「人民網日本語版」2004年9月29日
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新中国55周年

 1949年10月1日の中華人民共和国成立から、またたく間に55年が過ぎた。
 建国からの55年間、中国は天地を覆すほどの大きな変化を経験してきた。ここでは、一年一年を象徴する写真を一枚ずつ選び、中華人民共和国55年周年までの発展史を紹介する。

 

 


1949 中華人民共和国成立

 

 

 

 

 

 

 1949年10月1日、中華人民共和国が成立した。午後2時、中央人民政府委員会第一回会議が北京で開催され、中央人民政府委員会主席、副主席、全委員が出席して就任を発表し、中華人民共和国中央人民政府の成立を宣言した。午後3時、首都の30万人が天安門広場に集まり、盛大に開国祝賀式典を開催した。


1950 「抗美援朝(反米・朝鮮支援)」戦争が開始

 

 

 

 

 

 1950年10月8日、中国人民革命軍事委員会の毛沢東主席が命令を発して東北の辺境防衛軍を中国人民志願軍と変え、彭徳懐を中国人民志願軍の司令官兼政治委員に任命する。10月19日夕方、中国人民志願軍は彭徳懐司令官の指揮の下、朝鮮入りし参戦、ここに「抗美援朝」戦争が開始された。


1951 西蔵(チベット)の平和的解放

 

 

 

 

 


 1951年5月23日、中央人民政府と西蔵地方政府は北京で「西蔵の平和的解放の弁法に関する協定」を結んだ。この協定の締結により、西蔵の平和的解放を宣言した。


1952 汚職で劉青山、張子善の公開裁判

 

 

 

 

 

 1952年2月10日、河北省人民政府は大型汚職事件の犯人の劉青山、張子善の公開裁判を行った。河北省人民法院は中央人民政府最高人民法院の命令に照らして臨時法廷を開き、劉青山、張子善に対して公開裁判を行って判決を下し、2人に死刑を宣告した。刑は即時執行され、また2人の全ての財産が没収された。


1953 朝鮮戦争が終結

 

 

 


 朝鮮停戦協議が1951年7月から1953年7月にわたって開かれ、複雑な争いを経た後に、1953年7月27日に板門店で「朝鮮軍事停戦に関する協定」が結ばれた。朝鮮戦争はここに終結した。


1954 中華人民共和国憲法の誕生

 

 

 

 

 

 

 1954年1月、毛沢東が憲法起草を取上げた。9月15日から28日まで中華人民共和国第一回全国人民代表大会が北京で開かれた。9月20日、全代表は無記名投票で票決を行い、一致して「中華人民共和国憲法」を通過させた。中国の歴史上初めての社会主義的な憲法がここに正式に誕生した。


1955 胡風文芸思想批判

 

 

 

 

 

 

 

 1955年1月から5月、中国文芸界では大規模な「胡風文芸思想批判」の運動が展開され、ここから「胡風反革命集団粛清」の闘争へと展開した。

“胡風批判”運動で25年間の投獄 [現代中国ライブラリィ]
胡 風 Hu Feng  1902--1985

 文芸評論家、詩人。本名張光人。湖北省?県出身。筆名は他に、光人、谷非、谷風、秋明、孟林など多数。湖北省の人。貧しい豆腐職人の三男として生まれる。1920年に武漢の中学に進み、新文学の影響を受ける。
 5・30事件後の23年に北京大学予科に進み、魯迅の中国小説史の授業を聴講。29年に日本に渡り、31年に慶大学英文科に入学。プロレタリア文学理論に触れ、小林多喜二、中野重治らと知り合う。日本共産党に加入。
 逮捕・拘留後、33年に強制送還で上海に戻り、左翼作家連盟宣伝部長、書記などに就任。34年から職業作家となり、魯迅と親交を深める。34年に国民党との関係を疑われて書記を辞職。評論活動に転じる。
 36年には魯迅や馮雪峰の賛同を得て「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンを打ち出し、周揚らの「国防文学」を激しく批判(国防文学論争)した。抗日戦争開始後の37年に『七月』を創刊。45年に『希望』を創刊。抗日戦争勝利後に北京へ。
 49年の解放後は、全国文学芸術工作者連合会委員、中国作家協会理事をつとめ、文芸界の代表として政協に参加。その後、「紅楼夢」研究批判に端を発した『文芸報』批判の会議での発言をきっかけに、周揚らに激しく批判される。55年、毛沢東の指示で「胡風批判」運動が始まり、胡風の文芸理論はブルジョア文芸思想と弾劾され、自己批判を余儀なくされた。同年5月に反党反革命の頭目として逮捕。
 長期の投獄を経て、79年に出獄、翌80年名誉回復。その後、全国政治協商委員、全国文連委員、中国作家協会顧問などを歴任した。著書に評論集『文芸筆談』など。


1956 公私合営

 

 

 

 

 

 

 

 1956年1月、全国の全産業界で公私合営のブームが起こる。

公私合営
 政府が資本家に対して、所有企業の財産に対して一定の利子を支払って管理権を取得し、資本家にたいしては経営管理者などとして仕事を保証するというもの


1957 反右派闘争の拡大

 

 

 

 

 


 1957年、反右派闘争が拡大化した。「反右派」のスローガンが1957年の国慶節パレードの列に突如として現れた。


1958 「大躍進」運動

 

 

 

 

 

 

 

 

 1958年5月の党の中共第8期全国代表大会第2回会議で社会主義建設の総路線が正式に通過し、15年あるいはそれより短い期間の間に、主要な工業製品の生産量の面でイギリスに追いつき、追い越すことが全党と全国人民に呼びかけられた。
 会議の後、全国の各戦線では速やかに「大躍進」のブームが盛り上がった。これは経済建設において高すぎる指標、盲目的な指揮、誇張の風潮を蔓延させた。1960年の冬に、中共中央と毛沢東は農村での業務の「左」傾の誤りの是正を開始し、「大躍進」は停止された。「大躍進」は国民経済に深刻な打撃を与え、社会主義建設の事業に重大な損失を与えた。


1959 廬山会議の開催

 

 

 

 

 

 

 1959年7月2日から8月16日まで、中共中央は廬山で相次いで政治局拡大会議と第8期八中全会(中央委員会全体会議)、即ち廬山会議が開かれた。


1960 三年の自然災害の開始

 

 

 

 

 

 

  1960年、全国の広い範囲が災害の被害を受け、そのうち河北省、山東省、山西省が最も被害の深刻な地域で、耕地面積の60%以上が被害を受けた。3年にわたる災害の開始である。


1961 中共第8期九中全会が開催

 

 

 

  1961年、中国共産党の第8期九中全会が1月14日から18日まで北京で開催された。第8期九中全会では国民経済に対する「調整、堅持、充実、向上」の8文字で表される方針が提出された。


1962 7千人大会の開催

 

 

 

 

 

 

  1962年1月11日から2月7日まで、中共中央は北京で拡大された中央工作会議を開催した。会議には県委以上の各級の党委員会の主な責任者7000人が参加したため、この大会は「7千人大会」とも呼ばれる。

  毛沢東がこの会議を主導した。劉少奇が中央を代表して文書報告を作成した。報告では建国以来12年の業務、特に「大躍進」以来の業務の経験と教訓に対して総括を行った。

  1月30日の大会では、毛沢東は重要講話を行い、民主集中制の実行と、党の内外での民主の発揚の問題について特に強調し、系統的に言述した。


1963 毛沢東が「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぶ)」のスローガンを提出

 

 

 

 

 

 

  1963年3月5日、毛沢東は「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぶ)」のスローガンを出し、これより後、雷鋒を模範として学ぶという大規模な民衆運動が全国範囲で急速に展開された。

雷 鋒 Lei Feng  1939--1962
 人民解放軍模範兵士。湖南省の生まれ。貧しい家に生まれ、幼くして父母を亡くし、苦労を重ね、1960年に人民解放軍に入隊。任務に励み、毛沢東思想を真剣に学習し、他人に対する思いやりをもって数々の善行を行い、模範共産主義青年団員、標兵(目標となる兵士)として表彰を受けた。62年8月15日、瀋陽部隊運輸中隊分隊長として自動車整備中に、22歳の若さで事故死。死後、人民解放軍模範兵士として「労働模範」「五好兵士」などの称号を得る。


1964 中国初の原子爆弾の開発に成功

 

 

 

 

 

 

 1964年10月16日、中国発の原子爆弾の開発に成功した。


1965 第28回世界卓球選手権大会で中国選手が空前の勝利を得る

 

 

 

 

 

 

 

  1965年4月15日から25日まで、第28回世界卓球選手権大会がユーゴスラビア(当時)のリュブリャーナ(Ljubljana)で行われた。中国選手はこの世界選手権大会で空前の輝かしい勝利をおさめ、庄則棟が男子シングルスで再び優勝し、林慧卿、鄭敏之が女子ダブルスで優勝、庄則棟、徐寅生が男子ダブルスで優勝した。


1966 毛沢東が紅衛兵と接見

 

 

 

 

 

 

 

 

 1966年8月18日、北京の天安門広場で「無産階級文化大革命祝賀大会」が開かれた。7時30分に大会は開始された。「東方紅」の楽曲の流れる中、軍服を纏った毛沢東、林彪、周恩来など党と国家の指導者が天安門の上に現れ、広場で歓声を上げる百万の教師・学生、紅衛兵と会った。


1967 中国発の水素爆弾の爆発試験に成功

 

 

 

 

 

 

 

 1967年6月17日、中国が自ら設計、製造した初めての水素爆弾が中国西部上空の大気層で爆発試験に成功した。


1968 南京長江大橋鉄道橋の建設

 

 

 

 

 

 

  1968年10月30日、南京長江大橋鉄道橋の建設が完成し通行が開始された。12月29日、大橋道路が完成し車輌の通行が開始。この現代的な橋は中国が自ら設計、施工して建造したものだ。


1969 第9期全国代表大会北京で開催

 

 

 

 

  1969年4月1日から24日まで、中国共産党第9期全国代表大会が北京で開催された。第9期全国代表大会では法治報告と党章を通過させ、選出された中央委員会が、「文化大革命」の誤った理論と実践を合法化し、林彪、江青などの中央での地位を強化した。この大会での思想上、政治上、組織上の指導方針はみな誤ったものだった。


1970 初めての人工衛星を発射

 

 

 

 

 

 1970年4月24日、中国初めての人工衛星の発射に成功した。


1971 中国は国際連合での合法的な地位を回復

  1971年10月25日、第26回国連総会で、賛成76票、反対35票、棄権17票の圧倒的多数でアルバニア、アルジェリアなど23カ国の提出した中華人民共和国の国際連合での一切の合法的権利の回復と、蒋介石グループの代表を国際連合の一切の機関から駆逐するという要求を通過した。11月15日、中華人民共和国代表団は初めて国連総会に出席した。


1972 ニクソンの訪中

 

 

 

 

 

 

 1972年2月21日から28日までアメリカのニクソン大統領が中華人民共和国政府の招きに応じて中国を訪問した。毛沢東はニクソンに会見し、28日には上海で中・米双方の共同コミュニケを発表した。中・米両国による共同コミュニケの発表は、中・米両国が20年以上の対立状態を経て、関係正常化に向かい始めたことを表している。


1973  受験生・張鉄生が白紙提出

 

 

 

 

 

 

  1973年、遼寧省の受験生・張鉄生(前左)が大学の文科系受験に白紙回答を提出する。

“白紙答案で”一躍英雄に  [現代中国ライブラリィ]
張鉄生 Zhang Tiesheng  1950--

 文革期に「白紙答案」で一躍英雄になった受験生。遼寧省出身。1968年白塔人民公社に下放。73年に労農兵学生として大学を受験したが、物理化学の試験を白紙で提出。答案の裏に試験内容が知識に偏重し、入試制度が大衆に門戸を閉ざしていると強烈に批判した。
 これが文革派の毛遠新によって、『遼寧日報』に発表(73年7月「深く考えさせられる一枚の答案」)。これを契機に張鉄生は、教師の管理に反対を唱えた黄帥らとともに、教師を尊敬し教育を重視する中国の伝統に反対する「反潮流の英雄」として教育革命のシンボルとなった。張鉄生は大学に入学できたばかりか、全人代常務委員にまでなった。
 文革後は、この白紙答案事件を批判する気運が強まっていった。また、受験戦争が大きな社会問題となり、大学闘争の余波が残っていた当時の日本でも、この白紙答案事件は話題となった。(2003年5月7日作成)


1974 秦の始皇帝の兵馬俑が発見される

 

 

 

 

 

 

 1974年、陜西省臨潼県の秦始皇陵の東側で、巨大な規模の秦の時代の陶俑坑が発見される。秦始皇帝の兵馬俑の発見である。


1975 ケ小平が中央の日常業務を担当

 

 

 

 

 

 

 

 

 1975年1月13日から17日まで、第4期全国人民代表大会第1回会議が北京で開かれた。「四人組」の組閣の陰謀は挫折した。会議の後、周恩来の病状が悪化し、ケ小平は毛沢東の支持の下、中央の日常業務を実際に開始した。


1976 「四人組」を断罪

 

 

 

 

 

1976年「四人組」を断罪。

 


1977 高考(大学入試試験)が再開

 

 

 

 

 

 

1977年に高考(大学入試試験)が再開される。


1978 生産請負責任制を実行

 

 

 

 

 

 

 

 1978年に生産請負責任制を実行した。

 1978年の中国共産党11期3中総は、活動の重点を社会主義現代化建設に移し、改革・開放を実施するという戦略的政策決定を行った。改革はまず最初に農村で行われ、農家生産量リンク請負責任制、統合・分割結合という二重の経営体制が推進され始めた。農産物・副業生産物に対する統一買付・割当買付はちくじ取り消され、大部分の農産物・副業生産物の価格が自由化した。農村の産業構造が調整され、多角経営と郷鎮企業が発展して、農民の生産意欲がこの上なく大きく引き出された。


1979 ケ小平が訪米

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1979年にケ小平がアメリカを訪問する。


1980 林彪、江青の反革命集団の公開裁判を行う

 

 

 

 

 

 

 1980年11月20日、最高人民法院の特別法廷は林彪、江青の反革命集団の10人の主犯である江青、張春橋、姚文元、王洪文、陳伯達、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、江騰蛟の公開裁判を開廷した。

 

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