本全域へ、出店数は8年間で1200店へと何とかこちらの案を認めてもらった。だが最後までもめたのがロイヤルティーの率だ。
 サウスランド社側はアメリカ国内と同一の1%を譲らない。私は日米ではビジネス環境、インフラコストなどが異なるため、0.5%を主張し、大きな隔たりがあった。
 長い沈黙。いったん別室に分かれる。交渉再開。また決裂を繰り返す。私は訴えた。
 「われわれはこの事業を何としても成功させたい。だからできない約束はしない。ロイヤルティーを下げても日本で成功すれば、あなた方の目的に沿うはずだ。失敗しては何も意味がなくなる」
 結局、相手側が大幅に譲歩し、0.6%で妥結する。
 実は最終交渉の前日、私は渡米の途中ハワイに寄り、セブンーイレブンの視察を終えて帰国途上の伊藤雅俊社長と落ち合った。一緒に朝食をとりながら、伊藤さんは「あれは日本の雑貨屋のようなものだな……」。
 はっきり意思は示さないが「7割反対、3割どうかな」の感触だ。確かにリスクは高い。午前10時発の便が迫っていた。「では断ってきます」
 もし、この会談で、必ず交渉をまとめるよう命じられていたら大幅に譲歩していただろう。社内の消極的な環境が結果として決裂覚悟の強い交渉力をもたらした。
 ところが数カ月後、アメリカでの研修に参加した私はぼうぜんとした。「これは日本では使えない。失敗した!」
 仲間に言えず、悶々とした日々が始まる。

1号店 
  素人ばかりで新会社 忘れられない最初のお客

 米国に渡り、サウスランド社のトレーニングセンターで受けた研修は、レジの打ち方や報告書の書き方など初歩的なことばかりだった。私は懸命に取り組む仲間たちを見ながら、一人悶々としていた。
 サウスランド社と「エリア・サービスおよびライセンス契約」を結び、マニュアルが初めて開示された。だが27冊に及ぶ分厚いマニュアルは店舗運営の初心者向けの内容で、どこをみても求めていた経営ノウハウはない。
 マーケティングや物流についてのノウハウがあるはず。それを日本に持ってくればすぐ通用する、と思い込んだのは、私の勝手な想像にすぎなかった。使えるのは本部と加盟店の間で粗利益を分配する会計システムぐらいだった。
 3日目に気づき「わざわざアメリカヘレジの打ち方を習いに来たのではない」と相手方に怒りをぶつけたが後の祭りだ。新事業立ち上げに集まってくれた仲間に「こんなことを勉強しても日本では通用しない」とはとても言えない。
 採用活動も一苦労だった。社内で猛反対された事業だ。しかも創業の意識を徹底するため新会社は給料も就業条件もイトーヨーカ堂より厳しくし、出向ではなく転籍を求めた。人事担当でも権限を利用するわけにはいかない。
 ヨーカ堂から清水秀雄君、労組委員長を務めた岩園修一君、商社から中途入社したばかりの鎌田誠晧君に移ってもらい、ほかは新聞広告で募集。全繊同盟の元専従、製パン会社の元営業マン、元航空自衛隊員など多様な職歴の面々が集まるが、小売業の経験をもたない素人集団だった。
 1973年11月20日、社員15人でヨークセブンを設立(後にセブンーイレブン・ジャパンに改称)。マニュアルが役に立たない以上、自分たちですべてをつくるしかない。素人が日本初の本格的なコンビニチェーンに挑戦する。そう覚悟したとき朗報が入る。
 新聞記事を読んだ東京・江東区豊洲の酒販店経営者から加盟希望の手紙が届いたのだ。明治大学在学中に父親を亡くし、中退して店を継いだ23歳の青年で山添憲司さんといった。下には高校生と中学生の妹と弟さんがいた。
 年が明けて74年の正月、お店を訪ね、こたつに入りながら話を聞いた。「自分の店でコンビニを商売として成り立たせてみたい」。その熱意に引かれ、私は約束した。「ぜひ一緒にやりましょう。3年後に失敗していたら責任を持って元通りにします」
 広さは約20坪(約66平方メートル)。サウスランド社側は米国の店の3分の1しかないと難色を示したが押し通した。最初は直営店で実験すべきだとの声もあったが、フランチャイズ展開による大型店との共存共栄モデルを示すためにも1号店は山本さんの店と決めた。
 準備期間は3カ月。店舗改装、3千品目に上る商品の選定、狭い店舗用に冷蔵庫の改造…何もかもが初めてだ。開店前夜は社員たちが店の二階に泊まり込んだ。初めはホテルに泊まろうとしたが「そんな余裕はない」と認めなかった。
 5月15日開店。早朝の雨の中、一人の男性客が入ってきて店内をぐるりと回り、カウンター横の800円のサングラスを買った。第1号のお客は今も忘れない。

小口配送の壁 
  拒む取引先 説き伏せ 100店突破、仕事で初めて涙

 「お店の二階の居間が在庫の山であふれて大変です」
 セブンーイレブン1号店が1974年5月に東京・江東区豊洲に開店して1カ月ほどたったある日、担当者が血相を変えて戻ってきた。
 売り上げは以前より倍増したが、荒利益から本部へのロイヤルティーや諸経費を差し引くと利益はあまり変わらない。原因は在庫の山にあった。
 問屋からはどの商品も大きなロットで仕入れなければならない。例えば缶詰は24-48個が最小単位だ。売れない商品は大量に残る。よく売れる商品は欠品する。
 このままでは行きづまる。解決するには仕入れ単位を小さくする小口配送が必要だ。業界の常識を破らない限り明日はない。拒否する問屋を素人集団が1社1社回り、粘り強く説得する苦闘の日々が始まる。その一方で、私は店舗開発担当者に厳命した。
 「江東区から一歩も出るな」
 豊洲店の近隣にフランチャイズ店を集中させる。ドミナント(高密度多店舗出店)戦略は地域での認知度を高めるが、物流面でも小口配送が実現しやすくなる。
 この店舗開発も並大抵の苦労ではなかった。当初は酒屋を中心に回ったが、コンビニがどんなものかほとんど理解されていない。一度や二度の訪問では口もきいてもらえない。ヨーカ堂の名前を出すと逆に「小型店まで乗っ取りに来たのか」と警戒された。
 区内の酒屋という酒屋を回り尽くしても会社に戻るに戻れない。「その気はない」という店でなすすべもなく1日中手伝いをしてくる。私と顔を合わすのが辛そうだった。
 枠を外せば楽になる。しかしドミナントが実現できなければこの事業は失敗する。原則は絶対崩さない。決めた戦略は徹底する。
 年中無休の営業のため正月の商品配送を求めたときもそうだ。業界の常識からすれば無理難題もここに極まれりだ。一時的に倉庫を借り、正月分を確保する苦肉の案も社内で出たが私は突き返した。
 これから先500店、1000店に増えたらどうするか。初めから仕組みをつくるべきで、困難でも取引先と交渉させた。
 山崎製パンに正月の製造を求めた折衝は特に難航した。「正月まで社員を働かせるのか」と反発する飯島藤十郎社長のもとに商品部長の岩國修一君が日参し、労組の委員長にも頼んだが打開しない。肩を落とす岩國君に言った。「僕らはもともと素人集団だ。原点だけは見失わずにいよう」
 これで吹っ切れたように再び通い始め、おいしいパンを毎日お客様に提供したいという思いを伝え続けた。2年目の正月から店に新鮮なパンが並び始める。
 断られても諦めず、お店の主人や取引先を説得する日々を重ね、1号店から2年後の76年5月、総店舗数が100店に到達する。ホテルでの記念式典。加盟店オーナーとご家族の前あいさつで挨拶に立った私は感きわまり、言葉につまって、思わず涙がこぼれた。
 初めは5店舗になったら先が見えるのではないかと思い、いや10店舗になったら、50店舗になればと1店1店積み上げた。何とかいけそうだと自信めいたものを持てたのが100店舗だった。後にも先にもこのとき以外、仕事で涙したことはない。

買い手の時代へ 
  日本で初の共同配送 メーカーの思い込み覆す

 小口配送と並んで、セブンーイレブンがもう一つ、全力を挙げて取り組んだ物流改革がある。商品の共同配送だ。
 創業当初、1店舗への納品車両台数は1日70台にも上った。メーカー及びその系列の特約問屋がそれぞれ独自に配送していたためだ。
 牛乳も全農、明治、森永、雪印など各社が別々に配送する。納品時間が重なると店の前に車が何台も並び、恐ろしく不経済だ。そこで地域別に担当メーカーが他社製品も混載する共同配送を提案した。これも常識を破る素人発想だったようで猛反発を食らう。
 「あなた方はブランドに対するメーカーのプライドがわかっていない。よその商品をうちの車に載せられるか」
 当時メーカーから一部配送を委嘱されていた街の牛乳販売店では真夏でも非冷蔵車が使われていた。「プライド」というならそこまで品質に配慮すべぎではないか。
 結局メーカー側は、商品を置いておけばそれで買ってもらえるという、売り手市場の時代の供給側の勝手な思い込みから抜け出ていなかった。
 市場の真実を知ってもらおう。私は店頭で実験を試みた。従来はあるメーカーが納品に来ると他社製品は奥の方に動かし、自社製品をずらり前に並べていた。売れ方はあまりよくなかった。そこで各銘柄をそろえ、顧客が自在に選べるように並べてみた。すると集客力が上がり、どの銘柄も売り上げが伸びた。こうして売り手の都合が通用しない買い手市場の時代に入ったことを実証していった。
 各メーカーに混載方式を納得してもらい、日本の流通史上初の牛乳の共同配送が1980年にスタートする。半年後には各社とも配送経費が3分の1に低減、販売量も増加した。
 同配送はその後、飛躍的に進化する。商品の特性に合わせて4段階の温度帯別に集約する共同配送センターを地域ごとに設置。納品車両は1日9台にまで削減される。
 この配送で最も大きなウェートを占めるのが、セ氏20度の最適温度で管理される弁当、おにぎりの米飯類だ。今やコンビニを代表する商品となった米飯類も、最初は供給側の思い込みや常識から抜け出すことから始まった。
 コンビニの利便性を考えれば、ファストフードの品ぞろえは欠かせない。日本ならおにぎりやお弁当だが、まわりからは「そういうのは家でつくるのが常識だから売れるわけがない」と反対されだ。
 本当にそうだろうか。日本人の誰もが食べるものだからこそ、大きな潜在的需要が見込まれる。よい材料を使い、徹底的に味を追求すれぼ、必ず支持される。そう信じて反対論を説き伏せた。
 おでんも、調理麺も、浅漬けなども同じ考えから生まれた。新しい需要は店の中ではなく外にあるものだ。
 ただファストフード類もつくって並べればそれで売れるわけではない。発注は前日行う。その時点では、明日、どんな顧客がどんな商品を求めるかわからない。そこで仮説を立て、発注する。そして結果を検証する。
 仮説と検証をセブンーイレブンではアルバイトの高校生も行うが、これを可能にしたのが78年に着手した情報システムだった。

 

情報システム化 
  単品管理、POSに着目 販売量予測へ仮説と検証

 情報システムの構築は創業当初からの懸案だった。4年目に入ると店舗数は300を超え、電話と手作業による受発注では対応できない。大手電機メーカーを1社1社訪ね、発注のシステム化を打診するが前例のない試みにどこも難色を示す。唯一応諾してくれたのが日本電気だ。
 初めはファクスを徒う方式を考えたが「それでは必ず限界が来る。発注データの電送を検討すべきだ」と助言してくれたのは当時の常務、後は社長、会長として手腕を振るう関本忠弘さんだ。
 しかし交渉の場は緊迫した。私が求めたのは他社の参考機種の半分のコスト、開発期間は提示された2年の4分の1、台数は500台。相手側からすれば、「非情なまでの低コスト、常識的に不可能な納期、とんでもない台数」だ。
 それでも最後は「コンピュータと通信の融合」を目指した会長の小林宏治さんが、「現場のニーズに応えずにいいシステムは開発できない。ユストは長い目で見ればいい。セブンーイレブンと組みなさい」と判断を示してくれたことで、取り組みが始まった。
 1978年、発注台帳から品目をバーコードが読み取り電送する当時では画期的な発注端未機ターミナルセブンが全店に展開される。ただこれは発注の効率化の域を出なかった。
 あるとき私は現場の責任者を店舗に行かせ、パンの品ぞろえを調べさせた。人気商品の欠品が目立つ。売り手市場では欲しいパンがなければ別の種類でも我慢して買ってくれた。買い手市場では顧客は、欲しいものしか買わない。
 ところが店舗ではパンをひとくくりで考えて単品に対する関心か依然低い。結果、欠品による機会ロスと売れ残りの廃棄ロスが生じていた。
 単品ごとに売れ筋と死に筋をつかむ。それには重要なデータが不足していた。当時は発注データしかなく、欠品を容易に把握できない。販売データが何としても必要だ。
 私はアメリカで普及し始めていたPOS(販売時点情報管理)システムに着目した。
 これを活用すれば、何がどの時間帯に何個売れたのかを知ることができる。ただ導入の前にやるべきことがあった。
 POSは販売データが詳細にわかるがゆえの怖さもある。人間は数字に影響されやすい。ある商品が前日何十個も売れると、明日も売れると考えてしまう。しかしそれば過去の実績にすぎない。
 明日の天候、温度、地域の行事予定・・・。多様な先行情報から顧客の心理を読み、何が売れそうか仮説を立て、発注し、結果をPOSで検証する。仮説と検証を繰り返し、機会ロスと廃棄ロスを最小化する。これが単品管理であり、このプロセスが大切なのだ。
 私は店舗を回って経営相談を行うOFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)を通して、オーナーからアルバイトまで単品管理の意識を徹底するよう努めた。
 そして、機を見て一気に開発に着手。83年、日本初の本格的POSシステムの全店導入が完了する。アメリカではPOSは主にレジの打ち間違いや不正防止が目的で、マーケティングヘの活用は世界初だったと後に知った。
 ただ単品管理は本当に難しい。今もすべての店で徹底できているわけではない。永遠の課題である。

 

財務基盤拡充 
  設立6年、最短で上場 ヨーカ堂本体は初の減益

 セブンーイレブンの経営の大きな特徴は、創業以来徹底してアウトソーシング(外部委託)を進めたことだ。効率化と低コスト追求といえば格好がよいが、要は自前で組織を持つ余裕がなかったのだ。
 親会社の反対を押し切って始めた以上、当てにする甘えは許されず、知恵を、絞るしかない。 
 1979年10月、設立6年弱で東証二部上場を果たす。当時、史上最短と知らされたが記録が目的ではなく、財務基盤を固めるために急がざるを得なかった。
 一方で周囲から「なんて非効率なことをしているんだ」とあきれられながら、創業以来続けてきた会議がある。
 全国各地で1人7−8店舗を担当するOFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)を毎週全員、東東の本部に集めて行う会議だ。変化対応業に徹するセブンーイレブンの最大の敵はマンネリだ。これを防ぐため、常に最新の知識を注入する。
 当然経費がかかる。80年当時で店舗数は1千店を超え、会議に億単位のお金が使われた。単なる情報伝達なら別の方法もあった。だが互いに考え方や価値観を共有するにはフェイス・トゥ・フェイスのダイレクトコミュニケーションに勝るものはない。これはIT(情報技術)時代の今も変わらぬ私の信念だ。
 自ら全員に経営のあるべき姿を繰り返し語り、一人ひとりの中に血肉化きせる。OFCは現場に戻り、店舗の状況に合わせて経営相談を行う。同時に毎年北海道から九州まで各地に足を運び、オーナー懇親会を開いて直接語る。トップから第一線のOFCまで考え方にずれがないことを認識してもらうためだ。
 本部にはトップ直轄のオーナー相談部も設け、店舗の声を常時ダイレクトにくみ上げるルートも用意した。その声をOFCたちにフィードバックしていく。こうして情報が常に循環しながらあるべき姿が共有されていく。
 テレビCM「開いててまかりた」のコピーは「コンビニをひと言で」と聞かれ、私が、とっさに答えた文句だが、あるべき姿の追求はコピーどおりの支持を得ていった。
 すべては大型店と小型店の共存共栄が可能なことを実証するために始まった。既存の常識で不可能なら可能になる方法を自分たちで考える。常識とは過去の経験の積み重ねから生まれる。素人集団で経験がなかった分、買い手の発想で常識のウソが見えた。
 セブンーイレブンは80年代には、従来の2倍のペースで出店を加速していく。
 ほぼ同時期にレストラン事業のデニーズも展開した。ニューファミリー層が台頭する中で、外食産業への進出を構想し、米デニーズ社と交渉。これも難航したが、74年に1号店がオープン、82年は上場を果たす。
 ヨーカ堂も70年代を通して店舗数は23店から102店ヘ、売上高は260億円から6900億円へと躍進。81年2月期決算で小売業の経常利益日本一に躍り出た。それが次の中間決算で創業以来初の減益に陥る。
 伊藤社長は「荒天に準備せよ」という海軍用語を掲げ、全杜員に危機感を訴えた。問題は根深く、業務の抜本的な見直しが必要だった。世に言う「ヨーカ堂の業革」が始まる。

 

単品管理を徹底 
  ヨーカ堂「業革」に着手 さなかに肝炎発病、即入院

 名門三越を抜き、小売業で経常利益1位になった1981年2月期決算から半年後、イトーヨーカ堂は中間決算で創業以来初の滅益に陥る。私は常務として管理部門を統括していた。
 なぜ減益になったのか。社内の大勢は第二次石油危機と結びつけたが、私は業務そのものに根本的な問題があると考えた。ある日、自宅のあった田無(西東京市)のヨーカ堂ヘワイシャツを買いに行くと、標準体形の私に合うサイズが品切れしていた。ほかのサイズはいくらでもあるのにだ。
 担当者に聞くと、シャツは。各種サイズと色をそろえた数十枚が1ロットで納品されていた。よく売れるサイズはすく生り切れる。次に注文するとまた数十枚1ロットで入ってくる。あまり出ないサイズはどんどん在庫がたまる。
 少し前まではそれでも成り立った。顧客は欲しいサイズが欠品でも近いサイズで妥協してくれた。在庫は安売りすれば処分できた。しかしもはや顧客は求める商品しか買わない。買い手市場への対応が決定的に遅れていた。
 翌年2月、私は業務改善プロジェクトを発足させ、全業務の抜本的な見直しに着手する。後に業務改革委員会と名称変更し、「業革」と呼ばれるこのプロジェクトで徹底したのは、一つ一つの商品の売れ行きと在庫を管理する単品管理、特に死に筋の排除だ。
 「在庫のロスを減らせば利益は倍増する」。そう訴えて、不良在庫が利益を食いつぶす現状や、死に筋が滞留して機会ロスを生じさせている現実を直視させようとした。
 だが営業担当者たちは「在庫を減らすと売り上ばが落ちる」「豊富な品ぞろえこそがスーパーの特徴だ」と過去の経験から抜け出せない。「販売経験がない人間に何がわかる」とまたも反対された。このとき営業部門を統括する常務の森田兵三さんが、「この際実行してみよう」と後押ししてくれたのは心強かった。
 人間は仕事の仕方を変えることに強く抵抗する。改革はむしろ経営破綻した時の方がやりやすく、まだ大丈夫だと思っている時が一番難しい。
 説得するには相手が納得するまで語り続けるしかない。データを示し単品管理の大切さを訴える日々か続いた。業革が始まってまもなく、私はB型肝炎を発病する。(中略)

 業革も次第に成果が出てきた。毎週各部門の責任者が100人ほど集まり、課題を議論し、結論が出たら一斉に動く。
 売上高経常利益率は81年2月期の3.3%から91年には6.6%へ倍増。「ヨーカ堂の業革」に注目が集まった。

 

サウスランド救済 
  「日米逆転」で本家再建 考え変えぬ経営陣に怒る

 「当社の経営を引き受けてもらえないか」
 サウスランド社のオーナーから支援を要請されたのは1990年1月、ハワイのセブンーイレブン58店舗を譲り受けた記念パーティでのことだ。3千数億円の負債を抱え、ハワイ店舗売却に続き、本体の救済を求めてきた。不動産、石油精製と多角化の失敗よりも元凶はディスカウント政策による本業の弱体化にあった。
 80年代、米国ではスーパーが24時間化を進め、ディスカウント戦略を強化。コンビにも追随し、熾烈な価格競争に巻き込まれて収益が悪化。他の大手チェーンも危機に陥り、「コンビニ時代の終焉」とささやかれた。
 しかし私はそうは思わなかった。既存の経営を否定し、変化に対応できる仕組みをつくれば経営は成り立つ。本家本元の支援を決意した。
 当座の必要資金は640億円。キャッシュフローの範囲内で仮に無駄になっても、われわれの経営は揺るがない。消極姿勢の伊藤社長には「これ以上は一文も出しません。ただもし失敗したら申し訳ありませんが、一番に責められるのは社長で次が私です。それでいいですね」。最後に確認し、了解を取った。
 91年、日本企業による戦後最大の米国企業再建劇が始まる。「日米逆転」とマスコミは報じた。
 「ハリケーン・スズキがやって来た」。渡米するたび、そう呼ばれた。実際すべてを壊さなければならなかった。店舗はどこも薄暗く汚れ、通路にビール、タバコ、清涼飲料のカートンが山積みされ、棚のパンはパサパサだ。「ここは倉庫か」。目を疑った。
 だが現地経営陣は考え方を容易に変えない。私は怒髪天を突く怒りをぶつけ、翻訳しきれない通訳の肩をたたいて叱責する様を目の前で見せた。そこまでしないと、血液を入れ替えるほどの意識改革は出来ないと覚悟した。
 最大の問題は現場の店舗が発注を他人任せにしていたことだ。一つは自社所有の巨大物流センターからの商品の押し込みだ。大量に安く買いつけ、需要と関係なく店舗へ押し込むため、山積みされる。
 私はセンターを売却し、物流を一括してアウトソーシングした。米国では物流施設の自社所有が常識だったため、驚愕の声が挙がった。
 もう一つの問題はベンダー(配送機能を持ったメーカーや卸売業者)によるルートセールスだ。営業マンが店舗を回り、自社都合で商品を並べる。オーナーは発注の手間が省けるが、これを変えない限りは再生しない。「発注こそ店の特権だ」。そう唱えて単品管理を導入させた。
 発注を任された従業員は、担当商品の売れ行きを休みの日でも店に電話で確認する自発的な取り組みをみせた。OFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)たちも以前はマニュアルを手にチェックをするだけだった。「ポリスマンでなく、慕われるティーチャーになれ」と意識改革を求めた。ファーストフードもベンダーと共同開発し、新鮮な商品を専用工場でつくり投入した。
 3年目に黒字転換。2000年にはニューヨーク証券取引所に再上場を果たす。単品管理はそのまま「タンピンカンリ」かTKの略称で定着することになる。

ヨーカ堂総会屋事件 
  社長が引責、私にお鉢 消費飽和時代、心動かす試み

 サウスランド社の再建が始まった翌1992年10月、イトーヨーカ堂に激震が走る。総会屋に利益供与した商法違反容疑で幹部が逮捕された。
 総会屋との関係は株式上場時にスカウトした役員が「保険のつもり」で始めたらしい。副社長として無責任のそしりを免れないが、私はこのときまで知らなかった。
 創業以来の混乱を収拾するため、伊藤社長は辞任を決意する。財務経理は担当外とはいえ、管理部門を統括する立場上、私の管理責任も重い。ちょうど60歳で普通なら定年だ。辞意を伝えると伊藤さんが「それは困る。君にあとを引き受けてもらいたい」という。逡巡したが最終的には周囲からも推されて社長職に就いた。
 世の中はバブル崩壊後の低迷期に突入していた。総合スーパーは成長が鈍化し、ヨーカ堂も店舗数は増えても単体業績は伸び悩みが続いた。
 「ものが売れないのは不景気のせいだ」と誰もが考えた。しかし本当はそうではなく、80年代を通して進行した消費の構造的変化、売り手市場から買い手市場への変化が本格化したと私は思った。お金がないから買わないのではなく、欲しいと思う商品がないから買わない。実際世帯の月平均可処分所得は90年代も伸び続け、一番高かったのは96−97年ごろだ。デフレも進行し、「安くしなければ売れない」と誰もがいったが、安くても既にある同じようなものはいらないと考えるのが消費の飽和時代だ。
 通常1着3万円以上する品質のスーツを海外で大量生産し、8200円の常識破りの価格で売り出したことがある。5日間で11万着売れたが第二弾は不発に終わる。顧客は「新しい仕掛け」に価値を認め、第二弾の同じ企画にはもう価値を認めなかった。
 消費税率が5%に引き上げられた翌98年には消費税分還元セールを発案した。当初、営業幹部に提案すると、「普段の売り出しで10%、20%引きでも必ずしも売れるわけでないのに5%では魅力を感じてもらえないのでは」と大半が反対意見だ。
 ならば前年の北海道拓殖銀行の破綻以来、消費が冷え込む北海道で試そう。これが大反響を呼び、翌週は全店に展開。売り上げは前年比60%増しのヒットとなった。「不況突破、消費税分還元」のタイトルが消費者心理に響いだのだ。
 買い手の心理が消費を左右する時代。その大きな特徴は画一化。特定商品に人気が一気に集中する。「多様化」の方が耳に心地よいが日々膨大な販売データに接して実感するのは画一化だ。しかも以前は徐々に売れ始め、徐々に落ちる「富士山型」だったのが、一気に売れてすぐにピタッと売れなくなる「茶筒型」へと変わって来た。
 商品のライフサイクルが短縮したため一定のスパンでは多様化に見えるが、ある時点で輪切りにすると画一化している。90年代後半からヨーカ堂では衣料品部門の業績が下降するが、その要因は消費マーケットが変化しているのに、過去の成功体験で対応しようとしたをころにあった。
 人間は環境が厳しくなるほど、過去の経験に縛られてしまう。意識を変え、行動につなげることは本当に難しい。

 

役員試食 
  質追求、何度でもNG 食感を数値化、ヒット生む

 1990年代に入り、本格的な消費の飽和時代になると、セブンーイレブンで扱うめん米飯、麺類、調理パンなどの商品も、より一層の質の追求が不可欠になった。
 「これはチャーハンとはいえない」。ある日、すべての店頭から一斉にチャーハンが消えた。命じたのは私だ。
 セブンーイレブンでは役員が毎日昼食時に集まり、自社商品を試食する。開発中の試作品が多いが、既存商品も適宜取り上げ、もしNGが出れば即販売を中止する。
 その日のチャーハンはパラっとした仕上がりとは程遠かった。「そこそこ売れている」と聞いて、それこそ問題だと、担当者にこう問うた。「売れているからいいのか。この程度のチャーハンが売れていることにこそ危機感を持つべきだ。売れれば売れるほど信用が失われていくんだ」
 ベタつく原因は調理の火力不足で、新しい調理設備を開発するところからやり直した。要した期間は1年8カ月。生まれ変わった本格チャーハンは大ヒットする。
 これを機に和洋中の料理の第一人者の指導のもと、徹底して質を追求する料理家研修プロジェクトに着手した。食のあるべき姿を掲げ、「これ以上は無理だ」と思い込む限界意識を払拭する。
 だしを取るかつお節も原材料から見直す。漁獲海域を赤道近辺に指定して脂肪分の少ないカツオを厳選。本場鹿堀島・枕崎で3カ月手間をかけ、味が抜群によい本枯れ節をつくる。取引先からも「ここまでやるのか」と驚かれた。
 このかつお節を消費地近くで削り、味覚の地域性に合わせて調味したそばつゆは、つゆだけを分けてくれと請われるほど好評を博している。
 コンビニの弁当にはネガティブな印象を持つ人もいる。だからこそ「家庭で食べるもの以上に安心安全でなければならない」と私は言い続けた。
 弁当工場で保存料や合成着色料を使わないだけでは不完全だ。調味料や原材料のメーカーにも、一般に使われている保存料などを除いてもらい、専用につくってもらう。共同で商品開発する弁当メーカーの専用工場で生産するので品質管理も万全だ。
 最後の関門は役員試食だ。冷やし中華のリニューアル版でのことだ。元祖といわれる有名店の麺を上回るよう指示したが質が及ばない。担当者は私の部屋に直接試作を何度も持ってきたが今ひとつだ。
 それがある日、格段に向上している。担当者は1枚のグラフを差し出した。縦軸に硬さ、横軸に弾力をとって麺のコシを数値化し、モデル店の麺、前回と今回の麺をそれぞれ比較し、いかに目標に近づいたかを示していた。
 連敗中は感覚頼りの開発だったが数値化により目標を明確にし壁を突破した。以降、感覚と数値化を併用する方法が定着。多くのヒット商品の開発へと結びついていく。
 あとで聞くとOKを出したのは12回目の試作で、11回連続NGを出していた。
 妥協するのは簡単だが、妥協したときすべてが終わる。部下がいかに自己正当化しようと、追い詰めて今の方法では駄目だと気づかせ、殻を破らせるのが上司の役目だ。どんなにおいしいものも続けて食べれば飽きる。重要なのは差別化で、去年と同じなら必ず飽きられる。


新銀行構想 
  決済専門、独自に免許 一時は日債銀買収に傾く

 「日債銀の買収にヨーカ堂も参加しませんか」
 ソフトバンクの孫正義社長から一本の電話が入った。孫さんは起業したころからの長いつき合いだ。
 電話は国有化されていた日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)をソフトバンク、オリックス、東京海上火災保険(当時)が共同で買収するので一緒に出資しないかとの誘いだった。1999年11月のことだ。
 当時私はセブンーイレブン店舗へATM(現金自動預け払い機)を設置するATM共同運営会社構想を進めるか、主体的に銀行ビジネスにかかわるため、既存銀行を買収するか、決断を迫られていた。
 87年にセブンーイレブンが始めた公共料金などの収納代行サービスは、利便性のよさから取扱額がどんどん伸びていた。店舗にATMがあれば利便性は格段に高まる。
 最初はATM共同運営会社構想を都銀4行と準備を進めた。その一方で既存銀行の買収案も並行して探っていた。
 すると日債銀の子会社、日債銀信託銀行が候補に挙がる。資本金50億円、従業員12人。買収コストは大型スーパー 一店分に相当するという。「ならば動いてみるか」。そんなさなかの電話だ。
 「日債銀に出資する気はないが日債銀信託なら欲しい」と答えると孫さんは「買収後に分離してはどうか」。日債銀買収参画に傾いたとき、日経新闇が11月12日付でこの1件をスクープする。
 ATM共同運営会社構想を進めていたメンバーが驚いて駆け込んできた。しかし共同運営には致命的な問題があった。銀行法上、設置するATMは提携する各銀行の出張所扱いにせざるを得ない。これでは、利用手数料や設置場所の判断などで主体性を取れない。百年の計を考えれば白紙に戻す決断しかない。
 一方日債銀買収の方も、日債銀信託を切り離すには5年もかかることが判明。離脱する。残る選択肢は一つ。独自に銀行免許取得を決意した。
 11月29日、「銀行設立趣意書」を金融監督庁(現金融庁)に提出、利用者が店内のATMを使い、口座を持つ様々な金融機関から引き出す際の手数料を収益の柱に据え、基本的に融資などは行わない決済専門銀行の構想だ。
 翌年1月、流通業が自前の銀行をつくる前代未聞のプロジェクトがスタートする。沸き上がったのは金融業界を中心に否定論の嵐だ。
 「収益源がATMだけで成り立つはずない」「素人が始めても絶対失敗する」……。中には「万一成功したら銀座を逆立ちで歩く」といった声まで闇こえた。
 実際難航した。ある日、セブンーイレブンの財務担当常務でプロジェクトの中心を担った氏家忠彦君が、四面楚歌の交渉に疲れ果てたのか暗い表情でやってきた。沈んだ様子に私はこう声をかけた。
 「失敗してもいいじゃないか。失敗も勉強のうちだよ」
 確かなニーズがある以上、挑戦する価値はある。ただ絶対の自信があるわけではない。仮に失敗してもこの範囲内なら決定的なダメージは受けないという線引きの決断を行い、あとは思い切りやらせる。責任はトップが取る。
 この日を境にプロジェクトは軌道に乗った。

 

IY銀発足 
  素人とプロ融合、3年で黒字

 新設する銀行のトップは誰にするのか。元日本銀行理事で一時国営化された旧日本長期信用銀行(現新生銀行)の頭取として幕引き役を務めた安斎隆さんを紹介された。
 「あなたに決めました。何が何でも引き受けてもらわないと困ります」。会って話すうちにこの人なら大丈夫と直感し、その場で強引に返答を求めた。「今度は産婆役ですな」。会津弁が残る語り口に飾らない人柄が表れていだ。
 「顧客だけを見て下さい。ほかは見なくて結構です」。お願いしたのはそれだけだ。顧客のニーズから目を離さなければ、経営は揺るがない。
 こうして社長が決まり、メンバーの奮闘も積み上がって、難航したプロジェクト次第に変化が現れる。
 2000年1月に発足したプロジェクトチームはイトーヨーカ堂グループ(IYグループ)の素人集団と、ATM(現金自動預け払い機)共同運営会社構想を一緒に進めた銀行六行(旧さくら、旧あさひ、旧三和、旧東京三菱、横浜、静岡)から派遣された支援部隊からなる異種混合の連合体だった。
 支援部隊とはいえ、流通業が自前の銀行をつくることに肯定的ではなかった金融業界の人々だ。当初は素人集団との間で常識のズレがあった。
 新銀行が成り立つためには徹底した低コスト運営が不可欠だ。従来は1台800万円を超えたATMを200万円程度で開発する。少人数体制で1年目から都銀1行分の半数以上にあたる台数を設置運営する。北海道全域に300台近くを一斉稼動させる・・等々。
 IYグループは常識破りの低コストやPOSの全国一斉交換などを当然のようにこなしてきた。困難でも挑戦すべきだと考えることが金融の専門家の目には常識外に映る。
 IY側メンバーは新銀行の原点を体感してもらおうと、「ヨーカ堂やセブンーイレブンに奥さんと出かけてみて下さい」と声をかけ続けた。
 率先してくれたのが安斎さん自身だ。自分ではほとんど買いものに行かない人がヨーカ堂で自ら買い求めた8200円のスーツで出社する。「安斎さんが着ると高級スーツと変わらないね」。冷やかすと「ワハハ」と屈託ない。
 支援部隊の面々もお店に足を運び、何のために銀行を設立するのか理解しようと努めてくれた。部隊の融合が進むにつれ、法規制など基本部分では専門家の知識を活かし、その上で既存の壁を打ち破るスタイルが定着していった。
 監督官庁との折衝、提携金融機関の確保など課題を次々克服。翌01年4月、銀行免許の予備審査終了証を受領し、アイワイバンク銀行(現ゼブン銀行)を設立。5月7日、開業にこぎ着ける。
 最初はやや伸び悩んだが、ATMの設置台数が一定レベルに達したころから利用件数が急速に増え、採算ラインを突破。ネット銀行など新設4銀行の中で唯一、金融庁が課した「3年以内の黒字化」を達成する。
 強いニーズがある以上、きっと成り立つ。それは一つの信念だった。みんながいいと言うことは単純競争に陥り大抵失敗し、みんなに反対されることはなぜか成功。
 常に顧客の立場で考え、判断してきた。だから決定的な失敗をせずにここまでこれたのだろう。

 

中国へ進出
  日本流 頭下げる接客 文化の壁越え価値観移植

 「歓迎光臨(ホワンイングワンリン)」。北京のセブンーイレブンに入ると一斉に声がかかる。お金の授受も両手だ。接客のよさは群を抜く。
 「流通近代化のためにセブンーイレブンに出店してもらいたい」。中国政府から伊藤忠商事を介して要請がきたのは1990年代半ばだ。
 だが物流などのインフラが未整備だったため、イトーヨーカ堂が先行した。四川省成都に97年11月に開店。続いて98年4月。北京へ進出する。
 中国展開の責任者として赴任した塙昭彦君と麦倉弘君のコンビで中国人店長の起用、幹部社員育成など前例のないほど現地化を進め、業績も好調で「最も成功した外資」と評価されている。だが初めは中国の壁にぶつかっては打ち破る、その繰り返しだった。
 最も苦労したのは取引先の開拓だ。現地ではまったく無名。直接訪ねても門前払いは数知れず、居留守を使われることも多い。担当者に会えても、取引したいなら先に現金を持ってこいといわれる。それでも困難であるほど乗り越える意欲を燃やした。
 接客サービスでは文化の壁が立ちはだかった。中国ではもともと安易に他人に頭を下げてはいけないと教えられる。しかも長く配給制が続いたため、買った側が礼を言っても、売った側が頭を下げるなど想定外だ。接客の基本から理解してもらわなければならない。地道な努力は開店後に大きく実を結んでいった。
 続いて中国政府認可の初の外資系コンビニとしてセブンーイレブンの出店準備が始まる。主力の弁当類はどうするか。ある日、責任者の牛島章君が本社へ直談判に来た。
 「店内調理をやらせてほしい」と切羽詰まった様子だ。店内調理は店舗ごとに差が出る可能性があり、国内では行っていない。だが北京の食文化に対応するには出来たて感が必要でニーズは必ずあると訴える。小売業はドメスティック(国内的)なものだ。「やってみなければわからないだろう」と挑戦を認めた。
 開店の前の週、北京にいた私は準備中の店を訪ねた。店内を1時間ほどかけて回った。何かが違う。翌朝どうしても気になり、電話をした。「牛島君、わかっているな」「ハイわかっています。やり変えます」
 話はそれだけだったが、その日、責任者自ら徹夜でレイアウトをすべて変えた。初出店なのでとりあえず日本の標準に近い形にしておこうと保守的心理が働いていたのだ。手直しされた売り場は北京の人々にセブンーイレブンがどんな店か一目でわかるような陳列に大きく変わっていた。
 トップと社員がひと言で了解する。企業のDNAを共有しているからで、私がダイレクト・コミュニケーションを重視する理由もここにある。
 このDNAを中国にも移植する。発注も当初はあえてシステム化せず、売り場で売れ行きを確認しながら伝票に手書きし、単品管理の基本を体で覚える。
 2004年4月、開業した1号店は大盛況で入場制限が3日続いた。現在直営50店舗。おでんや弁当、おにぎりが好評でフランチャイズ展開も始まる。ヨーカ堂は北京6店、成都2店、中国初の本格食品スーパーも北京に開店した。今後が楽しみだ。

 

グループ再編成 
  持ち株会社化、5ヵ月で ミレニアム買収の呼び水に

 「グループを持ち株会社化する。スケジュールを立ててほしい」。2005年の仕事始めの1月4日、私の突然の決断に周囲は相当慌てたようだ。
 親会社のイトーヨーカ堂よりセブンーイレブン・ジャパンの方が時価総額が大きい資本のねじれを解消するため、持ち株会社を設立し、傘下に各社が入る形に再編成する。年の初めに意を決した。
 株式交換比率を始めクリアすべき問題が多く、9月に臨時株主総会を開くのが精一杯とスタッフ。挑戦すればもっと早くできるはずだ。5月の定例総会までにと厳命した。
 ヨーカ堂は1990年代以降、売上高、利益とも伸び悩んだ。だが、配当によって連結決算では課題評価されてしまう。一度裸になって現実を自覚する。持ち株会社化はヨーカ堂の自力再生の意味合いも大きかった。
 9月1日、セブン&アイ・ホールディングスが発足。セブンはコンビニ、スーパー、レストランなど7つの領域を、アイはイノベーション(革新)の頭文字と「愛」を表す。各事業会社は事業に専念できるよう完全子会社化した。この再編成がその後の思わぬ展開の呼び水となる。
 11月に入り、破綻したそごうを立て直したミレニアムリテイリング社長の和田繁明さんが、われわれの持ち株会社化を評価してくれているとの話が伝わった。
 和田さんとは以前、西武百貨店再建のため社長に返り咲いた際、講演を頼まれて以来のつき合いだ。百貨店の再建手腕で右に出る者はいない。
 そごうと西武有貨店を傘下におくミレニアムリテイリングは野村証券系の投資会社が株式の65%を保有し、上場を計画していた。ただ和田さんは安定株主を、できれば同じ流通業界に求めていた。「ならばうちに来ませんか」。話は自然にまとまった。
 11月半ばから準備を進め、12月26日に記者会見を開いた。「流通の歴史的再編」とマスコミは報じた。翌06年6月、
ミレニアムリテイリングを完全子会社化し、経営統合が完了した。
 9月には
ヨークベニマルを子会社化した。73年の業務提携以来、密接な関係を築いてきたが、経営基盤をより強固にするため大高善興社長が決断してくれた。
 消費の階層分化が明確な米国などと異なり、日本では一人の顧客が必要に応じて百貨店、専門店、スーパー、コンビニなどを使い分ける。世界で最も対応が難しい日本の顧客ニーズに応えるには、各業態がコングロマリット(複合企業体)的に結びつき、情報を共有する必要がある。持ち株会社化のもう一つの理由だ。
 米国のセブンーイレブンも完全子会社化し、店舗総数世界3万3千店、売上高8兆円の巨大流通グループとなる。
 十数年前、伊勢丹株を買い占めた不動産会社の秀和から買い取りを誘われた際は断った。労働集約型の小売業は人心第一だが、相手にその気がなかった。ミレニアムのときは、和田さんに「いいご縁だ」と言ってもらえた。
 もし持ち株会社化が遅れたら、この展開はなかったかもしれない。気の短いトップを持つとスタッフは大変だが、経営は決断したらすぐ実行することだ。

 

感謝の気持ち
 仲間・家族に支えられ家 庭は妻任せ、仕事に専念

 ミレニアムリテイリングとめ統合を果たす一方で、売却せざるを得なかった子会社についても触れておかなければならない。総合ディスカウントストア、ダイクマの話だ。
 30年前の資本提携時には成長が期待された。だが所得階層ごとに使う店が異なる諸外国と違い、一人の消費者が高級専門店でも百円ショップでも買い物をする日本では、低価格戦略だけでは難しい。
 売却先としてヤマダ電機が挙がる。従業員の継続雇用を唯一の条件としてお願いすると、「必ず大事にします」といってもらえた。これ以上望むことはない。
 マイナス情報も包み隠さず、全データを開示し、示された価格をそのまま受け入れた。2002年5月売却。「安い」という社内の声にはこう答えた。
 「希望する人は全員ヤマダ電機の傘下で働く。売却価格が安いと思うなら、その分は移っていく人たちへのプレゼントだと思ってほしい」
 交渉で値をつり上げたしわ寄せが売却後、従業員に及ぶようなことがあったら忍びない。これまで一緒に働いてきた仲間たちへのせめてもの感謝の気持ちだった。

 グループが今あるのは多くの人々の努力の結果だ。私は販売も仕入れも直接携わった経験がない。だから顧客の立場で考えるしかなく、自身の顧客心理から「おいしいものほど飽きる」などと一見理解しがたいことを言い続ける。実現するのはみんなの力だ。
 「セブンーイレブンの弁当だからこそ家庭でつくる以上に安心安全であるべきだ」「専門店の質に負けるな」といえば社員たちが取引先と力を合わせて挑戦してくれる。
 「商品の発注は常に仮説を立てなければならない」と唱えれば、アルバイトの人たちも周辺の工事現場の日程を見て、情報を集めてくれる。
 家族にも支えられた。(以下略)

 

毎日が瀬戸際 
 任されて存分に働く 経営手法、MBAの教材に

 入社以来、長い歳月を共にした伊藤雅俊名誉会長とは対照的に見られがちだが、あらゆることを顧客の立場で考えるという経営の基本理念は変わらない。
 伊藤さんは石橋を叩く。セブンーイレブン設立、サウスランド社救済、中国進出とその都度慎重な姿勢を示したが、了解すればあとは任せてもらえた。
 やるべき価値があると思ったら中途半端にできない。言いたいことを言い、やりたいことをやる私のような部下は、他の経営者の下だったら3日でクビになったはずだ。そんな私の意見を入れ、後継者にまで選んだ伊藤さんは懐が深く、手のひらの上で動いていたようなものだ。
 イトーヨーカ堂やセブンーイレブン・ジャパンの経営は海外でもたびたびケーススタディーとして取り上げられてきた。2004年4月には米ハーバード・ビジネス・スクール、6月には英ケンブリッジ大学に招かれ、それぞれ約100人の経営学修士(MBA)受講生を前に講義を行う機会を持った。
 学生たちが特に関心を示したのは「消費は経済学ではなく心理学」という持論だ。「心理学的にどのように顧客の購買意欲を刺激するのか」「出店政策に心理学がどう役立つのか」と具体的な質問が相次ぎ、私も実践例で答える。最後に両校ともスタンディングオべーションが起こったのはうれしい驚きだった。
 かつてサウスランド社救済の際、社外取締役に就任してもらったハーバードの有名教授とコンビニエンスストア経営の方向性をめぐってぶつかり、大論争した日々が脳裏をよぎり、隔世の感があった。
 グループの経営が海外で研究対象や教材として紹介されてきたことなどが評価ざれ、03年に母校中央大学から名誉博士号を授与される。
 そして、05年には大学の理事長職を引き受けた。少子化時代を勝ち抜くための学校経営の改革が民間企業から参画する私の役割だろう。
 過去の延長ではなく、未来から顧みて何をすべきかを考え、挑戦する。これをブレイクスルー思考と呼び、グループを挙げて取り組んでいる。
 成功する保証はなくても7割方可能性が見えたら挑戦してみることだ。運もある。私の場合、組織にしがみつかなかったことが逆に運に結びついたのかもしれない。
 今も仕事から手を引くまであと何段上ればいいなどと計算ずくで考えたことはない。リタイア後はあれとこれをしようなどという算段もない。
(中略)
それまでは毎日が瀬戸際と思い、一日一日を精一杯生きる。当たり前のことを当たり前に、ただし徹底してやり通す。これが私の生き方だと思っている。



2005/12/26  日本経済新聞

セブン&アイとミレニアムが経営統合、「情報システムの共通化で効率化を追求する」

 セブン&アイ・ホールディングス(セブン&アイ)とミレニアムリテイリング(ミレニアム)は12月26日、事業提携と経営統合に関する記者会見を開催し、統合の方針について説明した。その中で両社は、2011年までに情報システムの運用を含むバックオフィス業務を一元化し、子会社を設立してシェアド・サービス形式で提供することを明らかにした。ミレニアムの和田繁明社長は、それによって「効率化をとことん極める」と話す。

 セブン&アイはGMS(総合小売業)「イトーヨーカ堂」やコンビニエンス・ストア(CVS)「セブン-イレブン」、外食の「デニーズ」などを傘下に持つ。一方のミレニアムは百貨店「西武百貨店」と「そごう」の持ち株会社である。セブン&アイは2006年1月末までに、ミレニアムの株式の約65%を取得し、子会社化する。

 両社は経営統合に当たり、財務や人事などのバックオフィス業務を一元化すると同時に、バックオフィス業務を支えるシステム開発・運用業務をシェアド・サービスにする見込みだ。シェアド・サービスとして業務を切り離すことで、ホールディングス本部が事業戦略の策定に専念できるようにする。同時に「可能な限り、コスト削減を目指していく」(和田社長)。

 カード・ビジネスなどITを活用したサービスについても、2011年までに両社で共通化する予定だ。セブン&アイの鈴木敏文会長は、「ミレニアムがいち早く、顧客情報を活用したパーソナル・マーケティングを実施したことに感銘を受けた」点を、ミレニアムを提携先として選んだ理由の一つとして挙げる。

 鈴木会長は、「百貨店を運営しているミレニアムの考え方を入れて、互いのよさを出し合えば、当社のGMSやCVSに改革を起こすことが可能になる。これは大きなメリットと考えている」と、セブン&アイにとっての経営統合の意義を強調。2007年2月期に上場を予定していたミレニアムは、「フジテレビや阪神電鉄の買収騒動を見て、安定株主の必要性を痛感していた。候補として20社程度を検討したところ、当社の業務を深く理解してくれるセブン&アイが最適な相手だと考えた」(和田社長)とした。

 セブン&アイは、2006年1月31日までに野村プリンシパル・ファイナンス(NPF)が保有するミレニアムの株式すべてを、1株当たり2622円の現金で買い取る。これは発行済み株式総数の65.5%に相当する。その後2006年3月末までに、残りの株式を持つ株主からセブン&アイがNPFと同じ条件で買い取るか、6月末までにセブン&アイの株式と交換(比率はミレニアム1株に対してセブン&アイ0.61株)することで、ミレニアムを完全子会社化する。

 セブン&アイは、ミレニアムの子会社化に約2000億円を投じる。経営統合後の両社の年間売上高は約4兆6000億円となり、連結でGMS「ジャスコ」などを運営するイオンを抜き、日本最大の流通グループとなる。

 両社は今後、取締役の交換や統合準備委員会の設立を通じて、「両社のノウハウを交換して、新たな戦略を作り上げていく」(和田社長)予定だ。和田社長は、2006年5月下旬にセブン&アイの副会長に就任する。ミレニアムの名称は消えるが、西武百貨店やそごうのプランド名は残る。鈴木会長は、「今回の経営統合は単なる買収ではない。“革新”のGMSと“伝統”の百貨店を融合した上で、互いの業種や業態を尊重した形で残していく」と説明する。


2006年4月12日 日本経済新聞

セブン&アイ、ヨークベニマルを完全子会社化、スーパー部門の中核に

セブン&アイ・ホールディングス(セブン&アイHD)は、傘下のスーパーマーケット・チェーンであるヨークベニマルを株式交換により完全子会社化する。両社が4月11日に明らかにしたもの。スーパーマーケット部門の経営の一元化と迅速化を図るという。同日、株式交換契約書を締結した。

セブン&アイHDは、現在ヨークベニマル株の31.4%に相当する1588万株を保有している。新たにヨークベニマル株1株に対し、セブン&アイHD株0.88株を割当て交付し、完全子会社化する。株式交換の予定日は9月1日。

福島県郡山市に本社を置くヨークベニマルは、1973年に同業のイトーヨーカ堂と業務提携。同社と仕入れ、物流などで協力しながら、東北地域でスーパーマーケットを展開している。これまで業績は堅調に推移しており、2006年2月期の通期連結売上予想は前年比8.9%増の3182億円。経常利益は同4.5%増の148億円を見込む。

セブン&アイHDは今後、ヨークベニマルをスーパーマーケット部門の中核企業と位置付け、経営を一元化。同社の企業戦略、商品展開、店舗ネットワーク、コスト管理技術などを活用するという。

 


日本経済新聞 2007/5/26

セブンイレブン 陰る成長神話 
 鈴木会長に聞く 変化よみ店舗運営改革

 コンビニエンスストアの過剰感が高まるなかセブンーイレブン・ジャパンが成長を取り戻すには、より魅力のある商品・サービスの開発などで顧客を店舗に引き戻すことが急務だ。だが価格競争の進展や加盟店支援によるコスト増など収益を圧迫する要因もつきまう。変化する事業環境にどう対処していくのか。セブンイレブン会長を兼ねる鈴木敏文セブン&アイ・ホールディングス会長に聞いた。

ー 2007年2月期は初の営業減益となった。原因をどうみるか。
 「暖冬や冷夏などの気象要因や、店舗数が1万店を大きく超え新店によるチェーン全体への寄与度が小さくなったことなどが重なっていた。だが最大の問題は店舗運営の仕方が時代にあっていないことだと考えている」
 「主要顧客の年齢層が二十代から三十代以上へ上がっていることに対応できていない。地域に高齢者が多いのならば、健
康志向の弁当や容量の小さな総菜が目立つような売り場にするべきだが、店舗は昔の成功体験をもとに商品を発注している。廃棄による損失を恐れて発注を減らし縮小均衡に陥る加盟店もある。本部が指導してこれを変える必要がある」

ー コンビニの店舗数は4万店を超えた。市場がすでに飽和したとの見方もある。
 「セブンイレブンはまだ34都道府県にしか出店していない。都内も出店余地はまだ十分にある。飽和という言葉を安易に使うべきではない。市場が成熟しても質の高い企業は他社のシェアを奪って成長できる」

今は過渡期
ー だがセブンイレブンも1店舗の1日当たり売上高がピーク時から1割以上落ちている。
 「望ましいことではないが、変化の時代にはある程度やむを得ない。それにいつまでも減益が続くとは考えていない。加盟店の運営指導の強化や店舗の立地移転、新商品の開発などで対応する」

ー 高水準の出店で既存店の落ち込みをカバーするモデルはもう通用しないのではないか。
 「今は過渡期だ。店舗のスクラップ・アンド・ビルドに力を入れているので店舗数自体はあまり増えていない。今期は900店を出店する一方で450店を閉鎖する。あと1−2年はこれを続けるが、その後は成長力が回復するとみている」

ー 低価格の独自企画商品を投入し、調味料も値下げした。価格競争に陥る懸念はないか。
 「24時間営業していて家や職場から近いというコンビニの利便性は変わらない。顧客は価格だけでは店を選ばない。調味料は、いかにもコンビニは高いということを象徴していたので値下げした。独自企画商品も質の良いものを提供するために開発している」

ネット通販統合
ー インターネット通販で商品を店頭で受け渡すサービスの強化も掲げているが、子会社のセブンドリーム・ドットコムはまだ魅力に乏しい。
 「品ぞろえや仕組みが遅れていることは率直に認める。最近セブンイレブンで始めた食品のネット通販と統合して強化する。受け取る店舗網の強さが武器になるはずだ」

ー コンビニはこれからどう進化するのか。
 「すでにATMを設置し収納代行も手掛けているが、今後両替機の設置も開始する。物品販売が主体である乙とは変わらないが、さらに多くの機能を求められるようになるだろう」
 「他社は顧客層を絞った業態の展開を手掛けているが、コンビニは商圏がもともと狭いのに、さらにターゲットを絞っては成り立たない。高齢者だろうと若者だろうとより便利に使えるようにすることがコンビニの本質的な改革だ」