日本経済新聞夕刊 2008/6/3-

アフリカに不死鳥あり 
  フェニックス・ロジスティクス・ウガンダ社長 柏田雄一さん

■ウガンダで縫製業 内乱と国有化、工場は2度死んだ

衣料品メー力ー、フェニックス・ロジスティクス・ウガンダの柏田雄一社長(76)はアフリカで起業した数少ない日本人の一人。1965年、33歳の時にシャツ縫製工場の立ち上げでウガンダに渡り、40年余り同国とかかわってきた。内乱や政治にもてあそばれながらも、不死鳥のように二度目の創業に挑む。

 「フェニックス(不死鳥)」は私が40年以上も前につくった工場のことで、ここはもう二度死んでいます。最初はアミン大統領が追放され、首都カンパラが略奪にあった時。やっと再興した工場もオボテ政権時代に国有化され、経営難に陥って閉鎖になりました。
 今のムセベニ大統領に工場再建を頼まれ、2001年に再稼働にこぎ着けました。以前はヤマト・シャツ(現ヤマトインターナショナル)の会社員でしたが、今回は会社を辞め個人としての挑戦です。安い中国製衣料品があふれ、作れば売れた昔とは違います。オーガニックコットン(有機栽培綿)を使ったシャツで海外市場を開拓中です。


■アミン氏とは仲良し 現大統領に頼まれ事業再興

ウガンダは62年に英国から独立した。柏田さんはオボテ、アミン、ムセベニの各氏ら時の大統領を間近で見てきた。

 オボテ氏は社会主義者で、民間企業を国有化する傾向にありました。生粋の政治家なので距離を置いていました。アミン氏とは仲が良かった。巨漢で一見怖いが、人なつっこく笑うと本当に魅力的です。彼は英国植民地軍出身でビルマ戦線で日本と戦ったこともあります。「日本人は国のために死ぬ、本当に怖いし、尊敬している」と話していました。人肉を食べたなどといわれますが、作られた話です。
 今のムセベニ大統領は学者肌で頭も切れ、ワイロを一切受け取りません。「白猫でも黒猫でもネズミを捕るのがいい猫だ」というケ小平氏流の合理主義者です。ウガンダやアフリカをどう変えたいか意見を持ち、アミン氏やオボテ氏とはスケールが違います。この男のためならと私は一肌脱ぐことを決めました。
 私は政治には一切立ち入らないのが信条です。商売のことしか頭にありません。大統領とのコネを使って権益を得ていたわけではなく、誰が大統領でも態度は一貫していました。それが政権が代わっても続けてこられた理由だと思います。

5月に横浜で開かれた「アフリカ開発会議」では、ムセベニ大統領の政府代表団の一員として来日、日本企業などにウガ
ンダヘの直接投資を呼び掛けた。

 私は90年にウガンダ名誉領事になりました。日本に大使館ができるまで、日本におけるウガンダの外交窓口のようなことをしていました。
 アフリカ支援というと政府開発援助(ODA)を増やせばいいと考える人がいますが、違います。アフリカが必要としているのは民間投資。長期的視点からの民間投資こそが技術移転や雇用創出につながるのです。
 フェニックスは国際協力銀行から設備増強のため250万ドルの融資を昨年夏に受けました。融資はその3年前に決まっていましたが、ウガンダを経済支援した国際通貨基金(IMF)が対外債務が増えるからと待ったをかけたのです。例外を認めるようIMFを説得してくれた日本政府には感謝しています。

■上海で少年時代、万国同じ人間と実感 中国人膚げる兵隊に憤り

1931年に大阪府で生まれた柏田さんは、小学校に上がる直前に上海に渡った。繊維商社で働い,ていた父、喜久治の仕事の関係のためだ。様々な人種や国籍の人たちが住む上海の国際性と、第二次世界大戦に日本が突入していく時代の雰囲気は、多感な柏田さんに大きな影響を与えた。

 上海の共同租界に行けば、中国人、インド人、ロシア人とあらゆる人種がいました。見た目は違うが、みんな同じ人間なのだと感じました。海外で仕事をする上で人種への偏見を持たずに済んだことは、当時の国際経験のおかげです。言葉が分からずとも、身ぶり手ぶりを交えれば思いは通じるものです。
 中国人の子供とはケンカしたり遊んだりしました。筆談すればお互いに理解でき、私も中国語を話せるようになりました。ただ日本軍が彼らの親を虐げていることは理解できませんでした。
 ある日、共同租界から日本租界に入る橋の上で、歩哨の兵隊さんが野菜の行商をする中国人のおばちゃんを呼び止めました。あいさつがないと、野菜のカゴをけっ飛ばしたのです。さらに動揺するおばちゃんをけっ飛ばし、川に突き落としました。なんてひどいことをするのかと、兵隊に憤りを感じました。日本が戦争をして勝つのはすごいことですが、それとは次元が違います。本当にショックでした。
 戦争開始後に上海中学校に進学し、そこで軍事教練をやらされました。その一環で中国人の捕虜を見にいくという。収容所に行ったら、柱に捕虜が縛り付けられていました。兵隊たちが突然、銃剣で捕虜を刺し殺し始めました。殺す場面を見学するなんて、一体どういう意図だったのか。二度目のショックでした。

44年、病気の母、れいの転地療養のため帰国。天王寺中学校(現大阪府立天王寺高校)に転入した。そこで目覚めたのが
演劇だった。

 上海では本ばかり読んでいました。家にあったのは世界文学全集。ロシア文学、特にチェーホフの「桜の園」に感動しました。文学体験の延長が演劇で、観客の反応がその場で分かるのが魅力でした。天王寺中学校では親友の高岸敏雄君と演劇部を作りました。高岸君は大阪外国語大(現大阪大)の英語科、私はロシア語科に進学。大学でも一緒に演劇部を立ち上げました。
 大学は本当は医学部に行こうと思いました。小さい時から父に医者になれと言われていましたから。阪大医学部を生物研究部の仲間15人と受験しましたが、私ともう一人が不合格でした。演劇の練習ばかりで受験勉強なんてしませんでした。大阪外大に受かった時は演劇が続けられると内心喜んでいました。

■高校・大学で演劇部立ち上げ 衣料品のヤマトに賭ける

大学を卒業後、繊維商社の竹村棉業(現NI帝人商事)を経て、1958年に大阪の衣料品メーカー、ヤマトシャツ(現ヤマトインターナショナル)に入社した。

 私は叔父のコネで大協石油(現コスモ石油)に内定をもらいましたが、入社する前に製油所が火事になって入社待命となってしまいました。もう少し演劇を続けようかと思い、京大大学院を受けました。試験も面接も通りましたが、単位が一つ足りずにだめでした。繊維関係の仕事をしていた父のコネで竹村棉業で仕事をさせてもらうことになりました。
 竹村棉業の取引先の一つがヤマトシャツです。同社の創業社長である盤若友治さんが「輸出部門を作りたいのでいい人がいないか」と竹村棉業の役員に相談にきて、その役員が私に白羽の矢を立てたのです。「盤若さんについていけば間違いない。大きな会社になる。賭けてみんか」と言われて、転職することにしました。
 ヤマトは当時従業員100人ぐらいの中小企業でしたが、今や東証一部上場の大企業になりました。創業社長の盤若さんは富山から大阪に奉公に出てきた人で、独立してシャツ製造会社を立ち上げた人物です。私は会社初の大卒社員で、いきなり輸出担当の"部長"です。でも社長以外はみんな使用人という関係で、私も社長のしごきでかなり鍛えられました。

 

■1960年、ウガンダ初訪問 豊かでおしゃれな国民性知る

大学でロシア語を専攻し演劇に明け暮れた柏田さん。ヤマトシャツでは"輸出部長”に就任し、繊維商社マンだった父親のように世界を飛び回ることになった。ウガンダとの出合いは入社早々やってきた。

 入社した1958年に大阪で国際見本市があり、ヤマトも出品しました。インド人の商人が綿とポリエステル繊維の高級混紡シャツを20ダース(240枚)買っていきました。その後買い付け量がどんどん増えました。どこで売るのかと聞くと「ウガンダだ」という。盤若社長の「だれがシャツを買うのか見てこい」との命で、入社3年目の60年、初めてウガンダを訪れました。ウガンダはまだ英国保護領で、日本からは欧州経由で4日もかかりました。ケニアからの飛行機がウガンダに近づくと海が見えました。逆方向に飛んできたと焦りましたが、あれがビクトリア湖でした。空港に着いて外に出ると、道路が完ぺきに舗装されていました。日本の道路はまだガタガタの時代です。

インド人の小売店を訪ね、客の様子を眺めていたら「ヤマト」と叫んでワイシャツを買っていきます。車で国内を回るとシャツが売れる理由が分かってきました。お茶、コーヒー、綿花、パパイアなど何でもある。ウガンダの人は農産物を集荷場で現金に換え、稼いだお金は酒かおしゃれに使うかでした。

■工場稼働の直後にクーデター 銃から従業員守り有名人に

初出張の5年後、65年10月に工場長としてウガンダに赴任。工場が動き始めた直後にいきなり政変が起きた。

 ウガンダ開発公社の英国人に会うと、ヤマトの国内シェアは50%だという。62年に独立したばかりで人を育てないといかん、軽工業を起こして雇用を創出したいと言います。5年間法人税を免除し、シャツの輸入も止めてしまうと破格の条件を提示されました。それで同公社と丸紅、ヤマトが合弁工場「ユナイテッド・ガーメント・インダストリー・リミテッド(UGIL)」をつくったのです。
 合弁会社設立の交渉は私が日本から出張しながらやりました。社長に「現地の責任者だ」と言われ、有無を言わせずに工場長にさせられました。カンパラ市内の更地に工場を建て月千ダースのラインを入れました。需要は完ぺき、作れば売れる。2交代制で対応しても需要に追いつきません。増設に次ぐ増設で規模が5倍になりました。
 工場が動き始めたばかりの66年1月、夜中に銃声が響き、ドーンと砲弾の音も聞こえました。オボテ首相が大統領の国王を追い出し、自ら大統領に就任したクーデターでした。市中ではオボテ側の軍隊が国王と同じブガンダ族を殺りくしていました。工場が立ち上がり、楽しくやろうと思っていたところでした。
 従業員125人のうち半分以上がブガンダ族。工場にも軍隊が来ました。将校が机に置いた銃の銃口を私に向け、引き金に指をかけながら「ブガンダ族の従業員を外に出せ」と言う。即座に「ノー」と拒否しました。従業員の命を守らなければと反射的に思いました。私の覚悟が伝わったのか、軍隊は引き揚げていきました。これが口コミで広がり、私は有名人になってしまいました。

軍隊を追い払い人心を得た柏田さんだが、日本並みの品質のシャツを作ろうと思うと、ウガンダ人はそう簡単に思うようにならなかった。

 ウガンダ人はのんびりした性格で、時間を守ることを知らない人が多い。始業時間は8時なのに従業員がそろうのは9時過ぎ。雨が降ったら出社しないし、誰それが病気になったとすぐに遅刻の言い訳をします。時間厳守の思想をたたき込むため、8時を過ぎたら工場には入れない、その日は給料も払わないことを徹底しました。
 清潔、整理・整頓の考えを教え込みました。朝から晩まで、きちんとしろ、きれいにしろと怒鳴ってばかりでしたね。「あんたは完ぺき主義者だ」と文句も言われましたが、うちで鍛えた従業員はよく他社に引き抜かれていきました。

 

■アミン氏から大きなシャツ受注 政情不安でケニアに脱出

ヤマトシャツのウガンダ工場「UGIL」が稼働して3年後の1969年。オボテ大統領狙撃事件が起き、次第に政情不安になってくる。71年にはアミン陸軍参謀総長がクーデターを起こし、大統領に就任した。

 参謀総長の時にアミン氏が訪ねてきました。巨大なおっちゃんが私に敬礼し、自分の太い首を見せて「ビッグ、ビッグ」と言う。身ぶり手ぶりを交え「自分に合うシャツを作ってくれ」と頼むのです。受け取りにきた時も「サンキュー、サンキュー」と子供みたいに喜んでいました。
 ウガンダは英国籍のインド人が経済を牛耳っていました。アミン氏は彼らを呼び、もうけたお金は国内に再投資してほしいと頼みました。すると彼らはワイロを贈ってきたのです。怒ったアミン氏は彼らを国外追放してしまった。それに英国が反発しウガンダに経済制裁を科したのです。英国軍出身のアミン氏が「主人にかみつく飼い犬」に見えたのでしょう。
 綿、コーヒー、銅、たばこなどの主要産物が英国に輸出できず、次第にウガンダ経済も疲弊してきました。タンザニアに対抗するため、北部に住む気性の荒い部族を軍隊に入れ始め、アミン氏も次第におかしくなってきたと思いました。

■工場など心配で空路ウガンダヘ 新政権の資金で再建

79年、タンザニア軍とウガンダ民族解放戦線がアミン政権を打倒し、カンパラの町は略奪にあう。UGILも被害を免れなかった。

 79年4月、日本人のお客さんを空港に見送りに行った時です。アミン氏が一人で車を運転してきて、私に、「やつらをやっつけてやる」と叫んだのです。逆にウガンダは危ないと思いました。それが彼を見た最後。すぐにウガンダ在住の日本人全25人に連絡し、翌朝に車9台に分乗してケニアに脱出しました。
 3週間後、ケニアのナイロビで英国放送協会(BBC)のラジオを聞いていると「カンパラが陥落。UGILが略奪にあった」という。心配でたまらなくなり、軽飛行機をチャーターしてカンパラに戻ることにしました。大使館の人は反対しましたが、一度もウガンダの人々を敵にしたことがない自分が殺されるはずはないと思いました。
 パイロットは女性で、彼女が「UGILを経営していた日本人が乗っている」と空港の管制官に告げると着陸許可が出ました。タンザニア軍が高射砲の照準を軽飛行機に合わせる中を着陸。軽飛行機を降りると軍の指揮官が「すぐに引き返してこいよ」と彼の小型四輪駆動車で工場を見にいかせてくれました。
 工場では機械は壊され、綿など原料も盗まれていました。14年間の努力が水泡に帰しました。家にも回ってみました。すると近所の人たちが「よく戻ってきた。だれもあんたの家には手を触れていない」と言うのです。町中が略奪にあう中、彼らは命を懸けて私の家を守ってくれたのです。アミン氏に働きかけて知人らを秘密警察から守ったことがあったからかもしれません。

略奪された工場を見て撤退を真剣に考えた。しかし“奇跡”が起き、柏田さんは80年1月に工場を復活させた。

 ナイロビに戻った後、ヤマトの盤若康次・二代目社長に「撤退せざるを得ない」と報告しました。一週間後に社長とウガンダに飛ぶと、UGILの従業員が目に涙をたたえ土下座して「再開してほしい」と懇願するのです。社長もなんとかしようと約束しました。
 問題は資金。やはり再建は無理と判断、新任の蔵相に帰国のあいさつに行きました。オボテ政権時代の大蔵次官で知人でした。「日本に帰ります。どの株主も資金を出しませんから」と告げると、「ちょっと待て。どこにも行くな」。逮捕されるかと不安でした。
 戻ってくるなり彼が「300万ドル用意した。日本で必要な機材や原料を買って戻ってこい」です。新政権もUGILをつぶすわけにはいかなかったのでしょう。奇跡が起きたと思いました。80年1月には再開にこぎ着けました。作ったシャツはすぐに売れ、政府に借りたお金は2年で全額返済できました。

 

■代金巡り秘密警察長官に盾突く 「命危ない」と忠告され帰国

アミン大統領追放時の略奪で操業不能になった縫製工場UGlLを、柏田さんは1年もたたずに再建した。だが喜びもつかのマ、4年後には追われるようにウガンダを離れた。

 アミン氏追放後、しばらくしてオボテ大統領が復帰しました。オボテ政権はお金がないから、もうけていたUGILに政治献金をしてほしいと頼んできました。少し出すと、次に作ったシャツを各政党の支部に届けてくれという。
 届けた分の代金の請求書をウガンダ繊維庁長官に持っていくと、彼が「私の工場だぞ。なぜ支払いが必要なのだ」と言います。工場の7割は政府所有だから製品も政府のものという論理です。私は「会社は株主に配当を出すのが責任。製品をただで出す責任はない」と長官に食い下がりました。
 繊維庁長官は秘密警察の長官も兼務しており、私が盾突いたことを根に持って「柏田を殺してしまえ」となりました。彼の発言を聞いた複数のウガンダ人の友人が「お前の命が危ない」と忠告してくれました。すぐにウガンダ人の幹部に工場の経営を引き継ぎ、荷物をまとめて家族ともども空港へ。幸い拘束もされずに脱出できました。

帰国するとヤマトインターナショナルの東京支店駐在となった。アパレル産業の中心はすでに大阪から東京へ。1990年には副社長となり、海外事業でも指導力を発揮する。

 東京に海外事業部をつくり、そこで手掛けたのが上海の縫製工場です。94年に100%出資で設立しました。土地購入交渉に上海に飛んだ時、かつて住んでいた場所も訪ねてみました。昔の住居はまだ使われていました。私がつけた室内の傷も壁に残っており、感慨深かったです。
 交渉の相手は中国共産党で、高い金額をふっかけてきました。冬の寒い時期で暖房のない部屋でわざわざ交渉する。ぶる
ぶる震える中で、深夜まで続く長期戦でした。最後は覚えていた上海語で「おれは上海人だ」と一言ったら、向こうはびっくりして折れてくれました。

■2000年、ラブコール強まりウガンダヘ 有機栽培綿で市場開拓

二代目社長が亡くなり、社長夫人の盤若富美子さんを新社長に迎え、柏田さんは副社長として経営を支える。だがウガンダからのラブコールは年々強まり2000年に退社。68歳でついに同国で起業した。UGILの工場を買い取り、オーガニックコットン(有機栽培綿)で海外市場開拓に乗り出した。

 93年、アフリカ開発会議出席のためムセベニ大統領が来日した時、「戻ってきてくれ」と頼まれました。ヤマトの縫製工場だったUGILは92年に閉鎖され、93年には完全に休止していました。
 名誉領事として毎年、ムセベニ氏に会うたびに、戻れと言われました。00年、ついに工場を競売にかけると告げられました。入札に参加しなければ、手塩にかけて育てたUGILとは完全に切れてしまう。もう逃げられず、50万ドルで落札しました。
 91年8月には生産を始め、国内市場にTシャツやポロシャツを売ってみたものの、すぐに見切りを付けました。今や国内市場は中国製品と中古衣料があふれている。当社の半分以下の値段では、とても太刀打ちできないと悟りました。
 「ウガンダにはオーガニックコットンがある。化学肥料や農薬を一切使わずに綿花を栽培する。これこそアフリカ諸国が取り組むべきものだ」。02年9月にムセベニ大統領と訪米した時、米財界人を前にこう打ち上げました。
 欧米のバイヤーはオーガニックというと飛びついてきます。07年2月から対米輸出を開始、ぐんぐん伸びています。125人で始めた工場も今や300人。来年にはUGIL最盛期の1千人規模に並ぶでしょう。
 ウガンダ政府は6月中に繊維産業育成、海外からの投資誘致の新政策を打ち出す予定です。ウガンダでオーガニックに火をつけ、タンザニア、エチオピア、南アフリカ、西アフリカヘと広げていきたい。もう7年単身赴任で頑張っています。アフリカのためにネバー・ギブ・アップです。