2003/12/15 理化学研究所

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の病勢進行にかかわる細胞死実行因子を同定
- 難病克服に向けた大きな一歩 -
  
 http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2003/031215_1/index.html

 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)(ALS: amyotrophic lateral sclerosis)の進行にかかわる細胞死実行因子の同定に世界に先駆けて成功しました。理研脳科学総合研究センター(甘利俊一センター長)運動系神経変性研究チーム(高橋良輔チームリーダー)の井上治久研究員らを中心とする研究グループ(※1)による成果 です。
 ALSは、全身の筋肉を支配する脳・脊髄の運動神経細胞が徐々に変性・細胞死を生じる原因不明の難病で、意識清明で認知・思考能力を維持したまま、全身の筋肉が麻痺して寝たきりとなり、通 常は発症から2〜5年で呼吸障害のため人工呼吸器の補助なしには生きられなくなる過酷な疾患です。
 本研究では、細胞死実行因子として知られている哺乳動物の14種類のカスパーゼ(※2)とよばれるタンパク質分解酵素のうち、カスパーゼ-9の活性を阻害するとALSの疾患モデルマウスにおける病状の進行を緩和し、生存期間を延長することを発見しました。さらに、ヒトALS剖検脊髄の運動神経細胞でもカスパーゼ-9の活性化を確認しました。
 本研究は数あるカスパーゼの中からカスパーゼ-9がALS治療の標的分子となりうることを示す画期的なもので、有効な治療法開発に大きく寄与することが期待されます。 本研究成果は、欧州分子生物学機構(英国)の学術雑誌、『The EMBO Journal』(12月15日号)に掲載されます。
なお、本研究は、公益信託「生命の彩」ALS研究助成基金より研究助成を受けています。

1. 背 景
 ALSは、全身の筋肉を支配する運動神経細胞を選択的かつ系統的に障害し、呼吸筋を含む全身の筋萎縮をきたす過酷な進行性疾患です。ALSの患者数は10万人あたり2〜5人で、日本では5〜6千人と推定されています。患者さんはもちろん、介護にあたる家族にも長期に渡って他に類を見ない非常な負担を強いることから、その治療法の開発は社会的、人道的にも急務です。
 ALSを特徴づけるのは運動神経の細胞死であり、なぜ細胞が死ぬのかが、これまで研究の焦点になっています。一方、多細胞生物の発生過程において、一部の細胞は死ぬ ことを運命付けられており、また細胞が成熟した後にも、がん細胞や役割を終えた炎症細胞など、個体にとって有害な細胞は死ぬ ことによって除去されています。この細胞死はアポトーシスと呼ばれ、実行過程に働くのはカスパーゼとよばれる下等動物から高等動物まで多細胞生物において広く見られるタンパク質分解酵素群です。近年、ALSにおける神経細胞死の一部はカスパーゼによって生じるという証拠が累積しつつありましたが、どのカスパーゼが疾患の病勢進行に関与し、治療の標的になりうるかわかっていませんでした。
  また、家族性ALSの原因遺伝子の一つが、スーパーオキシド・ジスムターゼ1(SOD1:Superoxide Dismutase 1)(※3)であることが明らかになっており、変異ヒトSOD1遺伝子を導入したマウスがヒトALSによく似た病像を呈することから,ALSの病態解明と治療法の開発に役立つ動物モデルとして利用されてきました。

2. 研究手法
 これまでのALSマウスを用いた治療実験より、広範性カスパーゼ阻害剤(※4)は、ALSマウスの発症時期、罹病期間、生存期間(※5)を延長することが報告され、ALSマウスの神経変性にカスパーゼが積極的に関与していることが示されていました。一方、ミトコンドリアの膜透過性を安定化させ、カスパーゼ-9より上流で細胞死を抑制するBcl-2をALSマウスの神経細胞へ遺伝子導入した実験では、発症時期、生存期間の延長は認められましたが、罹病期間の延長は認められませんでした。以上から、研究グループは罹病期間に関与するカスパーゼは、Bcl-2以降、すなわちカスパーゼ-9からはじまるミトコンドリア依存性アポトーシス経路である、という仮説を持つに至り、これを証明しようと考えました。
  研究にあたり、脳科学総合研究センターをはじめとする研究グループ(※1)が連携しました。まず、カスパーゼ-9 を抑制するヒトのタンパク質、XIAPを運動神経細胞に発現するマウスと、カスパーゼ-9以外のほとんどのカスパーゼを抑制する昆虫ウイルスのタンパク質、p35を運動神経細胞に発現する2種類のマウスを作製しました(※6)。
  次にこれらのマウスをALSモデルマウスと交配し、それぞれの遺伝子を有するマウスを比較し、XIAPあるいはp35が、ALSモデルマウスの生存期間、罹病期間、発症時期に与える影響をしらべました。さらに、ヒトALSの剖検脊髄の運動神経細胞におけるカスパーゼ-9の活性化を調べました。

3. 研究成果
 実験の結果、次のことがわかりました。

a. 運動神経細胞のカスパーゼ-9の活性を抑制することにより、ALSモデルマウスの発症後の病勢進行が緩和され、罹病期間が53%(p35遺伝子を発現するマウスの罹病期間が24.8日であるのに対してXIAPを発現するマウスの罹病期間が34.6日)も延長しました。(図1上)
   
b. p35遺伝子を発現するマウスでは発症時期が22日遅れることから、p35で阻害されるカスパーゼ-9以外のカスパーゼがALSモデルマウスの発症前から活性化し、発症を早める役割を持っていることがわかりました。(図1下)
   
c. ヒト孤発性ALSの運動神経細胞で、発症していない方に比べてカスパーゼ-9が活性化していました。(図2)

以上のことから、運動神経細胞のカスパーゼ-9の活性化抑制が、ALS発症後の患者さんにおける実際の治療標的の1つになる可能性が示されました。(図3)

4. 今後の期待
 アポトーシスは、生体内で重要な働きをしており、すべてのカスパーゼの活性を抑制する広範なアポトーシスの抑制による治療を行うとすれば、自己免疫疾患や、がんの発症など、生体にとって有害な側面 を持つ可能性は否定できません。しかし、今回の発見により、アポトーシス抑制の標的を特定のカスパーゼに絞り込むことができ、より効果 的で安全性の高いALSの治療的アプローチが可能になります。
 近年、カスパーゼに依存しない細胞死の経路、あるいは、異常タンパク質の蓄積による細胞機能低下も、ALSの病態にかかわることが明らかになってきました。今回の研究成果 を含む複数の神経変性経路を抑制する複合的、多面的アプローチによって、近い将来、ALSに対してさらに新しい有効な治療法が開発されることが期待されます。

<補足説明>
※1 研究グループ
 高橋良輔(理研脳科学総合研究センター[BSI]運動系神経変性研究チーム)、井上治久(同)、月田香代子(同)、鈴木泰行(同)、舘野美成子(同)、糸原重美(BSI行動遺伝学技術開発チーム)、岩里琢治(同)、西道隆臣(BSI神経蛋白制御研究チーム)、富岡正典(同)、長尾雅裕(都立神経病院)、川田明広(同)、三澤日出巳(東京都神経研)、三浦正幸(東京大学薬学部)

※2 カスパーゼ
 多細胞生物の発生過程において、一部の細胞は死ぬことを運命付けられている。また成熟した後にも、がん細胞や役割を終えた炎症細胞など、個体にとって有害な細胞は死ぬ ことによって除去される。この発生過程にプログラムされている細胞死はアポトーシスと呼ばれる。その分子機構で、実行過程に働くのはカスパーゼとよばれるプロテアーゼ群であり、下等動物から高等動物まで多細胞生物において広く見られる。カスパーゼ-9は、ミトコンドリア由来のアポトーシス経路の最上流に位 置し、下流のカスパーゼを切断し、活性化する。

※3 スーパーオキシド・ジスムターゼ(SOD:Superoxide Dismutase)
 酸素を使って生命活動を行う地球上のすべての生物では、細胞の代謝の中で有害な活性酸素であるスーパーオキシドが発生する。SODはこのスーパーオキシドを過酸化水素を経て最終的に水に変え無毒化する反応系の初めのステップを演じる重要な酵素である。SODには主として細胞質内にあるSOD1と、ミトコンドリア内にあるSOD2および血清中にあるSOD3の3種類がある。SOD1の遺伝子変異が一部の家族性ALSの原因であることが判明している。

※4 広範性カスパーゼ阻害剤
 広範性カスパーゼ阻害剤は、ほとんどのカスパーゼのタンパク分解にかかわる活性中心に入り込み、立体的にカスパーゼのタンパク分解機能を阻害する化学合成物質である。z-VAD-FMKという商品名で知られ、臨床的には使用されていない。

※5 生存期間、罹病期間、発症時期
 生存期間:誕生から死亡までの期間
 罹病期間:ALSの症状を発してから死亡するまでの期間
 発症時期:ALSの症状を発した時期
 ALSマウスの罹病期間(23日)=生存期間(259日)−発症時期(236日)

※6 XIAP・p35
 XIAPは、分子量57KDaで、ほ乳類に由来し、ミトコンドリア依存性アポト-シスにかかわるカスパーゼ阻害タンパクとして研究分野で使用されている。p35は、分子量 35KDaで、昆虫ウイルスに由来し、非常に強力で広範なカスパーゼ阻害タンパクとして研究分野で使用されている。

図1


横軸 マウスの日齢。
縦軸 1群あたり、マウス17~20匹に対する発症率・生存率。1匹発症・死亡する毎にグラフが下降する。
図上 XIAPを発現する(カスパーゼ-9を抑制する)マウスでは、ALSのモデルマウスと比較してほぼ同時期に発症するが、罹病期間(=生存する期間)を延ばすことが出来た。
図下    p35遺伝子を発現する(ほとんどのカスパーゼを抑制する)マウスでは、ALSのモデルマウスと比較して発症時期を遅らせることができたが、罹病期間(=生存する期間)に変化はなかった。すなわち、カスパーゼ-9以外のカスパーゼがALSの発症を早めているものと考えられる。

図2

   
縦軸   活性化型カスパーゼ-9に切断されると蛍光を発するようになる基質と、脊髄運動神経周辺より抽出したタンパクを混和し、その蛍光強度の上昇から、切断された基質の量 を測定した値を表す(単位:ピコモル/ミリグラム/時間)。切断された基質の量 は、カスパーゼ-9活性を反映する。


図3

 カスパーゼ-9は病勢進行に大きく関与すると考えられる(図上)。
 発症前には、異常タンパク質の蓄積などにより、神経細胞が機能障害を生じているが、その過程に、カスパーゼ-9以外のカスパーゼが関与している可能性がある(図下青線)。
 発症時には、1. 機能障害を生じている神経細胞、2. さらにカスパーゼ-9から始まるカスパーゼ依存性細胞死経路、あるいは最近明らかになりつつあるカスパーゼが関与しない細胞死経路にある神経細胞(図下黄線)、3. 最終的に死滅した神経細胞(図下赤線)の3種類の変性過程の神経細胞が存在する。
  変性過程の神経細胞は、炎症などを惹起し、さらに変性過程を増悪させ、悪循環を生じる。カスパーゼ依存性細胞死経路を抑制することにより、神経細胞死を緩和、遅延させるだけでなく、結果 的に悪循環を抑制し、病勢進行を緩和させると考えられる。