日本経済新聞 2011/9/20

iPS臨床応用へ前進 山中教授らの作製から5年

 体の様々な細胞に成長する能力を持つiPS細胞(新型万能細胞)を作製したと、京都大学の山中伸弥教授らが世界で初めて発表してから約5年。2006年8月にマウスの細胞で成功し、翌年11月にはヒトの細胞でも実現した。新薬や再生医療への応用が期待され研究競争が激化するなか、日米欧などで基盤特許も取得した。山中教授はいま、ノーベル賞に最も近い日本人といわれている。
 

 "魔法の遺伝子"・・・。
 今年6月、京大で開いた記者会見で、山中教授は新発見の遺伝子「Glis1(グリスワン)」をこう表現した。iPS細胞を医療応用する際に最大の懸案とされる発がんの危険性を、この遺伝子を使えば大幅に低減できるという。
 iPS細胞は皮膚細胞.などを時計の針を巻き戻すようにして、体の様々な細胞になる前の状態にしたものだ。再び時計を進めて、欲しい細胞を作れる。既に心筋や神経、網膜などの細胞の作製に日本を含む多くの国の研究者が成功している。
 山中教授らが06年に発表したiPS細胞は、マ.ウスの皮膚の細胞に「山中因子」と呼ばれる4個の遺伝子を組み入れて作製した。だが、そのうちの1個はがんとの関連が指摘され、できたiPS細胞を様々な細胞に成長させる過程でがんが発生することがあった。
 この遺伝子なしにjPS細胞を作ることにも成,功したが、それでもがんのリスクは残る。iPS細胞を作るときに不完全な細胞が生じてしまい、がんのもとになっている.と考えられている。
 山中教授らは発見したGlis1を、山中因子と一緒に皮膚の細胞に入れて調べた。不完全な細胞が死滅し、完全なiPS細胞の作製効率は4倍以上に向上した。山中教授は普段、患者に過度の,期待を抱かせまいと慎重.な発言が多いが、Glis1の記者会見では「臨床応用に大きく前進した」.と手応えを語った。

2011年6月9日

転写因子Glis1により安全なiPS細胞の高効率作製に成功

 前川桃子助教(ウイルス研究所/iPS細胞研究所/科学技術振興機構(JST)山中iPS細胞特別プロジェクト)と山中伸弥教授(物質−細胞統合システム拠点/iPS細胞研究所/JST山中iPS細胞特別プロジェクト)の研究グループと、五島直樹主任研究員(産業技術総合研究所バイオメディシナル情報研究センター/独立行政法人新エネルギー・産業技術統合開発機構(NEDO)iPS細胞等幹細胞産業応用促進基盤技術開発)の研究グループとの共同研究が英国科学誌「Nature」6月9日号に掲載されました。

 従来ははiPS細胞(人工多能性幹細胞)を作製するために4つの転写因子(Oct3/4, Sox2, Klf4, c-Myc)を皮膚の細胞に導入していましたが、c-Mycによる腫瘍発生が懸念されていました。また、c-Mycなしでの誘導では、作製効率が低いこともあり、安全なiPS細胞を効率よく誘導する方法の開発が望まれていました。
 本研究では、iPS細胞誘導に関わる複数の新規因子を探し出し、そのうちのひとつ、卵細胞で強く発現するGlis1を3因子(Oct3/4, Sox2, Klf4)と一緒に、マウスまたはヒトの皮膚の細胞へ導入したところ、いずれの場合もiPS細胞の樹立効率が顕著に改善できました。さらに、Glis1は初期化が不完全な細胞の増殖を抑制し、完全に初期化した細胞のみ増殖することを明らかにしました。Glis1と3因子(Oct3/4, Sox2, Klf4)で誘導したiPS細胞は、3種類の胚葉からなる奇形腫を形成し、多能性があることを示しました。さらに、iPS細胞由来のキメラマウスから全身がiPS細胞からできたマウスが生まれたことで、iPS細胞が体細胞だけでなく生殖細胞へ分化する能力を持つことが確認できました。また Glis1を用いて樹立したiPS細胞由来のキメラマウスでは、c-Mycを用いて作製された場合のような顕著な腫瘍発生や短命化はみられませんでした。一方、Glis1の機能を解析し、iPS細胞ができるときに、初期化が不完全な細胞でGlis1が働き続け、増殖を抑えることを明らかにしました。つまり、増殖している細胞は完全に初期化された細胞と言えます。
 これらの結果は、Glis1を用いることにより、安全性の高いiPS細胞を効率よく作製できる可能性を示しており、臨床応用に使用可能なiPS細胞作製方法の確立に大きく貢献することが期待されます。

 この5年間で、iPS細胞は治療に使う移植用材料の研究や新薬の開発、難病の解明などに幅広く使われるようになり国際競争が激しい。このため、山中教授と京大はiPS細胞に関する特許の取得に尽力。京大は今年7月に欧州で、8月には米国でそれぞれ作製技術に関する重要な特許を取得したと発表した。
 既に日本をはじめ、ロシアなど旧ソ連9か国で効力を持つユーラシア特許のほか、南アフリカ共和国、ニュージーランド、イスラエルなどでも特許を取得済み。加えて世界最大の医薬品市場がある米国や先端医療研究が活発な欧州で取得できた意味は大きい。
 有力な特許は日本の新薬開発や再生医療の研究を後押しし、iPS細胞技術の実用化に役立つ。研究者が多く資金も豊富な米国はiPS細胞関連の研究を猛烈な勢いで進め、特許取得に積極的。日本の特許庁の調査によると、04〜08年に国際出願されたiPS細胞関連特許の約半数は米国の企業や大学によるものだ。
 仮に米国の企業1社に有力特許を握られれば、iPS細胞は日本発の大成果であるにもかかわらず日本の研究が制約を受けかねない。日本の患者が新薬や治療に高額な支払いを迫られる懸念がある。京大は取得した特許の使用権を広く供与しようと考えている。
 これまでのところ、iPS細胞による患者の治療は始まっていない。だが、整形外科医出身の山中教授は「患者に役立ちたいという思いを常にずっと抱いている」。様々な分野の医師や専門家と協力して、3年後をメドに一部の病気で臨床応用に踏み切りたい考えだ。
 iPS細胞の学術的な意義も大きい。1個の受精卵が何度も分裂し皮膚や心臓、骨など体を構成する多様な細胞・組織に成長して個体ができる。山中教授はこの発生のプロセスを逆転させ、皮膚の細胞から受精卵のような、あらゆる細胞に成長する能力(万能性)を持つiPS細胞を作ってみせた。発生の仕組みの解明へ前進した。

期待膨らむ「iPS細胞バンク」 患者への提供 迅速に

 iPS細胞は患者自身の細胞から治療に使える細胞や組織を作れ、再生医療の切り札とされている。しかし患者ごとに作ると費用がかさみ、時間もかかる。そこで山中教授らが目指すのが「iPS細胞バンク」だ。必要な患者にiPS細胞などをすみやかに提供できるようにしたいという。
 iPS細胞は作製に数カ月〜半年かかる.。脊髄損傷の場合、けがから1カ月以内に処置しないと治療効果が見込めない。現状では患者の治療に間に合いそうにない。iPS細胞バンクには様々な種類のiPS細胞や、それから作った細胞を保存しておき、最適なタイミングで患者に提供できるようにする。
 バンクで扱うiPS細胞は第三者が提供する体細胞で作る。患者自身の細胞ではないので拒絶反応が起きるが、「HLA」と呼ばれる白血球の型を合わせれば治療に使えるという。HLAの型は少なくとも数万種類あり、一致する人を探すのは極めて難しい。しかし父親と母親から同じ型を引き継いだ人(HLAホモドナー)の体細胞なら、O型の血液のように多くの他人に移植できる。
 試算によると、75人のホモドナーの体細胞からiPS細胞を作れば、日本人の8割の治療に使えるiPS細胞を確保できるという。バンクにこうしたiPS細胞を保存しておけば、臨床応用を支える重要なインフラとなりそうだ。
 山中教授らは体のどの部分の細胞を提供してもらうのがよいかという研究や、細胞の最適な品質管理の方法など関連技術の開発も急いでいる。1〜2年内に確立し、バンクに役立てたい考えだ。
 

Q&A iPS細胞、なぜすごい?

Q iPS細胞とは。

A 体を構成する多種多様な細胞に成長(分化)する能力を備えた万能細胞の一種です。京大の山中教授らが世界で初めて作製に成功し、,「人工多能性幹細胞」と命名しました。「i」は「人工的に誘導された」、「P」は多能性、「S」は幹細胞を意味する英語の頭文字。米アっプル社の「iPod」をまねて、「i」を小文字にしたそうです。

Q 作製は。

A 皮膚から採取した細胞に「山中因子」と呼ばれる4個の遺伝子を組み入れる、比較的簡単な方法を使いました。これらは「Oct3/4(オクトスリーフォー)」「Sox2(ソックスツー)」「Klf4(ケーエルエフフォー)」「c−Myc(シーミック)」です。その後、がん.関連の「c-Myc」を除いた3つで作れることも確認しました。口の粘膜や親知らずの細胞などからも作れ、無限.に増やせます。様々な方法で刺激を加えると心臓や神経、肝臓などの細胞に分化します。

Q iPS細胞はどのように使えますか。

A iPS細胞は皮膚細胞などが、受精卵のように細胞が特定の機能を持つ前の段階に戻り、「初期化」されたと考えられます。できたiPS細胞にはもとの皮膚細胞などのゲノム(全遺伝情報)が備わっています。例えば心臓病患者の皮膚細胞から作ったiPS細胞には、その患者の遺伝情報があります。心臓の細胞に分化させれば患者への薬の効き具合や副作用の判定、病気の解明に役立ちます。病気の組織の機能を補う再生医療への応用も期待されます。

Q 万能細胞はほかにもあるのですか。

A 受精卵から作製する胚性幹細胞(ES細胞)がよく知られています。しかし生命の萌芽である受精卵を壊して作ることに反発が強く、ブッシュ前米大統領やローマ法王は研究に反対しました。またES細胞は患者自身の細胞から作れないので、そこから分化させた細胞や組織を移植すれば拒絶反応が起きると考えられ、免疫抑制剤が必要です。

Q 生命倫理の問題は難しいですね。

A iPS細胞ならES細胞が抱えるような倫理的問題を回避できます。ただ最近、iPS細胞を使って精子や卵子を作る研究で成果が出始めました。京大のグループはマウスのiPS細胞から精子のもとになる生殖細胞を作り、マウスを誕生させました。ヒトでこうした実験は禁止されていますが、世界各国で今後、生殖細胞を作製し使う研究が進むのを懸念する声も一部にあります。

Q 山中教授がiPS細胞を研究した経緯は。

A 山中教授は整形外科医をしていた頃、脊髄損傷など治療できないものも多いことを知り、改めて研究をしっかりやろうと決心したといいます。成果を医療につなげたい気持ちは強く、ES細胞の倫理的問題や拒絶反応を克服するため、患者自身の細胞から万能細胞を作ろうと意欲を燃やしました。

Q すべて順調にいったのですか。

A しばらく米国で研究した後、日本に戻った時には研究環境の違いや乏しい研究費に戸惑ったそうです。しかし1999年に奈良先端科学技術大学院大学に赴任後は研究室のメンバーに恵まれ、研究者間の交流も活発で、高価な実験機器も使えるようになりました。ES細胞の中で活発に働く遺伝子を若手が考案した方法を取り入れて調べ、山中因子を発見できました。山中教授は「iPS細胞につながる研究で一番大事な時期を奈良先端大で過ごした」と語っています。

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2011/9 毎日新聞 時代を駆ける

山中伸弥
大阪市生まれ。神戸大学医学部卒、整形外科医から研究者に転身、大阪市大大学院修了。
京都大教授・iPS細胞研究所長。

「スーパーマンになれ」

《姉弟の2人きょうだい。両親は、東大阪市でミシンの部品を作る町工場を営んでいた》

 共働きでね、とても忙しかったので、僕は基本的にほったらかしというか。鍵っ子ですから、やりたいことは何でも好きにさせてもらえました。あまり塾に行った覚えもない。虫(を捕る)よりは何か作ったりする方が好きな子どもでした。

 父は経営者ですけど、技術者としての姿が目に焼き付いています。(製品を)やすりで削ったりとか、最後の方まで自分で工夫してやっていましたから。自分も研究者ですけど、どちらかというと技術者の血の方が強い。技術をどんどん開発する方が合っているような気がします。

《中高一貫の大阪教育大付属天王寺中・同付属高天王寺校舎での学生生活は充実していた》

 わりと自由な校風でした。何人かの先生に「スーパーマンになれ」とよく言われました。勉強だけできても駄目だと。それがすごく体にすり込まれています。(中学から始めた)柔道を一生懸命やっていましたし、高校の時は「枯山水」というフォークバンドを組み、学園祭に毎年出ました。

 その経験が、研究を始めてからすごく生きて。米国でポスドク(博士研究員)をした時は、どうやってひとの3倍くらい研究するかと考え、実行するのが快感でした。研究室の実験機械を全部予約して、違う条件で一気に実験したこともあります。もちろん空いているのを確かめてやったんですが、まあ独り占めしているわけですから、ひんしゅくを買いましたね。

《柔道や、神戸大医学部時代に打ち込んだラグビーでは、けがが日常茶飯事》

 一番の重傷は大学で膝の靱帯(じんたい)を切ったことですが、それ以外にも鼻や足の指、手首など骨折だけで10回以上しているんですね。その度に整形外科のお世話になりました。中学生の頃から父に「医者になれ」とずっと言われていたこともあり高校2年くらいの時には「整形外科医になろう」と思っていました。大学3、4年ごろには、スポーツ外傷を治す専門医になるというはっきりしたビジョン(目標)ができました。

 

基礎研究に引き込まれ

《神戸大医学部を卒業後、整形外科医を目指し研修を始めたが、無力感に襲われた》

 整形外科は、自分のようにスポーツでけがをした人を治し、元気にして送り出すという明るいイメージがあったんです。でも、整形外科の領域の中でスポーツ医学はほんの一部。大多数の患者さんは関節リウマチや骨肉腫、脊髄損傷など、状態が悪化していくことの多い病気やけがでした。

 最初に担当したのは慢性関節リウマチの女性。みるみる悪化し、やせて寝たきりになりました。枕元にふくよかな女性が写った写真があったので「妹さんか誰かですか」と聞いたら、「先生、それ1〜2年前の私です」と言われ、驚きました。

 僕は手術が下手で、他の人がやったら30分で終わる手術が2時間くらいかかったんですね。でも、手術の上手な先輩でも治せない病気があるという現実を痛感しました。医者になってから知るのも、ちょっとお恥ずかしい話なんですけど。

 研修医の2年間は、その間に父親を亡くしたこともあり、非常につらい時期でした。治らない患者さんを多く診るうち、こういう人を治せるとしたら基礎研究だろうな、と思いました。

《いったん基礎医学を学ぼうと、大阪市立大大学院に進学。薬理学の研究室を選んだ》

 臨床とは全く違う世界でした。整形外科は職人芸的で、手術も決まった手順があり、それ以外は許されません。研修というより修行といった感じで、最初は面白いですが、単調に感じてしまうこともありました。

 基礎研究では、真っ白なカンバスに何を描いてもいい。非常に大変だけど自由でした。大学院生でも良い論文を書けば、世界中の人に読んでもらい、影響を与えられる。外国の人と競いながら交流もし、友人もできる。そういうところを魅力に感じました。

 最初は臨床に戻るつもりが、だんだん、もうちょっとやりたいと思うようになりました。10年20年頑張ったら、今治せない病気の人を治せるようになるかもしれないと。「基礎研究で頑張る」という、新しいビジョン(目標)ができました。

米国留学、そして危機

《大阪市立大大学院終了の93年から米国留学》

 「ネイチャー」などの科学誌に載っているポスドク(博士研究員)の公募に片っ端から応募し、最初に呼んでくれたサンフランシスコのGladstone心血管病研究所に決めました。

 米国で習った一番大切なことは、研究者として成功する「Vision-Hard Work」、つまり目標をはっきり持ち、一生懸命やることです。当時のRobert Mahley夫妻が教えてくれました。これは当たり前のようで難しい。日本人は勤勉なのでハードワークは得意です。でも、ビジョンがなければ無駄な努力になってしまう。当時の僕も、ハードワークでは誰にも負けない自信があり、目の前の目標もあったけでど、気がついたら長期的なビジョンは見えなくなっていました。以来、5年、10年単位のビジョンを持つことを忘れないようにしています。

 もう一つ良かったのはES細胞(胚性幹細胞)に出合ったことです。ほぼ無限に増やすことができ、神経や筋肉など体を構成する200種類以上の細胞のすべてに変化できる「分化多能性」という能力を持っている。本当に面白い細胞で、夢中になりました。

《3年後に帰国。大学でマウスES細胞の研究を続けたが、危機に直面する》

 研究費はなく議論の相手もいない。ネズミの世話も専門の担当者がいた米国と違い、全部自分でやるしかありません。実験用のネズミを2匹、米国から持ち帰ったんですが、ーカ月で20匹、半年で200匹と本当にネズミ算式に増え、自分が研究者なのか、ネズミの世話をする人なのか分らなくなりました。

 薬理学教室にいたので周りはすぐに薬につながる研究をしている人ばかり。その中でネズミの細胞で基礎的な研究をしているわけですから、かなり浮いてしまって。いろんな人から「もっと医学に関係することをやったほうがいいんちゃう」と言われ、自分でも「何か人の役に立っているのかな」と自信がなくなっていきました。半分うつ状態になって朝も起きられなくなり、研究をやめる直前までいきました。 (PAD:Post America Depression)

「万能細胞」の夢に救われ

《一時は研究をやめようと思った山中さんを二つの出来事が救った》

 まず、98年に米国のジェームズ・トムソン博士がヒトES細胞(胚性幹細胞)の作成に成功したことです。ES細胞から神経や心臓、膵臓などの細胞を大量に作り出し、その元気な細胞を、いろんな病気やけがの患者さんに移植すれば機能回復を図れるんじゃないか、再生医学に使えるんじゃないかということが期待されました。そうか、僕がやっているマウスES細胞の研究は、これだけ医学に役立つ可能性があるんだと、すごく興奮したことを昨日のことのように覚えています。

 もう一つは、99年に奈良先端科学技術大学院大で、初めて自分の研究室を持たせていただいたことです。助教授の公募を見て、これで駄目だったら今度こそあきらめようというつもりで応募したら採用され、もうちょっと研究を続けてみようという気になりました。

《着任は37歳の冬》
 入ってすぐ、翌春入ってくる大学院生約120人を20の研究室で奪い合うことになると知り、頭を悩ませました。無名の若造の、しかも教授がいない弱小研究室を選んでもらえるだろうかと。「そうだ、夢のあるビジョンを示せば来てくれるかもしれない」と考え出したのが、ヒトES細胞が抱える課題を克服する、という目標です。

《ヒトES細胞は期待される半面、受精卵を壊して作ることから倫理的な問題があった。患者自身の細胞ではないため、細胞移植などで拒絶反応が起こる可能性もある》

 患者さん自身の体の細胞を、時計の針を逆戻りさせるように受精卵同様の状態に変化させ、ES細胞と同じような万能細胞を作る、というテーマを掲げたんです。これは「言うはやすし」だけれども20年30年かかる、もしかしたらできないかも、と分かっていました。
 でも、そういうことは一切言わずに、できたらどんなに素晴らしいかをとうとうとアピールしたところ、無事に3人の学生さんが、だまされたというか入ってくれました。その一人、高橋和利君(現・京都大講師)は、今も私と一緒に研究を続けています。

遊び心から万能細胞
 
《「受精卵を使わずにES細胞(胚性幹細胞)のような万能細胞を作る」。夢のような目標を実現するヒントは、一頭の羊が提供した》

 1996年に英国で生まれた体細胞クローン羊のドリーです。おとなの羊の乳腺細胞の核を卵子に入れて、ドリーが生まれた。つまり、ミルクを作る能力しかない細胞の核の中に、羊の全身を作り出す設計図、全遺伝情報が残っていたということです。

 この設計図は、3万ページの本に例えられます。そのうち1万ページほどに載っている内容で細胞が作られ、ページの組み合わせによって全く違う細胞ができる。大事なのは、どのページを開くかを決める「しおり」に相当する遺伝子です。

 もし、ES細胞の中でさまざまな種類の細胞を作る能力を維持している遺伝子を探し出し、体の細胞に無理やり入れれば、ES細胞みたいに変身するんじゃないか。単純な発想ですが、理論的にはできるという確信がありました。4年ほど研究を進め、遺伝子を24個まで絞り込みました。

《京都大に移籍した翌年の05年夏、24個すべてをマウスの皮膚細胞に一度に入れる実験を試みた。通常一つずつ、多くても数個ずつ入れるのが常識。後に「大胆」と驚かれる》

 僕も(研究員の)高橋和利君も、試しにちょっと遊び心でやってみようというくらいの気持ちでした。(24個の中に、探している遺伝子が)あったらいいなとは思いましたが、そんなに運がいいわけないと。

 「先生、生えてます!」。ある日、高橋君が部屋に飛び込んできました。シャーレの中に、ES細胞に似た丸い細胞の塊がありました。

 それまで、一見うまいこといったように見えてすごく喜んで、繰り返してみたら間違いだったということは何度もありましたから、今回もたぶんそうだろうと。もちろん「ほーっ」とは思いましたけど、高橋君に「ぬか喜びせんと、とにかく繰り返そう」と言いました。何度繰り返してもできる。それでも、どこかに落とし穴があるんじゃないかという恐怖感の方が強かったですね。

 

かみ合ったタイミング

《24個の遺伝子から、不可欠な4個に絞り込み、できた細胞をiPS細胞と名付けた》

 「人工多能性幹細胞」の英語表記の頭文字です。iだけ小文字にしたのは、携帯音楽プレーヤーのiPodなどからヒントをもらっています。

 06年8月に科学誌「セル」に論文が掲載されて間もなく、米国でシンポジウムに参加したんです。宿舎のバーで飲んでたら、知り合いの欧州の研究者たちが「あの論文、読んだか」「四つ(の遺伝子)でできるなんて、そんなのありえない」と話しているのが聞こえてきて、ああやっぱり、みんな疑いの目で見ているんだなあと。まあ、それは予想できたことでした。あまりに方法が簡単すぎるので。僕が逆の立場でもそう言うと思います。

《本格的な研究開始からわずか6年での成功》

 クローン羊ドリーなどの先駆的な仕事があり、目標を立てて戦略を考える段階ではたくさんの日本人研究者の仕事に助けられました。ES細胞(胚性幹細胞)と成熟した体細胞を融合させた京都大の多田高先生の研究や、理化学研究所の林崎良英先生が作ったES細胞で働く遺伝子を網羅したデータベース、さらに東京大の北村俊雄先生が開発した、遺伝子を細胞に組み込むためのウイルスなど、ちょうどタイミングがかみ合ったのは本当に運が良かった。

 研究をやめかけた時、奈良先端科学技術大学院大に拾ってもらい、一度死にかけたんだから何か面白い難しいことをやろうと思った。それも良かった。僕の大胆な思いつきにもかかわらず、研究室の人たちが本当に一生懸命実験をしてくれた。それぞれがたまたま1カ所でクロスした。それがなかったらiPS細胞はいまだに、少なくとも僕のところではできていないと思います。

《07年11月には人の皮膚細胞からもiPS細胞を作ったと発表》

 本当はもう半年くらい実験して、年明けに論文を投稿しようと思っていました。でも10月に米国に行った時「誰かが投稿しているらしい」と耳にし、慌てて帰りの飛行機の中で論文を書き上げました。結果は、米国のチームと同時でした。

 

iPSを成人させたい

 予想よりはるかに簡単な方法でiPS細胞(人工多能性幹細胞)ができたことで、人間の体にはまだまだ分かっていない力があると認識しました。科学技術の可能性も改めてすごいなと。今の夢物語が、30年後にはできるようになるかもしれません。いろんな人の地道な研究を積み重ねていけば、あるところでパーンとはじけるのではないか。そういう期待を強く持つようになりました。

 《今夏、米国と欧州で作成技術の京都大の特許が成立した》

 ほっとしました。もし少数の企業に特許が独占されれば、応用が遅れる恐れがありますから。研究同様、知的財産でも素晴らしいチームに恵まれ幸運でした。

 iPS細胞でいちばん幅の広い使い方は、患者さんのiPS細胞から特定の細胞を作り出し、試験管内で薬の効き目や副作用の予見をすることです。ツール(道具)として使っていただき、新しい薬が一つでも二つでもできてほしい。iPS細胞から作った組織を移植する再生医療についても、実現に向けて安全性の課題を克服していきたい。本当の意味で患者さんの役に立つ技術に持っていきたいという気持ちが研究の原動力です。

 《研究の合間を縫って、難病患者との交流を続けている》

 患者団体の集まりに参加したり、いろんな場面で思いを受け止めています。勇気づけられるのは、すぐには治療法がない患者さんにとって、iPS細胞を含むいろいろな発見が生きる希望になっているということ。あるお母さんから「iPS細胞ができて、本当に頑張ったら治る時代が来るんじゃないかと思った」と言っていただいた。大変なのはお子さんとご自分なのに、私たちの健康まで気遣っていただいた。

 僕は基本的に飽きやすい性格で、すぐに新しいことをしたくなってしまう。今までは、好きなことをやっていたらいい、僕の人生や、という感じだったんですけど、iPS細胞と出会ってからはそうはいかない。当面は、自分の「子ども」であるこの技術を守り、ちゃんと成人するまで育てていきたいと思います。


iPSバンク 

 

特別な白血球持つ50人の細胞あれば日本人9割カバー
再生医療への応用が期待される新型万能細胞(iPS細胞)について、特別なタイプの白血球を持つ50人から細胞の提供を受ければ、日本人の約9割をカバーする移植用の細胞バンクを作れるという試算を、中辻憲夫・京都大再生医科学研究所教授が2008年5月、京都市で開かれた国際シンポジウムで発表した。

細胞や組織、臓器を移植した時に拒絶反応が起きるかどうかは、白血球の型(HLA:ヒト白血球型抗原 Human Leukocyte Antigen)が、どの程度似ているかで決まる。HLAの種類は非常に多いが、O型の赤血球をすべての血液型の人に輸血できるのと同様に、HLAにも3万人あたり1〜7人程度、移植しても相手に拒絶反応が起きにくいタイプが存在することに中辻教授は着目した。

ヒトHLA抗原は、第6染色体短腕上に存在する主要組織適合遺伝子複合体(MHC)の産物で、その型の種類は多く、まずA座のA1,A2,A210(2),A3…A80、B座のB5,B7,B703(7)…、C座の…、DR座の…と続き赤血球の型とは比較にならないほど膨大で、その組み合わせは数万通りといわれる。

こうした人を探して皮膚などの細胞を提供してもらい、iPS細胞を作れば、50人の提供で日本人の約90%をカバーできるという。

まず、HLA-A, HLA-B, HLA-DRの3遺伝子座がホモ型の異なった組み合わせのiPS細胞株を30株作製すれば、82.2%の日本人にとって3遺伝子座がマッチングしたiPS 細胞が見つかり、50株作製すれば、90.7%の日本人にとって3遺伝子座がマッチングしたiPS細胞が見つかることが分かりました。

次に、HLA-A, HLA-B, HLA-DRの3遺伝子座がホモ型のドナーが見つかる確率を調べたところ、骨髄バンクもしくは臍帯血バンクに登録されているドナーのうち、15000人のデータベースを調べれば、異なった30種類のHLAタイプのホモ型のドナーが発見でき、24000人のデータベースを調べれば、異なった50種類のHLA タイプのホモ型のドナーが発見できることが分かりました。

 

中辻教授は「個々の患者自身の細胞からiPS細胞を作るには、多額の費用と時間が必要になるが、細胞バンクを作っておくと、多くの人が恩恵を受けられる。既存の骨髄バンクなどの協力が得られれば、かなり早い時期に実現できるだろう」と話している。