日本経済新聞 2007/7/14

イノベーション 日本の底力  化学 

光学材料 研究原点生かす

 産業を発展させ、社会を変える力が科学技術にある。日本の研究開発はその力を生み出し、イノベーション(技術革新)を起こせるのか。今回は、光学材料をはじめ世界市場を席巻する製品を生み出している化学分野の研究の底力を探る。

 「液晶パネルの価格はまだまだ下がる。このフィルムを使えばーー」。慶応義塾大学の小池康博教授は、そう言って、新開発の液晶パネル向けプラスチック製フィルムの可能性を強調する。
 話を聞きつけた液晶材料メーカーが研究室にやって来る。今年に入り15社を超えた。
 小池教授は透過した光の像が乱れる
「複屈折」を制御する技術を開発、フィルムに応用した。「複屈折はうまく操れない」という常識を覆した。
 液晶パネルに占めるコストの約7割は材料。複屈折は液晶フィルムの性能を決める大きな要素。新技術で特殊なフィルムを安価に作れるようになるという。
 小池教授の新技術は光学材料のあり方を変えた。石英製が当たり前だった光ファイバーがプラスチックでも作れるようになった。液晶用バックライトも実現、いずれも企業が実用化した。プラスチック製光ファイバーはいち早く東京都府中市で病院や集合住宅に導入され、高速通信でつながった実績もある。
 「アインシュタインの論文が開発の原点になった」と小池教授。相対性理論で知られるアインシュタインは、物質中の粒子がどう振る舞うかを解明した論文を二十世紀初頭に発表。これをヒントにブラスチックに微粒子を加え、複屈折を操る技術の開発につなげた。

 原点に戻ってヒントを得る。薄型ディスプレーやDVDなどに使われる光学材料は、日本企業が世界を席巻しているが、自社の研究の原点を生かして新製品につながった事例が目立つ。
 その一つが、富士写真フイルムが扱う液晶用偏光板の保護フィルム「
TACフィルム」だ。世界シェアは約8割。開発は同社が戦前から取り組んだ映画フィルムの不燃化研究が始まり。フィルムの主原料を燃えにくいセルローストリアセテート(TAC)というプラスチックに変えた。この素材の製造技術を今に生かし、液晶用フィルムにつながった。
 4割の世界シェアを持つ凸版印刷のカラーフィルターは、1900年に始めた高精細の印刷技術が源流。偏光板で世界シェアの半分を持つ日東電工も1918年に手がけた電気絶縁材料の技術が起源となっている。

 デジタル製品に詳しい日本政策投資銀行の清水誠調査役は「50年から100年の研究蓄積が実を結んだ。材料メーカーは他社がまねできない技術があり、本業が安定していた」と分析する。研究開発の原点を生かし、オンリーワン技術を極め、新分野を開拓する。日本の材料化学研究の底力といえそうだ。

 

2006/7/21

繊維、ナノテクで復権

 砂や、サンオイルなどの油も付きにくいーー。東レは、来シーズンの水着素材向けに新繊維を開発した。早くも海外のアパレルメーカーやスポーツ関係の企業から、サンプル提供のほか、繊維の詳細な説明を求める電話・メールが相次いでいる。
 油も水もはじく。普通の繊維では2つの機能を両立させるのが難しいが、東レの繊維は、表面に撥水剤と撥油剤の薄膜をつくるナノテクノロジー(超微細技術)加工によって実現した。
 繊維に塗布した薄膜を乾かす工程で適切な条件にすると、異なる材料でも分子が自然に規則正しく配列する「自己組織化」という現象が起き、撥水と撥油という機能を同時に発揮するようになる。膜の厚さは10ナノ(ナノは十億分の1)−30ナノメートルで、ポリエステル繊維やナイロン繊維などを被膜でき、用途も広がりそうだ。
 ナノテクを応用して加工した他の繊維の引き合いも多く、丁野良助・東レ繊維加工技術部長は「生産拠点の拡充を考えないといけない」と打ち明ける。
 繊維の太さがナノメートルレベルという「ナノファイバー」開発でも日本は世界をリードする。帝人子会社の帝人ファイバーは直径が300ナノー700ナノメートルのポリエステル繊維を開発、半年前からサンプル出荷を始めた。
 開発のカギは紡糸技術の改良にある。異なる高分子を精密に分配し、糸を押し出すための出口を微小化した。ナノファイバーは米国で「電界紡糸」という別の技術で製造されているが、帝人の技術を使えば「5−10倍と、比較にならないほどの強度を出すことができる」と飯室弘之取締役・研究開発部門長は胸を張る。
 強度向上で、これまでは不可能だった衣料にもナノファイバーを利用できるようになる。極細化で繊維の表面積が拡大するため、水分を吸着する性能が上がる。ウイルスなどを分離するフィルターへの応用も見込めそうで、「具体的な商品をつくりつつある段階」(飯室取締役)という。
 日本の繊維産業は浮沈の歴史を繰り返してきた。1973年の第一次石油ショックで生産量が落ちたが、生産の合理化と高品質を武器に輸出を拡大した。85年のプラザ合意による円高で輸出が低迷したときは、特殊な加工で新しい質感を持たせた「新合繊」の開発で乗り越えた。
 そして21世紀。中国の増産で市況が低迷し、日本の化学繊維の生産量は大幅な減産に追い込まれているが、「ナノテク繊維は医療など幅広い用途が見込め日本復権のカギを握る」と、繊維に詳しい東京工業大学の谷岡明彦教授は指摘する。ナノテクを武器に、反攻に転じる下地は整ってきた。

 

2006/8/4

C02回収 規制が後押し

 英蘭ロイヤル・ダッチ・シェルは2005年12月、エネルギー分野で三菱重工業と戦略提携することを決めた。シェルが狙うのは、工場などの排ガスから二酸化炭素(C02)を分離・回収する三菱重工の技術。関西電力と開発したC02吸収液「KS-1」は世界の国際石油資本(メジャー)が注目している。
 メジャーの最大関心事は老朽化した油田の採掘効率の向上。エネルギー需給が逼迫する中、新たに良質な油田が発見される見込みは小さいからだ。採掘効率向上には油田にC02を注入して石油をくみ出す技術が有効とされる。
 そこで脚光を浴びたのがC02の分離・回収技術だった。三菱重工は世界に先駆けて実用化した。KS-1はアミン系の液体で、サイダーのようにC02を吸う。
 まず排ガスをKS-1に通してC02を吸収させる。その後、KS-1を加熱してC02を吐き出させ回収する仕組み。すでにマレーシアやインドなどで同社のC02回収プラントが稼働中だ。
 排ガスからのC02回収・分離は温暖化対策として京都議定書が定める「排出権」を獲得できる可能性もある。回収分を地中に埋めれば大気中のCO2濃度を下げられる。分離・回収は石油の採掘だけでなく排出権も得られるという二重の利益を生む事業となる。
 温暖化の専門家でつくる気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は昨年、「2100年までに必要な削減量の15−55%を地中貯留で実現できる可能性がある」とする報告書をまとめた。分離・回収は温暖化回避の次世代技術でもある。
 地球環境産業技術研究機構(RITE)は膜を使ったC02分離を試みている。日本の研究機関として唯一、米国のエネルギー関連の研究資金「GCEP」の助成対象に選ばれた。2010年代の実用化を目指している。RITEの藤岡祐一化学研究グルーブリーダーは「C02の分離・回収技術は日本が世界をリードしている」と話す。
 国内の電力、重電機会社などが分離・回収技術の開発に着手したのは1990年ごろ。温暖化防止に向け世界的な議論が始まったばかりだった。激しい大気汚染の反省から日本の工場や発電所には60年代から世界一厳しい排ガス規制が課せられていた。重電機会社やプラント会社は、排ガスから硫黄酸化物や窒素酸化物を完全に除去する研究に早くから取り組み、すでに脱窒、脱硫の技術を確立していた。
 日本企業がC02回収に乗り出したのは自然な流れ。脱窒、脱硫の技術が基礎になった。だが排ガスの大部分を占めるC02を取り除くことは、欧米企業にとっては思いもよらない試みだった。C02回収技術の研究を進める関電を90年代初頭に視察した欧州の電力会社の幹部は「理解できない」と目をむいた。
 研究着手から十数年。6月にノルウェーで開かれたC02の地中貯留に関する国際会議にはメジャー幹部がずらりと居並び、日本の研究機関の研究成果を食い入るように見ていた。規制に後押しされて進んだ日本の環境技術は今、結実する。

 

2006/8/11

リチウム電池 独壇場続く
 
 「実際にハイブリッド自動車に搭載されるのはいつごろなのか」。今年5月、米国で開催された電池の国際セミナー。自動車向けリチウムイオン電池(充電池)の成果を発表した松下電池工業(大阪府守口市)の開発担当者に、こんな質問が集中した。
 松下電池は負極向けに大電流の充放電に優れる新しい炭素系材料を、大阪ガスと共同開発した。正極材料を構成する微細な粒子のサイズを大きくすることで、リチヴムが動きやすくした。重量当たりの容量、出力密度がともに従来の充電池のニッケル水素電池の2倍以上になった。
 単純に考えれば、ブレーキをかけたり発進する時にエネルギーを大量にためたり放出したりできるようなる。容量が大きくなれば電池を小型軽量にでき、ただでさえ効率の高いハイブリッド車の燃費がさらに向上する。それだけに、米国は日本企業の量産時期の行方を注視する。
 リチウムイオン電池で世界シェアの約4割を占める三洋電機。3月からハイブリッド車向けのリチウムイオン電池試験生産を始めた。すでに国内外の自動車メーカーにサンプル出荷を開始した。三洋は2008年度の量産開始を目指しており、2年後にも電池メーカーが支える高性能ハイブリッド車が、世界をにぎわす可能性が高まってきた。
 化学反応を利用した電池は、実用化では日本企業の独壇場が続く。ニッケル水素電池もリチウムイオン電池も、日本企業が世界で初めて量産化した。デジタルカメラや携帯電話機など小型電子機器の電源として普及し、リチウムイオン電池は今、日本が世界シェアの7割程度を握る。
 もちろん韓国や中国勢が台頭し、ハイブリッド車向けリチウムイオン電池に関しては欧米でも開発が活発になっている。しかし、リチウムイオン電池に詳しい九州大学の山木準一教授は「大学の基礎研究も含め、日本には電子機器向けの開発で蓄えた先行者メリットがある」と日本の優位性を指摘する。
 電池といえば三洋、松下といった電機メーカーの名前が挙がるが、電池を支える研究者のすそ野は広い。リチウムイオン電池では今年に入ってからも、三菱化学や三井造船が容量の拡大につながる電極材料を開発した。物質・材料研究機構は、有機溶媒を使わない安全性の高い電池の実用化にメドをつけ、九州大学も自動車向けに大きなエネルギーを取り出せる電池を開発した。一部品にすぎないが、産官学が切礎琢磨する環境が電池研究にはある。

 

2006/8/18

ノーベル賞、技術力の“鏡”

 毎年9月、米技術情報調査会杜トムソンがノーベル賞の受賞者を予想し発表する。その中に、2003年から昨年まで3年連続で化学賞候補に挙がっている日本人研究者がいる。九州大学の新海征治教授だ。
 新海教授は「分子機械」の分野で世界をリードする化学者として知られる。分子機械はナノ(ナノは10億分の1)メートルサイズで、イオンをつかんだり離したりする機能を持つ材料。体内の病巣部だけを狙って薬を運び込む薬物送達システム(DDS)や有用物質の合成など幅広い産業応用が期待される。
 05年の化学賞は、トムソンが新海教授と並んで候補に挙げていたロバート・グラブス米カリフォルニア工科大学教授が受賞した。それだけに同社の予想に注目が集まる。新海教授は今年も候補者に挙がるとみられる。
 これまで自然科学分野でノーベル賞を受賞した日本人は9人。そのうち4人が化学賞。00年から3年連続で受賞し、4人の物理学賞に並んだ。日本人のノーベル化学賞受賞が最近目立つことについて、野依良治理化学研究所理事長(01年ノーベル化学賞受賞)は「(かつての)優秀な学生の多くは化学者をめざしたかちだ」と強調する。
 戦後の日本は石油化学産業が成長し、化学が日本の国力を回復する原動力の一つとなった。多くの学生が化学の門をたたいた。人材の厚みが化学研究の水準を底上げし、40年近くを経て、研究成果がノーベル賞として評価されたとみる。
 ノーベル賞の受賞は、その時代の国の技術力を映す“鏡”ともいわれる。02年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一・島津製作所フェローも「日本のものづくりの強さが生かせた」と秘訣を述べている。
 田中フェローの開発した分析法のカギの一つは、たんぱく質に金属の超微粉末を混ぜたこと。この超微粉末を作る技術は当時の日本にしかなく「ジャパニーズ・パウダー」とさえ呼ばれていた。斬新なアイデアに高度な技術力が重なり、歴史的な成果が誕生した。
 将来の化学の研究開発力はどうなるか。「理系離れ」が社会問題として指摘される中で、学生の化学への関心は実は静かに高まっている。
 世界の高校生が科学の知識を競う科学オリンピック。物理・化学・生物学・数学の4分野で開かれた今年のオリンピックでは、化学分野の応募者数が最も多かった。世界大会では中国などの後塵を拝したが、日本の化学は数学と並ぶ7位と最高位を残した。
 化学は液晶や電池、環境技術と応用が幅広く、製造業における縁の下の力持ちとして重要な役割を担っている。最近はバイオテクノロジーも化学の対象に入りつつある。野依理事長は「今後は視野の広い化学教育が大切だ」と強調する。化学に興味を持つ学生をどう日本の産業強化につなげるのか。日本の底力を生かす戦略が問われている。