日本経済新聞 2006/5

私の履歴書 金川千尋

小田切氏の恩 会社を託され、意気に 2ケタ成長へ新たな挑戦

 この春は例年より早く、執務室の窓辺で胡蝶蘭が花を咲かせた。十年前、今は亡き元社長の小田切新太郎さんから私の誕生日のお祝いにいただいた蘭で、株分けをして大切に育てている。故人の霊が乗り移り、いつも私を守ってくれている気がする。
 私の経営者としての原点は米国の塩化ビニール子会社、シンテックにある。1976年(昭和51年)に合弁相手だった米企業の要請により株を買い取り、全額出資にした。信越化学の取締役会では反対意見が多かったが、小田切社長が平の取締役だった私を信頼して反対を押し切り、全経営を任せてくれた。
 人生意気に感じ、シンテックを米国で最強の会社にしようと、その経営に全身全霊を打ち込んだ。10回も設備の大増設を断行する一方、効率性も極限まで追求した。世界最大の塩ビメーカーに成長したが、借入金はゼロだ。
 私は若いころから、いわゆる「良い子」ではなかった。信越化学に中途入社してからも常識や慣習を疑い、誰に対しても遠慮のない発言をしたが、体を張って事業に取り組んできたつもりだ。小田切さんは私の弱点をカバーしながら会社を託してくれた。もし小田切さんに出会わなければ、恐らく会社を辞めて自分で事業を興していただろう。
 今年9月、会社は80周年を迎える。だがお祝い気分にひたっている暇はない。
 「売り上げや利益の高成長はもう無理ではないか」。2002年の投資家向け説明会でこんな質問を受けた。確かに利益の成長率は鈍っていた。これは事実で全責任は社長にある。従業員は懸命に働いていたのだから。「よし、見てろ」と発奮し、経営改革に乗り出した。前3月期の連結決算は集計中だが、純利益は11期連続で過去最高を更新し、2年連続で2ケタ成長になると思う。売上高は1兆円、純利益は1千億円を初めて突破する見込みだ。
 利益の絶対額が高まるほど成長率の維持は難しくなる。今後の2ケタ成長は至難の業だ。目標にする会社があるわけではなく、毎日が自分との闘いである。
 私生活には無頓着な方だ。自らの報酬額は社外の識者が加わった報酬委員会の決定に委ねて、私は一切口を出さない。仕事以外は面倒で、課長時代から自宅の引っ越しもしていない。信越化学を世界の優良企業にすることが最大の生きがいだ。人ができないことをやらなければ、私が社長である必要はない。
 過ぎし日を振り返ってみて、人間形成の原点はやはり旧制第六高等学校(現岡山大学)の3年間ではないかと思う。友達との心の触れ合い、人間としてのモラルの探究、個の確立、理想の追求、忍苦精進など、戦争一色だった時代に人間の生き方を純粋に考えた3年間だったと思う。苦しい時も、六高時代を思い出すと負けじ魂が目を覚ます。
 戦争中は旧制六高の寮で空襲を受け、後輩を失った。家族に再会するため、玄界灘を渡っていた船上で空襲警報を聞いた時も死を覚悟した。戦後は、当時死の病といわれた肺結核を患った。
 幾つもの危機を乗り切れたのは、小田切さんのほかにも家族や親せき、社会で出会った多くの人々が、有形無形の温かい手を差し伸べてくれたからである。感謝の気持ちを込めて今日までの歩みを記し、明日への活力を引き出したい。

(中略)

療養生活

 振り返ると25、6歳のころは体力に任せて遊び過ぎていた。土曜の午後に会社の同僚と逗子や葉山へ繰り出し、帰つてくるのは月曜の朝。そんなことが度々あった。昼は泳いだり、砂浜で相撲を取ったりして暴れ回り、夜は酒を飲んでどんちゃん騒ぎ。結核菌をはねつける抵抗力が次第に弱まっていたのだろう。これは正に自業自得だ。
 若いころは株式投資でも苦い思いをした。始めたのは入社した50年ごろだ。旧制六高柔道部の先輩で、大和証券に入社した親友の細井幸夫氏に基礎知識を教えてもらった。細井氏は後に大和証券副社長になり、証券投資信託協会会長も務めている。
 私は元来、勝負事が好きな性格だし、最初は儲かったので株にのめり込んでしまった。業種を問わず、値動きの大きい仕手株に手を出した。生活費には手をつけなかったが、月給の5−10倍はいつも株に投資していた。
 企業業績を絶えず研究し、
また過去の値動きを示したケイ線の分析に熱中した。ケイ線は投資家の心理を反映するから、本を読んで定石を勉強した。
 4、5年勝ち続け、周囲からも「常勝将軍」などとおだてられた。投資した銘柄数でいえば8割くらいは成功を収めただろう。ところが残りの2割で大負け。何年もかけて稼いだおカネを1、2カ月で失い、結局は損をして終わった。当時の私には大ショックだった。これを契機に手を出さないと自らに誓った。
 今、私が健康管理に細心の注意を払っているのは、不摂生で結核を患ったという反省があるからだ。また会社で株や不動産など本業以外の投資を絶対に認めないのも、株で失敗した実体験があればこそ。空理空論ではなく自分でひどい目にあったから、現在でも確信をもって実行している。

 

転職 相次ぐ合併劇に嫌気 もの作りの仕事が魅力に

 商社勤めを12年続け、信越化学に移った。転職を決意した理由は二つある。一つは相次ぐ合併による社内のゴタゴタに嫌気がさしたことだ。
 入社した極東物産は、戦前の三井物産がGHQ(連合国軍総司令部)に解体されてできた会社の一つだった。戦後、旧物産系企業で再統合に向けた合併が繰り返され、私はその渦中にいた。
 私が社会人になった1950年に朝鮮戦争がぼっ発し、日本経済は特需にわいた。だが翌年に停戦交渉が始まると、国際商品相場が暴落。特に「新三品」と呼ばれたゴム、皮革、油脂原料の値下がりが激しかった。管理部で不良債権処理をしていた私が忙しかったのも新三品暴落の影響が大きい。
 多くの商社が打撃を受け、極東物産も例外ではなかった。53年には同じ旧三井物産系の2社と合併し、社名も第一通商になった。私は吸収される側の社員だった。
 第一通商は55年、第一物産に営業譲渡した。また吸収されたのである。第一物産は59年、GHQが禁じた社名を復活させた戦後の旧三井物産と合併。存続会社は第一物産だが、社名は三井物産となり、大合同が完了した。
 合併で吸収された側は惨めだ。吸収した側には威張る人が多い。下っ端の私は「何言ってるんだ」と思っていたが、吸収された側は小さくなっていた。取引先が重なっていた場合でも吸収された方が切られることが多い。長い間努力して懇意になった顧客と、このような形で別れさせられるのは耐え難い。「生きて虜囚の辱めを受けず」。戦陣訓の一節を思い出した。
 出身会社や出身部門を笠に着る人が多かったが、佐伯知男さんは違った。佐伯さんは鉄鋼部門が強かった室町物産の出身で、物産の再統合時は合金鉄第二課の課長だった。佐伯さんは“被征服民”の部下である私にも目をかけてくれた。夕方職場でぼんやりしていると「金さん、飲みに行こう」とよく四谷の料亭「今伸」に連れて行ってくれた。そこで憂さ晴らしに歌ったのを思い出す。佐伯さんには非常に恩義を感じている。
 だが佐伯さんのような人は例外だった。合併で生じたあつれきが嫌になり、パチンコに熱中した時期もある。仕事もそこそこに切り上げて、自宅に近い小田急線・経堂駅前の店に入り浸った。クギの癖を見抜いて台を選ぶ特技を身につけ、打ち止めを連発する。缶詰などの景品を山ほど抱えて帰宅する日々が続き、パチンコが生活の一部になった。プロの域に達していたが、2、3年でやめた。
 転職した理由のもう一つは、商品を右から左に流すだけの仕事が嫌になったことだ。鉄鋼部門時代に、合金鉄を日本特殊鋼に売り込もうとした時のこと。旧制六高柔道部の先輩である佐々木吉備三郎常務を頼って訪問を重ねていたが、こう言われた。「君、暑い中を何度も何度も来てくれて本当に気の毒だが、この品質では買えない」
 早速、合金鉄のメーカーに品質改善を要求したが、全く相手にしてくれない。これは一例に過ぎず、根無し草のような仕事だと感じるようになった。自ら投資をしてモノを作っている会社なら、クレームを聞いた瞬間に対応するはずだ。人脈だけを頼りにしたビジネスは続かない。転職の理由は合併のゴタゴタより、こちらの方が大きかった。

 

信越化学 英語力磨き世界一周 カジノに通い、各地で散財

 商品を売買するだけの仕事に満足できなかった私は、1962年2月に知り合いの紹介で信越化学工業に移った。35歳だ
った。極東物産の総務部でお世話になった市川亨さんに相談したら、「いいじゃないか」と快く送り出してくれた。
 自ら投資してモノを作りたいと思っていたから、今ならベンチャー企業を設立していたかもしれない。巨万の富を得たか、一文無しになったかは分からないが。
 私が中途入社した時の社長は小坂徳三郎さん。事実上の創業者で三代目社長を務めた小坂順造さんの三男だ。徳三郎さんは運輸相などを歴任し、兄の善太郎元外相とともに政界でも活躍した。現在の小坂憲次・文部科学相は善太郎氏の二男である。当時は「小坂家の会社」とも言われたが、社風は開放的だった。
 自分なりに英語を勉強していたので、国際的な仕事に携わりたいと希望した。認められて海外事業部事業課に配属され、副長になった。
 戦後の英語歴を振り返ると、GIと呼ばれた駐留米軍の兵士をつかまえては何やかやと話しかけ、我流で英会話を身につけようとしていた。
 商社に入ってからは、不良債権処理の仕事で知り合った柏木薫弁護士の紹介で、週に一回ほどレッドクロス(赤十字)の女性職員たちに東京・代々木の米軍宿舎で英会話のレッスンを受けた。レッドクロスの女性たちは月謝を取らずに親切に教えてくれ、柏木さんと私はお礼に日光などの観光名所を案内した。
 陸軍士官学校卒業後に連隊旗手を務めた柏木さんは、姿勢が良くてスマートだった。弁護士になってからは企業法務の専門家として活躍され、第二東京弁護士会の副会長も務められた。
 これとは別に英国大使館の職員にマンツーマンで習つたこともある。GI風に発音すると、ひどくしかられた。
 商社時代は一度も海外に出たことがなかったが、信越化学では世界を飛び回り、英語を駆使する機会に恵まれた。塩化ビニールの製造技術を売るのが主な目的で、初の海外出張先は上司のお供をしたフィリピンだった。その後に世界を一周する。インド、パキスタンを訪れ、レバノン経由で欧州、米国を回った。
 海外ではギャンブルの魔力に取りつかれた。飛行機の乗り換えで一泊したレバノン・.ベイルートのカジノでは、タクシー代だけを残して全部スッてしまった。
 私が好きなのはルーレットだ。ブラックジャックなどは、家庭で慣れ親しんでいる欧米人に勝ち目がない。ルーレットなら同等の条件で戦える。尊敬する山本五十六・連合艦隊司令長官も名手だったそうだ。
 私の場合は数百ドルの元手が2干、3千ドルまで増えることも多かったが、最後はほとんどゼロになった。世界中のカジノで性懲りもなく、同じことを繰り返した。
 商社時代の株式投資といい、私は根っからの勝負好きらしい。ギャンブルは勝っている時の高揚感がたまらず、何時間でも疲労を感じない。だから途中でやめられない。だが負けが込んでくると長時間の疲れが一度に吹き出し、立っているのも苦痛だった。
 身銭を切ってのギャンブルは会社の仕事にも役立ったと思う。投機の怖さ、引き時を見極める難しさなどを学ぶ反面教師になったからだ。

 

ポーランド 真の愛国者と出会う 技術輸出巡る難交渉解決

 海外事業部では市場開拓のために世界中を飛び回り、貴重な体験をした。ポーランドの愛国者との出会いは今でも鮮明に覚えている。 1967年1月、私は天然ガスからアセチレンを製造する技術を輸出するため、ポーランドに出張した。ワルシャワで機械の輸出入を取り扱う公団ポリメックスと話し合いを重ねたが、交渉は遅々として進まない。社会主義体制の下で官僚主義がはびこっており、公団側は技師の日当など細かな条件を何度も蒸し返してくる。
 1週間たっても埒があかないので、私は業を煮やし、交渉打ち切りを決意した。航空券を予約し「明日帰国する」と相手方に告げたその日、「今日の午後8時にクラクフで会いたい」と伝えてきた人物がいる。イェジ・オルシェフスキー氏。化学工業の連盟のような組織であるユニオンのトップで、40歳の私より5歳ほど年上だった。
 忘れもしない1月28日午後8時。南部の古都クラクフは粉雪が舞い、零下20度を下回る寒さだった。事務所を訪ねると、彼は「これから私が言うことは、今までの公団スタッフの発言すべてに優先する」と切り出した。続けて一気に語った。「あなたが提示した条件は全部受ける。その代わり技術導入が成功したら、この技術を共同でハンガリーなどに輸出して利益を折半しよう」
 彼は第二次大戦中に父をナチスに殺され、17歳前後でパルチザンに加わったという。母国は戦後もソレンの干渉で苦しんだ。「国を救うには世界最高の技術を導入し、産業を発展させて外貨を獲得しなければならない」。情熱にあふれた彼の話を聞き、私はその場でイエスと答えた。まだ課長だったが、グズグズ迷っていては仕事にならない。
 翌年。約束通り、オルシェフスキー氏と私はハンガリーのブダペストヘ行き、化学工業相のシャンドール・ゴルナージュ氏に会った。実際に技術を導入し、成功したオルシエフスキー氏が説明してくれたから説得力がある。交渉はトントン拍子で進み、調印にこぎ着けた。
 契約後、ゴルナージュ氏が我々をブダペストのムーラン・ルージュに招待してくれた。本場のパリには及ばないが建物もショーも立派だった。ラインダンスが終わった時、オルシェフスキー氏は突然立ち上がり、ウオッカのグラスを高々と差し上げて「ブラボー」と大声で叫んだ。観客が一斉に振り向く。
 一瞬ビックリしたが、直立した彼の姿には威厳があった。ヒトラーと戦った本物の愛国者だ。そんな人物が一課長に過ぎない自分を買ってくれた。私も「ブラボー」と叫びたい思いがした。
 彼は豪胆であると同時に、神経の細やかな優しい人でもあった。ハンガリーでは一緒にワインセラーを回って色々なワインの試飲を楽しんだが、私は酔いと旅の疲れで頭がクラクラしてきた。ホテルに帰って部屋で休んでいると真夜中にコンコン、とドアをたたく音がする。誰だろうと思ったら、彼が心配して水を持ってきてくれたのだ。
 その後も欧州に出張するたびにオルシェフスキー氏を訪ね、ワルシャワの自宅にも招かれた。娘さんがチーズやハムなどをのせたクラッカーで歓待してくれた。彼は交通事故で亡くなられた奥さんの写真を私に見せた。美しい人だった。

 

別れと出会い 親友の死に夜眠れず ペルーの友人、「信頼」の手紙

 ポーランドのオルシェフスキ一氏とは長いお付き合いになった。彼の推薦もあり、1975年には同国の公団ポリメックスとの間で、当社の塩化ビニール製造技術を輸出する契約を結ぶことに成功、ロンドンで調印式を行った。当社にとって大きな仕事であり、当時の小田切新太郎社長には大変なお褒めの言葉をいただいた。
 祖国復興に燃えるオルシェフスキー氏は毎日夜遅くまで執務していた。秘書も一人では足りず、昼と夜の担当が別々にいたほどだ。私と出会った後は政界で才能を開花させて、経済企画庁長官、化学工業相と国家の要職を歴任し、最後は貿易海運相を務めた。バルト海に面したポーランドでは重要なポストで、大臣としては首相に次ぐナンバー・ツーだったと聞いている。
 国家の大幹部になっても昔の友人を大切にする人だった。ワルシャワで彼から聞いた言葉は終生忘れられない。「私には心を許した友人が世界に3人いる。1人はイギリス人、もう1人はフランス人だが、3人目は日本人のあなただ」
 彼はまた「私が引退したら、英仏の友人も呼んで4人で語り合おう」と約束してくれた。再会を楽しみに別れたが、81年に新聞で彼が亡くなったことを知り、大きな衝撃を受けた。夜中に目を覚ましては彼を思い出し、眠れない日々が1カ月ほど続いた。人間として、また最も尊敬できるパートナーとして、今も私の心に鮮明に刻まれている。
 海外で出会った友を、もう一人紹介した
 場面は南米ペルー。汚い安ホテルに泊まり、体中をノミほうほうに食われた私は這々の体でチェックアウトし、リマ市の目抜き通りであるアベニーダ・アレキパに向かった。待ち合わせの場所はエッソのガソリンスタンドの前。私の特徴はその日の朝に「黒いスーツを着て、黒いカバンを持った東洋人」と伝えておいた。
 「やあ、カナガワさん」と声をかけられた。ドイツ生まれの米国人、ハンス・トラバー氏との初の対面だった。
 トラバー氏はプラスチックを加工し、容器など様々な成型品をつくるペループラスト社を経営していた。仕事上、1年以上の文通を繰り返した後の出会いなので、すぐ打ち解けた。
 やがて当社を通じ、東芝機械製の射出成型機を輸出する契約がまとまった。しかし機械が到着したカヤオ港で事故が起きる。港に1基しかないペルー海軍のクレーンで機械をつり上げた時にアームが折れ、大事な機械は船倉に落下して使用不能になった。
 現場に立ち会っていたトラバー氏の判断で、射出成型機はいったん日本に戻し、修理点検して再度輸出することになった。このため、ペループラスト社の増産計画は半年以上も遅れてしまった。
 事故当時、日本に帰っていた私はトラバー氏から手紙を受け取った。「今回の事故は決して悲劇的ではない。もし悲劇があるとしたら、それはあなたとの信頼関係を失うことだ」と書いてある。素晴らしい手紙だと感激した。
 ペルーでは80年代に左翼ゲリラの活動が激化し、トラバー氏も凶弾で顔面を撃ち抜かれた。もし1センチずれたら即死だったが、ドイツで受けた手術で奇跡的に助かり、その後も交流が続いている。

 

ニカラグア合弁 高関税案で会社成長 革命ぼっ発、撤退余儀なく

 1960年代後半はいつも着替えやカタログなどがぎっしり詰まった大きなトランクを二つ持ち、ほとんど一人で世界を駆け回った。
 酷寒の東欧からニューヨークなどを経由して炎暑の中米に飛ぶといった旅程もあり、気温の差が4、50度を超えることも珍しくなかった。ただ「この仕事を成功させれば将来は大きな事業に発展するだろう」という一念が常に私を駆り立てていた。
 1967年には、中米ニカラグアに塩化ビニール製造の合弁会社「ポリカサ」を設立した。当社が33.75%を出資し、現地の有力実業家と政府系金融機関が資本参加した。工場は田中貞弘氏(後に信越エンジニアリング社長)と清野順一氏(現長野電子工業会長)の素晴らしい設計により完成し、70年に稼働した。
 ポリカサ社の事業運営は主な出資者の代表3名が集まるエグゼクティブ・コミッティー(経営会議)で決めることになった。メンバーは政府系金融機関の総裁と実業家のドナルド・スペンサー氏と私。スペンサー氏の父は金や銅などの鉱山を経営する富豪で、独裁政治を続けていたソモサ大統領の親友だった。
 私の任務は会社全体の経営企画だった。最先端の製造設備、簡素化された組織人員、資金手当て、収支計画などが課題で、最も重要なテーマがマーケティングである。ニカラグアはグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカと中米5カ国の関税同盟を結んでいた。規模の小さな工場と市場で製品を売るには、高率の輸入関税による保護が必要だ。
 そこで輸入価格に対して200%くらいの高関税をかけたうえ、念を入れて重さを基準とした関税を上乗せする私案を考えた。この案はそのまま通り、中米5カ国の共通税制となった。おかげで輸入品をほぼシャットアウトでき、中米でも1、2位を争う高収益企業に成長した。
 製造開始後、約10年は順調だったが、79年にサンディニスタ民族解放戦線による革命が勃発した。独裁政権が米国の力を借りてでも鎮圧してくれることを願ったが、ソモサ大統領は亡命し、後に暗殺された。スペンサー氏も国外に去った。
 私はすぐに信越化学の全社員を引き揚げた。幸い、負傷者は一人も出なかった。革金政権は操業再開を何度も求めてきたが、社員の安全を第一に考えて断った。工場を接収されれば保険が下り、かえってよかったのだが、革命政権もそれを知っていて接収しない。もうご自由に、とあきらめた。その後、工場では違う製品をつくり始めたらしい。
 当社としては技術指導料やプラントの輸出、配当などで投資額の3、4倍は回収できた。また事業そのものも成功だったと思う。私自身もそれまでの技術輸出と違い、初めて経営にかかわることができた。後に米国で塩ビ子会社を経営するが、ニカラグアでの経験が大変に役立った。
 もう一つ、カントリー・リスクを実地に学べたことも大きい。10年以上かけて良い会社に育てたのに革命で突然なくなってしまった。不可抗力といえるが、やはりショックだった。この経験は、事業を進める時にカントリー・リスクは絶対に避けねばならないことを私に教えてくれた。本を読んで知ったことと、自ら渦中で体験したこととは、天と地ほどの差がある。

 

米合弁事業 飛ぶ鳥落とす相手先 毎朝4時に起き、営業回り

 1972年秋。海外事業本部長になっていた私はニューヨークを訪れ、ロビンテック社という米国企業と交渉していた。同社は水道管などに使う塩化ビニール製パイプの大手メーカーで、当社の塩ビ技術を買いたいと申し入れてきた。だが、このころの私は技術輸出に疑問を抱き始めていた。
 若いころは世界中で技術を売り歩いてきたし、会社の資金力が乏しい時代には、すぐに収入となる技術輸出も必要だった。ただ製造業にとって技術は生命線であり、できれば売らない方がいい。
 交渉の焦点は技術輸出から合弁生産に移り、73年に折半出資で塩ビ製造・販売のシンテック社を設立し、本社をテキサス州に構えた。当初の出資金額はそれぞれ250万ドルで、翌74年10月に年10万トンで生産を始めた。当時のシンテックは最後発の中小メーカーに過ぎなかった。
 シンテックが操業を始める前まで、合弁相手のロビンテックは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。工場を次々に建設し、相次いで同業他社を買収。上場していたアメリカン証券取引所の人気銘柄でもあり、連日のように出来高上位十傑に顔を出していた。
 ロビンテックの最高経営責任者(CEO)はブラッド・コーベット氏で、シンテックの社長も兼務した。まだ30歳代だったと思うが、精力的に行動する人で、百キロを超す巨体からエネルギーがほとばしるように見えた。
 シンテックのセールスのため、一緒に全米を回ったこともあるが、毎朝4時起きの強行スケジュールが1週間ほど続き、ヘトヘトになった。
 コーベット氏はビジネスの上で重要な相手には派手な歓待をする人でもあった、私も彼のおかげで、当時の日本人ビジネスマンとしては異常ともいうべき体験をした。ある時はチャリティー・パーティーに連れて行かれ、「近代ゴルフの祖」とたたえられたベン・ホーガン氏を紹介された。前日に誘われたのだが、私はタキシードを持っていない。コーベット氏の手配で当日にクリーニング店から借りたが、タキシードを着るのは生まれて初めてだ。紳士・淑女の集う華やかなパーティーが始まってから蝶ネクタイが外れ、ひらひらし始めた。直し方が分からず、全身から冷や汗が出た。
 コーベット氏は私の蝶ネクタイを直してくれた後、ホーガン夫妻に引き合わせてくれた。当時ゴルフに熱中していた私にとって、ホーガン氏は雲の上の人だった。マスターズ、全米オープンなど四大メジャー大会をすべて制覇。交通事故で瀕死の重傷を負いながら、奇跡のカムバックを果たした伝説のゴルファーだ。私は緊張のあまり、何を話したのか覚えていない。
 テキサス州フォートワースクラブで開かれた「マレーネ・ディートリヒを囲む会」に呼んでくれたこともある。映画「嘆きの天使」や「リリー・マルレーン」などの歌で知られる名女優である。
 ディートリヒは気品のある美貌と哀愁を帯びたハスキーボイス、「百万ドルの脚線美」で人気を集めた。その銀幕のスターが目の前にいる。
 彼女は当時既に70歳を超えていたが、「リリー・マルレーン」を歌い始めると会場が静まりかえった。学友に「校歌と軍歌しか知らない」とからかわれた私が、超有名女優の名曲を生で聴くことになるとは思わなかった。

 

豪快なCEO 大リーグ、即座に買収 許可取らずペルー飛行も

 米ロビンテック社のCEO(最高経営責任者)、コーベット氏は自由奔放で何かを思いつくとすぐ実行する人だった。ある日、米大リーグのテキサス・レンジャーズを買収すると宣言し、シンテックにも出資するよう私に了解を求めてきた。ロビンテックの取引先を球場に招待できれば本業にもプラスだから、という。
 シンテックは娯楽産業には無縁だが、コーベット氏は「税制上有利になるから」としきりに勧めてきた。最初は何のことか分からなかったが、出資球団が赤字の場合は損金で落とせるという。ロビンテックは、シンテックが生産する塩化ビニール樹脂の大口得意先の一つでもあった。私は渋々同意した。
 彼がレンジャーズのオーナーになると、私も試合に招待された。本拠地、アーリントン球場の特別席に入ると、電光掲示板に「ウエルカム・ミスター・チヒロ・カナガワ・フロム・ジャパン」と表示され、驚いた。試合終了後は選手全員を紹介され、サイン・ボールをもらった、
 ロビンテックは自家用飛行機を2機所有しており、コーベット氏がある日突然、「ペルーへ行こう」と言い出したこともある。
 私も同乗し、長時間フライトの末にリマの空港に降り立った。そこまではよかったが、事前に着陸許可を取っていなかったので飛行機を一時差し押さえられ、罰金も取られた。今だったらテロリストと間違えられ、撃ち落とされていたかもしれない。
 とにかく、やることなすことが派手だった。ニューヨークで高級レストラン「ルテス」に招待された時のこと。ケネディ米大統領もよく訪れたというフランス料理店に、コーベット氏はガールフレンドらしい美女を3人も連れてきた。皆で1本4、5百ドルもする赤ワインを次々に空け、土産に1本ずつもらって帰った。豪華な接待だと思い、何度もお礼を言って別れた。
 後日、シンテックに請求書が回って来たのには驚いた。土産のワインは人に預けたままで、結局誰かに飲まれてしまった。
 旧制六高で覚えたドイツ語で言えば「シュトゥルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤)。コーベット氏はこの言葉を地で行く人だった。それに比べて、当時の信越化学は地味な会社だった。
 当時のロビンテックには、私がペルーで出会ったトラバー氏が自分の会社と兼務で働いていた。テロリストの銃弾で顔面を撃ち抜かれながら、奇跡的に助かった人物だ。私が「ペルーにいると危ない」と出国を勧め、ロビンテックを紹介したのである。
 そのトラバー氏が私に「信越化学がモタモタしていると、ロビンテックに買収されるよ」と言ったことがある。冗談交じりの口調だったが、私はカチンと来た。その時「今に見ていろ」と信越化学の発展を心に誓った。
 ロビンテックと信越化学の合弁会社であるシンテックが生産を開始した1974年の10月末時点で、信越化学の時価総額はわずか302億円。最高値をつけた今年1月13日の3兆413億円に比べ、100分の1にすぎなかった。
 一方のロビンテックは時価総額こそ信越化学より少し小さかったが、経営のスピードと勢いでは我が社をはるかに上回っていた。トラバー氏は両社の勢いを客観的に見比べていたともいえる。

 

合弁解消 社運かけ株買い取る 融資姿勢、日米の違い痛感

 1973年の第一次石油危機後、塩化ビニール樹脂の価格はうなぎ登りだったが、翌年半ばから反動で急落した。日の出の勢いだった米ロビンテックの経営も急速に悪化した。
 74年10月に信越化学との合弁子会社であるシンテックが操業を開始したが、やがてロビンテックからシンテックヘの塩ビ代金支払いが滞り始めた。ロビンテックは自家用飛行機を2機も所有し、組織を肥大化させるなど放漫経営も目に付いた。そのツケが回ってきたのだろう。
 資金の融資も頼んできたが「ウチは貸金業者じゃない」と断った。75年になると、ロビンテックが信越化学にシンテック株50%の買い取りを求めてきた。そこで、信越化学の取締役になっていた私が交渉の責任者になった。
 当初、ロビンテックが希望した売却金額は当社の購入希望額のほぼ倍に近く、交渉は難航した。まだM&A(企業の合併・買収)の経験がなかった私には未知の世界だったが、弁護士と公認会計士に一つ一つ確かめながら、粘り強く話し合いを続けた。 
 交渉中、コーベットCE0が突然立ち上がり、「我が社は今日の午後、信越化学の銀行口座に買収資金を振り込む。交渉はこれで終わりだ」と叫んだこともあった。一瞬何のことか分からなかったが、「シンテック株をそんなに安く評価するのなら、こちらが逆に買ってもいいぞ」という意味だったらしい。
 交渉の駆け引きだが、私もそんなことでは動じない。ビジネスで世界中を歩き、修羅場をくぐり抜けてきたという自負がある。相手が米国企業であっても「アメリカが何だ。私の相手は世界だ」という思いがあった。
 シンテック株の買い取り交渉は76年に決着した。信越化学の買収金額は1千万ドルで、円換算では約30億円。今見ると小さな金額のようだが、信越化学の当期利益は76年5月期決算で12億7千万円弱にすぎず、当時の我が社にとっては社運をかけた大型買収だった。
 私が交渉をまとめられたのは小田切新太郎社長の支援があったからだ。ロビンテックとの交渉中、信越化学の取締役会では「全額出資は危険だ」と反対する声が大勢だった。「株式の半数は米大手化学メーカーのダウ・ケミカルなどに持ってもらうべきだ」といった意見が多かった。
 平の取締役にすぎない私の経営能力など、ほとんど評価されていなかったと思う。副社長時代から私を買ってくれていた小田切さんはこの時も私を信頼し、大きなリスクを引き受けてくださった。
 シンテックが完全子会社になる時、運転資金を銀行から借りる必要があった。だが日本の銀行はどこも、親会社である信越化学の債務保証がなければ貸せないという。私は保証をつけるのに反対だった。信越化学の取締役会が再びガタガタするのが目に見えていたからである。
 そのころテキサス・コマース銀行のベン・ラブCEOが来日し、小田切さんと私は東京・丸の内のパレスホテルで会った。ラブ氏は小田切さんと私をじっと見つめ「オダギリさんが社長だから信越化学の保証なしで貸しましょう」と言った。この言葉は決して忘れない。日本の銀行は土地などの担保や親会社の保証がないと融資しなかったが、ラブCEOは経営者の力を担保に融資を決断してくれた。

 

盛者必衰の理 提携先の米社が破綻 反面教師、用心深い経営に

 信越化学が米ロビンテックからシンテック株50%を買い取る交渉がまとまり、契約の日取りも決まった。調印式、は1976年7月8日、テキサス州のロビンテック本社で行うことになった。私は東京に連絡して、社長の小田切新太郎さんに訪米をお願いした。
 当日、ロビンテック側は幹部がそろって出迎えでくれた。CEOのコーベット氏は執務室での調印後に小田切さんと握手をしたが、彼の目には光るものがあった。いつも強気で精力的だった人が涙を見せるとは……。虎の子のシンテック株を売らなければいけない。そんな思いが彼を感傷的にさせたのだろう。
 実際、シンテック株の放出はロビンテックの凋落を象徴するかのようだった。拡大路線が裏目に出て坂道を転げ落ちるように経営が悪化。75年の前半まで30ドルを超えていた株価は82年には2ドル強まで下がり、84年末にはとうとう上場廃止に追い込まれた。テキサス・レンジャーズも手放した。その後、ブッシュ米大統領が一時オーナーになっている。
 ロビンテックは日本の民事再生法に当たる米連邦破産法第11条を申請したが、再建できず、破産に追い込まれた。一時は日の出の勢いだった会社が消えると聞いた時、平家物語の一節が脳裏をよぎった。「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」
 もしコーベット氏に一片の東洋の心があったなら、このような結果を招かなかったのではないだろうか。私は極東物産(現三井物産)の管理部で不良債権対策に奔走したことも思い出した。当時倒産した取引先やロビンテックは貴重な反面教師になった。
 経営の規律が緩んだ会社は生き残れない。特に借金が破綻の元だ。私が常に最悪の事態を想定し、用心深く経営に当たるようになったのも、これらの経験が大きい。
 シンテックを完全子会社にしたころに話を戻そう。製品の販売で苦労したが、ロビンテックのナンバー・ツーだったエド・エルジンさんが大いに助けてくれた。資本関係が切れてからもしばらく、ロビンテックはシンテックの大口顧客だったのである。
 エルジンさんのオフィスを訪ねて雑談していると、彼は最後に鉛筆をなめなめ、貨車で数十台分の塩化ビニールの大口注文をくれた。エルジンさんとは夫婦ぐるみで長いお付き合いになった。
 当時の私は経営に自信がなかったから、自分は会長になり、ヘッドハンターが推薦した米国人を社長にした。大企業で中間管理職だった人でプレゼンテーションが上手だった。信越化学の主要幹部全員に紹介したが、すべての人が採用に賛成した。
 しかし、やがて経営方針の食い違いが明白になる。例えば営業担当者の人数。社長は「40人必要だ」と言う。私は驚き、思わず「エーッ」と声を上げた。塩ビは1社の顧客に大量販売する汎用樹脂だから、そんなに人手はいらない。私が「2人で十分だ」と反論すると今度は社長が「エーッ」と目をむいた。
 米国人社長との契約期間は2年だったが、違約金を払って1年で辞めてもらい、78年から私が社長を務めている。最初に社長を雇ったのは私の失敗だが、契約満了を待たず、早めに手を打ったのは正解だったと思う。

 

子会社社長 自ら営業、苦境しのぐ 増設進め、組織はスリム化

 米シンテックでは米国人社長に辞めてもらった後、1978年3月に私自身が社長に就任した。シンテックは私が企画立案して生まれた子会社だ。誰を社長にしようと全責任は文字通り私にある。それなら自分で経営するしかないと覚悟を決めた。
 親会社である信越化学工業の常務と兼任し、1カ月ごとに日米を行き来した。シンテックでは最初から試練の連続だった。第二次石油危機の反動で、塩化ビニール樹脂の需要が急速に落ち込んだのである。特に80、81年が厳しかった。製品が売れなければ工場が止まってしまう。どうなることかと心配で眠れない夜が続いた。米国で多少の人脈を築いていたので、販売担当者と一緒に全米をトップセールスして回った。
 顧客企業から値引き要請があれば社長として交渉し、その場で決定して商談を進めていった。必死の営業努力が実り、最悪期でも何とか黒字を確保できた。レーガン政権の大減税の好影響もあって、87年には業績が急速に回復していった。
 ただ業績好調な時期でも経営者は息を抜けない。売上高や利益を伸ばすには設備を増強する必要があるが、素材産業の場合、小幅の増設は難しく、増設すると一気に生産能力が増えるから製品を売り切るのが大変だ。1年から2年の建設期間中に販売促進のあらゆる努力をするが、実際に売る製品がない間は顧客を確保するのが難しい。その意味で増設は常に大きなリスクヘの挑戦だった。
 最後発企業として年間10万トンの能力で生産を始めたシンテックは、大規模な増設を10回も繰り返した。リスクに挑み続けた結果、10回とも増設が終わった翌日からフル生産ができた。現在の生産能力は約200万トンで世界最大のメーカーに成長した。売上高も昨年2300億円を超えた。
 スリムで強じんな企業体質にすることにも腐心した。現在、シンテックの社員数は約230人だが、うち工場が約210人で営業担当者は8人だけ。また借入金を87年に完済したので、専門の財務担当者はいない。私の秘書を務める米国人女性は、売上代金を回収する仕事も兼務している。品質とコスト競争力を高めるため生産設備には資金を惜しまないが、それ以外は徹底的に合理化した。
 経営陣もシンプルで、長い間シンテックの取締役は3人だけだった。米ダウ・ケミカル元会長のベン・ブランチさんと信越化学の小田切さん、それに私である。
 ブランチさんは71年から75年までダウのCEO(最高経営責任者)を務められ、就任前に比べて純利益を6.2倍、株式時価総額を4倍に拡大させた。ダウを真の世界的な化学メーカーに育てた中興の祖であり、89年にはフィナンシャル・ワールド誌から「過去10年で最も優れたCEO」の1人に選ばれた。
 リストラクチャリングとかリエンジニアリングという言葉が流行していたころ、ブランチさんに「シンテックは最初からリストラされた会社だ」と評価されたことがある。元々、必要最小限の機構と人員で仕事をしているので、不況期にもリストラする必要がないという意味だ。常々、少数精鋭に徹し、それらの人々を大切に処遇することが経営の基本だど考えていただけに、ブランチさんの言葉には勇気づけられた。

 

国内事業再建 原料問題、大きな壁に 訴訟も覚悟で契約を改定

 「君が死ぬほど忙しいのはよく分かっているが、国内の塩ビ事業も立て直してくれないか。会社の存亡がかかっているから」
 小田切新太郎社長にこう言われたのは1982年。私は専務海外事業本部長と米国子会社シンテック社長を兼務していた。さらに塩ビ事業本部長を兼任せよ、という話である。
 これ以上仕事が増えたら大変だと内心思ったが、私を信頼し、次々と大きな事業を任せてくれた小田切社長の依頼である。対象はシンテックと同じ塩化ビニール事業だし、私生活の時間を削って仕事に回せばいい。そう自分に言い聞かせて引き受けた。
 当時の国内塩ビ事業は存続すら危ぶまれる状況だった。第二次オイルショック後の不況で需要が落ち込んだうえ、原料の約5割は原油からつくるエチレンを使っているため、原料高、製品安の二重苦に陥っていた。
 80−82年度は毎年30億−40億円台の赤字が続き、シリコーン樹脂など他事業の黒字を相殺していた。82年度は業界全体で赤字が400億円を超えた。
 原料調達、製造、販売など問題が山積していた。私は「立て直しには3年かかります」と言ったが、小田切社長の答えは「1年くらいで何とかしてほしい」。それほど小田切社長の危機感が強かったのだろう。
 原料面では「優先塩素」の問題があった。塩ビの原料はエチレンと塩素である。当社は茨城県の鹿島で三菱油化(現三菱化学)、旭硝子、鐘淵化学工業(現カネカ)、旭電化工業(現ADEKA)と化学コンビナートを形成し、共同出資会社で塩素を生産していた。塩素は各社が一定量を引き取った後、残った分を当社が優先的に引き取る契約になっていた。
 この契約は当初、信越化学に有利な「権利」だったが、当時は不利な「義務」になっていた。鹿島の塩素を使うより、海外からエチレンと塩素でつくった塩ビの中間原料を輸入する方が安くなっていたのである。私は「契約締結時と今とでは原油相場など経済環境が激変している」と主張し、見直しを求めた。
 だが他社は「一度決めた契約は守るべきだ」と反対し、交渉は暗礁に乗り上げた。
 私は難局打開のために契約改定案を練るとともに、鹿島で原料を調達できなくなり、生産が停止する最悪の事態も想定し、米国から原料や塩ビ製品を輸入する準備も進めた。何があっても顧客企業には迷惑をかけられないからだ。万一の場合も考え、訴訟対策も怠らなかった。小田切社長も私を連れて主要な取引金融機関を訪間し、当社の方針を説明してくださった。
 万全の準備を整えてから契約改定案を他社に届け、優先塩素の引き取りを辞退する意思を伝えた。他社も我々の並々ならぬ決意と準備を察したのだろう。当社の主張に耳を傾ける姿勢に転じ、引き取り義務解消に合意していただいた。他社の社長、役員の御協力に今でも感謝している。
 なかでも三菱油化の吉田正樹社長にはお世話になった。吉田氏は通産官僚出身だが、役人的なところが全くないフェアな人で、個人的にも親しくしてくださった。93年に亡くなられた時、私は米国にいて葬儀に参列できなかったが、帰国してからご自宅にお邪魔し、お線香を上げさせていただいた。

 

工場再編 反発押し切り大なた 黒字化へ土日返上で指揮

 国内塩化ビニール事業の立て直しでは、工場閉鎖にも踏み込んだ。山口県の南陽工場の設備を廃棄して閉鎖し、生産拠点を茨城県の鹿島工場に統合したのである。
 南陽工場は生産能力が小さいうえ、立地的な問題も多く、製造拠点としての戦略性が全くなかった。「雇用確保」を理由に反対する幹部もいたが、事業が成り立たなければ雇用の維持もあり得ない。むろん雇用を軽視したわけではなく、南陽にいた従業員のほとんどは鹿島などへ配置転換し、解雇も希望退職の募集もしなかった。
 優先塩素や工場閉鎖の問題では社内外に反対勢力が多かったが、常に背水の陣で取り組んでいた。
 販売や物流にも問題が多かった。例えば鹿島工場から大阪周辺まで塩ビを輸送すると、1キロ当たり約15円の運賃がかかった。だが首都圏など鹿島工場に近い地域なら5円以内で済む。そこで不況カルテルの一環として共販会社を設立していた同業他社と交渉し、需要家を相互に振り替えるなどして、出荷先をできる限り関東に集中させた。
 国内の塩ビ事業再建では、小柳俊一君、須田哲雄君が大きな貢献をしてくれた。小柳君は主として製造プロセスの改良により、塩ビ事業を再建した立役者だ。須田君も経費削減に献身的に尽くしてくれた。須田君は運賃を減らすため、例えばトラックに積んだ塩ビの袋を足で踏みつけて小さくし、少しでも多く運ばせようとした。そこまでしてくれるのかと感激した。後に小柳君は当社の副社長、須田君は信越半導体の常務を務めたが、惜しくも近年亡くなってしまった。
 総指揮を執った私や彼らは土日返上で働いた。あらゆる面から事業をテコ入れした結果、経済情勢の好転も手伝って収支が改善した。再建に着手してから1年半後の1983年11月中間期には黒字転換した。
 85年5月期以降も20億円、27億円、31億円と黒字が続いた。米国の塩ビ子会社、シンテックも80年代後半から業績が好転していたから、このころに塩ビ事業の基盤が固まった。
 83年8月、小田切新太郎社長は会長に就任し、創業家の小坂雄太郎専務が社長に昇格した。私も専務から副社長に昇格した。副社長時代の後半、日本経済はバブル期に突入していった。私は米ロビンテックの栄枯盛衰をこの目で見ていたから、ブームに乗ることの危うさを痛感している。
 コーポレートアイデンティティー(企業イメージの統一、CI)も流行語となり、当社も88年から実施した。私は副社長として反対したが、却下された。関係費用に総額40数億円をかけてオートバイレースのスポンサーになったり、天気予報の番組で社名を連呼したりした。
 企業イメージ向上は必要だが、製造業としてもっと有効に資金や時間を使うべきだった。40数億円もあれば、建物だけなら立派な研究所が2つできる。ブームにあおられるとろくなことはない。経営には経営の本道がある。
 社長に就任してからは、この種の費用は切り捨て、研究開発や国内外の事業の発展に投資を集中した。その結果、業績の急上昇に伴い、自然に新聞や雑誌など多くの媒体に取り上げられ、会社の知名度は今では当時に比べ数十倍に向上していると思う。

 

社長就任 まず新卒採用を凍結 バブル横目に経営手堅く

 バブル経済期の1980年代後半には、M&A(企業の合併・買収)もブームになった。だが拡大路線で破綻した米ロビンテックの教訓を忘れるわけにはいかない。証券会社などから盛んに企業買収を勧められたが、条件が合わず、すべてお断りした。
 1990年8月、小坂雄太郎社長が急逝し、筆頭副社長だった私が社長に昇格した。バブル崩壊の年に急きょ、トップの重責を担う巡り合わせになった。
 社長として何をすべきか。しばらく考えたが、シンテックで長く社長を務めた私の目には、経営効率の点で信越化学がかなり遅れているまうに見えた。一気に変えたいと思ったが、私が性急に革命を起こすと社内で反革命が起こりかねない。今やっている事を頭から否定はせず、時間をかけて変えることにした。
 最初に大きく変えたのは新卒採用だ。社長就任前は600人前後を採用していたが、思い切ってほぼゼロにした。副社長時代も「仕事が増えないのに定期的に人員を増やす慣行はおかしい」と意見を述べていたが、通らなかった。
 採用計画をつくる時、各部門には「他部門並みに人を採りたい」という横並び意識が働く。人事部にも他社との横並び意識があり、集計した数字を少し削る程度で終わってしまいがちだ。
 昔から、仕事がないのにどうやって定年まで雇用するつもりなのか、不思議でならなかった。私は今でも「人を増やすのはいいが、最初に新規の事業を立ち上げなさい」と話す。すると大抵できない。仕事のない社員を採用したら、結局は整理せざるを得ず、会社も社員も不幸になる。
 社長に就任して問もなく、ビジネスホテルを建設する計画への了承を求められた。場所は福井県の武生工場の近くだという。担当者は「事務系の幹部全員が賛成しています」と説明した。予算は約80億円。バブルの勢い衰えないなかで、土地さえあれば儲かる、という風潮に踊らされていたようだ。
 当社の製品でも生産技術や品質、マーケティングなどで特殊性があり、その事業で勝てるという確信がもてない投資はしない。当社は素材メーカーであり、ホテルについてのノウハウはなく、運営する人もいない。しかも田舎の寂れた場所である。もし付近に一流ホテルでも進出してきたら、ひとたまりもない。
 私の判断が間違っていないか、念のため旧制六高の先輩で、パレスホテル専務を務められた伊藤大準氏の意見を伺った。「10年間は利益が出ないだろう」とのこと。早速、この計画を却下した。
 もし了承していれば何年も赤字を垂れ流し、最後は閉鎖に追い込まれただろう。「ダメだ」の一言で数百億円の赤字を免れたと思う。
 財務部門に約20人の社員がいたので、部門長に「2人くらいで済むのではないか」と尋ねたこともある。「取引銀行の数が多いので無理です」と答えたので、私は「銀行の数を減らせばいいではないか」と言った。
 会社の仕事は「他社もそうしている」「以前もそうだった」といった理由で進められがちだが、まず惰性を振り切り、原点に戻って考えることが必要だろう。「何かおかしい」と感じ、「ではどうすベきか」と考えることが発展につながる。おかしいと感じなくなったら、もうおしまいだ。

 

社内改革 委員会作り事業育成 「毎日経済人賞」受け励みに

 社長に就任してから会議のムダも省いていった。取締役会は月2回から1回に減らし、1回当たりの時間もほぼ半分にした。全社的に会議の時間は3分の1以下に短縮されたと思う。
 重要事項を決める前には、案件ごとに豊富な専門知識をもった少数の役員、顧問、社員などを集め、私と具体的、かつ徹底的に議論する。会社に評論家はいらない。
 新規事業を育成するために、私が委員長となって「Z委員会」というプロジェクト・チームもつくった。研究所や工場、営業部門から委員を集めて10のテーマを選び、研究開発を進めた。
 この中で成功したのが、半導体製造に使う感光性樹脂のフォトレジストだ。最後発だったが、あえて最先端のエキシマレーザー用の高解像品に挑戦した。1992年に研究開発を始めて98年に本格生産し、一時は世界シェアの約4割を押さえた。Z委員会が選んだ10テーマの成功率は現時点で2割、もう一つ伸びれば3割というところか。
 ただ、事業化まで研究者に委ねたのは失敗だった。研究段階は任せていいのだが、事業化するには経営のセンスが不可欠だ。研究と事業化は、サナギとチョウほどの違いがある。こうした反省を踏まえ、2000年からは「ニューZ委員会」と改称し、テーマ設定や事業化についても私がより深く関与している。
 このほか、合理化委員会や資金効率化委員会などをつくって様々な社内改革を実践し、今も続けている。改革の初期段階で励みになったのが、1993年の「毎日経済人賞」受賞である。毎日新聞社が創設した権威ある賞だ。まだ最高益更新の連続記録が始まる前だったが、「国際的な視野に立って積極的な事業展開を推進。特に塩化ビニールでは、米国子会社の生産能力増強で世界シェアをトップに押し上げた」と評価してもらった。
 贈呈式で「これで業績が悪くなったら、皆様にあわせる顔がございません」とあいさつした。会場からワーッと笑い声が上がったが、本心である。初めての賞でうれしかったし、賞の権威を辱めてはならないとの思いが、その後の好業績の原動力となった。
 受資パーティーでは、ダウ・ケミカル日本元社長のロバート・べーカー氏、小坂善太郎氏とともに写真に収まった。べーカー氏とは1969年に米マイアミでお会いし、ニカラグアの塩ビ合弁会社の原料をダウから調達することで合意した。以後、ダウと信越化学の取引は30年を超す歴史を刻んだ。マイアミではローストビーフやキューバ料理をごちそうになり、お付き合いは今日まで続いている。
 べーカー氏は良きアメリカ人の典型で、私の親友中の親友だ。在日米国商工会議所会頭も務め、日米の文化交流に貢献された。ゴルフの腕前はプロ級で、20年も続けながら100を切れず、嫌になってやめた私とは大違いである。
 日本の真の理解者だったべーカー氏は外相を務められた小坂善太郎氏とも親しかった。創業家の嫡男である善太郎氏には取締役相談役になっていただいた。役員会では「環境基本憲章」の発想を示され、今も当社はその理念を大切にしている。善太郎氏の小田切元社長への信頼は厚く、お二人で私の経営を支えてくださった。

 

相場観 IT需要、速攻で利益 新工場、半年で完成させる

 出社は毎日朝7時半。まず信越化学や主要子会社の仕事を終え、米シンテック社の仕事に取りかかる。本社のあるヒューストンは前日の夕刻だ。ファクスで送られてくる1日の全重要事項に目を通す。電話で現地の幹部と経営課題を具体的に議論し、結論を出す。約30年間欠かさない日課である。
 塩ビ事業では相場変動を読むのが難しい。一例だが、私は塩ビを出荷する貨車の「動き」に注目している。月の前半に出荷が集中する時はいいが、月末近くにバタバタと出ていく時は要注意だ。需要家の調達意欲が落ちている“信号”であることが多い。
 大口需要家が購入量を増減させた時も大きなヒントが潜んでいる。得意先の「生の声」を必ず報告させ、それが大きな潮流になるのか、一時的な変化なのか、その場で分析して対策を講じる。
 塩ビに限らず、経営には相場観とスピードが不可欠だ。1998年、光ファイバーの素材となる合成石英プリフォームのブームを予想し、陣頭指揮を執った。まず販売の方法を変えた。例えば米国では当社と代理店の営業マン5、6人に退いてもらい、1人の米国人に代えた。彼に短期集中研修を受けさせてから顧客を直接訪問させた結果、当時の研究所長から情報の量と速度が10倍になったと言われた。
 2000年にはIT(情報技術)ブームが絶頂期を迎える。当社にも「1キログラムでもいいからすぐ出荷してほしい」と顧客の要請が殺到した。直ちに緊急会議を招集し、その場で二百数十億円の新工場建設を決断した。
 建設には普通約2年かかるが「ガダルカナルを思い出せ」と言い、1年以内に完成させるよう建設責任者に指示した。ガダルカナル島の戦いでは、空港建設の遅れが日本軍壊滅の一因になった。事業でも商機を逃せば敗北する。関係者の獅子奮迅の働きにより、何と約6カ月で茨城県に最新鋭工場の一部が完成した。奇跡的な工事期間の短さは、今でも鹿島コンビナートで語り草になっている。
 一方、ITブームがいずれ冷めることも確信していた。そこで長期の製品引き取りの確約を全顧客に求め、了解を得た。攻めと同時に守りを固めたのである。
 この結果、プリフォーム事業は3年半で投資額の2倍の利益をもたらした。その後、光ファイバー市場は予想通り崩壊。米コーニングなどの大企業も巨額の赤字を計上した。当社のプリフォーム事業は現在まで赤字を計上したことはない。
 金融市場の動向も注視している。96年半ば、金利が上がる可能性もあったので財務担当の金児昭常務を呼び、急きょ社債発行計画をつくってもらった。主幹事証券だった日興証券の梅村正司会長には「計画を前倒しできないなら発行をやめます」と発行手続きの短縮をお願いした。日興などの協力で当初予定より1カ月も早く転換社債などを発行、約1千億円を非常に有利な条件で調達できた。
 調達資金は半導体シリコンなど国内外の主要事業にフル活用した。その後株価も大幅に上昇し、社債の引受人や購入者などすべての関係者に満足していただけたと思う。
 様々なリスクに挑戦して迅速に決断する経営を続けた結果、当社の手持ち資金は現在約5千億円になった。この資金を次の発展に使いたい。

 

M&A 豪企業CEOを更迭 米工場、買収後に廃棄決断

 1996年、資源・エネルギー不足時代が来るのではないかとの不安を感じ、豪州の金属シリコン会社シムコアをドイツ銀行から約60億円で買収した。鉱山でケイ石を採掘し、金属ケイ素を生産する会社だ。
 半導体シリコン、シリコーン樹脂、光ファイバー用合成石英プリフォームなど、当社の主要商品は金属シリコンを基礎原料として使っている。何らかの理由で原料が不足するリスクに備えた投資だった。この買収により、良質なケイ石の約50年の採掘権も手に入れた。
 ただ買収後に問題が起きた。私が人員削減などの合理化を指示しても、現地人の最高経営責任者(CEO)が応じなかったからだ。そのCEOは「従業員がストライキを打ちそうだ」と言ってきたが、人員削減を避ける口実だった。私は「ストをやりたいなら半年でも1年でもやらせておけばいい」と答えた。
 「豪日の国際問題になる」と脅してきたこともあったが、「もしそんな問題が起きたら私が解決する」と言い返した。株主代表として、経営再建のために正当な要求をしているとの信念があった。
 結局、全役員を入れ替えて米シンテックのアーヴィン・シュレーダー副社長をシムコア社長に据えた。あの時、一瞬でも脅しに屈したらシムコアを立て直せなかっただろう。経営は試練の連続だ。
 M&A(企業の合併・買収)は原則として、当社の事業に関係する企業を対象にしている。他社の経営資源を取り込むことで「時間を買う」経営手法である。
 99年にはオランダの塩化ビニール会社を、2003年にはドイツのセルロース誘導体事業を買収した。いずれも事前調査で、既存事業との相乗効果や買収後の事業運営を注意深く検討していたので、信越グループ入り直後から連結決算に貢献している。
 02年2月には米化学会社ボーデンケミカルから、ルイジアナ州の塩ビ工場を約50億円で買収した。ボーデンは前年に経営破綻した企業だが、顧客を引き継げるメリットがあると判断した。
 ただ、その工場は20年以上経った設備を使っていた。「操業に支障はないか。何でも正直に言いなさい」とエンジニアに尋ねると「多少の危険はあります」と言う。「分かった」。直ちに工場を廃棄処分にすることを決めた。
 化学工場は1回でも事故を起こせば致命的な打撃を受ける。今回の買収では、商権を手に入れただけで投資の成果は十分に上がった。避けられるリスクはスパッと断ち切り、他の事業や投資で何倍も利益を上げた方がいい。
 自動車部品などに使うシリコーン樹脂の事業では、米ゼネラル・エレクトリック(GE)とアジアで中間原料を合弁生産することになった。3カ国が候補地として挙がったが、私は中国はカントリーリスクが大きく、マレーシアもマハティール首相退陣後の政治経済が不透明なうえ、人材の確保も難しいから、タイがいいと思っていた。
 2000年9月、GEのジャック・ウェルチ会長が来日し、当社を訪問された。生産地はどこがいいかと尋ねると、即座にタイだと言われた。事前の打ち合わせは全くしてかったが、理由もほぼ同じだった。ああ、考え方が似ていると思った。最も尊敬している経営者と意見が一致したので、うれしくなった。

 

塩ビ環境問題 業界あげて広報活動 米では念願の一貫生産へ

 1990年代後半には、国内外で塩化ビニールに対する環境保護団体の圧力が強まった。塩ビを燃やすとダイオキシンが発生するという声が高まり、業界をあげて科学的に反論する必要があった。1998年、三井物産副社長の渡辺五郎氏と、通産省基礎産業局長の作田頴治氏から何度も強く要請され、塩ビ工業・環境協会の会長に就任した。私は塩ビへの誤解を解くため、マスコミや国、地方自治体などを訪問した。
 塩ビの製造工程で出るダイオキシンの量は、金属製錬時に比べてはるかに少ない。都市ゴミに含まれる塩ビの割合も1%に満たない。物性、加工性、経済性に優れ、木材の代わりに使われることなどから環境にも優しい。
 同協会では副会長として鐘淵化学工業(現カネカ)の古田武氏、東ソーの田代円氏、東亜合成の専田彬氏の3社長が私を支えて下さった。同協会が努力を続けた結果、今日の日本では塩ビヘの誤解は様変わりに減っている。
 米シンテックが96年にルイジアナ州で塩ビの新工場建設計画を発表した後も、グリーンピースなどが理不尽な反対運動を起こした。しかし我々は米国の環境規則を満たし、州からも必要な許可をすべて得ていたので、最後まで原料から一貫生産する建設計画を進める方針だった。
 だが長年取引している米ダウ・ケミカルも当社への原料供給を増やす計画を立てていた。そこでトップ同士で話し合い、二重投資を避けて双方が満足できる契約内容で合意に至ったため、この時は一貫生産を見送ったのである。
 こうした経緯を元ダウ社長でシンテック取締役を務められたブランチ氏に話すと、一言「ノー・フューチャー」。そろそろ原料をつくらないと将来性がないという。「エッ」と言葉に詰まった。
 尊敬する人物の言葉だけにずっと頭にこびりついていたが、まず2000年に塩ビ新工場をルイジアナ州に建設し、ダウから原料供給を受けながら設備増強を続けた。
 しかし04年12月、再び原料からの一貫生産計画を発表した。ダウが米国では原料の増産をしないと決めたからだ。現在、念願を果たす工事が進んでおり、これでよかったと思っている。
 04年12月には最先端の300ミリ半導体シリコンウエハーの増産計画も発表した。地震など万が一の天災に備えて日米両国で生産し、リスク分散を図るものだ。塩ビと半導体シリコンで、それぞれ第一段階で1千億円を超す大型投資であり、リスクが大きいと懸念する人もいたが、私は証券アナリストたちに「一番安全な投資です」と説明した。2つの事業については当社が世界で一番詳しいと考えているからである。
 ここで、旧制六高の同窓生と今も続く交流に少し触れたい。私が一年生の時に同部屋だった村上久氏は千葉地検検事正、日本公証人連合会会長を歴任し、岡田洋之氏は徳島弁護士会会長を務めた。原井龍一郎氏は現在、きっかわ法律事務所代表パートナーである。また南寮には後に一級建築士となった宍道恒信氏がいて、我が家の設計をすべてお願いした。
 村上氏と大和証券副社長を務めた細井幸夫氏、六高から慶応大学を経て山水海運社長を長く務めた増田晴男氏の3人とは、夫婦ぐるみで定期的な会合を続けている。

 

運命共同体 従業員の貢献に感謝 初孫の健やかな成長祈る

 今月15日、当社は2006年3月期の連結決算を発表した。売上高は1兆円を超え、経常利益は1850億円になった。また純利益は1150億円と、11期連続で過去最高を更新することができた。今期予想も増益を見込んだ数字を発表した。
 私は会社の売上高と利益を伸ばし、株主や従業員の期待に応えるべく全力で経営に取り組んできた。しかし、株主からの期待は年々高まっている。世界には規模が大きく、優れた研究開発力、技術、製品をもち、信越化学が到底及ばない超優良企業がたくさんある。今後も当社をさらに強化し、世界の超一流会社を目指していきたい。
 会社はそこで働く人たちの力で成り立っている。幸い当社の従業員はまじめで、研究・製造・営業の三位一体で力を合わせ、事業に取り組んでくれている。私はほぼ毎月開かれる労働組合との話し合いを楽しみにしており、どんなに忙しくても出席する。高橋義光委員長をはじめ、組合の幹部が驚くほど経営をよく理解し、会社を発展させるために熱心に取り組んでくれているからだ。
 昨年9月、大型ハリケーン「リタ」が米国を襲った。予報ではメキシコ湾岸にあるシンテック社の工場を直撃する可能性があり、全従業員に避難命令が出た。しかし、後で分かったことだが、米国人を中心とした従業員39人が巡回点検のため、自主的に構内の待避所に残って工場を守ってくれた。私はこの話を聞いて大変感激し、自ら一人ひとりに感謝状を書いた。
 日米でのこれらの例は、従業員が運命共同体としての会社の成長を願い、献身的に日々の業務に取り組んでいる証しだと思う。従業員の考え方がここまで変わってきたことを心底うれしく思う。
 最後に家族への思いを記したい。亡き父は人生の岐路に立つ私を何度も目に見えぬ力で助けてくれた。101歳で亡くなった母からは長寿の遺伝子を授かったようだ。
 健康の大切さは二十代の時に患った結核で嫌というほど味わった。朝晩の体操も習慣になった。健康でなければ正しい経営判断を下せない。私の健康法は睡眠でいつでも疲れたら眠るようにしている。社内の冗長な会議では安らかに眠らせてもらっている。
 妻や子どもたちには満足なことをしてあげられず、申し訳なく思っている。1960−80年代、度重なる海外出張でほとんど日本にいなかったため、家族には随分と寂しい思いをさせてしまった。私が会社の仕事に没頭できたのは、妻が留守を守ってくれていたからこそである。妻には感謝の思いでいっぱいだ。
 幸い、長女の洋子、長男の信一郎はともに健康に恵まれて成長した。信一郎には昨年、長男の拓矢が生まれた。私にとって初孫であり、孫の顔を見るたび癒やされる。
 信一郎には拓矢に贈る言葉を頼まれた。面映ゆかったが「健全な心身を養い、真善美を追求し、常に人生の王道を歩んでほしい」と色紙に認めて贈った。心身ともに健やかで真っすぐ生きてくれることが一番の願いである。
 これからも経営者としての戦いは続くが、家族に対してはできる限りのことをしたいと思っている。


金川千尋 毎日が自分との戦い 私の実践経営論


経営力の差が収益に反映する

 すでに述べたように塩ビは、物性、加工性、経済性に優れた素材である。経済性について考えると、オイルショックで何度も石油やガスの価格が高騰したが、塩ビの原料は約5割が塩素だから、他の石油化学製品に比べて原油価格高騰の影響は少ない。
 環境問題にしても、建築材料として容易に塩ビに代わるものはない。塩ビをやめて木材を使うといっても、木をむやみに切れば森林が破壊され、洪水や地球温暖化の原因になる。このように長期的、総合的に塩ビの特性を判断し、投資を続けてきたのである。
 とはいえ、塩ビ事業を手掛けた同業他社が、当社のような利益を上げたわけではない。「信越化学は製造プロセスが優れているから」という解説もあるが、これもおかしい。
 当社は1970年代、塩ビの製造技術のライセンスを米国のファイアストンやテネコ・ケミカルズに供与したが、両社ともうまくいかなかった。
テネコは、塩ビ事業をオキシデンタルに売却した。ファイアストンは、塩ビ事業をボーデンケミカルに売却したが、そのボーデンも当社の製造技術を生かせなかった。その後ボーデンは、米連邦破産法第11条の適用申請に追い込まれ、工場を当社が買収することになった。
 同じ技術を使っているのだから、技術力が優れているというだけでは説明がつかない。結局、経営の違いというしかない。研究開発、製造、販売、調達、財務など、あらゆる要素に目配りをした経営力の差が収益に反映されていると考える。

正しくは、
テネコは、塩ビ事業をオキシデンタルに売却した。ファイアストンも塩ビ事業をオキシデンタルに売却した。
オキシデンタルはテネコの塩ビ事業の買収の条件として、ファイアストンから買収した工場をボーデンケミカルに売却した。

そのボーデンも当社の製造技術を生かせなかった。その後ボーデンは、米連邦破産法第11条の適用申請に追い込まれ、工場を当社が買収することになった。(工場は廃棄、商権を利用した)

 

信越化学の技術・製造プラントは、その製品とともに海外でも高い評価を受けています。
これまで信越化学では、各国のさまざまなニーズにあわせて、28カ国82件の技術・製造プラント輸出を行ってきました。ノンスケール剤による重合技術は、シンエツニューPVCプロセスとして、世界各地で高品質の製品を生産しています。


1971年に入ると海外事業は新しい展開をみせた。鹿島工場で順調な操業を開始した塩化ビニルの新重合技術が内外で注目され、その先進国向け輸出が相次いで実現したからである。

1971年7月、塩化ビニルの新技術をスウェーデンのケマノルドおよびスイスのロンザに供与した。
これに続いて1973年4月、米国のテネコ・ケミカルズと契約し、その後ハンガリーのケモコンプレックス、ポーランドのポリメックス・セコプ向け技術輸出の成約に連なる。
テネコ・ケミカルズは米国の塩ビ可塑剤、安定剤の代表的なメーカーである。同社は新技術で塩化ビニル年産14万トン、単一では米国最大の設備を建設する計画であった。

これらの契約に際し当社は、新技術が次のような特色を持つ最も優れた技術であることを明らかにした。
@従来のプロセスにみられる重合槽内面へのスケール付着がなく、運転要員を大幅に削減できるほか品質が向上する
Aコンピューター制御による完全自動化システムを採用している
B大型化したプラントの安全面への配慮が十分行われている
C製品品質が優れ、特に透明製品ではフィッシュアイが少ない。

1977年3月には、米国のファイヤストンタイヤ&ラバーに技術を輸出、同社は年産10万トン設備を建設することになった。

Firestone はAddis, LA に10万トン設備を建設。
Firestoneは塩ビ事業を1980年にOxyChem に売却した。

Addis, LA 信越技術

Pottstown, PA

The site was the location of aircraft engine manufacturing before and during World War II, tire and PVC resin manufacturing by Firestone Tire and Rubber Company (now Bridgestone/Firestone Inc.) from 1945 to 1980, and PVC resin manufacturing by OxyChem from 1980 until January 2005. EPA testing has confirmed that groundwater at the site is contaminated by volatile organic compounds, including trichloroethylene (TCE) and vinyl chloride from former manufacturing operations.

Occidental Chemical Corp. is closing its dispersion PVC plant in Pottstown, Pa., in a move that will eliminate 220 jobs.

The 60-year-old plant was set to close Jan. 15
,2005, according to Jan Sieving, a spokeswoman for Dallas-based OxyChem. The business no longer is profitable, because of the plant's age and because of competition from foreign firms, Sieving said.

The facility makes specialty PVC resins for use in wall coverings, flooring and coatings. OxyChem has owned the site since 1980, when it was purchased from Firestone Tire

Perryville, Maryland

The entire property was utilized for agricultural purposes until 1966 when it was purchased by Firestone Plastics, who developed 43 acres of this 125.6 acres of land by constructing a PVC resin manufacturing facility and a compounding facility. Plant operations began in 1968 with the production of suspension resins and, in 1975, the plant was expanded to include emulsion resin production. In 1977, the compounding facility was closed. Occidental Chemical Corporation (OxyChem), formerly named
Hooker Chemical, purchased the entire property in December 1980. All plant operations ceased in June 1982.

* In 1968, Oxy entered the chemical business with the acquisition of Hooker Chemicals. Today Oxy Chemical Corporation (OxyChem) is a leading chemical manufacturer with interests in basic chemicals, vinyls and performance chemical products.

 

TennecoはPasadenaTXに312千トン、BurlingtonNJ68千トンのプラントを有していた。

The Pasadena PVC Site facility is located on 175 acres adjacent to the Houston Ship Channel in a predominately industrial area. The facility produces ployvinyl chloride (PVC) resin. Tenneco Chemicals constructed a five-reactor PVC plant in 1975. This plant was expanded to eight reactors in 1978 and to ten reactors in 1979.
In 1986, OxyChem purchased the to twelve reactors in 1990 with an annual production capacity of 1.25 billion pounds of PVC resin in 1997 with the addition of two more reactors and a finishing train.

1986年にTennecoは塩ビ事業をOxyChemに売却した。

FTCは競争制限とみなし、Pasadena, TXとBurlington, NJのプラントの売却を命じた。
FTCは1992年にPasadena, TXの代わりにAddis, Louisianaプラントの売却を命じた。

19955、Borden Chemicals & Plastics は104.3百万ドルでAddis 工場(能力227千トンになっていた)を買収した。

BurlingtonNJ Ozite Corporation(Colorite)に売却した。

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Firestone (Addis, LA) →OxyChem →Borden (倒産)→ Shintech (プラント廃棄)

Tenneco(Padadena,TX) →OxyChem→Oxy Vinyls