2006/7/20 日本経済新聞           朝日新聞

A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感
 参拝中止「それが私の心だ」 元宮内庁長官 88年、発言をメモ


 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。

 靖国神社に参拝しない理由を昭和天皇が明確に語り、その発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。「昭和天皇が参拝しなくなったのはA級戦犯合祀が原因ではないか」との見方が裏付けられた。
 富田氏は昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。日記は同庁次長時代も含む75−86年まで各1冊、手帳は86−97年の二十数冊が残されていた。
 靖国神社についての発言メモは88年4月28日付で、手帳に張り付けてあった。昭和天皇はまず「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と語ったと記されている。
 「松岡」「白取」はA級戦犯の中で合祀されている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、「筑波」は66年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら、合祀しなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)を指すとみられる。
 さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と述べている。
 この部分の「松平」は終戦直後に最後の宮内大臣を務めた松平慶民氏(故人)と、その長男で78年にA級戦犯合祀に踏み切った当時の松平永芳・靖国神杜宮司(同)を指すとみられる。
 同日付のメモの前半部分には、天皇誕生日(4月29日)に先立って行われた記者会見で、戦争に対する考えを質問されたことへの感想も記されていた。
 会見で昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えているが、メモでは一部の政治家の靖国神杜を巡る発言にも言及しつつ「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したかった」と話していた。
 昭和天皇は靖国神社を戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後となった。参拝しなくなった理由についてはこれまで、「A級戦犯合祀が原因」「三木首相の靖国参拝が『公人か、私人か』を巡り政治問題化したため自粛した」との2つの見方があった。現在の天皇陛下も89年の即位以降、一度も参拝されていない。

富田氏メモ・靖国部分全文

 私は或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが
 筑波は憤重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ(原文のまま)

平和確立「国民が努力」

昭和天皇発言メモ

 靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を示す昭和天皇の言葉を書き留めた故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)は、靖国神社を巡る論議に大きな影響を与えると同時に現代史の重要な史料でもある。晩年の昭和天皇の言葉、エピソードなど、その一部を抜粋した。

売上税関係、どうなるか

■1987年4月10日
 (天皇)「売上税関係、自民も割れておりどうなるか。先日、官房長官内奏は大変だろうがしっかり。それと身体を大事にしてと言っておいた」
8月10日
 岸(信介)元首相の通夜へのお言葉について。ト部(亮吾)侍従より。「安保改定につき困難を排して貫く」との思し召しがあったが、侍従長、次長と協議。抽象的表現にした方がとの意見で、「総理として困難な時期によく務めを果たした云々」との案。了承す。
9月24日
 経過順調。昨日、皿圧、腸熱正常。夕方、腸部の張り。ー措置。午後5時過ぎ、テレビで相撲を。今朝は気分もよろしいと言われ、またお腹が空いたなとも。午前11時過ぎ、認証式を了された皇太子入室。数分間お話し。
 (昭和天皇は9月22日、腸の病気で開腹手術を受けた。当時は宮内庁病院で静養中)
9月28日
 ト部侍従より。午前10時50分。(陛下)召し上がりはなかなかに進捗せず。落ち着かれた。経口栄養剤クリニミール(吹上でも召し上がっておられた)を差し上げる予定。午後には椅子にと考えている。
 午前11時40分安楽(定信侍従)次長 胸と腹のエックス線。今朝腹部の腫れが認められました。今朝36度台に下がる。尿管を外す。蓄積した体力が経口が少ないため低下した状態か。点滴1200CC。昼にはクリニミールと野菜スープを考えている。

松岡までもが…易々と
■1988年4月6日
 徳川(義寛)侍従長からの話。侍従長が天皇に言上の際、「摂政はどうする」とのお言葉あり。「浩宮(現在の皇太子さま)のこと(結婚)については、慎重には大事と思うが、慎重にすぎて好きな人がいなくなったり、徒に時を過ごしてもよくない。難しいと思うがよろしく頼む」
4月16日
 (富田)「今週一連の人事で拝謁に今日まで出ませんでしたが、何かご不自由は」
 (天皇)「忙しいであろうから、特に不便という程ではないが、あれこれも多少あるのでね」
 「只今多少のことをやっているというものの、以前とは大部控えている。弟たちのように太く短くがいいのか。高松(宮)さんはそう短くなかったが。細く長くがいいのか、考えることがあるよ」
 (富田)「国民は先の大戦のご対応始めについて陛下の御苦慮と大事の折りの明晰果断なご苦労を承知しており、既にお太い、太く長くお願い申し上げます。弱気なお気持ちに決しておなりになってはいけません」
 (天皇)「そうか、そうか」
4月28日
 (天皇)「戦争の感想を問われを、嫌な気持ちを表現したかった。それは後で言いたい。そして戦後、国民が努力して平和の確立につとめてくれたことを言いたかった」
(天皇誕生日に先立つ記者会見の感想。誕生日会見はこれが最後)
 「私は或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに。親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来、参拝していない。それが私の心だ」

靖国、相当の者も知らぬ
■1988年
5月11日
 仏ミッテラン大統領再選に関して。
 (天皇)「(昭和)58年4月の来日の大統領への良い思い出。清子(紀宮)への夫人からのサヤコローズ。それを根分けして吹上(御所)に見事な花を、と」
5月19日
 ヒース元(英)首相のこと。
 (天皇)「訪欧時、英でEton(英国の名門校)を訪れた折に卒業式か何か覚えていないが、生徒に話したところ、代表で答辞を読んだ少年を覚えていた。後年、英首相として来日したヒースが『それは私でした』と懐かしがって話が弾んだ」
 (昭和天皇は皇太子時代の1921年、英国など欧州各国を歴訪した)
5月20日
 菊の間で午前10時25分−11時20分。
 (天皇)「しかし、政治の妙な動きに皇室が巻き込まれることのないようにという長官の強い考えは分かる。政治家が一つの信義に立って動き、純に考えてくれるならと思うが」
 (閣僚などの靖国神社に関する発言に関連して)
 (天皇)「靖国のことは多く相当の者も知らぬ。長官が何かの形でやってほしい」
6月7日朝、御所で。
 (富田長官、天皇に長官退任の考えを)申し上げ。
 (天皇)「藤森(昭一・後任長官)次長もほとんど知らぬし、長官の考えも分かるが」
 (薔薇の間での赴任大使信任状奉呈式の間に)
 (天皇)「よく政治的に皇室が巻き込まれてはならないという長官の気持ちは十分わかるが、今夕4殿下と話してほしい」
 夕、4殿下と。基本的考え方。皇室と政治の分離について説明。藤森、宮尾(盤、後任次長)の人間性その他あわせて。
 (妃、現在の皇后さま)
 「浩宮の成婚を見てほしかった」
 (浩宮)「まだ早いと思うが、私の今後を見てほしいと思う」
 (富田)「一市民として出来ることはやり、お手伝いを」
 (皇太子、現在の天皇陛下)「分かりました。長いことご苦労様でした」
 (富田氏は6月14日、宮内庁長官を退任し、参与となった)
9月30日
 (闘病中の昭和天皇の寝室で)
 (富田)「ご快癒を心よりお祈り申しております」
 (天皇)「ありがとう」
 「ところでね、富田ね。ヨーロッパはあるいはこれからだったか」
 (富田)「9月上旬、ロンドン外に参りましたが、礼宮殿下(現在の秋篠宮さま)ともしばしお話申しました。オクスフォードの生活にも馴染まれ、お元気とお見受けしました。また、浩宮殿下ご滞在であったマートンカレッジも拝見して参りました」
 (天皇)「そうか。ありがとう」
 約2分間。
 (富田氏との最後の会話。昭和天皇は9月19日吐血し、89年1月7日崩御)

富田氏の日記(一部)

戦いの日々、胸にしまい行動/教科書問題、中韓への思い語る

▼1976年
6月28日
 那須より(両陛下の)お帰りの供奉のため黒磯へ。両陛下、ここ数日お元気に軽やかに長時間のご散策との由。昨日は付属邸中坪で夜鷹の親子鳥を見つけられ、子鳥を手にあげたらら糞。いいよ、いいよ、帰ったら洗うよ、と侍従が困惑の一刻。▼1977年
1月28日
 1年ぶりで両陛下須崎へ。ご帰還供奉のため、昨27日夕出かける。約40分、国内の情況や急に来日することになったイラン第一皇女一行のことなど説明申し上げているうちに、図をかくの要を感じ、指で机上に指を伸ばした処へ、「そうか」というので陛下の指が伸び、触れあったのには驚き、かつ恐縮した。温かいが庭いぢりをされたような素朴な指であった。
▼1978年
9月16日
 長官になって3ヵ月半。俺一人少なくとも毅然として在りたいとひそかに思い、この夏を過ごした。数えて見れば那須往復は七度。だいぶ那須になじんだ。両陛下にも近く又親しくお話できた。あのお人柄。戦いの日々ー細川日記でも間接ながら知りうるー終戦から30年。一人で胸にしまわれて行動されてきたのである。
▼1979年
1月14日
 暮れから陛下のお風邪であれこれと、しかし大事な行事はすべて執り行って頂き有難かった。行事が続くので、御前に出るのを機を図っていた。陛下も随分自重しておいでの御様子。8日に言上小1時問。天気よく芳菊の間から見渡す南庭に陽炎が立つよう。
 庭を背にされた陛下のお顔も明るい。ディズニーランドスマイル(御訪米時、ディズニーランドで気も軽く多くの人の中を縫いながら、小憩時に白人の少年が駆けよりその頭を触っておられた陛下の明るい笑顔)と私が呼ぶお顔。
 陛下のお風邪ご本復のご様子をお慶び申し上げると、長官はどうと仰せになる。記者等は長官が献上したのではと申しておりますと申し上げると、くっくっと忍び笑い。
▼1981年
8月17日
 吹上に赴き言上。午後より上野科学博物館で中国恐竜展行幸のお供。中国王暁雲臨時大使、田中(龍夫)文相ら出迎え。休館日を利用してゆっくりとお楽しみいただく予定。"サウルス"の種類に驚き、あの巨大な怪物にも竜脚類には草食のおとなしいのがいたと知りまた驚く。陛下は恐竜の絶滅の理由、爬虫ー両棲ー哺乳への経路、人類の誕生とその進化などのご注文があり、担当研究員の説明も熱が入っていた。
8月20日
 那須の供奉一泊。涼気うまし。湯元往復の散策。侍従、女官の話。それぞれに一人を楽しんでおいでだったと。皇后さまと侍医長、侍従、女官長ほか、午後1、2時間にぎやかにトランプをされ、皇宮警察の者たちの外回りしつつ、二階を見上げるくらいと。夜、短く言上。ラフなお姿。しかし、会見のことは気にしておられ、問うものは答えるよ、時々言えなくてもいいんならと。
▼1982年
8月30日
 陛下と約90分。教科書問題に関連して韓国や中国へのお気持ちを大正末期、昭和初期の事実をふまえてお話し下さる。白い露が窓の外に渦を巻いていた。1月半位でお目にかかったが、すっかり回復されておられる。
12月28日
 御用納め。
 お話申し上げる。最後に本年は至らぬこと多くご念を煩わし恐縮しております、と申し上げたら、色々よくやってくれて満足していますと仰せがあり、更にそれでね長官と、また若干お話をする。何か大海原に向かって晴れた地平線を見る如き感を抱く。
▼1983年
2月8日
 正午より東宮御所で両殿下、浩宮殿下のお招きで午さん陪伴。妃がすっかり明るくお元気で会話をリードされる。ここ数年、初めてのことであり、浩宮もご一緒にということもあったかもしれぬが、体調もよろしいように見受けられうれしくなる。
 歌会始のことや月並次の詠などの話から、それに先立って妃が長官はお歌はと問いかけられ、まさか歌と思ってつくったら大部狂歌にというわけにいかず、難渋は一応したが、3殿下がそれぞれの苦心を披露。
 3月は皇后様BD(誕生日)で花見とあり、どうしようか陛下にこの題のご意見をきこうかとの話も。浩さんは花見と一杯でいこうか、それはいいね、でもそれではと賑やか。それから映画のこと。E.Tを浩宮が試写で見てよかったというので、御所に借りて職員と見て面白かった。
11月9日
 レーガン大統領一行の来日。午後遅く歓迎行事やご会見。なかなか如才ない気の回るレーガン大統領。皇太子の訪米招待あり。政治と切り離すのに10日ばかり気を使ったが、まあまあその形で落ち着く。
12月11日
 夜、須崎で言上。自らの進退についてを含めて申し上げる。長官の気持ち、やっと分かったとの仰せあり。
▼1985年
1月3日
 陛下よりお召し言上。ティグラウンドに立ってドライバーショットを放てば浩然の気は養えると話し出される。いろいろご気がかりのことも含めて諭される如く。50分余り。若い皇族もこのお気持ちを汲めばと唯想う。
7月3日
 警察庁長官の進講。彼もがんばって真面目に当面の治安について。陛下、誠に明噺に数ケのご質問あり。それには内心驚嘆せり。
▼1986年
7月6日
 3日夕、徳川侍従長来室。お上より今日は長官の誕生日、おめでとうと伝えての仰せあり、お伝えしますと。昨2日の言上の折、この年になるまでお仕えさせていただき有難いことであります、と申し上げたことを今日がとの仰せになった。かたじけない思いであった。
7月23日
 このところ高松(宮)さんのこと、靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである。何故か那須へ供奉したタ、国際連盟脱退時のこと、日米開戦前後のことなど、色々とお話を戴いた。東京はまだ暑いから十分に気をつけてねとのおいたわりのお言葉と共に忘れがたい。
12月8日
 45年を経た12月8日。陛下とマッカーサーの記事が大きく紙面を飾るのみとなった。午前、陛下と約1時間、私の方からは南庭の冬、小春日和で、紅葉と常緑の木々の庭が眺められる。何かとお話申し上げたが、開戦の日のことはふれなかったし、陛下からもあえて何のお話もなかった。


2006/7/21--

昭和天皇の言葉 富田メモから

 靖国神社へのA級戦犯合祀に対する昭和天皇の強い不快感を記した故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)は、戦争や靖国参拝などについて立場上、真意を明らかにできない昭和天皇の言葉が多く残されている。天皇は若槻礼次郎首相の思い出を富田氏に話しながら、真意を伝えられない苦しい立場を重ね合わせていた。

「戦争、嫌な気持ち表現」
  熟慮重ね思い示す

 1988年5月9日付のメモには次のような天皇の言葉が記されている。
 「私は若槻首相のことをよく思い出す。米国会の悪いところと日本の国会の芳しくないところを合わせたのが今の(『当時の』の意味か)国会であり、議員であると。しかし、人の批判や非難は極力避けていた。昭和初年の厳しかったこと聞きたく、尋ねたことが折々あったが、話したがらず、專ら若いころ、日露戦争時ロンドンでの外債募集の折のことを話していた」
 若槻首相とは戦前に二度、首相を務めた若槻礼次郎。若槻首相は第一次内閣で金融恐慌(1927年)、第二次内閣で満州事変(1931年)に直面した。昭和天皇がいつの時点で若槻首相に尋ねたか不明だが、厳しい立場に立たされた首相の体験談を聞こうとしたとみられる。
 天皇は続けて富田元長官に語る。「今になって私もやっと若槻の気持ちがわかる。私にも戦争への気持ち、戦争責任の質問が多いが、現存の人もあり、なかなか言えぬ。だから、楽しかった欧(州)の旅のことを言うのだと思うよ」
 昭和天皇の靖国神社参拝は1975年11月が最後。78年のA級戦犯合祀以降、天皇が参拝しない理由を公式に語ることはなかった。
 合祀に対し不快感を示す言葉が残されていた88年4月28日付のメモは、天皇誕生日(同月29日)に先立って行われた記者会見で、戦争への思いを質問されたことへの感想から始まっている。天皇にとって誕生日会見は自身の考えを表明する数少ない機会。メモからは、言葉にかなり神経を使っていたことが分かる。
 天皇は「何といっても大戦のことが一番嫌な思い出」と会見で答えたことについて、「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したかった」と述べている。そして「嫌だ、と言ったのは(当時の閣僚の)靖国、中国への言及にひっかけて言ったつもりである」とも話している。
 85年、当時の中曽根康弘首相が終戦記念日に靖国神社を公式参拝し、中国、韓国などが強く反発。88年は戦争責任や靖国神社に関する閣僚発言が問題となっていた時期だった。昭和天皇は直接、論評はせず、「ひっかけて」答えようと意図していたことがうかがえる。
 「このところ靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである」(86年7月23日付日記)との記述もおる。公式に発言できない分、信頼する富田元長官に胸の内を語っていたのだろうか。

「テレビ見てよいか」
  1年超す闘病生活、克明に

 昭和天皇は1987年9月22日に腸の疾患のため、歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。89年1月7日の崩御まで1年3カ月以上にわたる闘病の始まりだった。
 87年8月31日付の手帳には「29九日朝、(陛下)微熱と聞く。何らかの検査を。那須(御用邸)ではどうしても運動不足に」と、天皇の体調変化に対して懸念を示す記述がみられる。
 手術直前の同年9月19日付の手帳では、故富田朝彦元宮内庁長官が皇太子だった現在の天皇陛下に、昭和天皇の体調を報告。その直後の記述に、「どうして小腸疾患部をとらぬか」「玉体云々ではないが、外科医が枠にとらわれずにと思う」とある。誰が発言したかは定かでないが、当時、天皇の体にメスを入れることの是非が論じられていたことを示すとみられる。
 同月24日付の手帳は、手術後の病室での天皇の様子。
 「経過順調。昨日、血圧、腸熱正常。夕方、腸部の張り措置。午後5時過ぎ、テレビで相撲を。今朝は気分もよろしいと言われ、またお腹が空いたなとも。番組案内を取り寄せられ、『テレビ(午前10時ー)ちょっと見てよいか』と。短時間ならと。本日は夕5分くらいベッドにおかけになった」。
 昭和天皇は翌88年9月19日に吐血し、容体が急変した。
 富田氏は同年6月に退任し、藤森昭一氏に長官職を引き継いでいた。同庁参与となった後も、手帳には毎日朝、昼、夕の天皇の体温、血圧などが克明に記されている。
 9月30日、富田氏は闘病中の天皇の寝室に入った。
 富田「ご快癒を心よりお祈り申しております」
 天皇「ありがとう」
 富田「礼宮殿下(現在の秋篠宮さま)があす午後、ご帰国します。(ロンドンでの)研修も一段落。宮も陛下にお目にかかるのを心待ちにして飛行をお続けかと思います」
 天皇「そうだね。ところでね、富田ね。ヨーロッパはあるいはこれからだったか」
 富田「9月上旬、ロンドン外に参りましたが、礼宮殿下ともしばしお話申しました。オクスフォードの生活にも馴染まれ、お元気とお見受けしました。また、浩宮殿下(現在の皇太子さま)ご滞在であったマートンカレッジも拝見して参りました」
 天皇「そうか。ありがとう」
 この日の記述は、富田氏と昭和天皇の最後の会話だった。
 関係者によると、富田氏は10月にも一度、天皇の寝室に入ったが、輸血中の天皇が眠っていたため「背中だけ見て帰った」と話していたという。

「吉田、広い視野があった」
  政治家への思い、率直に

 昭和天皇は政治への関与を極力避けようと気を配ってきたが、内奏(閣僚による国政報告)などを通じて、政治家と接する機会が多かった。故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)にも、天皇が出会った政治家評や思い出を語る場面がある。
 1988年5月9日付の手帳は、吉田茂元首相の思い出を記している。吉田元首相について、昭和天皇は「一貫性があり、広い視野があったね」と評価。人間性も気に入っていたようで、「吉田首相も思い出は多い。デパートに行くと売り子の女性からだいぶ好かれたというが、(高松宮と)似たところもある」と話していた。
 85年12月31日付の日記には「中曽根(康弘、当時首相)内奏については、私が後藤田(正晴、同官房長官)はなかなかの立派な人のようだが、田中(角栄元首相)はどうなっているのかと質問したんだよ、と目を細めて仰せ」。
 福田赳夫元首相についての言及もある。71年の西ドイツ(当時)訪問時の思い出を語る88年5月11日付の手帳。
 「温かく迎えてくれて、今でもよい思い出である。カイザー(戦前の皇帝)のことを独人は思い出し、誇りにして話す者も多い。そうした空気の中でカイザーと相通ずるものを見るのか、共に戦ったが同じ敗戦国という思いがあるか。その中から経済の復興に成功した思いが共通するのか。ライン下りではZ旗を船尾に掲げていた」
 「私と東郷(平八郎。日本海海戦の連合艦隊司令長官、昭和天皇の教育担当でもあった)との関係もあわせて考えてか。うれしかったな。さすがドイツだと思った。首席随員の福田は立派な人だが、独の歓迎の意味、原因を両国の経済の立ち直りと相互の協力と見ていた。多少私とは異なっていた」
 Z旗は日本海海戦で連合艦隊旗艦「三笠」が、戦意高揚を図るために掲げたことで知られる。
 昭和天皇は、靖国神社、教科書、売上税など時々の政治課題にも関心を示し、感想を富田氏に語っていた。
 遷都問題についても皇室の行く末を考えてか、アフリカの国のケースを引きながら意見を述べている。
 「首都を移し、王宮と遠く離れた。今の交通手段と異なる時代であったから、王朝は廃され、世界も困惑する国になった。そうした事情も十分、遷都問題に関しては研究しておいてはと思う」(88年5月11日付手帳)

「太く短くか、細く長くか」
   皇族への気遣いも語る

 故富田朝彦元宮内庁長官のメモには昭和天皇が皇族について語る場面が目立つ。皇族の長としての責任や思いやりを語っていたほか、現在の皇太子さまの結婚を気にかげ、進ちょく状況を再三、尋ねていた。
 昭和天皇は現在の皇太子さまの結婚について、1988年4月6日付の手帳で「私は本人同士がよいならそれでよい」と述べている。さらに「浩宮(現在の皇太子さま)のことについては、慎重には大事と思うが、慎重にすぎて好きな人がいなくなったり、徒に時を過ごしてもよくない。難しいと思うがよろしく頼む」とある。皇位継承者の結婚は重みを持つものの、本人の意思を尊重したいという思いがにじみ出ている。
 その後も「浩宮のこと、その後は?」(同年5月26日付手帳)という問いが再三記されており、晩年の天皇が皇太子さまの結婚を常に気に掛けていたことが分かる。
 87年に故高松宮が逝去した翌年、昭和天皇は富田氏に思い出を語っていた。天皇と高松富は戦時中、戦局に対する認識の違いで激しく対立したこともあったとされる。「高松さんはね、弟だが私にはよくないと思う側面といいと思う側面もある。前者は人事など昔から好きで、取り巻く政治家めいたものたちと軽く話したり、政治的発言をしていたことを知っている。それが自分ではよい、楽しいと思っていたらしい」(88年5月9日付の手帳)
 さらに「いいところは自分にない軽妙に外国人とも付き合い、戦後一時期はこの国にも役に立った面があり評価している」(同)と続き、弟に対する複雑な心中を明らかにしていた。
 同年4月16日付手帳では、天皇が体調を崩した皇太子(現在の天皇陛下)を気遣った後、弱音とも受け取れる心境を吐露する。
 富田「(東宮)大夫にも十分ご休養のとれるよう日程も十分配慮をと申しております」
 天皇「長官からそう大夫に言ってもらってうれしい」「只今多少のことをやっているというものの、以前とは大部控えている。弟たちのように太く短くがいいのか。高松さんはそう短くなかったが。細く長くがいいのか、考えることがあるよ」
 富田「国民は先の大戦のご対応始めについて陛下の御苦慮と大事の折りの明噺果断なご苦労を承知しており、お太い、太く長くお願(い)申し上げます。弱気なお気持ちに決しておなりになってはいけません」
 天皇「そうか、そうか」
 昭和天皇はこの記述から約5カ月後の9月19日吐血し、89年1月7日、崩御。皇太子さまの婚約が内定したのは、4年後の93年1月だった。

「公邸は寒いそうだね」
 細かな気配りみせる

 故富田朝彦元富内庁長官の日記は、昭和天皇の人柄を物語るエピソードが数多く記されている。
 1979年1月14日付には「(天皇の風邪が話題になった後)長官はどう、と仰せになる。記者たちは長官が献上したのではと申しております、と申し上げると、くっくっと忍び笑い」と、親しげな会話が書かれている。
 続いて、「言上の後、陛下しばし考えられるよろに、間をおかれて言いにくそうに、『あのね、長官、これは長官以外の人には誰にも言えないことだしね、聞いてくれるかい』と」。
 「何かと身を固くしていると、『長官の公邸は古くてとても寒いそうだね。修繕もしたと思うがどうか。役所の予算もあろうが、長官が考えてみては』と。じーんとするものがこみ上げてきた」と天皇の気遣いに感動する記述がある。
 77年1月28日付日記。長官らが須崎御用邸で夕食後、国内状況などを天皇に説明するため待っていたところ、侍従から「陛下は皆の食事(後)すぐでは消化にも悪かろう、とお待ちになっておいででしょう。7時になったら」と説明があった。細かな気配りをする天皇の一面がうかがえる。
 この後の説明の場で「図をかくの要を感じ、机上に指を伸ばしたところへ、『そうか』というので陛下の指が伸び、触れ合ったのには驚き、恐縮した。温かい庭いじりをされたような素朴な指であった」。
 ささいなことを気に掛けない天皇のおうような面についての記述もある。
 76年6月28日付日記。「昨日は(那須御用邸)付属邸中坪で夜鷹(よたか)の親子鳥を見つけられ、子鳥を取り上げたら糞(ふん)。いいよ、いいよ、帰ったら洗うよ、と侍従が困惑の一刻。(中略)ななかまどの白きが咲きこぼれるように、その一つに手をかけ近くに見ようとされたら蜂がカフスの中に入ってちくりとやったらしい」
 「ああ蜂が、侍従が早速とりかかろうとすると、いいよ、もういいよ、と。帰邸後、アンモニアを無理願って湿布した由。侍従も今回はアンモニアだけのご用でしたね、とひやかしておく」
 天皇の胸の内に思いを至らせる記述も。「長官になって3カ月半。(中略)あのお人柄。戦いの日々。終戦から30年。一人胸にしまわれて行動されてきたのである」(78年9月16日付)
 「ティグラウンドに立ってドライバーショットを放てば浩然の気(物事から解放された気持ち)は養えると話し出される。50分余り。いろいろご気がかりのことも含めて諭されるがごとく。若い皇族もこのお気持ちをくめばと、ただ思う」(85年1月3日付)

朝日新聞 2006/7/21

昭和天皇の苦い思い、浮き彫りに

 昭和天皇の靖国神社参拝が途絶えたのは、A級戦犯合祀(ごうし)に不快感を抱いたからだった。富田朝彦元宮内庁長官のメモは、天皇の戦争への苦い思いを浮き彫りにした。

 A級戦犯合祀に不快感を抱いている――。その思いは、複数の元側近らから聞いていた。

 「陛下は合祀を聞くと即座に『今後は参拝しない』との意向を示された」

 「陛下がお怒りになったため参拝が無くなった。合祀を決断した人は大ばか者」

 なかでも徳川義寛元侍従長の証言は詳細で具体的だった。

 14名のA級戦犯を含む合祀者名簿を持参した神社側に対して、宮内庁は、軍人でもなく、刑死や獄死でもなく病死だった松岡洋右元外相が含まれていることを例にとって疑問を呈した。だが、合祀に踏み切った。

 87年の8月15日。天皇は靖国神社についてこんな歌を詠んだ。

 この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし

 徳川氏によると、この歌には、元歌があった。それは、靖国に祭られた「祭神」への憂いを詠んだものだったという。

 「ただ、そのまま出すといろいろ支障があるので、合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた」

 側近が天皇から聞き取った『独白録』の中で、昭和天皇は日独伊三国同盟を推進した松岡洋右外相については「……別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」とまで述べていた。

 昭和天皇の「不快」の一因が、特に国を対米開戦に導いた松岡外相の合祀だったことがうかがえる。A級戦犯の14人は66年に合祀対象に加えられたが、当時の筑波藤麿宮司は保留していた。

 筑波氏は山階宮菊麿王の三男。歴史の研究家としても知られた。しかし、78年に筑波氏の死去後、松平永芳宮司が就任すると、まもなく合祀に踏み切った。

 松平元宮司は松平慶民元宮内大臣の長男で、元海軍少佐。父の慶民氏は、東京裁判対策や『独白録』の聞き取りなどに当たり、天皇退位論が高まった時も「退位すべきではない」と進言した有力な側近だった。

 メモには、昭和天皇は慶民氏について「平和に強い考があった」と評価する一方で、永芳氏について「親の心子知らず」と評しているのにはこうした背景がある。

 メモは、天皇が闘病中の88年、最後の誕生日会見直後の天皇とのやりとりだった。昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えた。本来は「つらい思い出」と答える予定だった。天皇も戦争の第三者ではないからだ。

 その頃、別の側近はこんなことを語っていた。 「政治家から先の大戦を正当化する趣旨の発言があると、陛下は苦々しい様子で、英米の外交官の名を挙げて『外国人ですら、私の気持ちをわかってくれているのに』と嘆いておられた」

 A級戦犯合祀は、自らのこうした戦争の「つらい思い出」と平和への「強い考え」を理解していない、との天皇の憤りを呼んだことをメモは裏付けている。

 「(昭和天皇の)御(み)心を心として」と、即位の礼で誓った現天皇陛下も、即位後は一度も靖国神社には参拝していない。