「サウディ石油化学 20年のあゆみ」から

創立前史(〜1979年)

 当時、1970年代中頃、サウディアラビア王国東部州アル・ジユベイル工業団地予定地は、人跡まれな炎熱の土漠であった。土漠は、サブハと呼ばれる塩で固まった土砂で覆われたところと、貝殻まじりの細かい砂の部分とから成り、この辺りが昔は海であったことを物語っていた。
 工業団地予定地は、世界最大の産油量を誇る石油会社、アラムコ(現サウディアラムコ)の本社がある都市、ダハラン(当時、人口約6万人で国際空港もあった)から約120キロメートル北上したアラビア湾岸沿いの地。その約10キロメートルほど南に、古くからの港町、アル・ジュベイルがあり、漁労を主な生業として数千の人たちが住んでいたが、町の外の周辺50キロメートル四方には集落らしい集落は見当たらなかった。一方、予定地の先は遠浅のアラビア湾で、波の静かな美しい海は石灰質の砂礫の海底を映してコバルトブルーに透き通っていた。
 この地に、広大な工業団地が開発されようとしていた。広さは約90平方キロメートルで、東京のJRの環状線、山手線の内側よりも広い。アラビア湾が遠浅のため、延長10キロメートル、幅300メートルのコーズウェイ(突堤)を南東の海上に突き出させて水深を得、製品の貯蔵・海上出荷の基地とする予定であり、工業団地の北東部に隣接して人口約30万人の都市を建設する構想であった。こうした一大工業都市の基盤整備マスタープランはサウディアラビア政府が、1973年に米国のベクテル社に作成を依頼、1975年に成案を得たものであった。

随伴ガスを利用する石油化学プロジェクト
 アル・ジュベイルエ業団地予定地の南西約10キロメートルには、ペリ油田のGOSP(ガス・オイル・セパレーション・プラント)が土漠の丘陵地に建ち、分離されたガス(随伴ガス)を燃焼廃棄するフレアーが、すさまじい勢いで燃え盛り、黒煙が空高く立ち登っていた。
 サウディアラビアの石油は、1974年以降、日量800万バーレルを超す水準で生産されており、その随伴ガス中に含有される炭化水素エタンの量は、年間合計約930万トンに達していた。ガス回収率、エタン分離効率、エタンからのエチレン得率にもよるが、エチレンの年間生産量約520万トンに見合った膨大な量のエタンが潜在していることになる。
 それまで、
随伴ガスは発電用等の燃料として一部分が利用されている他は、フレアーで燃焼・廃棄されていた。このガスを石油化学工業用の原料等として有効活用するためのガス回収(マスター・ガス・システム)プロジェクトが、1975年にサウディアラビア政府によりアラムコに委託されていた。これは当初の予想(約40億ドル)をはるかに超えた約110億ドルの巨大プロジェクトとなっていった。
 これらの工業団地開発プロジェクト、ガス回収プロジェクトおよび回収ガスを有効活用する石油化学プロジェクトは、いずれもサウディアラビアの大規模な石油生産がもたらす膨大な国家歳入をもとに、1970年から始まった5カ年ごとの国家計画の一環として具体化されるものであり、石油モノカルチャーからの脱却と産業多角化を目指した壮大な国づくりのナショナルプロジェクトであった。
 同国政府当局は、石油化学プロジェクトの実現に際しては、実務的・合理的な態度で収益性を重視し、ステータスシンボル的な追求はしないとの方針を早くから打ち出していた。同国内には、大規模な石油化学をサポートする市場はなく、技術力・販売カ・経営能力を備えた世界的に定評のある企業、同国の経済発展に貢献してくれる企業の進出を希求する方針で一貫していた。同国のペトロミン(石油鉱物資源公団)からの協力打診を端緒とする三菱の、石油随伴ガスからのエタンを出発原料とする石油化学プロジェクトは、このような背景から生まれたのであった。

官民協カによるサウディ石油化学開発の設立
 三菱側では、数次にわたる検討を経て製品計画を固めた。しかし、1980年頃からの操業を目指して早急な事業の具体化を求めるサウディアラビア側に対し、三菱は、製品の主たる市場である日本本や東南アジアでの供給過剰の実情から、1985年以降の市場しか当てにならないと認識、製品の大部分の販売責任を負うことになる立場からも、早期企業化には賛同しかねていた。さらに三菱は、石油価格が上昇するとの長期的な展望のもとでの事業存立性はあるものの、短期的には技術的・経済的に不安定な要素が多く、時間をかけて事業環境が整うのを見守りたいとの企業判断をしていた。
 一方、1973年に勃発した第4次中東戦争とその後の第1次石油危機を契機に、1975年3月1日に日サ経済技術協力協定が締結されたが、サウディアラビアは石油化学プロジェクトを日サ経済協力の最重要案件と位置づけたため、ペトロミンと三菱が協議中のプロジェクトが、しばしば両国間の政治的な話題や問題にされることとなった。日本政府当局は、その対応策として、サウディアラビアの工業化政策に協力することで、日サ両国間の友好関係を維持・促進する方針を決め、それによって日本向けサウディアラビア原油の長期安定確保に資することとした。
 政府当局からの強い協力要請と指導により、民間企業、特に三菱グル一プがとりあえず中心となり、改めて官民共同の調査・検討を取り進めることとなった。しかし、政治的・経済的・社会的に不安定な要素がからんで、一民間企業、一民間グループの事業の限界を超えており、事業の具体化のためには、政府の強力な支援が不可欠であるとともに、関連業界の幅広い参加と協力のもとで、
ナショナルプロジェクトとして推進することが必要との認識が広まった。
 このような事情から、政府当局の指導のもとに、三菱関係各社(15社)、石油化学関係各社(11社)、石油精製関係各社(13社)、電力関係各社(9社)、ガス関係各社(2社)および銀行関係各社(4社)の計54社の賛同と出資をもって、調査会社サウディ石油化学開発株式会社が設立された。1979年1月22日のことであり、サウディアラビア側との共同調査の実施、合弁事業契約内容の折衝および日本国内の体制整備を主要な業務目的としていた。

 

SPDC、SHARQの設立(1979年〜82年)

 折りしも、イランでの反体制運動の激化を契機とした第2次石油危機が1979年に勃発。国際石油情勢は混沌とし、約1年の間にアラビアンライト原油価格(バーレル当たり販売価格)は12.70ドル(1978年末)から26.00ドル(1980年1月)へと2倍強の急騰をみせた。
 このような緊迫した石油情勢を敏感に反映して、石油化学プロジェクトをサウディアラビア側と協力して計画中のシェル、モービル、エクソン等の企業は、その共同調査のための予備契約の締結を急ぎ始めた。日本勢としても、安閑としてはいられず、張り詰めた空気のなか、1980年2月(シンガポール)、同年3月(リヤド)の対SABIC折衝を経て、予備契約の最終案をまとめた。

共同FSの結果、投資会社SPDCの誕生
 1979年4月2日、東京において、サウディアラビア側と日本側の間で合弁事業を行うための共同調査の予備契約の調印式が挙行された。
 アル・ザーミルSABIC副総裁の強い要望もあり、この共同F/Sは12ヶ月のうちに完了することを目途に急ピッチで進められた。石油化学工業協会の関係委員会を通じて専門家の協力を仰いだり、サウディアラビア現地で実績のあるコントラクターをマネージングコントラクターに起用したりして、スピーディーに精度の高い調査を行う体制を整えた。また、SABICから、計画の合理性を高めるため、類似の製品品目をもって計画中の
SABIC−ダウグループ(PETROKEMYA)とエチレンおよびエチレングリコールの両プラントを共同所有・共同生産したいとの提案があり、日本側も経済性が高まるということで合意もなされた。さらに、採用プロセスの選定作業の簡略化などさまざまな努力がはらわれて、共同F/Sは翌80年の3月上句にまとまった。“当合弁事業の見通しは良好”との共同調査結果であった。
 この結果を踏まえ、合弁事業契約の締結を同年6月末までに早期に完了させたいというSABICの意向に応えるために、日本側は、投資会社の設立にあたり、手続きが簡単で既存株主の継承が容易な方法をとることとした。それまでの調査会社SPDCの定款を変更し、増資して投資会社に移行したのである。合弁事業計画書、事業目論見書、新定款および出資者協定書の起草を急ぎ、1981年5月7日開催の臨時株主総会において、定款変更が決議され、ここに
投資会社としてのサウディ石油化学株式会社(SPDC Ltd.)が誕生することとなった。
 一方、投資会社SPDCに対する
政府出資は50%の予定であったが、1981年5月22日に開催された閣議において45%と決定され、5%の欠減分の穴埋めが問題となったが、これは鉄鋼業界6社と自動車業界2社の出資を得て解決した。

SHARQの設立とダウの合弁撤退
 リヤドで開かれた、合弁事業契約書、合弁会社定款およ関連付属契約書に関するSABICとの交渉は難航し、あわや決裂かと危ぶまれる場面もあったが、最後のトップ会談によって折衝は収束、1981年5月23日夕刻、リヤド市内の工業電力省において、調印式が挙行された。
 その後、日本とサウディアラビアの合弁会社であるEastern Petrochemical Company“SHARQ”は、1981年9月5日、サウディアラビア法に基づき設立登記された。
 SHARQが設立されてから1年余の間に、合弁関連契約の取り決め、技術導入契約の折衝・締結、設計・建設関連契約の締結等の一連の関連業務が事業推進スケジュールに則り、順調に取り進められた。
 そんな折りの1982年11月、突然、SABICから「PETROKEMYAからのダウの撤退」を知らされた。これはSPDCに強い衝撃を与えたが、SABIC総裁であり、工業電力省大臣のアル・ゴセイビ大臣自らが日本側に、ダウの撤退をSHARQプロジェクトに影響させないことを約束したため、SPDCはSHARQプロジェクトを引き続き推進する方針を再確認。さらに業務に邁進するとともに、SABIC、PETROKEMYAもSPDCの要望に沿って所要の対策を講じる等の努力をして、ダウ撤退の後遺症を克服していった。PETROKEMYAプロジェクトは予定どおりに設備を完成、試運転に入ることが見込めるようになった。

SHARQの操業(1982年〜87年)

 1979年4月、SABICと調査会社SPDCとの間でインテリムアグリーメント(合弁事業に係る予備契約)が交わされ、その契約に基づき実施された日サ合弁石油化学プロジェクトの共同F/S(経済存立性調査)において経済性が確認され、プロジェクトは実行に移されることになった。
 このプロジェクトの着手にあたっては、サウディアラビアで初めての大型石化プラントの建設を是非とも成功させようというチャレンジ精神が旺盛であった反面、砂漠の荒野に近代的なプラントの建設は可能かどうか、厳しい自然条件のなかでプラントの安定運転はできるのかどうか、生産される製品の品質はマーケットで受け入れられるのかといったさまざまな不安が入り交じっていた。
 日サ合弁石油化学プロジェクトの具体化は、1978年後半から集中して行なわれたSPDCとSABICとの合弁事業契約およびその付帯諸契約の交渉と、1981年5月のそれらの調印に始まった。その調印に続き、同年6月にマネージングコントラクター、千代田化工建設との間で建設契約が結ばれ、設計・エンジニアリング(1981年9月〜1982年末)、基礎工事(1982年中)、プラント建設(1983年3月〜1985年3月)、試運転(1985年7〜8月)、営業運転開始(1987年1月1日)と進行していった。
 プラントの建設から立ち上げに至る過程においては、日本側の主な協力点であった技術移転について規定したサービス契約に基づき、SPDCの株主であるサービス幹事会社の支援のもと、SPDCを経由して多数の技術者、さらに管理業務等の要員が現地に派遣され、プラントの建設管理から、運転に至る業務にあたった。
 また、将来のプラント要員である多くのサウディアラビア人の若者に対し、日本各地のサービス幹事会社の工場でトレーニングが実施された。こうした経過を経て1985年3月、SHARQのプラントは後期、工費を大幅に圧縮して完成することができた。

困難を乗り越えてプラント完成、次のステップヘ
 合弁事業契約遂行にあたって、SHARQの建設資金の調達については自己資金で30%、サウディアラビアの工業化のための公的資金からの借入で60%、商業銀行からの借入で残り10%を賄うという枠組みがSPDCとSABIC間で合意された。自己資金のうちSPDC負担の15%分は官民の株主各社の協力を得て出資で賄われ、SHARQの建設資金支払いスケジュールに合わせて送金された。
 また、SPDCが契約上義務として負ったSHARQに対する技術支援のため株主6社との間でサービス協定が、さらに、製品の引取り販売のために低密度ポリエチレン業界、エチレングリコ一ル業界の各社とマーケット協定が結ばれた。
 SHARQのプラントは1985年3月末に完成したが、ここに至るまでにはいくつかの困難も発生した。1982年末、PETROKMYAからのダウ社撤退が発表されプロジェクトの前進に一時赤信号が灯った。またプラント完成前後には石化製品の市況が著しく低迷し、SHARQの稼働後の採算が非常に心配された。さらに日本側では、このプロジェクト参加に係わる経済的メリットとして期待されたインセンティブ原油が、その後の原油の公示価格と市況価格との逆転現象により期待はずれに終わるという見込み違いが発生した。他にもいろいろな曲折があったが、こうした経過の後に完成した直鎖状低密度ポリエチレン<以下ポリエチレン(LL)と略称>およびエチレングリコール(EG)両プラントは試運転をクリアし、1987年1月1日、営業運転に入った。
 営業運転開始の頃からは石化製品の需給が逼迫状況となり、市況が大幅に改善。SHARQは営業初年度から利益を計上し、配当を実施した。そのため、SPDCも決算において、それまで累積していた損失をほぼ一掃することができた。
 SHARQの生産および販売は、以後は順調に拡大し、安価な原料の裏打ちもあって高収益を継続。自信を得たSHARQは次のステップヘと向かうこととなった。

 

SHARQ第2期計画(1987年〜95年)

 SABIC第1期は1985年夏にエチレン、ポリエチレン(PE)、エチレングリコール(EG)のプラントの試運転を開始し、短期間でオンスペック品を生産した。以降、PE,EGともに種々のこきざみなトラブルが発生し、特にPEは運転・生産の安定化に1986年半ばまでの約1年弱を要したが、生産量・製品品質の面に問題が生じることなく、総じて生産は順調に推移した。
 1987年1月1日、SHARQは営業運転を開始し、以後、生産は設計能力を大幅に上回った。一方、日本側の引取り・販売体制の整備は若干遅れたものの、SPDCと日本のPE・EG両業界の協力のもとに、アジア向け販売、日本向け引取りを行い、その後の円滑な販売につなげた。
 1987年後半から1988年にかけて世界の石油化学製品市価はかってない高値をを記録した。このためSHARQは営業開始初年度の1987年には約1500万ドルの利益を計上。さらに翌1988年の利益は1億2600万ドルとなり、営業開始早々から配当を実施した。その後も、設備能力を上回る順調な生産が続くと同時に円滑な製品のフル販売が行われた結果、低価格の原料エタン、ユーティリティ等に基づく優位な国際競争力によりSHARQの業績は好調に推移した。

SHARQ第2期計画と両パートナーの折衝
 一方、SPDCは1981年の投資会社設立後、長期にわたる操業前期間における経費の累積に加えインセンティブ原油取引の早期消滅によって、予定していた経営の原資を失い、一時は経営資金の不足が懸念されたが、SHARQの好業績、配当の実施により1988年度には初期の累積赤字をほぼ一掃し、株主への配当を実施することができた。
 こうしてSPDCが一息ついた矢先の1988年3月、SABICからSHARQ増資を示唆する意見が表明された。これはサウディアラビアの工業化推進・拡大の基本政策に基づくものであったが、日本側にとっては予想外に性急なものと受け止められた。以降、1991年末まで第2期計画の諸前提条件に関して、SPDCとSABICの間で折衝が続くことになる。
 この折衝とは別に、増設の意思を固めていたSABICは準備作業をSHARQに要請。SHARQは1989年半ばからEG・PEプラントの基本設計、建設の競争入札用書類の作成を始め、1990年3月には書類作成が完了、コントラクター候補の選定等を経て同年10月に入札があり、EGは1991年2月、PEは同年12月、プラント発注が行われた。その一方で、SABICは増資についてSPDCに強く同意を求め、紆余曲折を経た折衝の末、1991年12月、SPDCとSABICの間で合意に至った。また、PETROKEMYAの第2エチレンプラントについては、SABICがその責任において1990年3月に建設契約・発注を行った。こうした経過のなかで、1990年8月からのイラクのクウェイト侵略・占領、1991年1〜2月の湾岸戦争に直面することになるが、その間も増設に係わる折衝は継続した。
 SABICとの正式合意を受けて、手続きとしては1992年3月、SPDC定時株主総会において1億ドル相当の増資の決議が行なわれ、SHARQおよびSPDC、SABICの両パートナーは鋭意、実行計画に取り組んでいくこととなった。

ほぼ順調な運転・生産とSPDCがかかえる問題
 SHARQ第2期事業は総所要資金、借入資金、原料価格等の面で、当初計画に比べかなり良好な結果となった。すなわち、当初予想の総所要資金約12億ドルは約10億ドルに低減し、予想借入資金も低減した。また、原料(LPG,NGL)価格については、1992年末、「
国際市価FOBの30%引き」のサウディアラビア政府決定がなされた。加えて、立ち上がり時期の石化製品の好市況にも恵まれた。
 プラント建設は順調に進められ、PETROKEMYAのエチレンプラントは1993年7月、EGは同年9月、PEは1994年1月に完成し試運転に入った。エチレン、EGの運転は順調に推移したが、PEでは空送系の機械的トラブル等が発生。それらの解決には数ヶ月かかり、1994年秋に運転の安定化が達成された。それ以降の運転・生産はすべて順調に推移している。
 一方、第2期計画の実行に伴い、パートナー間の諸契約についてSPDCとSABICの交渉が行われた。原諸契約の内容・条件の根本的な改定はなく、合弁契約書についてはSHARQ第2期計画を事業内容に追加すること、定款については授権資本および払込み資本金の増額が主要点であった。
 SPDCにとってSABICとの交渉で最も時間がかかったのは、第2エチレンプラントの共有に係わる契約(JOPA−2)である。第2プラントの原料と製出溜分の価値づけをめぐる諸問題について、SPDCは1991年半ばからSABICとの折衝を開始したが、なかなかまとまらず、1993年3月、リヤドでの最終交渉でようやくSABICとの合意に至り、次いでSHARQとPETROKEMYAの間で基本合意書を締結した。
 また、サウディアラビアが外国投資誘致政策の一環として、工業プロジェクトに対して設けている10年間のTax Ho1iday(徴税免除)制度については、SAHRQ第1期のHo1iday期間が1996年末に満了し、1997年度からサウディアラビアでの納税が開始されることを踏まえ、SPDCは1993年頃から、外国投資の優遇条件が必ずしも十分でない現サウディアラビア税制の改定につき検討するとともに、サウディアラビア政府に対する働きかけを開始した。

 

SHARQ第3期計画(1995年〜)

 第2期工事を完了したSHARQは、その設備能力(年産実能力)がポリエチレン(PE)45万トン、エチレングリコール(EG)90万トン*、エチレン159万トン*に達し、世界有数のプラントを有することとなった。  *PETROKEMYAと共有。
 営業生産は1995年1月から開始。その生産実績は順調に推移し、PEは1998年に実生産能力を6%上回る47万7000トンに達した。また、EGは生産開始年の1995年から実生産能力を上回る生産を続けている。
 生産と同様に、製品の出荷も順調で、毎年生産とほぼ見合う量の出荷を実現しているが、PE,EGともに市況商品の宿命から逃れられないという状況にある。売値の好調な1995年および97年には、売上高が5億ドル台半ばを記録し、当期利益も2億ドルを超えたが、1998年および99年には市況が大暴落したため、売上高は4億ドルを下回り、当期利益も9000万ドルを下回った。

SHARQの第3期計画に対し最低必要条件を申し入れ
 第2期計画によって世界有数のプラントを有することとなったSHARQは、第2期工事が完成した翌年(1995年)にはSABICの後押しもあって、早くも第3期計画のアイディアを発案。取締役会で素案を説明する手はずを整えつつあったが、SPDCとしては、何よりもまず、増設されたプラントをいかに問題なく稼動させるかに注力すべきであるとして、第3期問題に正面から取り組むことを避けた。しかし、サウディアラビア側の熱意にまったく無視するわけにもいかず、第3期計画を検討する前提として、「合弁事業契約の期限の延長」「配当の確保」および「製品引取り権・販売権の確保」が最低必要条件であることをSABICに申し入れた。
 これに対し、SABICは第3期計画が固まった段階あるいは承認された段階でこの3条件を検討したいとして意見が噛み合わず、折衷案として、第3期計画の検討と3条件の交渉を同時並行的に進めることとなった。
 第3期計画は、予備的なF/S(経済存立性調査)が終了した1996年7月、SHARQ代表団が来日し、計画の概要が説明されたが、原料問題をはじめとしていくつか問題があった。
 他方、3条件については、1995年10月岩井SPDC社長ガサラマ一SABIC副総裁と会談した際、正式に3条件を見直すよう申し入れを行った。この3条件のうち、「配当の確保」については、両社の利害が一致していたこともあって比較的問題もなく、1996年3月に合意が成立した。「合弁事業契約のの期限の延長」は、お互いに起算点をいつにするか、何年間の延長が妥当かなど両社の思惑が異なり、交渉は難航したが、1996年6月の第5回会談で2020年末まで延長することが合意された。「製品引取り権・販売権の確保」については、お互いの利害が相反するため、双方とも自社の主張を繰り返し、なかなか妥協点が見つからなかったが、1996年8月に至ってようやく合意にこぎつけることができた。

3条件の合意で計面の実行、順調にスタートアップ
 
1996年9月12日開催のSPDC取締役会において、「3条件」がSABICとの間で合意に達したことが報告され、また、同取締役会でさらに第3期計画について詳細な検討を進めることが承認された。次いで翌10月には、株主63社に対し、第3期説明会を実施し理解を求めた。このように条件付きの第3期計画への流れが固まっていくなかで、1997年12月開催のSPDC取締役会において、「第3期計画実行の前提条件」がいずれも充足されているという報告があり、本計画の実行を承認。それを受けて、1998年2月11日開催のSHARQ取締役会及び総会において、本計画の実行が承認された。
 この設備計画については、@PE(改造)能力増強年産30万トン、AEG(新設)設備能力年産45万トン、Bエチレン(新設)年産80万トンであり、完成目標およびスタートアップ目標をそれぞれ2000年7月、同年5月としていた。資金計画は総所要資金を12億5000万ドルとし、そのうち30%(3億7500万ドル)はSHARQの内部資金から捻出し、残りの70%(8億7500万ドル)を借入で賄うこととした。また、借入契約は1999年1月27日、SHARQと日本輸出入銀行(現・国際協力銀行)ならびに商業銀行との間で締結された。
 建設に係わる国際入札は1997年9月に締め切られ、最終的にはEGは千代田化工建設が、PEは三菱重工業が落札し、それぞれ1998年2月、同年5月に建設契約が締結された。PEプラントのデボトルネック工事は予定スケジュールよりも若干遅れぎみであったが、最終的にはほぼ予定どおり、PEのNo.2およびNo.1プラントはいずれも2000年7月上旬に機械的完工を迎え、7月中旬には生産を開始した。
 一方、EGプラントの建設は常に予定スケジュールを上回る進捗を見せ、2000年6月上旬に機械的完工を迎え7月上旬にスタートアップした。

 

1970 7 サウディアラビア王国(以下「サ国」)の石油化学事業具体化のため、石油鉱物資源公団(ペトロミン)ターヘル総裁が三菱(商事および油化)に対し協力の希望を表明。
1971 8 来日中のサ国ペトロミン、ターヘル総裁に対し、三菱は石油化学事業化のためのFS実施を提案。
1973 6 三菱とペトロミン間で、FSに関する覚書を交換
  11 三菱・ペトロミンは、米国ルーマス社に第1次F/Sを発注
1974 訪日中のサ国ヤマニ石油相に対し、三菱は、サ国の工業化計画への貢献につき積極的意向を表明
  2 三菱首脳(商事、油化、三菱石油、鹿島石油、千代田化工)のミッションがサ国を訪問し、第1副首相ハリド皇太子(後の国王)等に対し、上記意向を表明。
  6 三菱・ペトロミン、ルーマスに第2次FS発注。
    この頃、石化事業への外国出資会社に対し、原油を優先供給する(いわゆるインセンティブ原油)旨のターヘル発言の風説
この頃から、三菱内部に、プロジェクトに対し慎重論が生じる。
  11 ペトロミンから合弁契約書草案送付あり。三菱側は、時期尚早を理由に辞退。
1975 ルーマスの第2次FS報告書入手(巨額の赤字発生が結論)。
1976 1 河本通産大臣、第1回日・サ合同委員会出席のため訪サ。サ国側、三菱の石化合弁計画参加が、日・サ経済技術協カ協定の主要協カ案件であるべきと表明。
  8 FS三菱案を提出するも、サウディ側(ISDC:SABICの前身)は同意せず(三菱案は、プロジェクト条件の未確定要素が多いこと等を理由に、計画延期を申し入れた内容)。
1977 2 産油国向けプラント輸出促進のため、中近東使節団(団長=永野重雄日本商工会議所会頭)訪サ。サ側は三菱の対応の遅さを非難。
  4 サ国ナーゼル企画大臣来日。田中(龍夫)通産大臣に対し、三菱グループの対応の遅れにつき苦言。
  6 田中通産大臣が、三菱に対しプロジェクト推進を要請。政府は、ナショナルプロジェクトとして支援する旨言明。
  7 増田通産審議官訪サ。工業電力省・SABIC首脳に対し、三菱グループが本プロジェクトに取り組む体制を整備するとともに、政府もナショナルプロジェクトとして可能な限り支援する旨説明。
  10 サウディ石油化学会社設立準備委員会の名で、予備調査(インハウススタディー)の実施を決定。
  12 通産省杉山経済協力部長、三菱商事山田副社長等訪サ。SABIC総裁に対し、サウディ石油化学プロジェクトを三菱中心のナショナルプロジェクトとして推進することを前提に予備調査の開始を申し入れ。
1978 1 園田外務大臣訪サ。サ国の石油化学プロジェクトに対する日本政府の協力を確認。
  12 「サウディ石油化学開発梶v発起人会開催。
1979 1 三菱商事・三菱油化・三菱化成外51社の共同出資により、資本金5億円(授権資本10億円)をもって、調査会社「サウディ石油化学開発梶vを設立。
1980 9 SABICとUCCの間で、ポりエチレン(LLDPE)製造技術契約締結。
  10 事業規模を、エチレン年産25万トン、エチレングリコール(MEG)同15万トン、ポリエチレン(LLDPE)同13万トンと決定
  12 調査会社SPDC、SABlC、ダウケミカルの三者間で、エチレン(E)、エチレングリコール(EG)両プラント共同所有・共同生産につき合意。
1981 5 臨時株主総会にて投資会社への移行を決議。社名を「サウディ石油化学株式会社(SPDC Ltd.)」に変更。授権資本金20億円。
  5 政府、閣議においてサウディ石油化学事業の推進のため政府関係機関から所要の支援を行うことを了解。これを受けて、関係省庁間で日本側出資480億円のうち45%を海外経済協力基金が出資することを了承。
  5 リヤドにて、SABICアル・ゴセイビ総裁、SPDC山田社長間でサ国における石油化学事業合弁契約書(合弁会社定款を含む)に調印。
イースタン・ペトロケミカル・カンパニー(SHARQ)設立合意。本社アル・ジュベイル、授権資本金14億リアル。
  5 ダウケミカルとSABICの合弁会社アラビアン・ペトロケミカル・カンパニー(ペトロケミヤ)設立合意。
  6 SPDC、資本金を12億5000万円に増資(民間引受)。
民間株主による出資者協定書調印。
  6 資本金を18億5200万円に増資(海外経済協力基金引受)。
  6 SHARQへ第1回資本金の払い込み。
  11 SHARQ、ペトロケミヤとエチレン(E)およびEGプラントに係る共同所有・共同生産契約(JOPA)を締結。
SPDC、ペトロミンとインセンティブ原油供給契約を締結。
1982 12 ダウケミカル、SABICとの合弁会社(ペトロケミヤ)から撤退。
1983 3 SHARQ定礎式挙行。
1984 2 SPDC取締役会、原油の市場価格下落によりインセンティブ原油引取りが困難になったため、引き取りの一部中止を決意。
ペトロミン、ノンペナルティでの引取量削減を了承(引取り権はそのまま)
  12 SHARQ、ユーティリティ設備完成。
1985 3 SHARQ、プラント完成。千代田化工建設より引渡し。
  5 ペトロケミヤ、エチレン年産50万トンプラントの運転開始。
  7 SHARQ、PEプラント運転開始。8月EGプラント運転開始。
  11 日本向けMEG第一船、波方ターミナル入港。
  12 SHARQ製LLDPEの日本市場引取り開始。
1989 2 SABIC、ペトロケミヤ2Eプラント建設方針を決定。
1991 12 SHARQ取締役会および出資者総会において第二期計画を決定。
1993 8 2EGプラント完工。
  12 2PEプラント完工。
1996 9 SHARQ出資者総会でエチレン(3E)、3EG、PEデボトルネッキング各プロジェクト(第三期計画)合意。
2000 6 3EGプラント完工。
  7 PEデボトルネッキング完工。
  10 ペトロケミヤ3Eプラント完工。

 

SPDC出資比率

 海外経済協力基金 45%
 三菱商事        6.73%
 三菱油化        4.37%
 三菱化成        3.42%
 住友化学        0.65%

 その他

株主一覧(40社)(平成16年12月31日現在)
http://www.spdc.co.jp/J/company/frame/frame01.htm

国際協力銀行、三菱商事、三菱化学、新日本石油、東京三菱銀行、三菱重工業、
東京海上日動火災保険、出光興産、三菱信託銀行、東京電力、鹿島石油、
関西電力、三菱倉庫、みずほコーポレート銀行、中部電力、山陽石油化学、
昭和シェル石油、新日本石油化学、住友化学、大成建設、日本触媒、
日本トランスシティ、富士石油、三井化学、西部石油、大阪瓦斯、東京瓦斯、
東北電力、九州電力、中国電力、四国電力、北海道電力、北陸電力、新日本製鐵、
トヨタ自動車、JFEスチール、神戸製鋼所、住友金属工業、日産自動車、日新製鋼

2005/5
サウジ石化合弁事業 三菱商事、出資比率21% 日本側の2位株主に


ダウの撤退と善後策
 1981年9月5日に設立された、SPDCとSABICの合弁会社SHARQは、生産規模を拡大するため、SABICとダウの合弁会社PETROKEMYAと設備の共有・共同生産に関する契約(JOPA)を結び、エチレンはPETROKEMYAが、エチレングリコールはSHARQが、それぞれの建設・運転を分担することとなった。
 ところが、1982年11月10日、アル・ゴセイビ工業電力大臣兼SABIC総裁より、「PETROKEMYAからダウが撤退し、今後PETROKEMYAの運営は100%SABICで行うこととなるが、SHARQプロジェクトには悪影響を及ぼさぬようSABICが責任をもって善処する。PETROKEMYAの生産品目や生産開始時期に変更はなく、この点はサウディアラビア政府が保証する」との表明があり、SHARQプロジェクトが従来どおり取リ進められるようSPDCの理解と協力が求められた。
 PETROKEMYAからのダウ撤退の情報は、SPDCにとって、まったく青天の霹靂であり、日本側関係先に多大な衝撃を与えた。
 PETROKEMYAにおけるダウの存在は、これまで、“ダウならエチレン製造供給を安心して任せられる”という技術面のみならず、“ダウならエチレングリコールの販売面でも、SHARQの健全運営に役立つ”として、日本側関係者に安心感と期待感を与えていた。
 そのダウの撤退を知らされたSPDCの株主のなかには、撤退はダウがサウディアラビアの石油化学事業の収益性や健全性に見切りをつけたためとみる向きが多く、また、SHARQ事業を継続することに消極的な態度を示すところもあった。

予定どおりにSHARQプロジェクトを推進
 ダウ撤退で衝撃を受けたSPDCであったが、この撤退にかかわらず、SPDCとしては引き続きSHARQプロジェクトの推進に協力する方針を確認し、次のことを決めた。
 @近日払い込み予定の出資には、最善の対応策を講ずること。
 ASHARQと千代田化工建設間の一括請負契約の調印(近日予定)を認めること。
 BSPDCの諸契約上の義務に変更がないことを確認しておくこと。
 Cエチレンの安定供給の確認とともに、SABICが引受け保証するエチレングリコール年間15万トンの販売については、今後十分に話し合いを行い、SPDCの意向がSABICないしPETROKEMYAの方針に反映するように働きかけること。

  SABICはSPDCの不安解消にも意を配り、エチレンプロジェクト円滑推進のために、@1983年5月、PETROKEMYAと米国UCCの子会社であるUCEHSCO社との間で、エチレンプラントの設計・建設の監督および操業・管理に関するマネージメントサービス契約を締結。UCEHSCO社は要員を派遣して同契約に基づく業務を履行することとなった。SHARQとPETROKEMYA間の建設工程会議も定期的に開催される運びとなった。
 また、APETROKEMYAと千代田化工建設の間で締結されていたコストプラス方式のエチレンプラント建設契約を、ランプサム方式に転換する契約折衝をまとめ、1983年10月に調印した。
 その他の事項においても、SABICはダウの撤退による後遺症を最小限にjとどめ癒すことに努め、技術面での懸念は解消し、PETROKEMYAのプロジェクトは予定どおりに、1985年第2四半期にプラントが完成、第3四半期にはSHARQへのエチレン供給が開始されることが予定され、SHARQプロジェクトは、1985年7月に設備が完成、以降、試運転に入ることが見込めることとなった。
 上記のように、SABICの誠意ある対応が確かめられたため、SPDCはSHARQプロジェクトの推進に確信をもつに至った。

 


日本経済新聞 2005/5/25

サウジ石化合弁事業 三菱商事、出資比率上げ 21% 日本側の2位株主に

 三菱商事は日本とサウジアラビアの国家プロジェクトである石油化学合弁事業の日本側投資会社への出資比率を7%から21%に引き上げた。サウジ産石化製品の競争力に着目、少数株主10社以上から保有株式を買い取った。三菱商事は三菱化学を抜いて国際協力銀行に次ぐ第二位株主に浮上、同事業での三菱商事の主導色が一段と鮮明になった。
 三菱商事が株式を買い増したのはサウディ石油化学。サウジ政府系のサウジ基礎産業公社(SABIC)との合弁会社であるイースタンペトロケミカル(SHARQ)の日本側窓口で、サウジ東岸のジュベイルで1980年代からポリエチレンやエチレングリコールを生産している。
 サウディ石化は有力産油国のサウジとの関係強化を目的に、三菱商事や三菱化学など三菱グループを中心に国際協力銀行や自動車、製鉄、電力、石油など日本企業約60社が出資してきた。しかし、昨年以降コスモ石油やジャパンエナジー、東ソー、三菱電機など10−20社が株式を手放し、三菱商事がこれらを入手したもよう。譲渡額は明らかにしていない。出資比率引き上げでサウディ石化は三菱商事の持ち分法適用会社となり、連結決算に反映される。
 三菱商事は2007年度までの中期経営計画で資源立地型の化学品事業を重点分野に位置付けている。サウジ産の豊富な天然ガスを原料に使うSHARQは高い競争力を持ち、中国の需要急増をにらんで総額23億ドルを投じる増産計画に取り組んでいる。
 三菱商事は合弁事業立ち上げ時から中心的な立場にあり、増産にあわせて「役割に応じた出資比率に引き上げたい」(化学部門幹部)との意向を示していた。

▼サウディ石油化学
 世界最大の産油国であるサウジアラビアとの関係強化を目的に設立された官民合同の石油化学事業会社。三菱商事や三菱油化(当時)など三菱グループを中心に日本企業約60社が出資して1981年に発足、日本政府も海外経済協力基金(現国際協力銀行)を通じて出資、今も株式45%を保有する。サウジ政府系のサウジ基礎産業公社(SABIC)と合弁で、ポリエチレンを年間75万トン、エチレングリコールを同135万トン製造する。