石油化学新聞 栂野棟彦主幹

 「昭和を彩った日本の石油化学」から 住友化学部分(連載100〜106)

                                   参考 他社(要旨)    

 

新事業への胎動

 昭和30年(1955)は日本経済にとって記念すべき年であり、同時に化学工業界においてもいろいろと記憶されるべきことが数多くあった。
 20年代の復興経済に別れを告げ、成長期を迎えた日本経済はこの年の半ばからいきなり2年半の長きにわたって「神武景気」と呼ばれる空前の好景気の下に身をさらした。それはあたかも経済の自立を達成したのではないかと錯覚するほどのものであった。

神武景気と通貨単位
 その背景は輸出ブームと国内消費の急速な増大であった。とくに輸出製品の太宗とされてきた繊維製品を抜いて、初めて鉄鋼や船舶など重工業製品が輸出の王座を占めた。
 30年代の経済成長率は9%、国際収支は5億ドルの黒字であった。いまから思えばたった5億ドルの黒字で日本中が沸き返るような好景気になったという。これはウソのようなホントの話である。
 中でもこの年の前、すなわち昭和29年(1964)1月1日付でそれまでの「銭」単位通貨の流通が禁止され、同時に銭単位の債務を処理する法律が施行された。この結果、50銭を境に四捨五入が行われ、「円」が流通通貨の基準単位となったことが、景気を多少インフレの方向へ引っ張ったのではないかとみる向きもあった。
 化学工業界ではようやく石油化学事業に取り組む企業が多くなってきた。とくに三井化学のチーグラー・ポリエチレンの特許権買い付けの話が有力化学企業の事業欲をかきたてつつあった。
 チーグラー・ポリエチレンの技術導入を政府に申請した三井化学はその企業化の具体策としてさきに通産省から示唆された三井グループによる本格的な石油化学事業への取り組み方について模索しはじめた。この動きは“旧財閥の復活であり、国際的にどのような反応が起こるか”といった懸念を表明する経済エコノミストも多かった。
 同じ旧財閥系企業である三菱化成を中心とした石油化学事業をめぐる計画もようやく表面化しつつあった。具体的計画としてはこの年の2月に「三菱化成が三菱・シェル石油化学計画」を当局に提出した。
 石油企業の中では丸善石油がわが国初の国産技術で第二級ブタノールとメチルエチルケトン(MEK)の事業化を推進していた。また、日本石油も石油精製時に副生するプロピレンを利用してイソプロパノールとアセトンの事業化を計画しつつあったことは特記しておかなければならない。このほか三菱石油は粗留ガソリンから芳香族を製造する計画を当局に説明した。
 中でも関心を呼んだのはゴムの国内需要が1万5千トンしかないのに三菱化成、山陽化学(現協和発酵)と日本ゼオンがいずれも年産1万5千トンの合成ゴム国産化計画を打ち上げたことで、世人は早くも通産省の行政手腕に注目した。
 このように石油化学という新しい事業に対する化学と石油、両業界がいろいろな対応を見せ始めたことは日本経済が徐々に勢いに乗る前兆といってよかった。

コスト競争力維持
 石油化学のような新しい事業への胎動を孕んで動いていたのは主に東京に本社を置く化学企業であったが、関西に本社を置く企業の中でもとくに注目されていたのは、三井、三菱と並ぶ戦前の財閥系化学企業である住友化学である。
 住友は財閥の形成過程から世間一般の評価として自給自足体制、いわゆる“アウタルキー”的企業集団と評されてきた。それは「一業一社」という事業体制によく現れていた。また、戦前の住友合資というホールディング・カンパニーがそれぞれの事業の責任者を物心両面から支えていたことが大きく与って力あったということもできよう。
 この住友系企業集団の中で化学事業を主宰する住友化学社長
土井正治は早くから石油化学事業の帰趨に目を凝らしていた。
 土井の胸中にあったのは石油化学事業は住友としても落としてはならない新事業だが、それ以上に現在、住友化学の主力事業である化学肥料の市場シェアとそのコスト競争力をいかに維持するか、これをやり損なったら住友化学の経営基盤が損なわれるというほど重要な課題であった。
 とくに、化学肥料業界のトップメーカーである東洋高圧との差をいかに縮めるかに腐心していた土井としては石油化学事業に進出する意欲を全くみせない東圧の動きに不気味なものを感じていた。
 昭和29年(1954)から翌年にかけての東圧のアンモニア生産能力は硫安換算で約69万1千トンであり、住友は同系の別府化学を含めても47万8500トンと二位とはいいながらかなり水が開いていた。この能力差は3年後に13万トン前後まで縮まるが、コスト競争力では一歩も引かないという決意が土井のアンモニア事業の合理化意欲をかきたてていた。
 この土井の意欲を下から支えていたのは当時、取締役経理部長の
長谷川周重である。
 住友化学の経理部というのはその頃の企業が組織していた経理部とはかなり内容が異なっていた。長谷川が統轄する経理部は本来の会計業務を遂行していたのはもちろんだが、そのほかに財務課があり、その上企画課まで擁していた。経理部が企画課を抱えていたのは事業を企画すれば当然、その具体化にあたって資金計画の裏打ちが必要であり、資金の見通しがない事業計画などは所詮、絵に描いた餅、ということになるから長谷川の社内における発言力は大きかった。
 長谷川の経理部が全社の合理化計画や新規事業計画について査定するという権限を持っていたため、自然発生的に新しい事業を推進しようとする者はどうしても長谷川と意見を調整しなければならないという仕組みになっていた。といっても長谷川がとりたてて社内で権勢を誇ったり、威張っていたという話ではない。それよりもむしろ長谷川は若手の意見を積極的に取り上げ、合理化投資の効率的な推進を図った。
 
高ポリ事業への執念

 アンモニア業界の合理化計画は昭和28年(1953)に通産省が明らかにした硫安合理化5ヵ年計画に沿って各社とも一斉に検討をはじめ、住友化学も常務取締役正井省三と新居浜工場長大隈改介、同次長塩谷二郎らがその具体的な計画の立案に着手した。

難問の原料ガス
 そこでまとめられた合理化計画は@硫安用尿素の増強A西独コッパース式粉炭ガス化設備の新設Bコンプレッサーの蒸気駆動からの電動化C硫酸工場の流動焙焼炉新設とコンバーターの新型ケミコ式への取り替えなどで41億円の投資を予定していた。中でも原料ガスの問題はどこの化学肥料メーカーも難問中の難問であった。
 長谷川はこの計画を推進するため、通産省に何度も足を運んで政府資金としての開発銀行融資の道を付けることに努力していた。結果としては尿素の増設と粉炭ガス化技術の二つをその対象とすることに成功した。
 しかし、粉炭ガス化技術だけは意外な方向へ展開を見せることになった。
 住友は操業以来、自社で生産するコークスを原料とする水性ガス・半水性ガスを利用してきた。水を電解する方式もあったが、わずかなものであった。とにかくコークスを自給しているということはコークス炉の耐用年数をにらんで、その期限の少なくとも2年前に新規投資の計画をまとめなければならない。その期限は目前に来ていた。そのガス源をどこに求めるか。
 技術陣の総力を挙げた検討の結果、オットー式コークス炉よりコッパースの粉炭ガス化技術がよいということになったので政府に金の面倒を見てもらうことになった。ところがその後さらに調査していくと溶融点で欧州炭の炭質でなければ使えないことが分かった。差し当たって方法もないので自社技術を開発するという方針が決まり、技術陣の総力に期待がかけられた。
 ところがこの粉炭ガス化技術の見通しが原油のガス化技術の開発の端緒となった。そして後にはポリエチレンの事業化を中心とした石油化学事業の展開で大量に発生するオフガスをアンモニアの原料ガスにするという一挙両得の成果につながっていく。いってみれば住友の石油化学事業は化学肥料の合理化からスタートしたといってよかった。
 当時としてはきわめて経済合理性の高い経営判断だという評価であったが、これを石油化学事業という立場だけで見た場合、枝振りの悪いものにしてしまったことは否定できない。

ノウハウ確立に見通し
 住友化学の石油化学事業がほとんど高圧法ポリエチレンの企業化だけで出発したという事実は、アンモニアの合理化問題と並行していたという以上に同社が高圧法ポリエチレン事業に強い執念を燃やしていたということと無関係ではない。
 昭和46年(1971)2月に同社を副社長で退任した
児玉信次郎は戦前、いったん住友化学に入り、研究課長になった直後に京都帝大に戻って工学部教授となり、研究本部に児玉研究室を組織。軍の要請を受けて住友化学の技術者と協力しながら高圧法ポリエチレンの国産化に取り組んだ。しかし、その時は全く見るべき成果を上げ得なかったことは知られる。
 戦後、児玉は再び住友化学に入り、経済復興に見通しがつきはじめた昭和26年(1951)から同社の高圧法ポリエチレンの技術開発を本格的に指導することになった。
 住友はこの年、通産省工業技術院から技術研究補助金70万円の交付を受け、さらに翌年には工業化の見通しをつけるため、改めて通産省から工業化試験研究補助金120万円の交付を受けるなど技術開発のスピード化をはかっていた。
 研究資金の確保に歩調を合わせるように自社技術の開発は一応の成果を見た。この結果を踏まえて昭和28年(1953)6月、同社は新居浜製造所の一角にアルコールの分解で得られるエチレンを原料とした高圧法ポリエチレン日産100kgの中間試験工場を建設。2年近くも運転した末にようやく待望の高圧法ポリエチレンを、完全とはいえないまでも、ある程度連続的に生産できるノウハウの開発に見通しをつけた。
 同社における高圧法ポリエチレンはこのような経緯からいってどこまでも、同社の石油化学事業の中心と位置づけられるべき存在であった。
 高圧法ポリエチレンの技術開発の成果に土井をはじめとする首脳陣の間から石油化学事業はこの高ポリだけに絞る、同時に硫安、尿素の合理化が達成できればいいのではないかというコンセンサスが出来上がった昭和29年(1954)頃、英国ICIからステッドマン博士を団長とする「技術調査団」が来日した。このような調査団は住友が高ポリの技術開発に着手した昭和26年(1951)頃にも一度、来日している。この時は九州大牟田の三井化学や水俣の新日本窒素さらに新居浜の住友化学と一応戦時中に高ポリの技術開発に手を染めていた工場を個別に訪問し、関連の研究施設をつぶさに見てまわり、関係者と意見を交わしていった。そして今回の訪日はこの1、2年、日本向け高ポリのレジン輸出が増大するとともに、その製造技術を買いたいという日本の化学企業からのオファーも相次いでいたことからそれらに対する結論を出すためのものであった。
 ステッドマン博士が新居浜の中間試験設備を見て住友の高ポリ製造技術が一応の水準にあると見て取ったことはいうまでもない。当時、本格的な試験設備を建設していたところは住友化学以外にはなかったこともステッドマン一行に強烈な印象を与えた。 

ICI技術導入へ

 ICI調査団が住友の技術を高く評価して帰ったあと、同社の中でICIの技術を買うか、あくまでも自社技術でいくかという論議が起こった。

誤差は100万分の5以下
 この頃、新居浜製造所では副所長の塩谷、中間試験課長
宮原生三が高ポリのパイロット・プラントの前で何度も同じような議論を交わしていた。そんなある日、宮原は部下の一人である寺田裕を呼んだ。
 寺田は24年入社で最初はコークスを作る骸炭課にいたが、2年ぐらいして仕事が単調過ぎて面白くないといって高ポリの研究に従事させて欲しいと要求した。はじめは相手にされなかったが、やがて彼が児玉の京大時代の弟子だということから彼の希望はいれられることになった。もっとも寺田は児玉の直接の弟子ではなく、彼が師としたのはノーベル賞化学者の福井謙一であった。寺田が「自分は児玉先生の弟子だ」と言ったのは福井を介して児玉に師事し、高分子技術への道に目覚めたのは児玉のお陰だという意識にもとづくものだといってよかろう。
 宮原が寺田を呼んだのは彼が児玉の下でこの3年間、一貫して高ポリの研究に打ち込み、現に稼動中のパイロットの運転状況とその将来の技術的展開の可能性を最もよく知る研究者の中心的な存在であったことにある。
 「会社はいま、ひとつの決断に迫られている。このままわれわれの技術でポリエチレンの工業的生産設備を建設するか、それとも英国ICIの技術を購入するか、早く結論を出さないとよその会社がICIの技術を買ってしまうおそれがある。君の率直な判断を聞きたいのだが、いまの会社の技術水準でICIの製品と競争していけるものができるだろうか。できればそれに越したことはないのだがね」。
 「それは時間と金さえかければできますが、正直に言ってICIの製品と競争するにはこれから10年以上かかります。是非、ICIの技術を導入することにしてください」。
 宮原に聞かれた寺田は躊躇することなく言い切った。
 寺田が言下にICI技術の導入に賛成したのは2千気圧という超高圧技術に対する問題もさることながらエチレンに溶解しない特殊な圧縮機用潤滑油の仕様が特定できないことや混入する酸素の制御を100万分の25から45で連続的に行う技術の確立に自信が持てず、しかも、その制御の誤差は100万分の5以下でなければならないといったことなど、技術的な隘路が歴然としていたからである。これらは計測機器の製作技術が拙劣であったことにも原因しているが、そうした問題を含めて10年以上かかるというのが寺田の判断であったとみてよかろう。

高圧法PEの歩み
 ICIの高圧法ポリエチレン、これこそは太平洋戦争の全期間を通じて日本の電波兵器の性能の重要なカギを握っていたことは記憶に新しいところだが、このポリエチレンはどのようにして発明されたのか、その跡を少し振り返ってみたい。
 もともと炭化水素の中でエチレンはきわめて安定しており、化学反応性が少ないという特性からこれを重合するには高温、高圧という激しい反応条件を与えるか、強力な反応を引き起こすことのできる触媒を開発するしかないというのが1920年代の有機化学者の見解であった。
 1930年代のはじめに米国ハーバード大学で教鞭をとっていた高圧物理学者P.W.ブリッジマンとその協力者であったJ.B.コナントらが高圧化における化学反応理論をまとめつつあった。そうした研究成果は英国にも伝えられていたが、当時、イギリスICIアルカリディビジョンの化学者E.W.フォーセットと同じくR.O.ギブソンらはそれらの理論とは全く別な観点から新しく作られた高圧実験装置を使って重合反応に圧力がどのような影響をもたらすかをトレースしようとしていた。
 フォーセットとギブソンはこの実験で偶然、高圧法ポリエチレンの合成に成功するわけだが、その偶然をもたらしたものが「新しく作られた高圧実験装置」であった。
 この実験装置は1933年(昭8)ICIのコンサルタントをしていたオランダ・アムステルダムのファン・デル・ワールス研究所のミッチェル教授が設計、製作したものである。その圧縮機は水銀でシールした特殊鋼製のU型管の中でガスを3000気圧まで操作でき、毎時10から20ポンドのガスを圧縮する能力をもった高圧実験装置であった。
 この実験装置を使ってフォーセットのグループは最初にベンズアルデヒドとエチレンに高圧をかけることを主目的に1400気圧で170度Cという条件で反応を試みた。その結果、反応器の壁に白いワックス状の生成物が付着した。これを分析してみるとベンズアルデヒドの重合物ではなく、エチレンの重合物だった。そこで、このグループは改めてエチレンだけで高圧操作を行った。しかし、この反応は非常に爆発的であり、しかも生成物のバラツキが激しく、高分子重合物の収率も大変悪いという結果が出たため、この実験はその後、1年余り放置されてしまった。
 1935年(昭10)になってフォーセット・グループは再びエチレンの反応について追試を始めたところ、今度は80立方センチメートルのオートクレーブの中で8グラムのポリエチレンが生成していることを認めることができた。なぜこのような正常な重合反応を起こすことができたかについての解明が行われた。
 半年後に同グループが到達した結論は実験の途中のミスでオートクレーブの中に微量の酸素が混入したためだと分かった。この微量の酸素がエチレンを重合するための触媒の役割を果たしたものだということが理論的にも明らかになった。重合に使用した圧力は2千気圧であり、空中窒素固定のために実用化されていた圧力よりも10倍近い高さであった。

疎開した高ポリ技術

 ICIは1937年(昭12)に高圧法ポリエチレンのパイロット・プラントを建設してその後、1939年(昭14)には工業的規模のプラントを建設する計画を明らかにしたが、ドイツとの戦いが熾烈化したため、大幅に延期せざるを得なくなった。

デュポンとUCC
 大戦が激化し、レーダー用の高周波絶縁材料を必死で探し求めていた英国内の電波技術者が何百という材料実験の中からこの高圧法ポリエチレンこそが本命だといってその生産を要求しはじめたため、ICIは1942年(昭17)ようやく本格的な高圧重合プラントの操業開始にこぎつけた。
 ICIの生産開始と並行してイギリスの首都ロンドンに対するドイツ機の空襲が一段と激化した。この時期、イギリス政府は戦いの前途を憂え、国の重要な工業技術をアメリカに疎開させることを考え、特許権の行使を一時停止する戦時特例法を制定し、ICIにも高圧法ポリエチレンの技術をアメリカの然るべき企業に譲るよう勧めた。ICIはこれを受けてアメリカでもっとも親しい企業であるデュポンに供与した。
 この時、デュポンとライバルの関係にあったUCCがアメリカ政府に対してイギリス政府の戦時特例法がデュポンにだけ適用されるのは国内のアンチトラスト法(独禁法)に抵触すると激しく抗議した結果、UCCにも技術が供与されることになった。
 デュポンとUCCは相前後して、というよりも、正確にはUCCの方が半年ほど早かったが、いずれにしても1943年(昭18)中に両者は生産を開始した。戦後、レクゾール、スペンサーケミカル、イーストマンなどが新規参入してくるまでの約20年間、アメリカの高ポリ市場はこの両社の支配下におかれた。
 ICIが高圧法ポリエチレンの工業的製造プロセスの開発に成功した最も大きな要因はエチレンの経済的な重合を可能とする反応器を開発したことだといわれる。その反応器はオートサーマル・コンバージョンというコンセプトに基き、反応器の中に攪拌するモーターを内蔵させるというものである。
 エチレンは可燃性のガスであり、それも非常に爆速の高いガスが充満した反応器の中に火花が発生するモーターを入れるという常識では考えにくいアイデアを工業化したところにある。反応器はメカニカルシールで完全に密閉されているので空気が入らない限り爆発には至らない。重合触媒としての役割を果たすために酸素が入っているといってもそれはほとんど問題にならないほど微量のものであり、このようなアイデアが工業化されていたところに欧米の機械工学上の技術レベルの高さが遺憾なく発揮されていた。
 このようなアイデアは当時のどんな日本の機械技術者も知らなかった、というよりも想像することさえできなかったというのが事実であろう。

政府認可早期取得へ
 寺田が“是非,ICIの技術でやるべきです”と建言してから間もなく土井を中心とする経営首脳陣はICIとの間で技術導入交渉を行う方針を決め、昭和30年(1955)春、常務正井を筆頭に長谷川、塩谷を加えた交渉団がロンドンへ立った。交渉は比較的順調と伝えられていたが、それでも正式契約書に調印するまでには3ヶ月前後もかかり、7月11日に完了した。交渉が手間取ったのは主として対価と事業規模をめぐる問題であったという。
 ICIからの技術導入契約書を整えた住友化学はその年の9月、日本銀行に「甲種外国技術導入申請書」を提出すると同時に社長土井の陣頭指揮で政府認可の早期取得に向けて行動を開始した。
 通産省軽工業局有機化学課長宮沢(後に住友電工副社長)は往時を回顧する。
 「住友化学の当時の社長であった土井さんは月に2回ぐらいは上京しておられたようです。そしてかなり忙しい日程を抱えていたようですが、その忙しい合間を縫うようにしてわたしを訪ねてこられた。それも決まってひとりで来られた。忙しいのだから用が済んだらさっさと席を立つかと思うとそうではなく、長い間いろいろな話をしていかれた。話の内容の細かいことは覚えていないが、もちろん石油化学事業のことです。ICIから高圧法ポリエチレンの技術導入契約をする前から度々相談に見えておられたが、とくに認可申請を出された頃からは来られる回数も増えたように思う。あの認可はいつ頃貰えるだろうかとか、通産省は石油化学の育成策をどのように推進する積もりか、さらには税制や税制投融資についての配慮をもっと厚くしてくれなどとずいぶん要望事項が多かったように思う。しかし、その話の間に最近、関西ではどんな芝居が人気があるとか、若い連中の間にはどんな遊びが流行っているといった世間話もしておられた。土井さんという人は真面目な人だけに世の中の流れというものをご自分の目で確かめながら事業に取り組んでいたように見受けられた。土井さんが何回となく通産省に見えられたのはあの頃、われわれはチマチマしたチッポケな石油化学事業はやって欲しくないということと石油精製企業との連携が必要だといっていたのでそのことについての理解を求めて足を運ばれていたように記憶しています。土井さんのところは石油化学事業の重要性については十分認識していたが、同時に化学肥料の合理化も重要な経営課題だったはずです。しかも、住友グループには“一社一業”という申し合わせというか、行動規範のようなものがあったからそれだけに資金的な面からもできる範囲のことしかやらない。無理をしてはならないという自制が強く働いていたように思いました」。
 住友化学にとって石油化学事業はとにもかくにも高圧法ポリエチレンの企業化だけであった。

常識を超える技術

 住友化学が導入契約を行ったICIの高圧法ポリエチレンに対する政府認可はチーグラー・ポリエチレンと異なり、立派な工業化実績があり、現に日本にも6,7千トンの市場が形成されていた。このため通産省軽工業局の対応は当時、もっとも重視していた外貨の節約にきわめて適した国産化計画だとして積極的に認可するという態度であった。だが、このような通産省の評価とは別に同社の中では高圧法ポリエチレンに対する風当たりは強く、ICI技術の導入に係わった連中は一時、大変肩身の狭い思いをする。

2千枚の設計図
 この社内の風潮はポリエチレンに対する無知から出たものであった。当時はポリエチレンとはどのようなものかということに深い知識はなかった。それは何も住友化学1社の問題ではなく、日本の化学工業全体の知識レベルとしてそうであった。
 ポリエチレンといえばICIのものも、三井が買ったチーグラーも同じものだという認識があった。そこにもってきて、ICIの技術は2千気圧という高圧操業で危険がつきまとうという先入観念があり、とくに住友は古くからアンモニアの高圧作業で爆発などの経験もあるだけに、チーグラーのような常圧に近い作業でポリエチレンができ、しかもコストがICIより安いというなら、なぜうちもチーグラーの技術を買うことに努力しないのか、というのである。
 たしかに理屈としてはそうだが、チーグラー・ポリエチレンがどのような物性を持っているのかについてはその頃、その技術を導入した三井化学でさえよく知らなかったはずであり、ましてや第三者である住友が知るわけもなかった。ただ、安全に生産でき、コストが安いという、ジャーナリスティックに喧伝された話を鵜呑みにした非難が社内を駆け巡ったことは事実である。しかし、こうした批判は時間の経過とともにそれらを口にした人々の顔を赤らめさせることになるわけだが、その時は正井、長谷川らは本気になってICIのポリエチレン事業化の妥当性を説得して歩かざるを得なかった。
 昭和30年(1955)11月22日、住友化学のICIポリエチレンに関する技術導入は政府外資審議会の正式認可を得た。
 同社は直ちにICIのウイルトン工場へ高圧法ポリエチレン製造技術習得のために派遣する人選にとりかかった。
 この人選は当然、同社が開発しつつあった住友独自の高圧法ポリエチレンのパイロット・プラントの建設や操業に係わっていた者が中心であった。決定した第一次派遣団は団長として技術部長隅谷威夫、中間試験課長宮原生三、設計課長村上正雄、同係長池田正作、そして同じく寺田裕の5人であった。
 宮原らは出発前に多くのことをする必要があった。その中でもとくに大変だったのはICIから送られてきた高圧法ポリエチレンの製造設備の設計図面を読んで必要な個所を記憶しておくことであった。その図面は製造過程の細部にわたっており、1枚の設計図は縦横1メートル半ほどあり、その枚数は2千枚にも達するものであった。しかも、記述はすべて英語で記されているので、内容を理解するために毎日、辞書と首っ引きというあり様だったという。
 そんなある日、寺田は1枚の設計図面の前でうならざるを得なかった。その図面は高圧反応器の頭部にあたる部分で、そこにはモーターを内蔵した反応器が描かれていた。ただでさえ爆速の大きいエチレン・ガスと微量とはいえ酸素が混じっている中に火花を出すモーターを組み込むということは日本の機械技術の常識を完全に越えていた。
 図面の中の反応器の内部にはインフィルトレイティブタイプのモーターが描かれ、電極を外から引き込み、その周囲は高圧シールで覆われ、波型リングで止めて完全に外気から遮断されており、これなら問題がないというこいとが一目でわかる仕掛けであった。

李下に冠を正さず
 イングリッシュ・スチールが制作した反応器の大きさは1本が直径18インチ程度、長さが4メートル前後であり、特殊鋼の肉厚約4インチ、それを何十本も並べるわけだが、この反応器を日本製鋼所や新三菱重工業(現三菱重工業)に造らせようとしても不可能なことは明らかだった。石油化学技術のみならず、機械工業技術でも日本は欧米の比ではなかったことはこの一事をもってしてもうなずけよう。
 隅谷を団長とする技術習得のためのチームがいよいよイギリスICI社ウイルトン工場に向けて出発するという1週間前、突然、常務取締役正井省三が派遣チーム全員を宝塚のホテルのレストランに招待した。
 正井は彼らがイギリスへ行ってその国の人々と食事をする時に恥をかかないよう食事のマナーを教えた。そして、大変重要なことを彼らに約束させた。
 「日本は長い戦争によって非常に貧しい生活をしてきた。それは物質面だけのことであって、心まで貧しくなったわけではない。諸君はこれから先進国であるイギリスに渡り、当社が必要としている技術の習得に努めていただくわけだが、諸君が行く工場は高圧法ポリエチレンだけ作っているわけではない。恐らくわれわれがまだうかがい知ることのできない技術でいろいろな優れたものを作っているに違いない。諸君は時としてそうした工場に近づくことをあるかも知れないが、決してその中をのぞこうとしたり、それらの技術について策を弄して知ろうとしたりすることだけは絶対にあってはならない。これだけは住友化学の社員としてというよりも日本人の誇りにかけて万に一つも遺漏なきよう固く心に誓ってもらいたい」。
 “瓜田に沓を入れず” “李下に冠を正さず”ということだが、これだけのことをいう正井は戦前からの国際人であった。

関西財界の代表

 正井が隅谷を団長とする技術チームに約束させたことはやがて彼等に事実となって迫ることとなる。

築かれた信頼関係
 ICIの幹部が寺田に語ったところでは「日本からやって来たある会社の技術チームからは目が離せなくて困っている。それに引き替えきみらは実に立派だ」と言うのである。
 住友化学とイギリスICIはその後、たくさんの技術交流を行うことになるが、その信頼関係は実にこの時、築かれたものだといっても過言ではない。
 正井は大正15年(1926) 京都帝大燃料工学科を出て、官営八幡製鉄所に勤めた。製鉄所ではもっぱらコークス炉の建設と運営を担当していたが、昭和11年(1936) 住友化学がコークス事業進出するにあたって三顧の礼を以て迎えた人材である。
 正井は八幡時代から欧米に出張した経験を有し、とくに、住友が合成ゴムの国産化を意図した昭和13年(1938) 不調に終わったとはいえ、ドイツのイーゲー(IG)を相手に合成ゴムの技術導入交渉を粘り強く行ったことで知られる。このような外国企業との交渉を通じて正井はいかにマナーが大切かを身をもって知っていたということになろう。
 隅谷ら一行は31年(1956) 2月、南回りのパン・アメリカン航空DC6型プロペラ機で空路、ロンドンを目指して飛び立った。そして技術チームのうちの一人、二人が入れ代わりながらほぼ、半年ほどで任務を完了し、再び、新居浜工場に終結した。
 住友化学がポリエチレン事業の具体化にあたってもっとも悩んだのは生産規模をどの程度にするかということであった。
 隅谷ら技術習得組は、ICIから経済規模は年産2万5千トンだといわれてきたのでこれを目標にするべきだと主張した。しかし、一度にそのように大きな設備を建設して果たして大丈夫なのかという慎重論は長谷川を中心とする意見であった。とくに長谷川は経理部長という立場から稼働率が最初から高ければ多少、建設コストがかかってもいいが、仮に稼働率が大幅に低くなった場合のことを考えると経済性は極端に悪くなる。だから安全性を第一に考えるべきだと説得にかかった。
 結局、土井が社長として裁定せざるを得なくなった。土井は「たしかにICIから経済規模について明確な示唆があったことは事実だが、事業とは現実とのすりあわせだから最終目標を2万5千トンに置くことは置く。しかし、通産当局などがはじき出している需要見通しを踏まえて年産1万2千トンとし、これをさらに6千トンずつ2期に分けて建設してはどうか」と方針を明示した。こうして社内のコンセンサスは整ったが、この事業化案を通産当局に説明した途端に「こんな消極的な計画しか出ないとは関西財界を代表する住友化学らしくもない話じゃありませんか。再検討していただきたい」と突き返された。突き返したのは通産省有機化学第一課石油化学班長吉田
*であった。(KN注 のちの三菱油化社長)
 もっとも通産省自体も31年度のポリエチレンの需要見通しをわずかに7千トンと推定し、35年度で2万5千トン程度と見込んでいたに過ぎない。しかし、これは当時の外貨事情を多分に反映したものであった。不要不急の製品輸入を抑えるという政府の方針から需要も抑制されていた。吉田はその辺の事情を十分承知していたこともあって長谷川に積極的に投資を行うよう勧めた。
 土井は内心、当局の強気に戸惑いながらもかなり市場性の高い商品だという判断のもとに当初の1万2千トンを千トン縮小して年産1万1千トンの設備を建設することで最終的にまとまった。

一貫体制整う
 原料エチレンは通産省が組織した石油化学技術懇談会の検討結果からナフサを分解することがもっとも経済性が高いという新居浜製造所長大隈の結論を受けた形で長谷川がこれまた技術導入の役目を引き受けた。長谷川はこの交渉の経緯を回想する。
 「かねてから親交のあったACC(アメリカン・サイアナミッド)法務部長のジップ・ベーレンスに会った時、どこのナフサ分解技術が優れているかと尋ねたら君はフォードか、キャデラックか、どちらの車が欲しいのかと聞き返された。当時、キャデラックというのは世界の名車といわれていたから当然、キャデラックだと答えた。ベーレンスはそこでそれならストーン・アンド・ウエブスター(SW)に決まっている。あそこは対価が少し高いが技術は間違いないといった。たしかに、オファーを取ってみると高かった。そこで気が付いたのは三井石油化学もエチレンの技術を探していた。早速、鳥居さんのところに行って一緒に交渉しようじゃないか。両方が別々に高い技術料を払うのはばかばかしいではないか。うまくいけばかなり安く手にはいるかも知れませんよと言ったら鳥居さんもそれは大変結構だということになって、ニューヨークのブロードウェイの近くにあったSWの本社に出かけていった。結果的には1社のフィーで2社分というわけにはいかなかったが、かなり安い買物になった」。
 かくしてエチレンからポリエチレンまで一貫生産体制を組む技術が揃ったことになり、昭和31年(1956) 1月16日、新居浜製造所副所長塩谷を兼務のまま「臨時ポリエチレン工場建設部長」に発令、いよいよ工事の具体的なスケデュールが練られた。
 昭和33年(1958) 3月、エチレン製造装置に火が入り、続いて4月1日、ICIの技術指導のもとでポリエチレン工場のスタートアップが行われた。この日、寺田は社命により、スタートアップのボタンを押すという「栄誉」に浴した。これは寺田が研究開発からICI技術の習得、さらに精魂込めた建設から運転要員の養成にいたるまで一貫してポリエチレン事業の実現に刻苦精励したことに対する論功行賞といってもよかった。
 実際に寺田くらい住友化学の中でポリエチレン事業に長く取り組んだ男はいない。事実26年から46年まで実に20年間を新居浜の高圧法ポリエチレン設備と暮らし、数多くの改良銘柄を市場に送ってトップ・メーカーの名をほしいままにした。
 「戦後の化学工業の成功例は東レのナイロンと住友化学のポリエチレン」と世間に言わしめたことはこのポリエチレン事業に携わった同社関係者全員に対する“金鵄勲章”のようなものだった。

柳の下に二匹はいない

 住友化学が高圧法ポリエチレン市場でトップ・シェアを維持していた背景には同社が徹底して技術開発の内容を秘匿し続けたことが上げられる。同社がICIから技術を導入した当時の銘柄はわずかに3つか4つでしかなかった。それが3,4年の間に90銘柄にまで増えたのはユーザーの要請にもとづいたものであった。これらの銘柄の中にはICI特許を超えるものがいくつもあったが、住友はこれらの開発技術を一切明らかにせず、特許権の申請する行わなかった。申請すれば後発企業に真似をされることは必定だった。

オフガスを原料に利用
 住友化学は石油化学事業をポリエチレンのみに絞ったが、それは同社の主力事業である化学肥料の合理化を徹底して行うという方針と強く結びついていたからであり、それ故に相乗効果も大きかった。この結果は当時の同社の決算数字からもうかがわれる。
 住友はナフサ分解から発生する大量のオフガスをアンモニア原料ガスに改質する技術をフランスのグランド・パロワスから導入した。そしてこの改質設備もエチレン製造設備と時を同じくして完成した。この設備の完成は住友が長年待ち望んでいたアンモニア原料のガス源転換の第一歩となった。副生ガスということからいってコストは十分満足できるものであり、化学肥料市場における競争力は土井をはじめ正井、長谷川、大隈、塩谷らが期待した通りのものとなった。
 ただ、惜しむらくはポリエチレンとアンモニアという新旧二つの事業をともに合理的に作り上げるということにのみ土井の思考が向いていたことが、このあとの発想をかなり制約してしまったと思えることである。
 だが、それでもこの合理性を貫いたという点では大いに評価されてよい。とくに高圧法ポリエチレンを企業化する立地は最初から新居浜と決められていただけに、隣接する地域に石油精製企業はなかった。しかし石油はどこからでも運んでくることができるという柔軟な発想はあった。
 その頃、通産当局は同一地域に石油精製企業があってその石油企業との連携を認可の前提としていたが、住友はすでにアンモニア用原料ガスの確保について原油ガス化技術の開発に取り組むと同時に、その原料である原油を新居浜の対岸徳山に出光興産が建設しようとしていた徳山製油所から引いてくることに決めていた。原油が手当てできればナフサも同じことである。土井はこれらの問題について当局の理解を得るために有機化学第一課に宮沢を訪ね、何回も意見のすりあわせを行った。
 たしかにエチレンを作って副生ガスをアンモニアの原料に回すという図式は当時の住友化学にとっては最も合理性に富んでいた。いってみれば一つの技術システムの中に二つの主力事業を組み込むことで大幅な合理化が可能になるという、まさに“一石二鳥”となった。しかし、同社はこの図式の虜になったためにそれから5年後に手痛い失策を味わうことになる。

 それはナフサを熱分解してエチレンとアセチレンを作るという併産法技術をベルギーのSBA社から導入したことである。この技術はベルギーでも工業化はおろか中間プラントもないという状況であった。しかし、何といっても電力消費の大きいカーバイドに依存しているアセチレンを流体原料に切り替えるだけでもコストは安い。それをアクリロニトリルや塩化ビニル樹脂の原料とし、一方のエチレンはポリエチレンの増設用原料とする。さらに副生するドライガスをアンモニア原料とすることで、非能率のコークス法半水性ガス設備を廃棄することができるという名案は捨て難かった。
 この技術の導入を熱心に勧めたのは正井だが、長谷川はその頃を振り返っていう。
 「当社は常に現状に照らしてどのような対策があるかを考え、最善と思われる方向に行くことにしていたので、正井氏の提案は決して間違っていなかった。そこで新居浜の技術部長をしていた黒田(緑郎)君を連れてSBAのブリュッセル本社を訪ね、契約してきた。しかし、後になっていろいろなことがあって成功しなかった」。
 このいろいろなことの中には大隈がアメリカン・サイアナミッドの技術者からSBA法のアセチレンは純度が一定せず、収率もよくないから慎重にやった方がいいというアドバイスを受けたことも入る。そこで大掛かりな調査を行った結果、原料油の選定と精製工程を厳密にすれば問題はないということが分かり、昭和33年(1958) 8月、政府外資審議会に正式に申請した。

激化するシェア競争
 ところがこの技術導入に対する認可が予想外に延びた。これも長谷川の「いろいろなこと」の中にはいるが、認可になったのは昭和35年(1960) 2月であった。実に1年半も棚ざらしにされたわけである。その理由として考えられることは二つある。
 一つは工業化の実績が全くないものに対する政府外資審議会の厳しい査定であった。これは三井石油化学がチーグラー・ポリエチレンの技術導入を申請した時にも見せた外資審議会の反応である。この反応はあれから3年以上経っても変わることはなかった。いま一つは業界内の軋轢がこの技術導入の裁定を遅らせたとみられることである。
 作れば売れるという石油化学市場において関係各社のシェア競争意識は日増しに激しさを加えていた時代であり、住友が業界のトップを切ってアセチレンはともかく、エチレン年産1万6500トンの増設を行うことに対して業界の一部から住友の独走を抑えようとする動きが当局の行政裁定に微妙な影響を与えたというのである。
 長谷川は「あのSBA技術が申請からたいして時間をおかずに認可になっていればあの事業は成功のチャンスがあった。だが、1年以上も後れては他社が次々に新しい事業を手がけていくのに当社がSBAの技術改良に時間をかけていることはできなかった。結局、業界の中の駆け引きに潰されたようなものだった」という。
 果たしてそうなのか、真偽のほどは明らかではないが、少なくともSBA技術が全くといっていいほど未完成であったことは疑う余地はない。そして、この時期から業界が「過当競争」と「生産第一主義」的な体質を現しはじめたことだけは事実であろう。