雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」

宇井さんありがとう

2006年11月11日宇井純さんが逝去された。深く哀悼の意を表したい。

宇井さんの紹介で、私は広い世界に知られるようになった


1.東大都市工学科への就職(1967年)

私は応用化学の大学院終了後、土木工学の出店のような都市工学科の助手になったが、この就職口をもってきたのは宇井さんである。と言っても、それ以前に宇井さんを知っていたわけではない。大学院生の集まりで、ときどき発言するのを聞いたことがある程度であった。

たまたま、私の研究室(米田研)の助教授だった斎藤泰和さんが、宇井さんと仲が良く、当時都市工学科の助手だった宇井さんから、都市工学科に今いる別の助手が辞めるという情報を聞いて、斎藤助教授が私にどうかと話しをもってきたのである。

宇井さんは、大学院は応用化学だったが、途中から土木工学の大学院に移り、そして都市工学科に移ってきていた。

2.宇井さんの代役として冨士、田子の浦へ(1969年頃か?)

私は公害問題についてはほとんど知らなかった。公害問題を知るきっかけは、宇井さんの代役からだった。
 
当時、田子の浦周辺の大気、水汚染はひどいものだった。そこで、宇井さんが講師の講演会が予定されていたが、急に体の具合が悪くなり出席できなくなった。代わりに私が行くことになったが、何も知らない、必死になって勉強し出かけた。

故甲田寿彦さんのお宅を訪ね、今井町の公民館にでかけた。200人ほどが集まっていた。私の話は好評で、以後田子の浦に通うことになった。私は今でもパルプ排水を研究対象にしている。

3.「衛生工学者のための水質学」の執筆(1968〜1970)

宇井さんが構想を温めていた「衛生工学者のための水質学」の連載を数人で始めることになった。連載3回目として書いた私の文章を宇井さんが見て、「後は任せる」と言った。その後13回まで連載を続けた(内6回単独執筆)。

私は、水質指標とは何か、指標によって汚染の姿が違って見えることを強調した。これが、水質学を過去に遡って勉強する機会になり、衛生工学の分野で私の名が知られるきっかけになった。

4.「浮間処理場批判」(1971年)の掲載

浮間下水処理場の調査結果を発表する場がなかった時、宇井さんが「公害研究」創刊号に私の原稿が掲載されるように動いてくれた(岡本雅美さん、故華山譲さんと共に)。

若い三人が「公害研究」の編集同人で、三人とも理系だったことが大きいと思う。文系の人であれば、これ、単に技術の問題でしょう、総合雑誌には向かないという判定になったと思う。 

私と宇井さんは相当考えが違っていたと思うが、両方とも理系で、
技術の中に社会構造が隠れていると考える点で一致していた。また、お互いに現場での調査や実験が重要という点でも一致していた。この時代としては、この考えはそう一般的ではなく、少数派だった。

宇井さんの紹介で、総合雑誌や論壇で仕事の機会が与えられ、名前が知られるようになった。
 
5.宇井さんの名前で有能な志ある学生が集まった
 
宇井さんの名前を知って有能で志のある学生が都市工学科にやってきた。そして、どちらかと言えば外で活躍することの多い宇井さんのところに行くのではなく、大学でこつこつと仕事をしている私の方に集まった。その学生達が私の研究室の研究を維持した。志と能力の点で世界一の学生達だった。

富田八郎著「水俣病」の衝撃

富田八郎著「水俣病」は、宇井さんが合化労連という労働組合の機関誌に連載していたものだが、その別刷りを読んで、私は全く新しい世界を知った。ひとつは、公害問題の構造とか背景だが、もう一つは宇井さんの調査の仕方(資料を徹底的に集める)と、それとは全然異なることだが、公害問題における原因究明の難しさだった。
 
当時「富田八郎」(とんだやろう、というひねり)のペンネームを使っていたのは、本名で書くことが怖かったからと宇井さん自身が言っている。それほど当時、公害問題を扱うことは覚悟のいる大変なことだった。

宇井さんは、当時の熊大医学部の研究報告を執拗に引用(と言うより、論文そのものを載せていたように思う:実は大事にしていた合冊本が盗まれてしまった。東大の私の研究室の書棚からなくなった)していた。こういう風に書いてもいいのだなとまず思った。

それを読んでいて、有機水銀説にたどりつくまでに、異なる物質を原因とする説の論文が数多く出たことを知った。今となっては、間違いと言えるのだろうが、その時は正しいと思われたことである。

例えば、マンガン説が出るとマンガンが正しいとされる論文がどっと出る、しかし、つぎに別の説が出るとまた、どっとその説を支持する論文が出る、間違いの説の論文を書きつつ博士号をとってゆく、原因究明の過程はこういうものか、私はひどく衝撃を受け、この難しさをしみじみ考えた。もし、自分がここにいたら、正しい原因究明に寄与できるだろうか?

後に、私は院生にこのことを題材にして問題を出したことがある。これこれこういう実験結果がある時、マンガン説が正しいと結論できるか?自然科学論理学として考えてみなさいと。どういう回答があったかは覚えていないが、正義感とか、社会的な立場とは異なる次元の“原因究明の科学”があること、それなしには、正義感も成就できないということを痛切に感じた。

都市工学科での助手生活と人間宇井純の心の葛藤

宇井さんは万年助手と言われ、ご自分でも言っていたが、今計算してみると21年間助手だったようだ。本人も皆の前で「助手の方がいい」「これは勲章だ」と言うこともあったが、いつもいつもそのように割り切れていたわけではなく、「なぜ、あいつが教授で、俺が助手か」という怒りが、どろどろと宇井さんの体中を占領し、のたうち回らせるのをしばしば見てきた。

それを見て、宇井さんの悪口を言う人もいたが、「ふざけたこと言うな!」と言うしかなかった。「そういうことを覚悟して自己主張を続けているのでしょう、覚悟がないならやめた方がいい」と言った若い教授もいた。

かつて、「都市の再生と下水道」(日本評論社、1979年)の中で、私はこう書いた。「研究者の社会で、無能という烙印ほど辛いものはない。「有能だけど不遇だ」などと言われているうちはまだよいが、不遇が続けば無能になる」。これを読んだ宇井さんが、「中西さんどうしてこういうこと書けるの?これって、俺の気持ちだよ」と言ったことがある。

苦しむ人間宇井純を私は助けることはできなかったが、少なくとも近くにいて、その苦しみが分かる存在であり続けた。

二人いたから生き残ることができた

宇井さんが沖縄大学に移る時、確か、私はこう言ったと思う。「二人いたから生き残れた。これから、私はどうなるだろう?」と。

宇井さんと私は、同じところにいて、公害問題に取り組み、時には協力してことに当たっていたが、考え方は随分違った。宇井さんは、どちらかと言うと社会や政治のことを問題にしたのに対し、私は自分の足下のことを自然科学的手法で見極めたいという考えだった。宇井さんは大学の外で活躍し、私はひたすら研究室にいた。

下水道や富士市の公害問題、それから派生した私のところで勉強する大学院生への進学妨害や就職妨害に関して、私が都市工学科教室と団体交渉をしている時に(「環境リスク学」13〜14頁)、宇井さんが大勢外部の方をつれて応援にきたこともある。

また、私は宇井さんの自主講座に講師として出席し(この時、娘をおぶって行ったので、皆驚いたそうです。自主講座は夜ですから、保育園に預けるわけにいかず、おぶって行ったのでした)、高知の生コン裁判(パルプ工場の排水口を生コンで塞いでしまった事件)や様々なことで応援をした。

別のことをしながら、場合場合で協力するという関係が続いた。
 
我々を支えた、本当の力は学生達だった

自主講座を開き続けたということが宇井さんの大きな業績の一つであることは、誰もが認めている(第1は水俣病)。大学の中に、解放区のようなものを作ったのだから、やはり革命である。あれよあれよと言っている間に、大きな教室を占拠して自主講座が始まった。これが15年も続いた。都市工学科の学生や院生の協力者は少なく、ほとんどが都市工学科以外、東大以外の人だった。

しかし、宇井さんがこういう活動ができたのは、都市工学科の学生、院生の別の意味での活動があったからだと私は思う。都市工学科が東大闘争の三拠点の一つになっていて、学生達によって占拠されていたこと、東大闘争が下火になっても運動が続き、都市工学科が事務局みたいになっていたこと、有名な山本義隆さんもずっとここにいたことなどがある。そして、学生達の公害問題への関心が非常に高く、いくつもの調査活動が進んでいたことである。

直接に宇井さんの自主講座活動を支援しなくとも、同じような考えの活動がずっと続いたが故に、大学は宇井さんの自主講座を強権でつぶすということができなかったのである。自主講座と言えども、教室を借りるには教授の印鑑が必要だった、それを教授は捺し続けたのである。それは学生の力があったからである。

学生達の運動は一過性であると非難する人はいる。変わり身が早く、もう官僚じゃないかとかいう批判はしばしば聞いた。しかし、官僚と言っても悪いことばかりする訳でもない、公害問題に興味を持つことのなかった人より良いことをしているに違いない。

また、そうでなくともいい、少なくとも都市工にいる2〜3年の間、公害問題と戦うという姿勢があれば、1人が2年でも、毎年学生は入ってくるから、10年も20年も続くことになる、それでいい。そういう力が、宇井さんの活動を支えた。もちろん、大学の外側の力は大きかったが、大学内での学生の力も無視できなかった。

大学闘争の時期

宇井さんの活動と東大闘争は切っても切れない関係にあるが、東大闘争の時期に宇井さんは日本にいなかった。WHOの上級研究員として欧州に行っていた(1968〜69年)のである。帰国は、予定より遅れ1970年になっていたように思う。

東大安田砦の攻防戦は、1969年の1月だったから、ちょうどこの時期、日本にいなかったわけである。ここで宇井さんが力を消耗しなかったことが、日本の公害問題の解決のためには良かったと思う。

沖縄大学に移って

その後、宇井さんは沖縄大学に移り、私も講義に行ったことがある。宇井さんが沖縄大学を辞める時に、都市工1期生の櫻井国俊さんが後を継ぎ、今は学長になっている。櫻井さんは、ともかく頭脳明晰で、東大闘争の時期もその指導者だったが、その後東大教授になり、しかし、突然東大教授の職を辞し、武蔵野市長選に出馬、その後宇井さんの後を継いだ。宇井さんにとっては、本当に嬉しいことだったろう。

宇井さんは、奥さんの紀子さんのことをしばしば自慢していた。紀子さんの家系は身分が高く、かつ、ご兄弟の地位も高いとかで、「野武士が貴族の娘を嫁にもらったようなものだ」と言っていた。また、紀子さんは透き通るような白さだったが、それも自慢の種で「顔の白さは七難隠す」というでしょうと、謙遜か自慢かわからぬことを言っていた。

私は、紀子さんにとても親切にして頂いた。東大で助教授になった時に、贈り物を頂いた、「女の方が活躍されているのが嬉しくて」とのメッセージがついていたが、もちろんそれだけでない暖かい心遣いを感じた。

今年の夏、留守番電話に宇井さんの声が残っていた。その声には力がなく、かすれていて、その声をきいているうちに涙があふれてどうしようもなかった。この声が最後になった。いまもその声が耳に残っている、それが切ない。

水俣病問題で言いたいことがあったであろう、解決に力を添えたかっただろう、「東京にもどってきたら、急に仕事が増えたんだ」とにこにこしていたのに、逝ってしまった。残念だ。

もう、これしか言えない。宇井さん、ありがとう。

2006年11月12日