第23回「某メガバンク管理職のメールに答える」  2002/11/20

 「最近のBizPlusのコラムを愛読している某メガバンク(社長が失言を続けるあのグループです)の管理職」からメールをいただいた。「私の配下の若手も皆、木村さんのコラムに注目しています」ということで有り難い限りだ。

 この方からは、以下の2つの点に関してご意見をいただいた。まずは、(1)中小企業の扱いについてである。取り敢えず、お読みいただきたい。

 「保護」ではなく「フェアに扱う」ことが必要

 「木村さんのコラムのトーンもそうですが、今回の金融再生プログラムも含め、我が国では中小企業はすべからく保護すべきもの、との考え方が強すぎるように思います。自民党はその資金源、集票源を中小企業に依存している以上やむを得ないのかもしれませんが、本当にそうでしょうか。中小企業にも、『良い会社』『ダメな会社』があるのは当然です」

 私は、「中小企業はすべからく保護すべきもの」という立場には立っていない。残念ながら、中小企業の中にも不良債権として処理しなければならない貸出先は少なからずある。拙著「日本資本主義の哲学」(PHP)でも、「私は、中小企業の不良債権問題が軽微であるなどというつもりはない。中小企業の不良債権問題は深刻であり、これについても対処が必要であることは論を待たない」(p.58〜59)と断言している。

 中小企業貸出に関する私の主張は、「保護」ではなく、「フェアに扱うべきだ」ということに尽きる。「中小企業にも、『良い会社』『ダメな会社』があるのは当然です」というご指摘は、全くもっておっしゃるとおりであると思う。

 「銀行の現場にいると、能力もやる気もないのにたまたま親父の後継ぎと言うだけでその地位を得た中小企業経営者が多く、また、ダメな会社は必ず粉飾決算、公私混同をしています。具体名を挙げれば、昨年破産したベンカン。オーナーは東京商工会議所の元副会頭でした。中小企業を代表する論客として有名でしたが、経営手腕や公私混同はひどいものでした」
 「そういうダメな企業ほど、銀行が厳しい姿勢をとると『貸し剥がしはけしからん』と声をあげ、政治家や役人の力を借りて銀行に圧力をかけようとします。銀行も良い企業とダメな企業を選別することが必要ですし、我が国の構造変革のためにも選別は必要です。その意味で、金融再生プログラムの中小企業対策の項目は極めて問題含みだと思います。貸し出しを増やせなど、とんでもありません」

 ここには、確かに真実の一面が語られている。粉飾決算や公私混同に罪悪を感じず、経営が緩に流れるだけの中小企業経営者がいることは私も承知している。他人を説得するだけの事業計画もなく、日々の帳簿も付けていないのに、「貸し剥がしだ」「貸し渋りだ」と騒ぎ立てるだけの中小企業も少なくない。

 大企業だけが相手では儲からない
 しかし、そういうことについて、中小企業の経営者にお説教を垂れられるだけの立派なことを銀行はしてきただろうか。不良債権に対する引当不足は、立派な粉飾決算ではないのだろうか。公的資金をもらいながら、中小企業を遥かに超える水準にある給与に手を着けないのは、広い意味で公私混同ではないのだろうか。

 「銀行も良い企業とダメな企業を選別することが必要ですし、我が国の構造変革のためにも選別は必要です」というのは全くの正論である。しかし、そうであるなら、なぜ5年以上も前から駄目なことが分かっている大企業に対して、追い貸しを続け、債権放棄を連発して、いまだに腐れ縁が切れないのだろう。是非とも説明して欲しい。」

 「木村さんは、メガバンクが中小企業に対して採っている『リスクに応じたリターンの確保=貸出金利の引き上げ』方針をどう評価しているのか、考え方を明らかにすべきです。私は日銀がこの点に相当問題意識を持っていることを知っています。私見としては、中小企業融資はリージョナルバンクの仕事であって、メガバンクの領域ではないと思います」

 ちなみに、メガバンクが中小企業に対して採っている「リスクに応じたリターンの確保=貸出金利の引き上げ」方針に関する私の考え方については、拙著「日本資本主義の哲学」(p.146〜147)において既に明らかにしているので、以下に引用する。

 少なからぬ中小企業の経営者たちは、貸し渋りや貸し剥がしのなか、資金繰りに苦しんでいる。そのうえ銀行は、中小企業向けの貸出金利を引き上げはじめた。0.1〜0.2%ではない。1.0〜2.0%の引き上げだ。銀行に聞くと、貸出金利の水準が破綻するリスクを反映した金利設定になっていないと主張する。
 たしかに一見もっともらしい。しかし、この理屈は根本で大きく間違っている。

 そもそも銀行が貸出で儲けられるのは、中小企業と個人向けだけである。重要顧客は中小企業と個人であって、大企業ではない。大企業は社債を発行して資金を直接調達する手段を持っているから利鞘が薄い。だから、儲からない。しかし、中小企業や個人は銀行融資に頼るしかないので儲けやすい。単純な理屈だ。

 ところがわが国の銀行の実態はどうだ。

 メリットのない大企業に超低金利で貸し込んでいる。しかも優良な大企業ばかりでない。破綻するリスクなど到底見合わない大手問題先に対しては、債権放棄やデット・エクイティ・スワップ(債権の株式化)まで実行するという大サービスぶりだ。

 重要顧客である中小企業への貸出金利を引き上げるという戦術は、優先順位からいって(1)大手問題先への貸出金利を引き上げる、(2)採算の合わない大企業向けの貸出をやめる、という戦術を実行したうえでの次の策だ。そうでなければ、重要顧客から生み出した収益を、排除すべき顧客に貢ぎつづけるという、最も愚かな結果をもたらすことになる。

 要するに戦略が間違っているのだ。貸出金利を引き上げるという正しい戦術も、愚かな戦略のもとでは愚かな結果しかもたらさない。そうした愚かな戦術の犠牲者になりながらも中小企業は頑張っている。それに比べて、債権放棄まで受けている大手問題先の社長が「デフレ・スパイラルで」などとよくもヌケヌケと言えるものである。

 中小企業は淘汰される。
 大手問題先は淘汰されない。
 ルールは守らない。フェアネスがない。

 そのために、正直に努力してきた人が馬鹿を見る。大失敗した大企業が生き残り、中小企業は淘汰される。真っ当に頑張った人が勝ち残れない。これはどう考えても真っ当な資本主義でない。このままでは、やる気のある経営者はいなくなってしまうのではないか。それで本当によいのだろうか。

 重ねて指摘しておくが、私が主張しているのは、「中小企業は何が何でも護るべきだ」ということではない。「フェアに扱え」と言っているだけだ。私が申し上げたいのは、「カネは貸さない、重要顧客である中小企業には距離をおき、預金もいらないという事業主体は、もはや銀行ではない。生きる屍である。トットと銀行の看板を外すべきだろう」(同書、p.266)ということに尽きる。そして、「引当不足を覆い隠すために問題企業を守りつづける一方で、中小企業の償却損は大勢に影響がないとしてひねり潰していく銀行経営者に、一体全体何のミッションがあるというのだろう」(同書、p.265)という私の問いに答えることのできた識者は皆無である。

 私見として、「中小企業融資はリージョナルバンクの仕事であって、メガバンクの領域ではない」と判断されるのは経営方針の話だから、そうするのは勝手だと思うが、なかなか儲からない大企業向け貸出でどうやって稼ぐのかを示せないのでは、先は見えている。そもそも、1980年代からメガバンクの前身である都銀が中小企業貸出にラッシュしたのは、直接金融の拡大によって、大企業貸出が儲からなくなったという歴史の必然によるものであったことを忘れてはなるまい。

 組織内から「今の経営者はダメ」の声を
 もう一点、「最近のBizPlusのコラムを愛読している某メガバンク(社長が失言を続けるあのグループです)の管理職」からいただいたご指摘は、(2)銀行経営のガバナンスについてである。

 「竹中大臣が、当初3つの方針の一つにガバナンスの問題を挙げた際、相当期待したものですが、出てきたアウトプットは期待はずれでした。コーポレートガバナンスの問題に触れるのであれば、どうして本年5月に成立した商法改正で導入が可能となった委員会等設置会社に言及しないのでしょうか。これこそ、我が国のコーポレートガバナンスを大きく変えるきっかけになるものです。商法学者(上村達男早大教授等)の意見を是非聞いてみて下さい」
 「強制力はないとしても、竹中大臣が、『メガバンクはすべからく当制度を採用すべき』との考え方を表明するだけで、相当違うはずです。当社も含め、現在の銀行トップは社外取締役によって自分の経営(特に人事権)をチェックされることに対して拒絶反応が強く、新制度を導入しようという気配は全くありません。せっかく商法改正という道具を得たのに何故これを有効に使わないのでしょうか。現在の経営者がダメだ、ケシカランと言うだけでは、物事は進みません」

 個人的には、「委員会等設置会社」にするだけで、コーポレートガバナンスが強化されると楽観的に思っていないが、一つの貴重な提言であることは事実である。「特別支援金融機関」に対しては、「委員会等設置会社」になることを推奨するという考え方もあるだろう。今後、具体化が進む中においては、検討されてもよい項目であろう。

 とはいえ、「当社も含め、現在の銀行トップは社外取締役によって自分の経営(特に人事権)をチェックされることに対して拒絶反応が強く、新制度を導入しようという気配は全くありません」と断言されるということは、取りも直さず、「現在の経営者がダメだ」ということを示唆していらっしゃるのだと思うが、「現在の経営者がダメだ、ケシカランと言うだけでは、物事は進みません」という指摘は理解に苦しむ。サラリーマンとしては実際問題として難しいという立場は分かるが、まずは、組織内部から「現在の経営者がダメだ」という声を出していかなければ、それこそ「ダメ」なのではないか。

 いつまでも外からのプレッシャーがなければ自己改革できない体質が温存されるようでは、「委員会等設置会社」に変えたところで、効果は知れている。従来の「監査役制度」自体は、それなりの設計になっており、監査役自身がやる気にさえなれば相当のガバナンスが働く法体系になっている。それが機能しないのは、「制度」に魂が入っていないからだ。軋轢があろうとも、「制度」を最大限活用するという覚悟を個々人がしなければ、所詮、いかに素晴らしい「制度」を設計したところで、絵に描いた餅である。

 「最近のBizPlusのコラムを愛読している某メガバンクの管理職」の方に申し上げたい。まずは、あなた自身が考えられ得る権謀術数を駆使して、「失言を続ける社長」を退治する努力をしてみては如何か。その気になれば相当のことができるはずだ。ご指摘どおり、「委員会等設置会社」は商法改正で導入が可能となっている。竹中金融担当大臣のお墨付きがなくとも簡単に導入できる代物ではないか。まずは自己努力が先にあるはずだ。その自己努力が頂点に達したとき初めて、「失言を続ける社長」に対する竹中大臣からのプレッシャーは強力に威力を発揮する。外圧だけに頼っていては改革など実現するまい。

 「最近のBizPlusのコラムを愛読している某メガバンクの管理職」の方には、他の読者からいただいた下記のメールを是非読んでいただきたい。

 「何をやってもダメ」に反発する気概はないのか

  「ダメだ・・・・・。もう、何を言っても彼ら銀行経営者にいっても、だめだ・・・・。戦後、アメリカから天皇主権から国民主権にするための憲法を新しく作れと言われた日本の識者たちは、結局、過去の過ちを認めることができずに、また天皇主権の憲法しかつくることができず、結局アメリカが作ることになってしまった。今の銀行は、そのときの状況に、似ているのではないでしょうか? 当事者には自己清浄能力は、期待できない、いや、期待してはいけないのかもしれません」

 このメールに反発する気概はないのか。「ウチの銀行は違う」と立証してやろうと思わないのか。自力で勝ち取らなければ、よしんば改革に成功したとしても、それは真の改革ではない。改革は自らの汗と努力と涙で勝ち取るべきものである。当事者達にその覚悟があって初めて、周りの心有る人々がその改革をサポートしてくれるようになるのではあるまいか。

 

第24回「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」   2002/11/25

 前回、「某メガバンク管理職のメールに答える」というコラムを掲載したところ、その銀行の中堅行員から「第23回『某メガバンク管理職のメールに答える』(その2)に対する批判」という題で、辛辣なご叱責をいただいた。あらゆるご批判に対しては謙虚にわが身を反省し、糺すべきところは糺し、律すべきところは律しなければならないと自戒しているが、ご批判の内容によっては、どのように対処すべきか迷う場合もある。それは、私が拠って立つ良識と大幅に懸け離れる場合である。

 垣間見える強烈な被害者意識
 今回いただいたメールは、私にとって、そうした意味で対処に困る一つの典型例だったのだが、正直言ってあまりの乖離にとまどってしまった。しかしながらひょっとすると、このところ時折仄聞する一部の銀行員における「強烈な被害者意識」を代表している可能性もある。そうであれば、銀行の「雰囲気」を知る上で貴重なデータとも言えるだろう。そこで読者の評価に委ねるべく、全文を掲載させていただくことにした。

 もっとも、私にメールを寄せてくれる銀行員の方々は、圧倒的に「改革派」の方が多く、こうした「強烈な被害者意識」に苛まれている方は少数派だということも同時に申し添えておきたい。銀行員全員がこうした考え方を持っているという誤解をしていただいては困るからだ。ただし、銀行界全体を見渡すと、このメールに代表される「強烈な被害者意識」を猛烈に発散していらっしゃる方が少なくないようにも見受けられる。そして、その方々の声が銀行内部の自己改革を妨げているようにも感じられる。行内の「改革派」銀行員に対峙する「抵抗勢力」とでも呼ぶべきか。

 以下に紹介するメールを送ってきてくれた銀行員の方は、勤務先・所属部署とお名前を明記しているので、ご本人としては真剣なご批判なのだろうと推察する。私の感性があまりにも鈍いのか、この「抵抗勢力」代表の銀行員の方の「常識」がズレているのかについては、読者の判断に委ねたい。

 「前略 ○○○銀行△△△△△部の中堅行員(36才)です。BizPlusの第23回『某メガバンク管理職のメールに答える』を拝見しました。当グループに対する批判は謹んで承りますが、政府の要職にある方による社会の公器たるメディアを用いた批判としては、当コラムは正直なところあまりにも品性に欠けているのではないでしょうか。貴殿については『粉飾答弁』なる本でストーカーまがいのことをする品性のない方だなと印象を持っておりましたが、当コラムを読んでその印象が倍加されました。政策を語るには正論は必要条件の極一部であり、本当に必要なのはその政策を語る人のまさに品性なのではないでしょうか」

 私自身の「品性」に関するご批判は、わが身の不徳と申し上げるしかない。完全な人間でも上品な人間でもないことは私も認めるところであり、「品性」がないとまで罵られると、ちょっとどうかなと思わないではないが、改善の余地が多分にあるという意味であれば、ご指摘を完全否定できると言い張るつもりもない。ただ、この方の論拠は、私が書いた「粉飾答弁」が「品性に欠ける」ことにあるらしいのだが、それについてはよく理解できない面がある。

 「粉飾答弁」とは、今年7月にアスキー社から出版した拙著で、柳沢前金融担当大臣と森前金融庁長官の国会答弁をすべて読破した上で整理しなおし、お二人の答弁に「粉飾(要するにウソ)」があったことを指摘したものである。私としては、真剣に国会答弁を分析し、誤った金融行政を糺すべく執筆したものである。国権の最高機関である立法府の国会答弁を追いかけることが「ストーカーまがいのこと」と糾弾されるのでは、政治や行政や企業に関する調査や報道は成り立たなくなり、過去を反省して現状を是正することすら出来なくなるが、きっと「それでもよい」というお考えなのだろう。「臭いものには蓋」ということか。

 なお、「政策を語るには正論は必要条件の極一部であり、本当に必要なのはその政策を語る人のまさに品性なのではないでしょうか」というスタンスは、私の考え方と大きく異なる。私は「政策を語る」には、「品性」よりも「正論」と考える立場であり、もし、「品性はあるが政策が間違っている人」と「品性は欠けるが政策が正しい人」のうち、どちらを政策担当者に据えるべきかと問われたなら、私は迷うことなく、後者の「品性は欠けるが政策が正しい人」であると答えるだろう。ここはまあ、人によって考え方は異なるかもしれないし、「品性」が欠けると指摘された私が申し上げても説得性に欠けるかもしれないが・・・・・・。

 銀行には10年もチャンスが与えられたのだが…

 さて、私の「品性」に対するジャブ攻撃の後、メールの中身は佳境に入っていく。

 「企業にとっても人間にとっても必要なのは成長であり、成長は反骨精神をバネにすることも重要ですが、長所を伸ばすということがもっと重要なはずです。貴殿や竹中大臣は日本経済の長所を伸ばすために、何か汗をかいて努力されたことがあるのでしょうか。竹中大臣のように単にレポートにまとめるだけでは、汗をかいたうちに入らないのは言うまでもありません」

 私自身は、竹中プロジェクトの活動を通じて、「日本経済の長所を伸ばすために汗をかいて努力している」つもりだが、お認めになっていただけないのはわが身の精進不足を悔やむしかない。メガバンクの方々は、札束攻勢で永田町の政治家先生に積極的にロビーイングし、竹中・木村に関する誹謗中傷の特集記事をばら撒いていらっしゃる。竹中プランに賛同する証券会社のアナリストたちに対しては取引停止をちらつかせて強烈な口止めを実行している。こうした攻撃に対して揺るがないように立ち続けるだけでも、かなりの「汗をかいて努力」しなければ不可能なことなのだが・・・・・・。

 もっとも、「汗をかいて努力」という定義は人それぞれ違うだろうから、これも「見解の相違」だとして、次に進むことにしよう。

 「子供を例に考えればわかると思います。不良生徒を本当に立ち直らせようと思ったら、自ら汗をかいて、裏切られても悩みながら考えながら成長の機会を与えることが重要なのです。勤務している者が申し上げるのも忸怩たる思いがありますが、銀行は問題含みの不良生徒です。本人自身にも問題があるし、その育った環境(昔護送船団、今デフレ)にも問題があります」

 じつは、この部分からが、このメールの真骨頂なのだが、読んだ瞬間に、私の「良識」のヒューズはぶっ飛んでしまった。どうしても乗り越えない大きな違和感を感じてしまったからだ。なぜ銀行に対してだけは、「裏切られても悩みながら考えながら成長の機会を与える」ことが必要なのだろう。確かに、これまでの失われた10年の間、銀行にだけは、金融当局により、「裏切られても悩みながら考えながら成長の機会を与える」ことが行われてきたことは事実である。

 しかし、それは銀行に対して無条件に賦与された生来の権利ではない。それは、明らかな金融行政の誤りであったと捉えるべき事象だ。この方が言うとおり、銀行が「問題含みの不良生徒」なのであれば、そして、この「問題含みの不良生徒」に10年ものチャンスを与えたにもかかわらず更正できなかったとするならば、もはや相当覚悟した上で善後策を議論しなければならない時期にきているのではあるまいか。

 まかり間違っても、「その育った環境(昔護送船団、今デフレ)」に問題があるから、「不良生徒は悪くない」という結論にはならないように思うのだが・・・・・・。しかし、この銀行員は、「そういう考え方こそが間違っている」と糾弾する。

 「しかしながら、貴殿や竹中大臣のように不良を追いこむだけでは、不良以外の生徒にとっては拍手喝采でしょうが、当の不良は益々スポイルするだけです。不良の気持ちになってください。不良を立ち直させるのは批判ではないはずです。貴殿や竹中大臣は、まさに道徳の教科書や学園ドラマにおける、最も品性に欠けるダメ教師を演じているのではないでしょうか」

 非常に申し訳ないが、ここまで開き直られると私には言葉がない。社会学者や教育学者が一般論として、「不良の気持ちになってください。不良を立ち直させるのは批判ではないはずです」と論じるのであればまだしも(とは言え、私はそういう見方に与しないが)、「問題含みの不良生徒」と自覚しているその不良自身から、こういう風に明け透けに告白されると絶句するしかない。これは、私が修行不足で寛恕の心が狭いせいなのかもしれないが、「不良の気持ちになってください。不良を立ち直させるのは批判ではないはずです」という「不良」に対しては、「甘ったれるな」と叱り付けたくなる。

 ここまで言い切るのだから、きっと、この方が勤務するメガバンクは、「不良企業」に対しても、「不良の気持ちになってください。不良を立ち直させるのは批判ではないはずです」というスタンスを採っているのだと思う。だから、不良企業に債権放棄をしてあげているのだろう。しかしそれではなぜ、中小企業に対しては、毎日「貸しはがし」をしているのかが分からない。「中小企業の気持ちになってください。中小企業を立ち直させるのは批判ではないはずです」という愛を込めて接すればいいではないか。

 「柳沢前大臣は金八先生でした。柳沢ビジョンには日本の金融の未来がありました。民にやるべきことは民に任せるのが構造改革の基本であるのならば、銀行という不良生徒を真に自主自律の道を歩ませるために、汗をかいて努力するのが政策当局の役割なのではないでしょうか」

 「金八先生」については、私には定義が判然としないのでコメントのしようがないが、「柳沢ビジョンには日本の金融の未来がありました」という判断には異を唱えたい。柳沢氏は、引当・償却額に関して自己査定と検査結果の格差が47%あると知りながら、「銀行の自己査定には問題がない」と言い張っていた大ウソつきだった。それを賛美するのだろうか。それとも、「不良生徒」がカツアゲや万引きをしているのを知った「金八先生」は、「この子は悪くありません。この子にカツアゲをさせるデフレ社会が悪いんです」と言って庇うのだろうか。それが良い教師だというのだろうか。

 「特別支援」は「少年院送り」ではない
 また、「銀行という不良生徒」などと他人にまでレッテルを貼るのはいけないのではないか。「銀行」の中にも独立独歩で経営を断行する「優良生徒」がいるからだ。誰もが自分と同じ「不良生徒」と決め付けては、「優良生徒」の銀行が可哀相だ。

 「安易に少年院に送りこむことは問題を根本から解決させるのでしょうか。もう一度言います。不良を立ち直させる政策を語るには正論ではなく、その人の品性が最も問われるのです。もう品性に欠けるダメ教師のような批判はやめてください。そしてもっと骨太な未来を語る政策論をお願いします」

 私の「品性」に関する不毛な議論はとりあえず横におくとして、「少年院」についての書き振りを見る限り、誤った思い込みに基づいた判断であるような気がする。どういう事態を指して、「少年院に送り込む」と仰っていらっしゃるのか分からないが、もしも、最近マーケットで噂になっている「国有化」のことを意味しているのであれば、それは完全な勘違いであろう。

 というのは、今回の「金融再生プログラム」においては、「特別支援」というスキームが呈示されているが、いわゆる「国有化」とは全く異なるものだからだ。少なくとも、現時点において、多くの論者がイメージしている「金融再生法」の下における長銀や日債銀のケースとは違う。というのも、「特別支援」においては、日銀による特別融資が発動されることによって、銀行が「倒れない」ように配慮されることを明確に打ち出しており、さらに資本が必要であれば公的資金の注入にも応じるという寛大なセーフティネットを打ち出しているわけであり、その際の条件も「金融機関を代表する経営者については、責任の明確化を厳しく求める」というものに過ぎず、少なくとも銀行の従業員を「少年院に送り込む」ものではない。

 ひょっとすると、「検査官の常駐的派遣」を捉えて、「少年院の看守」のように考えていらっしゃるのかもしれないが、検査官が経営に直接介入する制度ではないように思う。あくまでもモニタリングを強化するための制度と推察され、「箸の上げ下ろし」にまで口出しして銀行の自助努力に水を差すようなものであってはならないし、そういう配慮の下で運営されるのではないか。そもそも、「コントロールの強化」ではなく、「ガバナンスの強化」である以上、関与の仕方も自ずと限界がある。「護送船団行政時代の大蔵省」というイメージであってはならず、「厳しい株主」という関り方が求められるに違いない。

 そういう意味で、「特別支援」の枠組みは、「少年院に送り込む」というものであるはずもなく、どちらかと言えば「自力更生」を促す仕組みであり、まさに「金八先生」の世界の範疇に入るような気がする。もっとも「抵抗勢力」代表のこの方のように、「強烈な被害者意識」ばかりが先行し、「自力更生」すると見込まれない「不良生徒」の銀行員ばかりだと、所詮「自力更生」のチャンスが与えられてもそれを活かすことはできないのではないか。これまでの10年間を無駄遣いしてきたように……。

 いずれにしても、この「抵抗勢力」代表の銀行員のような考え方が、現在の銀行内部を覆い尽くしていないことを私は祈る。遠くない将来において、「改革派」銀行員の一団が「抵抗勢力」の銀行員たちに打ち克ち、真の「自力更生」を達成することを願って止まない。

 

第25回「問題企業の『典型例』これが内実だ」    2002/12/02

 最近は、様々な内部告発が私の元に届けられることが多くなった。その中から今回紹介するのは、金融業界では5年以上前から経営に問題があると広く認識されてきた、ある大企業の内実に関する告発文だ。この大企業の名を仮に「XYZ社」とする。

 「秒読みに入った『XYZ社の自主廃業/解散』」というタイトルで始まるこの告発文の内容が真実のものであると立証する術を私は持たない。しかし、私が知っている限り、ここで述べられている内容は、経営が傾きながらも銀行支援の下で決算をごまかしながら生き長らえている問題企業の「典型的なパターン」にピッタリと当てはまる。傾いた企業がどのように堕落していくのかを知る上で役に立つと思われるので、ケーススタディーとして紹介する。

 「超法規的措置」の「ご英断」とは…?

 「3月31日現在の国内受注見通し5,200億です。与信が完全に崩壊/壊滅となります。この数値が対外公表されますと、『正直言ってもちません』。○○○銀行の支援スタイルも『一転』すると懸念されます」
 「4月上旬の段階で○○期のスタートが切れない状況も想定されますので「種々の実態」を承知致してはおりますが、『超法規的措置』を含めて、
1. 先の役員支店長会議で当方よりご報告致しました国内5,530億円の各支店着地見通しは『死守』のこと、特に、差異の大きな支店は『ご英断』を願います。
2. 上記見通しの達成支店においても1億でも、5億でも極力加算をお願いいたします。一支店の目標達成の評価の議論を越えた非常事態です。
3. 受注の計上締め切りは4月5日です。
本日中に最大限の計上をお願いいたします。
 支店長会議の数値をご確認の上、間違いなく計上を頂きますようお願いいたします。
以上 親展にて」

 以上は告発文に添付されていたメールだが、本文からこのメールに関する解説部分を引用しよう。

 「粉飾決算の内部指示文書がここにある。これは、2000年4月4日、経営企画本部長□□□が元九州支店長△△△△に宛てた受注高粉飾の内部文書である。もはや社内ルールなどは全く無視され、『超法規的措置』などというわけの分からない表現により、ごり押しし、粉飾決算を強要していることがよくわかる。もちろん、全国各支店長にも同様の文書が流れている。受注高にとどまらず、売上高、売上総利益、販管費に至るまで、同じような粉飾指示文書が発せられている」

 「常識が麻痺して罪の意識がなくなってしまう」

 冒頭に申し上げたように、私にはこのメールが本物かどうかを知る術はない。しかし、このメールの内容に象徴される典型的な症状が、問題企業の末期によくみられるものであることについてはよく承知している。仮に本物であると仮定すると、このメールは色々な意味で味わい深い。何と言っても、「超法規的措置」なる「違法行為(?)」に関して、経営企画本部長が支店長の「英断」を要請しているのだ。また、こんな危険な秘め事を社内メールで要請しているということにも驚かされる。要するに、「メールだとエビデンスが残ってしまう」という最低限度のリスク意識すらなくなっているのだ。これは、こういうことが日常茶飯事として長期間行われてきた結果、常識が麻痺して罪の意識がなくなってしまっていることを示唆している。

 この「常識が麻痺して罪の意識がなくなってしまう」というのが、問題企業の共通の病だ。粉飾決算に一旦手を染めると、粉飾決算をすること自体が重要な仕事となり、初めの頃は強烈に感じたはずの罪の意識が次第に遠のいていく。粉飾決算は、モルヒネのように、一度手を出すとなかなか抜けられない。「今期だけ」「今回だけ」と思いながら、ドンドンのめりこんでいく。そのうちに、正攻法で自らの窮地を脱しようという気概がなくなる。マイナス面は隠し、プラス面は誇張するという粉飾決算のテクニックだけを磨くようになってしまう。そして、企業としての実力が急速に希薄化していく。

 こういう企業に対して、粉飾決算に加担するためだけに債権放棄をすれば、どうなるか結果は知れている。「債権放棄」ならぬ「再建放棄」だ。会計上のお化粧に励むだけの企業が再生できるわけがない。

 悩ましいのは、こうした粉飾決算にとどまらず、XYZ社において各種の不祥事が頻発していることだ、と告発者は指摘する。実際、告発文には、最近に生じた事例が赤裸々に記されている。また、過去の不祥事についても、これでもかと思えるくらい列挙してある。こうも不祥事が頻発するのであれば、再発防止のために厳しいお灸がすえられてよいのではないかと思うが、結局のところ、毎回毎回、国土交通省と地方自治体が短期間の指名停止をするだけで終わっているらしい。その短い指名停止期間さえ凌ぎきれば、晴れて無罪放免である。

 そこでこの告発者は、「官庁工事が受注できなくなった今期、XYZ社は民間工事に頼らざるを得ず、採算性度外視により、受注量確保を最優先とする徹底したダンピング受注に踏み切ると思われる(ダンピング受注は今に限ったことではないが)。もし工事を発注する企業があったら、いくら工事金を値引きしても、XYZ社は必ずついてくる」という予測を披露している。かくして、XYZ社は、ダンピング受注だけを武器に、粉飾決算のテクニックを磨きながら財務内容を大幅に毀損しつつ、しばらくは余命を長引かせていくのだろう。こうした行動が同業他社の収益性に大きなマイナスインパクトをもたらしていることは想像に難くない。

 つきまとう疑問「なぜ支援するのか」
 怒りが収まらない告発者の糾弾は、最後にメーンバンクへと向かった。「○○○銀行の△△頭取は、『XYZ社は潰さない』という。これだけ不祥事・経営不安を続ける企業であるのになぜかという疑問を抱かざるを得ない」と指摘し、「最近、○○○銀行の経営陣の中では、XYZ社の存続を疑問視する声が一段とささやかれているという。『なぜ、あの時潰さなかったのか? 今でも遅くはないから、早急に潰すべし。今後、XYZ社に関わっていると○○○銀行のイメージダウンと経営悪化は計り知れない』」という内輪話も紹介している。

 メーンバンクである○○○銀行においてXYZ社の問題は、おそらく△△頭取直轄のイシューになっているに違いない。きっと、担当部長と△△頭取だけで個々の判断を下しているのだろう。なぜ「XYZ社は潰さない」のかについて、行内で明確に説明することもあるまい。周囲には茶坊主ばかりが集まり、「もはや潰すべきです」と直言できる役員もいないのではないか。下の方から「なぜXYZ社だけ特別扱いするのか」という声が上がっても、正式に取り上げられることはまずないだろう。結局のところ、「なぜ支援するのか」という問題の解は、△△頭取の心のうちにしかないのである。

 これまでわが国は、こうした銀行経営者の心の内に潜む深い悩みを「なあなあ」にしたままでやり過ごしてきた。そして銀行経営者たちは、自らの心の内に潜む深い悩みを未だに直視することができていない。そのことが如何に危険であるかということもわからなくなってきているのではないか。世間の視線が銀行経営者の一挙手一投足に集まっているにもかかわらず、この深い悩みに蓋をしたまま彼らは走り続けている。蓋をしていること自体が如何におかしいことなのかについて、組織内の誰も直言できなくなっている。どの企業に対してどのように蓋をしているかという情報も、銀行経営者以外には把握できなくなってきているのではないか。この心の内に潜む深い悩みを解決することなしに、不良債権問題は解決しないのである。

 

第26回「銀行の常識は他の業界の非常識?」  2002/12/06

 第24回のコラム「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」に対しては物凄い反響が寄せられた。「○○○銀行△△△△△部の中堅行員(36才)」に反論する夥しい数のレスポンスをいただき、この問題に対する皆さんの関心の高さを再確認することができただけでもアップした価値があったのではないかと思う。特に、「銀行」を「不良生徒」に喩えた下記の部分に対しては、ほとんどの投稿者が言及してきた。

 「銀行は『放蕩の限りを尽くした老人』」

 「不良生徒を本当に立ち直らせようと思ったら、自ら汗をかいて、裏切られても悩みながら考えながら成長の機会を与えることが重要なのです。勤務している者が申し上げるのも忸怩たる思いがありますが、銀行は問題含みの不良生徒です。本人自身にも問題があるし、その育った環境(昔護送船団、今デフレ)にも問題があります。しかしながら、貴殿や竹中大臣のように不良を追いこむだけでは、不良以外の生徒にとっては拍手喝采でしょうが、当の不良は益々スポイルするだけです。不良の気持ちになってください。不良を立ち直させるのは批判ではないはずです」

 この文章に対しては、多くの方がそれぞれの観点から極めて説得的な議論を展開していらっしゃるので、本当は全部読んでいただきたいくらいなのだが、その中でも、怒りの沸騰を抑えながら比喩を用いて反論した方のメールを、まずは紹介したい。

 「銀行を人間に例えるならば『不良少年』ではなく『放蕩の限りを尽くした老人』である。ここにこういう家庭があるとしよう。世帯主は36歳の会社員。3歳年下の妻と7歳になる長男と4歳になる長女がいる。それに66歳になる世帯主の父が同居している。世帯主は真面目なだけが取り柄の会社員。対して父のほうは昔から博打好きの見栄っ張りで美食と浪費の限りを尽くし、残ったものは重度の病と多額の借金だけ。世帯主もその妻も本音では早く父には××しもらいたいと思っている。しかしそんなことは顔にも出さず、毎日看病を続け、少ない給料から毎月少しずつ父の借金を返済しつづけている。さあ36歳中堅行員よ。君がその世帯主だとして、このどうしようもない父親から『悪いのは社会だ。競馬や競艇のような人を迷わすものを放置している社会が悪い。どんなに借金があっても更に貸してしまう高利貸しが悪い。私はそんな社会の犠牲者なんだ』と言われて、もっともだと思えますか?」

 個人的には、「○○○銀行△△△△△部の中堅行員(36才)」のように考える方が銀行内部の少数派であることを信じたいが、皆様からのメールに目を通すと、残念ながら、「そういう人は沢山いる」という指摘が数多く寄せられたことも事実である。

 国有化銀行からメガバンクに転職した銀行員:「このような人物が銀行組織の中枢に巣くっていることは確かで、私の職場でも例外ではありません。多少なりとも、ある意味で『高邁な』志を掲げてこの業界に入った人間としては、昨今の銀行の破廉恥な企業行動に付き従うことはもはや不可能です」

 従業員20名を抱える零細企業経営者:「こんな考えをしているのはこの方達だけではありません。私の会社で取引してる銀行(この銀行、公的資金を受けながら前期は無配当し話題になった銀行です)にも「銀行だけ悪者にして。所詮、竹中は学者さんで木村は経営コンサルタント。現場、市場の何がわかってる」などとのたまう方も。「そんなこと言ってる場合じゃないでしょうに。自分の尻には火がついているのですよ。株主のため、預け入れしている庶民、そして身を削ってまで頑張っている零細のオヤジのために再建、健全化していくためになりふり構わず働くときでしょう」と言ってやりたかった(言えないのが銀行に頼らざるを得ない零細のオヤジの弱みです)」

 差出人不明:「むしろこれなぞ序の口のほうではないだろうか? 自己表現の能力は個人差が激しいので、この意見と同じ内容をもっと同情を買いながら正論に聞こえてしまうように言う行員はいるだろうと思うが、ここで述べられている主義主張はおおむねメガバンク行員の大多数の意見と考えておいたほうがいい」

 もしも、少なからぬ銀行員がここで指摘されているような性根になってしまったとするならば、それは、「銀行」以外の世界を知らずに増長したことに因るものに違いない。他の業界で当たり前に語られている常識さえ身につけているなら、健全な自制が働くはずだからだ。そういう心の鍛錬を受けることなく身体だけ大きくなってしまったので、少しでも自分の思い通りに行かないと、自分の能力不足や不誠実に思い至ることなく、「誰かが自分の邪魔をしている」「誰かが私を貶めようとしている」「誰かが俺の足を引っ張っている」などという強烈な被害者意識に苛まれてしまうのだろう。

 銀行の常識と銀行以外の業界の常識は異なる?

 どうも「銀行」の常識と「銀行」以外の業界における常識は異なるようである。じつは、「○○○銀行△△△△△部の中堅行員(36才)」に対する反論メールの中で、自らの境遇との比較をしながら持論を展開していらっしゃる方々もいるので、それらの方々の声をご紹介したい。まずは、北米で日系ベンチャーに勤務する方からのメールである。

 「私の勤務する会社は、損切りの売却で残り2ヶ月程の運命です。経営陣、従業員あわせて130人ほどの会社ですが、私を含め9割は失業することになるでしょう。しかし乍ら、経営陣、従業員の誰も愛が必要だとは言いません。明日を生きるために自力で立ち上るしかないのです。買収する会社の経営陣は徹底したコスト削減とインフラと販売チャネルの共有化で利益を生み出すプロです。日本人は米国の一般レベルに較べて能力も知識も高く、甘えさえ無くなれば、嘗ての明治維新や戦後のように必ず競争力は回復すると信じています。どうか、銀行が'愛が必要などと自ら言い出すような'甘えを断ち切るよう、国営化を急ぎ、厳しく且つ経験豊かな経営陣を採用して頂けるよう、ご尽力を期待しております」

 このように「銀行」以外の業界に属する方々は、甘えが許されない厳しい競争社会で日々を生きているのである。「裏切られても悩みながら考えながら成長の機会を与えることが重要なのです」などという甘ったれたことを言うことなどそもそも許されていないのだ。

 「給与30%カットぐらいなぜできない」
 同様の環境の下で、広報関連の仕事を営んでいる女性経営者から寄せられた以下のメールも読んで欲しい。

 「私達は10年前数人で会社を起こして日々奮闘しながら事業を行っています。売上が下がれば給与を返上し、売掛金が入ってこなければ借金してでも外注先には払い、万が一会社が倒れることがあれば相応の負債を背負うことは覚悟でやっています。取締役には雇用保険もありません。でも、経営が厳しいからと言って不況のせいにも、世間のせいにも、誰かのせいにもしません。『それはあなたの勝手であって、あえて大変なことをしなくても、安定した会社に勤めていればいいでしょ』と言われればそうかもしれません。しかし、やはりそこには『志』や『思い』というものがあるでしょう。そもそも銀行とは何なのか、金融機関の社会的役割とは何なのか、何のためにあなたは銀行に入ったのか、そこで何を成し遂げたいのか、今一度考えてほしいと思います。メガバンクを日本経済停滞の犯人にするつもりもなく、魔女狩りをするつもりもありません。ただ、金融機関の原点に立ち返ってほしい、また、一企業として社会の常識を認識してほしいと思っています」

 どうだろう。銀行以外の業界で生計を営む方々の凛とした覚悟と比べたとき、「裏切られても悩みながら考えながら成長の機会を与えることが重要なのです」と言い張る銀行の常識というものが色褪せて見えはしないだろうか。もしも、銀行員が自らを真摯に振り返る勇気があるのならば、他の業界に携わっている方々からの手痛い批判に耳を塞ぐべきではあるまい。

 中小電機電子部品メーカーに勤める34歳の人事担当:「先日発表された、メガバンク中間決算におけるトップの会見を聴いていると、とてもじゃないが『自分達の非』を素直に認めたようには思えません。特に○○○銀行の頭取は他人事のような会見でした。行員の給与カットについても仕方がないからやるという感じでした。銀行員の給与が世間水準より高額であるということは周知の事実であり、そのことは今に始まったことではなく数年前から盛んに言われていることでした。それまでずっと耳をふさぎ続けた結果、ようやく外野からとやかくいわれ、このままでは世間体もあるので仕方がないから給与カットをやるというのは銀行の甘すぎる体質を露呈したようなものです。お茶を濁す体質は結局は変わっていないような気がします」

 商社関連会社に勤務する57歳の方:「○○○銀行の給与10%カットの新聞記事がのっていますが、これとて10%ではなく30%程度のカットを実施するくらいのことがなぜできないのか疑問に思いました。小生のみならず多くの国民はそういう感想を持ったのではないかと思う次第です」

 某外資系信用調査会社に勤める26歳の若手社員:「世間的に言えば非常に高給な報酬を得ている銀行だけが国策の中で血税を投下されているにもかかわらず、何の改善も見られず今までの護送船団の中でぬくぬくと生き抜いているようで、怒りを通り越してもはやバカバカしさ、といった事まで感じる次第です。彼らは何か勘違いをしているのではないでしょうか? いわゆるメガバンクに属し、その小さな湖の中で誰が上か下かといったつまらない上下関係のしがらみの中で上に登る事、そこに属する事がゴールであり、その他ほとんどの産業を蔑むような、どこか思い上がりにも似た気持ちを抱いているのではないでしょうか」

 このように、世間を冷静に見渡せば、現在の銀行業界を擁護する声は極めて少ない。しかし、私は、読者から「甘い」と厳しく糾弾されることを承知の上で、銀行内部にも少なからぬ「改革派」がいることを信じたい。あるいは、「改革派」であったが故に早々に銀行を追われた銀行幹部たちの中にも、再チャレンジを胸に秘めて、故郷の惨状を憂えている人々が多いことを信じたい。日本経済の復活には、銀行の変革が必要であり、銀行の変革には、「破綻」ではなく、「再生」が必要である。そして、そのためには、銀行内部の変革をリードする組織内の心ある人々が不可欠だからだ。

 私は先週、ある大手銀行のニューヨーク支店に勤めている35歳の中堅行員の方から、「私は少数派に属する市場運用部門に属しています。銀行の中で声が大きい企画や融資セクションとは一線を画し、この10年間彼らの不良債権償却のための原資を稼いできました。もちろん、抵抗勢力へは声高に批判し、少しずつ変化を勝ち取っています」という心強いメールをいただいた。メガバンクに籍を置いているある銀行員からは、「旧弊を打開するために、まったく新しい日本の銀行を作ろうというプロジェクトを立ち上げることができるならば、喜んでそれに力を注ごうと思いつつ、それが不可能となれば、このような存在価値を失った業界から足を洗いたいと思うしかありません」という魂の叫びも寄せられた。

 銀行再生、厳しくとも自己変革を
 無論、再生への道は平坦ではない。自力での改革に限界を感じて転職を模索している、地方銀行に勤務する37歳の銀行員は次のようなメールを送ってきた。

 「どちらのメガバンクに属される方の投稿メールかは存じ上げませんが、未だにこのような時代に逆行する考えを持っている人間がいるのだなと感心しつつ、一方では、規模の違いこそあるものの、同じ銀行業界に勤務する者として、また同年代の人間として、このようなレガシー的発想に、大いなる憤りを感じました。私、現勤務先において、システム企画なるポジションに身を置いておりますが、新事業企画を上げるにしても、経営改革プランを上げるにしても、兎にも角にも日和見主義、横並び主義、他所様の事例確認主義の連呼であり、何ら前には進まぬような有様です。真にお客様のための、魂のこもった仕事に打ち込んでみたいものです」

 もはや、「日和見主義、横並び主義、他所様の事例確認主義」が用を為さないことは明らかである。わが国の銀行は、再生し力強く復活するために、自ら大胆に変革を成し遂げなければならない。それは難業に違いない。険しい道程であるに違いない。しかし、それを成し遂げなければ、日本国が真の復活を遂げることはないのではあるまいか。

 

第27回「銀行のリストラは本物なのか?」   2002/12/13

 それぞれのメガバンクが色々な施策を打ち出し始めたようだ。銀行の買収を検討したり、グループ内の銀行・証券・信託を統括する新持株会社の設立を公表したり、慌しいことこの上ない。これらの新しい経営戦略が単なる自己資本対策や目先の配当対策でないことを私は祈りたい。が、寄せられてくる各種の情報はそうではない可能性を示唆していたりする。

 というのも、公的資金を投入してもらっているにもかかわらず、対外的にはもっともらしく言い包めながら、対内的には甘い運営をしているケースが目立つからだ。そこで、数多く寄せられてくる内部告発のうち2点を紹介しよう。もし万が一、これらの内部告発の内容が事実であるとすれば、銀行経営の仕方にはかなりの問題が潜んでいるように思う。

 まずは、破綻金融機関からメガバンクに転職したある銀行員からの告発である。

 「保護下の高給、公的資金でまとめてもらう」

 「先日、日経新聞に『○○○の給与引き下げで旧△△銀行社員の調整給与を廃止』との記事がありました。とんでもない。実際には向こう2年間に支払われる予定であったひとりあたり何百万円もが2003年4月にまとめて支払われるのです。こういうところは相身互いなので、何の異論もでないようです。こんなことはリストラではありません」
 「使命を失った△△銀行が過去の遺産でここ10年食いつぶし、○○○の一部になったにも関わらず、過保護環境で高給を得ていたものを、公的資金下でまとめてもらってしまおうということなのです。旧□□□銀行や◇◇銀行の社員にも同様な手当があるのです」

 「破綻金融機関から、縁あって○○○で働くことになりましたが、こんな甘えた社員やリストラは一納税者として我慢なりません。事ほど左様に会社の金で年末の打ち上げとか、パーティーとかをやるそうです。儲かって仕方ないならいざしらず、こんなに国民を愚弄した社員がいるとはあきれる限りです。無駄金あるならば公的資金を返済するような考えは部長級の職員にも全くありません」

 「少し実情をお知らせしたくなり、キーボードに向かいました。こんな調整手当の支給を止めていただけませんか。社外に言わないければならないことは、恥ずかしい限りですが自浄作用がないので、やむを得ません」

 自浄作用が働かないのは無念の限りだ。余裕が少しでもあるのなら、公的資金を返済すればよいではないか、不良債権処理を進めればよいではないか。7人も頭取が出てきて仰々しい記者会見をする前に、経営者としてやるべきことをやればよいのにと非常に残念に思う。

 さらに、ある大手銀行の部長職の奥様からもメールをいただいている。私情がかなり入っているので、真偽のほどは定かとは言えない面はあるものの、銀行内の雰囲気を知らせるという面では貴重な資料と言えるかもしれない。

 「残った人の待遇、年収は現状維持どころか上昇」

 「私の夫は、現在○○○○銀行で年金運用部長をしています。年収は、約2000万円。合併だのなんだの、危ない銀行だのなんだといわれましたが、そのときの(年収1680万円)よりなんと300万円近く上昇しました。普通企業のみなさんが厳しい状況にあるのに、いかに銀行の上部が甘い汁を吸っているか現実をお知らせします」
 「世間では、大手銀行もリストラの嵐が吹き荒れ、行員も大変と言われていますが、それが本当とは到底思えません。リストラで辞める方がいる反面、残った人の待遇、年収は現状維持どころか上昇しています。もともと銀行の給与等待遇は他会社に比べて破格の上に、社内も銀行批判など何処吹く風、世間的にはともかくとして内部では暢気そのものです。銀行の部店長クラスは、今でも信じられないくらい高額の給料をもらい、社内も平和そのもので楽しい毎日を送っているのです。世間的には人を辞めさせ、自助努力をしていると納得させた上で、残った行員は給料が減るどころか今まで以上の高給をとるという仕組みです」

 「会社から支給されたタクシー券や携帯電話なども、私用に使いたい放題、それでも会社側は見て見ぬ振りのままです。これで大手銀行が自助努力をしているなどというのは、呆れてものが言えません。内部から見れば嘘だらけの銀行の自助努力というほかありません。こんな行員達に高い給料をあげ、税金を投入して助けてあげるなんて馬鹿馬鹿しい限りです。自分たちの既得利権を剥奪されたくない大手銀行のお偉方たちは必死でしょうが、その前に銀行内部でやることがあるんじゃないですか?」

 「以上、あまりにお粗末な銀行の内部を木村さんにお伝えしたくてメールいたしました」

 銀行内部における自助努力が欠けているというのではお話にならない。これでは、何のために巨額の公的資金を銀行に投入したのか、全く訳が分からないではないか。公的資金をもらった銀行員の方々に一つだけお願いがある。是非とも、「国民の税金を投入していただき、危機の局面を凌がせていただいた」という感謝の気持ちだけは忘れないでいただきたい。どのような正論を吐こうと、その感謝の気持ちが全くないのでは、国民の心を打つことは絶対に出来ないのではあるまいか。

 

第28回「『不良生徒』のメガバンク行員に対する反論を求む」  2002/12/19

 第24回のコラム「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」に対して寄せられた大反響については、第26回のコラム「銀行の常識は他の業界の非常識?」でも改めて紹介させていただいたところだが、そこでの主人公である「○○○銀行△△△△△部の中堅行員」からは、さらに3度ほどご丁寧な反論をいただいている。

 本来であれば、一つ一つの誤りを私の言葉で反論すべきところだが、あまりにも私が拠って立つ「良識」と彼の主張が大幅に懸け離れている上に、わざわざ全く別個の論点を掲げて、本当に論ずべき観点からとにかく目を逸らさせようとするので、「彼を説得するために多くの時間を費やしたい」という気持ちが湧き上がってこない。

 とはいえ、最新のメールにおいてご本人から、「あなたはフェアネス・トラスト・ジャスティスが重要だと主張しているが、フェアネスが重要なのであれば、小生の返信についても是非言及していただきたかった」という趣旨のご指摘をいただいており、そのご指摘自体はごもっともな主張だと思う。そこで、読者の皆様にその正当性をフェアに判断していただくために、銀行名と氏名だけを伏せて全文を掲載することとした。

第1回目のメール(11月21日)

 第24回のコラム「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」を参照のこと。ここで、引用した「○○○銀行△△△△△部の中堅行員」からのメールは全文をそのまま紹介している。私の方で、省略作業をしていないことは改めて指摘しておきたい(銀行名と氏名を伏せる作業のみ)。

第2回目のメール(11月26日)

 「前略 第24回「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」 でメールを引用していただいた○○○銀行の行員です。貴殿の記事にある小生に対する批判に対して一つ一つ反論しても、不毛な議論になることは明白なので差し控えますが、一つだけ疑問に思うことがあるので質問させてください」
 「貴殿は予てから柳沢前大臣に対する批判をしておりますが、その柳沢前大臣と貴殿がサポートされる竹中現大臣の違いは何なのでしょうか? 小生は柳沢前大臣は実務的に金融再生を着実にこなし、且つ金融の将来ビジョンをきちっと作られた方と評価しています。最近の不良債権処理には賛否両論ありますが、少なくとも98-99年の金融危機を回避したのは当時の柳沢大臣のトラックレコードだと思います」

 「それに対して竹中大臣は、政策スタンスが度々振れ(ここでくどくどと例示はしないが、貴殿の言う粉飾答弁紛いでは)、プラン作りはあれど、デフレを下げ止まらせることが全くできずといったように、トラックレコードとしては悲惨なものではないでしょうか。柳沢前大臣が不良債権処理だけでなくその先にある金融の将来ビジョンを提示したのに対して、竹中現大臣の金融再生プランは将来ビジョンの提示がなく『引当をしこたま積んで経営陣が替われば新生銀行のように何とかなるだろう』という杜撰な計画にしか見えません」

 「柳沢前大臣が派手さはないが実務を着実にこなしていくタイプであるのと対照的に、竹中現大臣は派手な大風呂敷は広げるもののその後不良債権をしこたま作るタイプと重なってしまいます。柳沢前大臣に対して粉飾答弁呼ばわりするのは百歩譲ったとしても、政策スタンスが度々振れ(柳沢前大臣が粉飾答弁ならばこの人も同じでしょう)トラックレコードも最悪な竹中現大臣をサポートするのはフェアといえないのではないでしょうか? 少なくとも、フェアを強調される貴殿が竹中PTに入ったことには全く得心がいきません」

 「それから一つ提案。『改革派』とか『抵抗勢力』とかいうレッテル貼りはやめていただけないでしょうか?このようなレッテル貼りをされ『抵抗勢力=悪』と決めつけられると、まともな議論が不可能になります」

第3回目のメール(12月3日)

  「第24回、「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」で全文引用していただいた者でございます。貴殿の『その1』に対して質問のメールを出させていただきましたが、今週『その2』に続くことなく、いささか失望しております。何故、98年公的資金導入に強く反対し、2000年にはIT革命を絶賛し、世界的な景気スローダウンを見抜けないどころか我が国経済に決定的な打撃を与えたゼロ金利解除に賛成された、経済環境の認識について最悪なトラックレコードを持つ竹中大臣を応援するのか、是非明快なご回答をお願いいたします」
 「また、この場をお借りして、去る11月29日に発表された金融再生プログラム『作業工程表』について私見を述べさせていただきます。一言で申し上げると『大山鳴動してDCF一匹』というところでしょうか。『国民が金融機関に対する不安を抱くことなく暮らせるようにする』という大上段に構えた目的とは全く裏腹に、『金融再生プログラム』自体が目線の低い技術論の寄せ集めでしたが、その目線が今回更に一段下がった印象を受けます。『経営者責任の明確化』の項目に対して『厳しく対応』と記してあるところなど、法治国家の行政と小学校の今月の目標を履き違えているのではとさえ思われます」

 「結局、『国民が金融機関に対する不安を抱くことなく暮らせるようにする』というのは如何なることなのか、そして、我が国の銀行業を如何なる姿にすべきなのかという明確なビジョンが全くないまま、矮小化された技術論のみを展開してゆくことは、徒に混乱を招くだけで、何ら結実を得ることなく、無為な時間をただただ過ごしてゆくことに等しいわけであります」

 「他方、柳沢前大臣の『中期的に展望した我が国金融システムの将来ビジョン』は違いました。『市場型間接金融の成長』や『アジアとの共生』といった骨太のビジョンには、金融行政を司るものとしての『歴史観』と『志』が感じられました。今次、中間決算発表におけるメガバンクの経営方針を見ても、柳沢ビジョンが提示した『市場型間接金融』に各グループとも注力していることが明確に読み取れます。一旦は国際業務を縮小するメガバンクも、次にまた世界に打って出るときには『アジアとの共生』を踏まえた業務展開をすることでしょう。『志』があればそれに応じた『こたえ』が必ず返ってくるのです」

 「貴殿は「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」(その1)において、「『政策を語る』には、『品性』よりも『正論』と考える立場である」と表明されていますが、『品性』という全体的に見なければわからない茫漠とした尺度よりも、『正論』と称する部分的に合っているだけに過ぎない明確な尺度を重視するような姿勢が、今回の『金融再生プログラム』やその『作業工程表』のようなレベルの低さを招いているのではないでしょうか。太平洋戦争に突入した日本も、その足跡は一つ一つの技術的な正論の積み重ねでしたが、全体観を欠いたが故に、米国という超大国と戦うという無謀な決断を止めることができなかったのは歴史的真実であります」

 「また、最近の例で言えば、日本版ビッグバンも、競争原理によって我が国金融機関の実力を高らしめ国民経済に貢献するという目的だったにも関わらず、事情をよく理解せず米国当局の意向を鵜呑みにし、金融の自由化・国際化を性急且つ局所的な技術論で進めたが故に、逆に、金融資本市場の混乱と我が国金融機関の弱体化という最悪な状況を招いてしまったことは非常に残念であります」

 「貴殿は『不良債権処理をキチンと進めることが重要』と言われますが、米国型資産査定といった局所的な技術論に拘泥し、生きた企業を多く退出させることの経済社会的な帰結について深く洞察されているのでしょうか。韓国やスウェーデンの不良債権処理の例を挙げられますが、デフレの日本に導入した場合の効果について深く洞察されているのでしょうか。経常赤字国の韓国は為替の大幅な切り下げが同時に起きたからこそ、景気が回復したわけで、数少ないIMFの成功例と称されますが、我が国の実情を踏まえず、同じ処方箋を課すことは極めて危険なのではないでしょうか。新生銀行を絶賛する声も現実に多いわけですが、貸し剥がしを進め瑕疵担保特約行使でどの程度の収益が嵩上げされているのかについて、また、メガバンクの多くが新生銀行のような経営スタイルを採用した場合の経済・社会・財政に対する影響について、深く洞察されているのでしょうか」

 「小泉内閣が昨年提示した『骨太の方針』にある『そこでは、国民が自信と誇りに満ち、努力した者が夢と希望をもって活躍し、市場のルールと社会正義が重視されます。また、それは誰もが豊かな自然と共生し、安全で安心に暮らせるとともに、世界に開かれ、外国人にとっても魅力を感じる社会でなければなりません。新世紀維新が目指すのは、このような社会です』というビジョンには少なからず共感するものがあります。そしてこれが80年代から90年代に活力を取り戻した米国の経済社会を範としたものであるということもよくわかります。 しかしながら、ペーパー一つで経済社会が直ぐに変革するというものではありません。人間は経済合理性だけで動くものではなく、愛情や道徳や因習といったものに大きく左右されます」

 「蛇足ですが、小生が社会的な批判を強く浴びている現在の会社に止まるのも、好きで入った会社であり、その会社をなんとかしたいという、経済合理性とは別の要因が大きいわけです。もとい、一人の人間でさえ変革させるのは大変なのに、ましてや企業という組織や国家という巨大組織を変革させるためには大変なエネルギーと時間を要します。そして、そのエネルギーと時間を費やしても、人を企業を国家を変革させてゆくためには、技術論ではなく、目線の高いビジョンで粘り強く語り続けていくしかないのではないでしょうか」

 「現在、米国が日本の不良債権・過剰債務について大いなる問題意識を持っていることについては、フォーリン・アフェアーズ誌2002年1・2月号の論文『Japan's Economy at War with Itself(邦題:このままでは日本は崩壊する)』(ウィリアム・オーバーホルト/ハーバード大学アジアセンター研究員)を読めばよくわかります。米国は日本の不良債権・過剰債務を単なる経済問題ではなく、アジア経済や米国市場への不安定要因を通じた安全保障の問題と捉えています。しかしながら、米国の言う通りにすれば、日本の金融、経済そして社会は良くなるとお考えでしょうか。そもそも、米国は我が国の問題の本質を理解しているのでしょうか。90年の日米構造協議で米国が我が国に課した430兆円の公共投資基本計画についての評価は、現在極めて厳しいものであります。米国に急かされて実施した日本版ビッグバンの帰結を貴殿はどう評価されているでしょうか」

 「当然、『米国、反対、反対』と唱えているだけなのは愚かなことであります。米国が安全保障という極めて高い目線で問題提起をしているからこそ、我が国の政府や銀行も、技術論ではなく、ゴシップ記事におもねるような対応ではなく、目線を高いところに置き、叡智を結集し、『歴史観』と『志』に基づいた不良債権・過剰債務問題に対する回答を用意すべきなのです。そのように考えたとき、技術論の寄せ集めに過ぎない『金融再生プログラム』やその『作業工程表』のレベルの低さには、大蔵省及び通産省が主導した97年橋本改革同様に、暗澹たるものがあります。小生が最初に貴殿にお送りしたメールの末尾に『もう品性に欠けるダメ教師のような批判はやめてください。そしてもっと骨太な未来を語る政策論をお願いします』と書いた趣旨をご理解ください。貴殿にはそれが出来ると期待しております」

第4回目のメール(12月10日)

 「第26回『銀行の常識は他の業界の非常識?』を拝読いたしました。第24回「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」(その1)の後、小生から11月26日と12月3日の2度に亘り返信させていただきましたが、この12月6日に掲載された第26回にはそれらの返信に全く言及されることがなく、大変失望いたしました。第24回に引用された小生の『金八先生』に準えた一部の譬え話が適当でなく、貴殿が『甘ったれるな』とお怒りになることは認めます。最初のメールは貴殿の余りにも執拗な銀行批判に辟易したため送りましたが、小生としても銀行は顧客、社会そして株主の信頼を得るべく抜本的なリストラが必要であり、また、これまでそのリストラのスピードが遅かったことは十分認識・反省しているつもりです。」
 「しかしながら、小生としては2度に亘り返信し、しかも2度目にお送りした文章は相当力を込めて書き、貴殿への期待まで込めたにも関わらず、第26回においては小生の一部の適切でない譬え話に焦点を絞り、ただ徒に銀行に対する反感を醸成するような論旨展開だけにそれが使われたことに遺憾の念を覚えました」

 「小生は貴殿の現状認識を今一度確認することが重要であると思い、この週末に貴殿の近著『日本国の経営学』を読んでみました。貴殿の、フェアネス・トラスト・ジャスティスが重要だとか(但し、フェアネスが重要なら小生の返信についても是非言及していただきたかったですが)、大企業体質をかなぐり捨てろといった指摘は確かに正しいと思います」

 「しかしながら、経済に関する認識については余りにも多く間違っています。以前読んだ貴殿の金融検査マニュアルに関する著作も行政に関する認識を根本的なところで間違えていて疑問を感じましたが、『日本国の経営学』に著された経済に関する認識はその数倍酷いと思います。全てを指摘することは省略しますが、ここでは小生が特に問題だと思った2点を手短にご紹介いたします」

 「(1)『GDPの0.1〜0.2%の変動にいちいち振りまわされる必要はない』→良識ある政治家・経済人が問題にしているのはGDPの0.1〜0.2%の振れではなく、失業者や自殺者の増加である。GDPの落ち込みは見た目小さくとも、社会的弱者は限界的に失業者や自殺者に追いこまれて行く。現状のそれらの増加は小泉首相・竹中大臣がセーフティネット作りを怠ったままデフレ政策を継続した結果である。貴殿は中小企業の痛みを訴えるが、経済に関する認識に根本的な誤りがあるのではないか」

 「(2)『地価は5〜10%しか下がっていないのに不良債権はここ数年当初予定の3〜4倍に膨らむのはおかしい。銀行は不良債権を隠しているのだ』→マクロ指標である地価と与信の限界部分である不良債権の比率を連動させて考えるという、『算数』として誤った前提を元に『銀行は不良債権を隠している』と推論するのは如何なものか。経済分析は正しい前提を基に緻密に行っていただきたい」

 「日本経済復活の真の鍵が個々人の『志』という精神の世界にあることは確かだと思います。しかしながら、志は高かれど、間違った認識を持って頑張ってしまう人物が実は一番厄介なものなのです。明治維新の志士たちも戦前の軍人たちも同じ高い志を持った人達でしたが、何故、前者は日本を世界の一流国に導き、後者は日本を破滅に導いたのでしょうか。それは、前者には『五箇条の誓文』の『万機公論ニ決スベシ』の精神があったのに対して、後者は『問答無用』『大政翼賛会』と異論を排除する嫌いがあったからではないでしょうか。認識や分析が合っているか間違っているかの判断は難しいものですが、『万機公論ニ決スベシ』の精神で多様な意見を尊重し、十分な評価がなされれば、譬え間違えがあっても適切な軌道修正が図られることでしょう」

 「小生はリスク管理に従事する者ですが、多様な意見を尊重し多面的にリスクを評価することが、リスク管理の要だと認識しております。これまで最高のトラックレコードを誇った者が、奢り高ぶり多様な意見を排除した結果、間違った判断の軌道修正が効かず最悪の結果を招くということを何度も目にしております。その観点から今回の竹中PTを評価させていただくと、竹中大臣の「仲良しグループ」で固めたことにより、多様な意見を排除し多面的な政策リスクの評価を不可にしたという意味で最悪と言えましょう。まさに、日本を破滅に導くやり方なのです」

 「貴殿にも問います。貴殿には銀行に関する色々な情報が入っていていると思いますが、それはそもそも多様な意見なのでしょうか。貴殿の意見にとって都合の良い意見ばかりなのではないでしょうか」

 「また、もう一度問います。竹中大臣はそんなに偉大なのでしょうか。経済担当大臣として最も重要な資質であるマクロ経済の認識に関するトラックレコードはどうだったのでしょうか。銀行に経営努力を強いながら、経済担当大臣としての職責であるデフレ終結を2003年度から2005年度に2年ずらす狡猾さのみの人物なのではないでしょうか。そして、柳沢前大臣には『粉飾答弁』と罵りながら、狡猾な竹中大臣を応援する貴殿の姿勢はフェアネス・トラスト・ジャスティスなのでしょうか」

 「貴殿は有為な人物だと思います。だからこそ、日本の前途を過つことなきよう、ポピュリズムに陥ることなく、多様な意見に耳を傾け、認識の間違えがあれば謙虚に正していただきたいと存じます。そして、フェアネス・トラスト・ジャスティスに基づき、デフレ終結を予定通りできない竹中大臣には結果責任として辞任を迫っていただきたいと存じます。竹中大臣が結果責任を負わなければ、銀行経営者に結果責任を問うことができるでしょうか。以上、有為な人物である貴殿に是非お願いしたいと存じます」

 ご一読いただければ、優秀なメガバンク行員たちが駆使している「現実逃避かつ責任転嫁中心の思考回路」というものがどういうものかがよく理解できると思う。後は、読者の評価に委ねたい。また、「こういう考え方をしているメガバンク行員は少数派だ」と確信する良心的なメガバンク行員の方がいるのであれば、是非反論を寄せてほしい。

 

第29回「頑張れ、『改革派』の銀行員たち!」  2002/12/24

 このコラムを毎回読んでいらっしゃる方は、第24回「『抵抗勢力』の銀行員からの批判に答える」や第26回「銀行の常識は他の業界の非常識?」、そして第28回「「不良生徒」のメガバンク銀行員に反論を求む」を熟読されて、「メガバンクの銀行員というのは全員、「○○○銀行△△△△△部の中堅行員」のような考え方をしているのではないか」という印象をお持ちになられたかもしれない。

 残念ながら、そういう銀行員が存在していること自体は否定できないが、私にメールを寄せてくれる銀行員の中には、バンカーの魂をまだまだ燃やしつづけている人もいる。今回は、「メガバンクの一行に名を連ねる銀行の現場で管理職をしている40代前半の銀行員」の方のメールを紹介したい。

 「中小企業部門が利益の半分をたたき出している」

 「木村様の論調並びに、竹中大臣の方針に関し強く賛同するとともに、『銀行員自身で先ず変革を』という呼びかけに対して、何とかならないものかと思っています。現場で携わる問題企業のほとんどはいわゆる中堅・中小企業であり、日頃顧客の再建計画策定等で連絡をとりあっている他メガバンクの同様の立場にある管理職仲間の間で、このページの話題が出ましたので、今回筆をとったものです。やや、題目の順序、関連性が整理されていないかもしれませんが、まともに銀行再生を考え、日頃まさに、ここに投書をされるような中小企業のオーナーと話し合い、矛盾の中で働いている中間管理職の考えとしてお聞き頂ければ、また間違っていることがあれば、教えて頂ければと思います」

 このように丁寧な書き出しで始まる長文のメールは、日々苦悩しているバンカーの真剣な想いに満ち満ちている。それにしても、痛快な気分にさせられるのは、これまで銀行系エコノミストたちが白々しく繰り返してきたウソの数々を見事に論破しきっていることだ。やはり現場で金融実務に携わっているプロフェッショナルたちは一味違う。このメガバンク管理職の方の小気味良い解説に耳を傾けてほしい。

 「現在、各銀行は、リスクに見合ったリターンと言うことで、一斉に金利の見直しを中小企業に対して要請しています。『法外な要請だ』とお客さまから言われます。『要請している金利は過去の倒産ロス率や引当率を勘案して算出した』ということになっており、理屈では間違っていません。例えば、標準的な格付けにおける適正金利が3.0%だとします。そして、それより1段階低い格付けの適正金利は3.5%になる。しかし、格付けの差によって金利格差が出るのは仕方が無いとしても、なぜ標準的な格付けにおける適正金利の水準が3.0%という高い金利になるのだろうかという疑問は残ります。説明としては、『企業規模が小さいほど、同じ格付けでも高い倒産確率になる』ということになっていますが、当然小規模・小ロットであれば、確率が高くても、リスク分散でボラティリティは小さいはずですから一概にそうとは言えない話になると思います」

 まったくもって仰るとおりである。現在のメガバンクによる金利引上げは、「リスクに見合ったリターン」というだけの理屈ではスッキリと説明できない部分が少なからずある。実際問題として、勝手に本部で決めた机上の空論に基づく金利を押し付けているというケースが少なくないのである。事実、この管理職の方はこう解説している。

 「ここで冷静に、各銀行のディスクロージャー誌により、各部門においてどれだけ儲かっているかを見てみましょう。法人の大企業向けとその他企業部門を見て頂ければ一目瞭然です。じつは、中小企業部門が利益の半分をたたき出しているのです。結局、大企業の引き当て(=含むボラティリティの高さを埋めるためののりしろ)や低採算の部分を込み込みにしてリスク・リターンをはじいているので、中小企業に対する金利水準が全体的にかさ上げになっているのです」
 「もしも各部門を独立させることができるならば、中小企業にお貸し出しする金利の引き上げが緩和されることになると思います。もしくは、金利水準を変えなくてよいのであれば、もっとリスクが取れるようになるでしょう。これは、裏返せば、中小企業にとって使い勝手が良くなるわけで、今の金利水準・貸し出し条件では借りてもらえない優良企業にも借りてもらえる可能性が出て来ます」

 その通りなのだ。企業向け融資で大事なお客さまは中小企業なのだ。決して大企業ではないのである。したがって、当たり前のことを当たり前に考えられるのであれば、大事なお客さまである中小企業に対する貸し出しを「貸し渋る」とか「貸しはがす」などという発想がでてくるはずがない。そしてさらに彼は、不良債権処理の現場における金利交渉の状況についても付言している。

 「訳のわからん問題大企業をばっさり整理或いは分離」

 「例えば、世間でいう問題先に金利交渉に行きます。当然引当金を積む対象になっていますので、これをカバーするとなると理論的には10%近い金利水準になります。お客さまもそんな金利を払えるぐらいなら苦労はしないので、通常はお互いに何とか債務を圧縮しようとします。ただ、中には、思い切った赤字を出してリストラを実行している先で、返すのではなく、逆に『銀行のリスクに見合った金利の10%を払うから、リストラの中で前向きの種をまく資金を貸してくれ。なんなら、なけなしの担保も出す』という案件が現場では少なからずあります」
 「しかし、『お宅の財務内容では10%だ』といって金利の引上げをゴリゴリと折衝している最中です。しかも、収支計画等について前向きに検討できる状態であり、『銀行のリスクに見合った金利、場合によっては1%上乗せした金利水準でもいいから支援してくれ』という依頼がお客さまから来たところで、本部の決済がほとんどおりません。これは現場としては非常に厳しい環境です」

 「以上から言えることは、(木村氏からは失笑を買いそうですが)
・  訳のわからん問題大企業をばっさり整理或いは分離した上で、顧客の納得感の出る格付けに見合ったリスク・リターンを提示できるようにする
・  顧客にリスクに見合ったリターンを求める以上、そのリターンをきちんと負担してくれる顧客に関しては、銀行もリスクを取る
ということをすれば、不良債権処理と中小企業融資は何ら利益相反するものではありませんし、資金需要の無い今、増加は無理にしても、不良債権処理額と同額程度の新規貸出を実行することは現場の実感としては十分に可能だと思います。そのことは、私だけでなく他行の同じ現場の管理職もそう思っています」

 いえいえ「失笑」だなんてとんでもない。「訳のわからん問題大企業をばっさり整理或いは分離した上で、顧客の納得感の出る格付けに見合ったリスク・リターンを提示できるようにし、顧客にリスクに見合ったリターンを求める以上、そのリターンをきちんと負担してくれる顧客に関しては、銀行もリスクを取る」という部分は、まさに「わが意を得たり」という感じだ。私が申し上げている一般的な論理も、こういう風に明快に整理していただくと御理解いただける方々も増えるのではないか、と大いに期待したい。

 この管理職の方が言うように、じつは、「不良債権処理と中小企業融資は何ら利益相反するものではない」のだ。しかし現実は、なかなかそうもいかないようである。

 「結局、この辺の矛盾を解決する手段としては、各現場の担当が、『いくら何でもこの顧客は・・・』『このプロジェクトは・・・』というものを、文字通りルーティンとは別の時間で顧客と計画を練り上げ、個別案件で例外のように承認をもぎとっていく ―― 但し、これはお客にとれば、『○○さんはOKだったのに、急に対応が変わった』などと混乱を招く弊害もあるのですが ―― 、もしくは、営業拠点同志で、『どこそこの拠点でこういう案件が出来たらしい』というのを草の根メールネットで情報交換し、今まで出来なかった貸出案件や処理案件をここぞとばかりに各拠点から上げる、という文字通り『ゲリラ戦法』に頼るしかありません」
 「ただし、これも本部の方で何か動きを感じ取られてしまうと、それを制度化して認めようとするのでなく、我々が作った事例を塞ぐように別途ルールを制定しがちで、そういうケースも少なからずあります」

支店の努力を本部が台無しにしている

 本当に残念だ。この困難な局面を知恵と工夫で乗り越えようとする動きが支店サイドでは起こっているというのに、本部が物事の本質を理解することなく邪魔をしているのだという。本物の銀行経営者であれば、この「ゲリラ戦法」を正規のプロセスへと制度化して、収益力をアップする方向へと組織を動かすべきだろう。否、銀行経営者ならば、率先して、その動きを加速しなければならない。というのも、過去のトラウマがあるために、支店サイドが言いたいことが言えない状況になっているからだ。

 「過去、現場の融資関係と本部や営業が緊張した時代がありました。バブルの爛熟時代です。あのとき、資金の使い道や企業分析は二の次で担保至上主義に走る銀行の審査姿勢に違和感を感じて、案件に対して異を唱えた人たちが少なからずいらっしゃいました。その多くは、現場のたたき上げの貸付の課長さん、あるいは審査一筋の方、いわゆる職人肌の人たち、部長や役員にはならないかも知れないけど、現場の拠点の長や、専門ラインのお目付になるような人たち、その頃の方々には普段は寡黙でも信念を貫く方が少なからずいらっしゃいました。」
 「当時は、これらの方が少なからず異を唱えましたが、結局殆ど居なくなってしまったのです。はっきり言って、飛ばされてしまいました。関連会社に飛ばされたり、巧妙な場合には、上の職位に栄転しているようにみえて、そういう得意なラインとは別の部署に異動させられたりしました。ものの見事にやられてしまったのです。私の銀行だけかなと思いましたが、当時好業績を上げていらっしゃった銀行(=今苦しんでいる銀行)は少なからずみな似たり寄ったりです。そう言う意味で、銀行というのは、外から見ればみんな同じ顔に見えるかもしれませんが、内実は一枚岩では無いのです」

 そうなのか、有為な人材は、「飛ばされてしまった」のか・・・・・・。そういうことだから、残った銀行員は完全なイエスマンばかりになってしまうのかもしれない。そこで、何とこの管理職の方は、この事態を解決する手段として、「一時国有化」を主張するのだ。メールの中で、「一時国有化になったら我々は困るか」と自問し、「我々は困りません」と断言しているのである。そして、「その方がお客様にとってもご迷惑をかけることは無い」と結論付けている。

 「銀行が一時国有化されますと、先ほどから指摘しているような行内での無用な「ゲリラ戦法」が必要でなくなります。だから、じつはプラスなのです。現場の人間にとってみれば、この世から融資や運用業務が無くならない限り、誰かがどこかの銀行でやらなければいけない話であって、それを今の銀行でやるのか、すっきり一から組織ごと出直してやるのかというだけの違いです」
 「給料についても、週刊誌にでてくるような○○部のようなエリートと我々では、元々同じ会社とは思えないほど格差もついています。ですから、むしろ各部門収益に見合った形で、報酬がガラス張りで分配されるのなら、結果的に給料が下がったとしても、精神的な納得感はすっきりして良いかも知れないと思います。お客様にとっても、大多数を占める中小企業の方にとっては、ご迷惑をかけることは無いのではないでしょうか」

 しばらくは、この管理職の方が吐露していらっしゃる心情の叙述にお付き合いいただきたい。一読していただければ、彼らの危機感と苦悩が感じていただけるのではないか。

 「現場で危機感を持っている連中は、銀行の仕事自体が嫌いな訳ではありません。むしろ銀行業務に愛着を持っているからこそ、不満も出てくるわけです。結局、私であれば、一番怖いのは『ここで解雇や左遷されて関連会社に言ったら今の仕事が出来なくなる』ということです。銀行の仕事には、有志で集まってやめて独立開業するという道がありません。どこかの銀行なりに転職するしかないのですが、申し合わせたように、各銀行は一部の専門職を除いて中途採用がありません。冗談で、『チェーン店のようにフランチャイズでどこかの銀行で支店経営させてくれないかな』と言う話が出たこともありますが、まあ今では無理でしょう」
 「給料等を度外視しても、ある人が、今の仕事がとても好きでこれをずっと続けたいと思うとき、『その会社にずっと勤める』『同業他社に転職する』『自分で同業を起業する』という選択肢が普通考えられるとすると、いわゆる普通の商業銀行業務自体が好きで続けたいと思う人間には、免許その他実現性の問題でずーっと勤めるしか選択肢がないのです」

 「今の銀行とうまくいかず、リストラに遭う、それで他の銀行の門戸をたたくが結局だめだった、食べるためにとにかく雇ってもらうところを探す。これなら私は納得できます。ただし今は、銀行とうまくいかずリストラに遭って出たとたんに、支店の営業管理職の道につく機会自体が閉ざされます。それが、内部から声を上げることを躊躇させる原因の一つになっているのです」

 「ある業界で一つの会社だけがおかしくなった場合には、その会社の人間による自助努力も可能でしょう。しかし、銀行の場合は、業界、もっと言えば金融のシステム自体がおかしいという状態にあります。各個人の社員にとってみると、例えば『あの役員はおかしい』など目の見える相手でも是正するのは困難。それに加えて、目の見えないひょっとすると自身の銀行の枠すらも超えてしまうようなシステムの問題が根元にある場合、これはもう無理だと思います」

 確かに、個々人の資格で戦わなければならない「改革派」の前途は厳しい。下手を打てば、それこそ「飛ばされる」だけである。その実例もイヤというほどみてきているはずだ。矛盾を感じつつ、その矛盾を解決できない自分に苛立ちながら、日々を「ゲリラ戦法」で出来る限りのことを続けていく。しかし私は、「改革派」の方々のこうしたしたたかな努力は絶対に無駄にはならないと信じたい。

 「まともな神経を持っている銀行員は、そのポジション、ポジションで先ず、おかしいと思います。そして同僚に相談してみたりもします。しかし、一歩進んで、自分で勉強したり、調べたりし、段々全容が見えてくるに付け、場合によっては、深く考えずに文句を言っていたとき以上に寡黙になってしまいます。そして結局、せめて、自分の客だけは守ろう、或いは何とかまっとうな意見を通るように案件を組み立てようという動きをします。そうなると、散発的なゲリラ戦になります。本当は『これを起爆剤にみんなが・・・』という思いを胸に秘めつつ」
 「しかし、稟議書の中で組み立てた、本当に届けたいと思うロジックは、『○○君は、客の評判がいいね』という極めて属人的な評価に矮小化されてしまいます。またそのロジックが木っ端みじんに砕かれてしまったときには、お客さまである社長と他の銀行で借りられる方策を考えたりします。そうやって現場で取り繕えば取り繕うほど本質的解決から遠ざかっていく。そのことを知りつつ、目先の仕事をこなしているのです」

 そう、数多の銀行員の中には、本部との論争に敗れても諦めることなく、お客さまのために他の銀行から借りる方策をサポートしようとする人々さえいるのだ。出世のためではなく、お客さまのために働く人々がここにいる。銀行内での出世ではなく、銀行業のミッションを愛する人たちがいる。この管理職からは、最後に檄をいただいた。

 「膠着状態が続くと本当に生き残るべき中小企業も疲弊」

 「最後に言いたいのは、新聞等を見ていると当初の竹中大臣のプランからずいぶん和らいでしまったみたいですが、もし、(無いと思いますが)荒療治で金融のシステムや、中小企業が疲弊してどうにもならなくなると言う危惧があるのでしたら私は杞憂だと思います。我々ここに出てくる投書のような提言を毎日毎日生の声で聞きながら必死で頑張っている現場の人間、また、今の銀行の対応の中でもきちんと生き残っている中小企業(これらは弱音を吐いて、業界団体に泣きつく等声を上げないから目立たないだけでしたたかに生き残れるオーナーの方が数は多いのです)、みんなやわじゃありません。銀行員の給料下がるのを銀行員みんな反対しているわけではありません。働いて働きに見合った分を支払えば、文句は出ないでしょう。文句を言う人たちはそもそも真っ先にリストラ対象で銀行には残らないでしょうから、結果誰も文句は無いはずです」
 「問題は、この金融の問題を一刻も早く解決しないと、このまま膠着状態が続くと本当に生き残るべき中小企業も疲弊してしまうことです。今でも限界に来ています(リストラ途上の会社には高金利を賦課する一方で、資金需要のあるハイリスク貸し金に金が十分回らないわけですから)。このまま持久戦では、本当に顧客側が持ちません。また彼らの切実な訴えを目の当たりにして営業等をしている現場も限界に来ると思います。(われわれ現場からすれば、給料問題も、顧客の言うことには首肯出来る反面、対本部に対しては、この理不尽な行動からおきるストレスの代償としては、『現場も本部も等しく一律カットというのは納得出来ない』という思いがあります。多分それをわかっているから、大幅カットが出来ないのではと勘ぐりたくもなります)」

 「木村氏の言う自助努力、よくわかります。しかし、時間はありません。事態はもっと複雑且つ、緊急を要すると思います。結局、とりとめのない文章になりましたが、とにかくお願いします。木村氏の言うように自助努力、自ら動けない事のご指摘は甘んじて受けますが、改革の暁には『すわ、鎌倉』の想いで顧客と手を取り続く思いのある銀行員も少なからず居ることを念頭におかれ、迷わず、まっすぐ進んで行かれることを念じております」

 この管理職の方に対して、「こういう銀行員も残っているのだ」ということを自ら示してくれたことを、心から感謝したい。いま、「金融問題タスクフォース」のメンバーに私を入れるか入れないかで、「銀行経営者+永田町+金融庁内の抵抗勢力」と「改革勢力」の間で激しいバトルが戦わされている。その結果はまだ判然としていないが改革のチャンスが残されている限り、私は「迷わずまっすぐ進んで行く」所存である。そして各メガバンクにおいて、「改革の暁には『すわ、鎌倉』の想いで顧客と手を取り続く思いのある銀行員」が多く残っていることを心の底から望んでいる。彼らの改革をサポートするチャンスが必ず来ることを祈りながら・・・・・・。

 

第30回「銀行内の『自称改革派』による支持と反論」 2003/01/06

 第27回「銀行のリストラは本物なのか?」に対しても数多くの方からメールをいただいた。調整給与については、当該銀行に勤める43歳の方から、「仮に内部告発のようなことがあれば、徹底的に事実を究明すべきと思います。事実をきちんと調べ、正しい現実を世間に伝えるべきです。少なくとも私の知る限りでは、ありえないことと思います」というご指摘をいただいたが、その調整給の対象者の方ご自身から「事実と異なる指摘については反論する機会を与えてほしい」という依頼をいただいているので、そのメールの内容をご紹介したい。

 「拝啓 BizPlusのコラム、いつも興味深く拝見させていただいております。私は○○○銀行の行員で、旧△△銀行時代から国際金融畑を中心に勤務し、現在は米国に勤務し外人ばかりの中で仕事をしております。日本のローカルルールではなく、グローバルスタンダードの中で商売をしてきた人間として、木村さんの論点には同意する点が多く、又、税効果会計など自己資本比率についての7人の頭取の共同記者会見には身内ながら頭を抱えてしまいました。日本の銀行が健全に機能するためには、経営の刷新が必要との見解にも賛成であります」
 「ただ、最近数回のコラムについては、『銀行嫌い』の人々による言いたい放題の場になってしまったようでやや食傷気味です。私もそうですが、日本の金融機関として日本経済のために何かが出来るはずと思い、内部から銀行改革をしようと、給与が倍増する外資系からの誘いに応じないで頑張っている人間もメガバンクには沢山います。そして、そういう人間の多くは木村さんのコラムを注目しているかと思います。それゆえ、当コラムが興味本位の「週刊□□□」的な銀行員悪玉論に陥らないよう、今後の展開を期待しております」

 「私自身、『抵抗勢力』を覆して内部から銀行を改革できていないという意味で、戦犯の汚名は免れないことは認識しておりますが、明らかに事実と異なる指摘については反論する機会を与えさせて頂ければと思います。12月13日のコラムで、2つのメールが紹介されておりましたが、彼らの認識には明らかに事実と異なると思われます」

 「まず、調整手当ての廃止については、私自身が対象になっているのでよくわかっているのですが、これはこの先数年間の手当てを一括払いするのではなく、実際に大幅に減額した一時金をもらうことで支給を打ちきるというものです。具体的には、2005年7月まで至急されるはずであった手当てを2003年6月で、6ヶ月分の手当ての支給をもって打ちきるというもので、実際に1年半相当の削減になっております」

 「また、『一部に給料の上がったひとがいる』ことについては、これも日本の銀行合併に特有の事情で、かつて給与水準の異なっていた複数行の給与を平均水準に揃えるため、かつて給与水準の低い銀行にいた人々は給与が上がるという結果になっているものであります。この環境下で、一部行員の給与を、水準をあわせるという目的で引き上げるという選択は、決して正しい経営判断とは言えませんが、コラムにあったような『残った行員は給料が減るどころか今まで以上の高給をとるという仕組みです』という指摘は事実誤認といわざるを得ません。実際、銀行が支払う給与総額は減っていますし、私の給与・賞与は大幅に減っています。私の友人で、他のメガバンクでかつて給与の高い側にいた人間の所得も同様に減っているようです」

 「木村さんが過激な論陣を張られることは、『自称改革派』の人間として応援しております。ただ、報道メディアの一部を使用されている以上、事実は事実として伝える責任はあるかと思います。本件についての訂正報道をお願いできればと思います」

 「繰り返しになりますが、私は木村さんの主張される改革の方向性には基本的に賛成です。それゆえに、BizPlusのコラムが『銀行員の給与は一律60%下げろ』『支援を受けるなら、給与の上限は300万円だ』などとという、単なる『銀行員憎し』の観点からの論調は、抵抗派を余計に硬化させるのみならず、改革派行員の『木村離れ』につながることかと思います」

 事実関係とその評価については、このメールを読んだ上で各読者がそれぞれ判断してほしい。また私は、「銀行員の給与は一律60%下げろ」「支援を受けるなら、給与の上限は300万円だ」などとという低次元のアジテーションをするつもりは一毛もない。しかし同時に、国民の税金を公的資金として活用させていただき完済していない状態にある以上、銀行員サイドが「俺たちは正当な対価として現在の給与水準をもらう権利がある」などと胸を張れるような立場にあるとも思ってはいない。少なくとも多少の恥じらいは持っているべきではないかと感じている。上記内容が正しかったとしても、そもそも「2005年7月まで支給する」ということについて、本来どう考えるべきかという議論は残るだろう。

 いずれにしても、この方は、氏名と所属を明確にされた上でメールを送ってきており、その真摯な姿勢については敬意を表したい。私の真意は、銀行内部の改革派を支援することにあるので、ご指摘を噛み締めた上で、このコラムの今後の展開についても最大の注意を払っていくことをお約束する。もしも、単なる低次元のアジテーションに陥る気配が出てきた場合には、読者から厳しいご批判をいただきたいと思う。

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