丸善石油                     (栂野 83、 206〜)

和田完ニ 社長に就任

1)下津製油所

    1957/2 日本で最初の国産技術による石油化学プラント完成

     FCC排ガス中のブタン、ブチレンを原料に
      セカンダリー・ブタノール(SBA)  400t/m
      メチル・エチル・ケトン(MEK)     380t/m
      ジ・イソブチレン             90t/m
      ラフィネート               570t/m

    ◎1959/6 米SD社に技術輸出

2)松山製油所 芳香族設備建設計画

1958/12 BTX設備完成(UOP技術)

1960/4  パラキシレン 6000t/年完成 (雨宮法)
1960/5  テレフタル酸 2200t/年    (SD社法)

 ◎ 雨宮法PX技術 1961/7 米SD社に、1961/8独ルルギ社に技術輸出

3)松山コンビナート構想

   構想 エチレン 2万トン/年
        新日本窒素 アセトアルデヒド
        大阪曹達   ノネン、ドデセンなど洗剤原料
        久野島化学(現帝人化成) キュメン
        丸善石油  セカンダリーアルコール、イソブチレン

   MITI吉田班長コメント
     千葉(製油所検討)でどうか
     能力2万トンは小さすぎる(倍以上の規模でもおかしくない)

   新日本窒素提案
     千葉地区に工場を建設したい。
       PP (アビサン法技術導入に動く)
       アセトアルデヒド
        両者実施に松山では難しい。  
     →千葉県埋め立て地払下げ申請

4)千葉計画                             (栂野212)
    千葉製油所  1958/3 埋立地分譲契約締結
    石油化学は別会社方式で
              1959/9 丸善石油化学 設立

    千葉第1期計画
      大阪曹達、久野島化学 白紙撤回(千葉に行けない)

      丸善石化: エチレン44,000t (ルルギ)
              高級アルコール 20,000t (チーグラー)
              MEK 8,000t
      新日本窒素:アセトアルデヒド 31,500t
              PP 13,000t
              ポリブテン 2,500t
               1962/7 チッソ石油化学設立

     コンビナートにおける共同化理念
      1960/7 「事業提携基本協定」 丸善石化/丸善石油/新日本窒素肥料
            「吾友会」  3社+三和銀行
             ・結束を強めるため相互に情報を交換、地域との折衝には協力してあたる。
             ・企業計画、原料・製品の受渡し等についてはできる限りの協力を行う。
             ・工場建設、操業計画、共同施設の運営などで総合力の発揮に務める。
             ・第三者の参加の場合、協力して情報提供を行い、事前に調整する。

1960/10 ルルギのエチレン技術導入承認

宇部興産 参加決定(1960/12)
   1961/9 レクゾール・ドラッグ&ケミカルの高圧法PE技術導入

日本曹達 ニ本木までの貨車輸送では競争力なし →千葉進出      (栂野 214)
   1961/12 SDから EO、EG技術導入申請
     MITIは国産の日触技術利用を要請。
     交渉まとまらず、1年後に承認 → 1964/7完成

   日曹油化設立
     日本レイヨン(ユニチカ:ポリエステル繊維にEG使用) 15%
     新日本窒素肥料(土地提供) 34%
     日本曹達 51%

     → 1967 日本曹達 100%

   *日触と日曹のシェア争い
       日曹プラント完成までに日触に委託するも、顧客が一部日触に移る。
        →日曹 一時 石化協不参加、アウトサイダーに

電気化学 (三井系とみなされており、資本系列を越えた企業行動として注目)

   1959 5ヵ年計画:石化事業に出るべし。

   三井銀行(佐藤喜一郎社長) 独自でやれ。
     ・資金的に余裕なし (第一銀行と分離)

   1962/11 デンカ石油化学設立
     SM、PS
     ABS、アセトアルデヒド酢酸、エチレン法酢酸ビニル、EDCからの酢ビ

日産化学

   モンテとのPP技術導入交渉 断念 
     仮調印したが、技術料100万$の負担困難

   高級アルコール技術(仏クールマン)導入 1962/7
     チーグラー触媒技術導入
    1964/1 承認、日産石油化学設立

5)丸善石油経営危機          (栂野 218)

   第一つばめ丸 34,260トン(日本最大のスーパータンカー)
   第二つばめ丸 33,868トン

   スエズ動乱で運河閉鎖、喜望峰回りでタンカー不足

   丸善 閉鎖長期化を前提に 
        10年の長期傭船契約締結(輸入原油の8割) 
          基準レート+250 
     スエズ紛争 6ヶ月で終結、レート暴落(基準レート - 50〜70)  

   資金不足
     上記に加え、子会社群の赤字、ガソリンスタンドへの貸付金焦げつき等放漫経営

     外資導入案(ユニオン・オイル)ー MITI反対
     三和銀行による和田ひきおろし策
     財界による顧問団
     →国会で問題に

1963/1 和田社長辞任

    1963/3月期 5223百万円の赤字計上

6)民族系センター

1962/12 MITI、丸善石化に要望
       ・丸善石油との関係の再構築
       ・資金計画、収益見通し
       ・エチレン装置の建設見通し、誘導品事業の見通しの明確化

三和銀行の結論
 ・丸善石油再建と石油化学事業両方の資金需要に応えるのは無理
 ・石化に関しては誘導品企業の主力銀行の日本興業銀行との提携

三和/興銀 誘導品企業の共同出資要請

1963/4 第一回社長会 必要に応じて出資も
1963/11 社長会で結論(MITIの早期解決要望文書に応え)
  @連合各社は丸善石化に資本参加する。
     名称は変更しないが、精神的には新会社
  A新会社はナフサ分解を主体、合弁の精神で共同運営する。
  B今後の資金調達に当たり金融機関の意向に沿う。

1963/12 準備会答申案→社長会決定
  @各社(宇部、新日窒、電化、日産、日曹)は丸善石化(資本金25億円)に出資
  A株式譲渡価格は額面、丸善石油は持株の半分を各社に譲渡
  B各社持株比率は均等(丸善石油 50%、各社それぞれ10%)
  C丸善石化株式の譲渡は各社と丸善石油の同意が必要
  D各社は役員派遣 その他

1964/2 臨時株主総会、取締役会

 

7)操業開始

1964/4 エチレン試運転開始

7月   チッソ石化 アセトアルデヒド 試運転開始
     日曹油化  EO 試運転開始
10月  宇部    高圧PE 試運転開始
65/3月 電化 SM試運転開始

◎ルルギ法 サンド・クラッカー   原油分解では実績
         加熱した砂を熱媒体としてナフサを分解
        (他社はスチームクラッカー:高温の水蒸気を熱媒体)    

    砂が装置の内部を削り、さらに大量のコークスを発生させる

  試運転から年末までの8ヶ月で8回のシャットダウン
  分離精製工程で回収率が89%   

  誘導品各社に安定供給見通しで動揺

1964/末 日本石油化学に余剰エチレン融通申し入れ

 1965/1 岩谷産業の水素運搬用ボンベ・コンテナー車5台をチャーター
         5t/日の輸送 (3月以降は10台 10t/日)
 
 中期対策としてエチレン専用タンカー建造方針
   (コンビネーテッド・コンビナートへ)
  「第一エチレン丸」 総トン数200トン、液化エチレン積載量100トン、建造費190百万円
    1965/7 就航 2日で3往復 1965/下期に14,870トン輸送(ルルギ法生産量の2/3)

8)第二エチレン

1964/8 需要予測から、第二エチレン 100千tの建設決定

1964/10 S&W法技術導入申請
    MITIの計らいで 1ヵ月半の異例の早さで認可

1966/1 火入れ式(着工後1年:エチレン装置工事の記録)

  サンドクラッカーはその後も補修工事をしながら運転
  1969/4 停止


東燃化学                 (栂野240〜)

1)東亜燃料の設立

1937 支那事変
     陸軍 民間の石油精製各社の大合同を目指す(航空燃料、潤滑油の確保)

       各社利害対立で難航

1939 東亜燃料工業設立
      日本石油と小倉石油が主な石油企業8社を説得

        日本石油 32%、小倉石油 22%、愛国石油 8%、
        朝鮮石油 12%、三菱本社 10%、早山石油 8%、 
        新津石油  4%、 丸善石油 4%

      のち日本石油が小倉、愛国を吸収合併、出資比率62%に。

2)Standard Vacuum Oil (SVOC) との提携

1948 SVOC、東燃の51%取得希望

日本石油
  GHQ:過度経済力集中排除法で会社分割の要求
  日石 :東亜燃料等の処分と交換に分割免除を要請

東燃・中原社長と日石・佐々木社長との交渉
1949/2 日石所有の62%分を東燃が引取り、うち51%分をSVOCに譲渡
       のち、SVOCは市場で買い集め、1960頃には55%に。

3)石化計画

 a) 東燃 1959/8 石油化学部設置

 b) 日東化学 化学肥料からの脱皮
        アクリロニトリル原料アセチレンをナフサから生産する構想
          当初SBA法に着目、実績なしでギブアップ (3年後に
住化が導入

       ソハイオ法アクリロニトリル技術導入(鐘化カネカロン原料)
       → 本格的な誘導品事業を
            高圧法ポリエチレン技術導入へ 
                 ↓       

高圧法PE技術

 日東化学、東洋高圧、東亜合成、三井石油化学等
  駄目元で残るメーカーの
デュポン、UCCと交渉
                   (英政府の戦時特例法でICIから技術供与を受ける)

 三井石化、東レナイロンの関係でデュポンに攻勢をかける→失敗
 住友化学も電線ケーブル向け絶縁用PE技術でUCCにコンタクト

 その後、デュポン方針変更     UCCも対日投資検討

1959 両社に申し込み

 デュポン:技術供与の関心なし
 UCC: (当初) 同上

SD社が技術供与可能と
  元は AGFO社(元BASFのイムハウゼンが開発) 

日東化学:SDと仮契約。(その後、東洋高圧も)
 MITI:実績なしということで断念を働きかけ
       古河化学の
中低圧PEの例
       日本で既に生産している。
       日東化学に高分子技術がない。

 

 c) 東亜燃料の計画

  エチレン 50,000t
    日東化学向け 21,200t (高圧法PE 20,000t)
    昭和電工向け 18,900t
              中圧法PE向け 10,000t
              アセトアルデヒド向け 8,900t
  東燃自体の計画
    PP 10,000t  下記参照
    ブタノール 16,000t
    C4留分 15,000t (JSR ブタジェン用)
    ブタジェン 7,000t (日本ゼオン)

   ◎ このうち日東化学高圧PE、東燃のPPが絶望的

モンテカティーニ PP技術の導入 

 1958/2 三井化学、日産化学が仮契約
         MITIが時期尚早として認めない決定 

         
日産化学 断念

 1959/7 東燃オプション契約調印
         有効期限 12/31
         モンテ、期間延長認めず
       (三井化学、三菱油化等がMITI行政指導に沿い交渉       
         MITIバックアップなしでは資格なしとモンテが認識 )

 d) 東燃の対応策
     呉羽化学塩ビ合理化計画
       「日本油化」設立案
         東燃、呉羽、鋼管化学、丸紅飯田、富士銀行
         川崎で
           東燃エチレン利用→EDC
           鋼管化学コークス炉ガスからメタン抽出、分解してアセチレン→VCM

       利害対立で潰れる。(のちにセントラル化学設立)

 e) デュポンの方針変更 1960/1     (栂野 258)

     高圧法PE事業を中心とする対日投資方針を固めた。
     関心を有する企業と協議する。
       50%出資前提、政府認可取得が確実な相手

     → 日東化学、三井石油化学、東亞合成化学と個別会談 

          日東化学(東燃/SVOCが応援)
          三井石化:三井グループ一本化(東洋高圧を降ろす)

     デュポン、一度は日東化学に内定
       東レ・田代会長が巻き返し、三井石化に決定 (2日後)

         デュポン、その後の交渉でノウハウ 800万$を主張
         三井側が、日東/UCC(下記)が400万$/300万$で交渉との情報で強気に交渉、
         最終400万$(1,440百万円)で決着 

         三井ポリケミカル 資本金 2,880百万円

 f) 日東化学の対応 

     UCC 対日投資を検討、副社長が来日(観光を兼ね)

     日東化学と面談、日東はデュポンの相手に内定の報で話しに入らず。
     直後に三井石化に決定との報
     帰国直前のUCCをつかまえ、三井/デュポンに対抗してのJV設立を説得
      (藤山社長の兄の外相のUCC社長宛て親書も手渡し)

     *その前にUCCは東亞合成にJV提案をしたが、デュポンの相手に内定したとの情報で
       提案を断る。

1960/3 UCC役員会で対日投資を前提とした日東化学との合弁計画を承認

1960/4 日本で交渉 →5/4締結
       JV社名:日東ユニカー
       ノウハウ対価:UCC 400万$/日東 300万$
         1,116百万$(310万$)で決着
         資本金 2,232百万円に。

 g) もう一つの高圧法PE計画

旭ダウ スイス・ダウ・へミーから高圧法PE技術導入交渉
       
AGFOのイムハウゼン法(日東化学等が交渉)がベース

         当時と異なり、SDのエンジニアリングと米ダウの製造ノウハウ組合せ
         工業化実績あり

      1960/8 技術導入契約

SVOC(東燃資本の55%所有)が東燃/旭ダウ提携交渉に乗り出す。
   豪州アルトナの石油化学事業でのダウとの協力関係の発展

  1960/4 旭ダウ高圧法PE用に原料エチレン供給の基本合意

 h) 東燃の計画修正

     エチレン 60,000t (←40,000t)
            日東化学LDPE向け 30,000t
            昭電アセトアルデヒド向け、旭ダウLDPE向け 20,000t
            呉羽、ゼオン等向けEDC用など 12,000t

     その後
        PP計画断念(モンテカティーニとの交渉不調)
        昭電アセトアルデヒド事業が徳山の出光コンビナートに立地変更

1960/5 Esso Research & Engineering のエチレン技術導入申請

  MITI 不確定要素(昭電アルデヒド、呉羽PVCなど)あり
      エチレン生産規模を調整できれば認可は妥当との見解
       (60千トンは無理だが、40千トン消化は確実)

 i) 外資比率問題発生                      (栂野 271)

日東化学、三井石油化学 50/50JV  MITI 出資比率再交渉指示
東燃:SVOCが55%

1960/10 昭電/デュポンの クロロプレン 50/50JV 昭和ネオプレン 承認
        外資政策の歴史的変更
 MITI:東燃にSVOCの比率を50%にするよう示唆
     SVOCにも日本政府の方針と伝える。

1960/11 SVOC了承
       背景にSVOC解体問題

1953 米司法省が5大国際石油企業相手に国際石油カルテルの独禁法違反審理

1960 Mobil、California Standard、Texacoは同意判決受諾拒否
    
Standard New JerseyとGulfが同意判決受諾
     
Standard New JerseyとSocony Mobil とのJVのSVOC解体、分割の条項

1960/11 計画を修正し再申請 (MITI指示)

   エチレン 40,000t (日東ユニカー 30,000t、昭電アセトアルデヒド 10,000t)
           EDC向け  関係各社意見調整進まず
           旭ダウ高圧法PE 認可延びる(→1962/1認可)
               ・商業的に確立しているかどうかの確認要
               ・1コンビナート1誘導品の原則(過当競争回避)

1960/12 認可
 条件 ・エチレンセンターは別会社とし、生産から販売まで一貫
      新会社役員には外国人を選任しない。
     ・日東ユニカーは高圧法PEは27,000tの生産規模を限度 1960/12認可
       (三井ポリケミカルの高圧法PEは24,500t)

 j) 東燃石油化学 

設立   1960/12
資本金 10億円   

1961/1 川崎工場起工式
       分解部門 40,000t    当時稼動の最大能力は日石化学の25,000t
       精製部門 83,000t  

1962/3 稼動 (高い固定費負担)

誘導品体制構築
・日東ユニカー エチレン引取り 1962には25,000tに(当初 15,000t)
・旭ダウ     高圧法PE 1962/1 10,000tで認可(工事開始直後に25,000tまでの増設認可)
            1964/1,1965/6の二期に分けて完成
・日石化学との相互乗り入れ
         日石化学の供給能力不足、両社の友好関係(東燃が日石需要家に用地提供)

・昭和油化(その後鋼管化学と合併し日本オレフィン)のアセトアルデヒド事業化は見送り
  但し 中圧法PE増設用エチレンの購入で埋め合わせ

・日本合成アルコールのエタノール用に日石化学と共同でエチレン供給 

エタノール
 当時のメーカー(免許制)
  糖蜜発酵法:協和発酵、三楽酒造、宝酒造(原料輸入、国際相場の乱高下)
  パルプ廃液発酵法:国策パルプ、山陽パルプ、王子発酵(王子製紙)
               (パルプ原木が糖分の少ない照葉樹に代わりつつあり、廃業の動き)

 MITI:エタノール生産に踏み切る
  三菱油化:シェル法(燐酸触媒)
  日石化学:イーストマン法(燐酸触媒)
  東燃石化:エッソ法(硫酸触媒)
  協和発酵:アセトアルデヒド水添法
 
  MITI/MOF協議の結果
   1963/8 日本合成アルコール設立(協和発酵、三楽、宝酒造)
     土地:日石化学
     用役:東燃石化
     エチレン:日石化学、東燃石化   

第一エチレン 手直し増強 →95,000t
1966/4 第二エチレン 110,000t スタート

 j) EDC計画                (栂野 281〜)

1960 日本油化 設立案 挫折

宇部曹達(ア法4社の一つ)
 1958 セントラル硝子設立(宇部曹達の主力製品のソーダ灰が硝子原料)
       宇部曹達 24.5%/第一物産/小野田セメント/協和発酵

 1962 宇部曹達とセントラル硝子合併→「セントラル硝子」 (物産の支援)

セントラル硝子、電解計画で東燃と提携
 1963/4 セントラル化学設立     
        セントラル硝子 70%/東燃 30% (コンビナートは運命共同体)
         電解苛性ソーダ 34,100t
            塩素     30,000t
         EDC        43,000t

   *「広橋電槽」 広橋憲亮副社長の開発(秘密主義で限定メンバーで開発)
     高い電流密度・低い電槽電圧→収率大で経済性高いとの触れ込み

     1964/4 竣工式 動かず
            広橋副社長 直後に病死、資料も不十分            

     呉羽化学にチェックを依頼
       基本的な原理が分かっていないとしか思えない発想だと判明

       呉羽の技術指導でプラント再建
       
  その後、川崎有機 設立 VCM生産
        東亞合成 70%、セントラル化学 20%、東燃石化 10%   

 k) その後の東燃石油化学の動き

「エチレン30万トン基準」で住友化学と輪番投資
  1971/12 30万トンエチレン完成

1974 PP事業化
1979 昭電の中圧法PE譲受(昭電の大分進出での川崎工場整理)
1980 日東ユニカー経営権 (日東化学経営破綻→三菱レイヨンへ→三菱レイヨン経営危機)
     →三大樹脂手中に

1990 東燃化学と改称

 


大協和石油化学          

1)協和発酵の石油化学進出                   (栂野 289〜)

目的は既存事業の合理化 (cf 住化の発想

  ・アセトン、ブタノールの原料転換
     廃糖蜜を原料とする発酵法→石油化学方式
  ・宇部工場 アンモニア系硫安・尿素の原料ガス源確保

U企画 (1958)
  エチレン・アセチレン併産 熱分解技術
   エチレン→エタノール→アセトアルデヒド
   アセチレン→アセトアルデヒド

    アセトアルデヒド→ブタノール(発酵法から変換、防府工場→宇部工場)

  オクタノール企業化
  水素→アンモニア原料

1959/7 技術導入契約承認申請
 
  ライトナフサ 90.2T/D
  →エチレン 36T/D+アセチレン 18T/D (モンテカティーニ社ファウザー法)
     エチレン→エタノール 55.2T/D (イギリスBPM社)
       エタノール→アセトアルデヒド 44.4T/D (S&W)
    アセチレン→アセトアルデヒド 29T/D (西独クナップザック)
     アセトアルデヒド計73.4T/D→ブタノール 45T/D+オクタノール 6.1T/D (S&W)

  原油 86.6T/D 分解→水素(ナフサ分解副生水素と合わせ)→アンモニア原料
    アンモニア→尿素 24,900T/Y+硫安 30,300T/Y

MITI エチレン/アセチレン併産技術の実績がないことに懸念

ワッカー法の出現(ヘキスト+ワッカーが開発)
  エチレン直接酸化→アセトアルデヒド
  プロピレン二段法空気酸化→アセトン

1960/11 技術導入申請 →1961/1 認可
  ナフサ分解(S&W)
    →エチレン 41,300t/y+プロピレン 21,300t/y
       エチレン→アセトアルデヒド 61,500t/y
               →ブタノール 25,000t/y
                 オクタノール 25,000t/y
       プロピレン→アセトン 25,600t/y
   副生ドライガス→アンモニア 45,000t/y
               →尿素 34,200t/y
                 硫安 54,600t/y

2)立地問題

所要ナフサ 20万Kl/年
     内航タンカーでの輸送費用 2億円
石油化学の将来性(他製品の石油化学転換の可能性)

   ↓

アンモニア原料転換と発酵法溶剤の原料転換の分離

 ・アンモニア:新潟県中条での天然ガス利用:協和ガス化学(日本鉱業とのJV)構想
           →宇部曹達(アンモニア購入)が強硬に反対→移転とりやめ
      *宇部のアンモニア関係事業 1961/8 分離独立 協和ケミカルズ
           →1971/7 再び協和発酵宇部工場    

      *協和ガス化学 メタノール/アセチレン生産
                   アセチレンは倉敷レイヨンのビニロン原料ポバール用
                  MMAモノマー生産
            →1990 クラレが吸収

 ・石油化学:四日市
     出光興産:徳山への誘致
     日本興業銀行:四日市の大協石油の新規製油所への誘致
       (興銀による住友化学誘致失敗)

大協石油への石化進出助言(興銀

 「石油化学なしで石油精製の大型化は困難」
   ナフサ供給企業に原油輸入外貨枠増大「ナフサメリット」
     石化用ナフサ需給ひっ迫に対応
         ナフサ1に対し原油1の特別割当(1958/4)
          →(1959)1:2→(1960)1:2.3

3)JV交渉

大協石油 1960/12取締役会で協和発酵との交渉入りを決定

1960/12 興銀中山副頭取立会いで協和・加藤社長/大協・密田社長会談
       →交渉入り

出資比率で難航
  大協石油:対等主張
  協和発酵:過半数主張(主力事業の原料転換、販売は協和、技術導入契約条項)
          50/50が条件なら破談と主張

  大協・新提案
    オレフィン部門:新会社(折半出資)
    誘導品部門:協和発酵事業

  技術提携先からの「協和発酵主導企業以外への供与は認めない」で決着

4)大協和石油化学

1961/5設立
  資本金 10億円
   協和発酵 60%/大協石油 40%

3社覚書
 ・大協は所要ナフサ全量を供給、価格は一般市価を勘案し相互信頼の念に基いて決定
 ・分解ガソリン、C4留分は大協が引き取る。
 ・生産予定のアセトアルデヒド、アセトン、オクタノール、DOP、MIBK、MIBC、DBP、
  酢酸エステル等は全量、協和発酵が引き取り販売

1963/11 竣工式

・エチレン 分解炉はS&Wの最新鋭炉(世界初の導入)
        Start/Stopの繰り返し
・アセトアルデヒド ウーデ技術 設計ミスによる数回の変更作業
・アセトン 実績ないため導入見合わせ
        →ヘキストの24千トンプラント設計を待ち導入、1964/10完成
・残り誘導品(ブタノール、オクタノール、DOP、MIBK、MIBC、DBP等) すべて協和自社技術

 

競争激化で市況悪化
・アセトン:日石化学(IPA→アセトン)
       三井石油化学(キュメン法フェノールの副生)
・ブタノール:日本合成化学、日本瓦斯化学、大日本化成(ダイセル)の進出
・MIBK:三井石油化学(セラニーズから技術導入、アセトン事業の合理化の一環)
     三菱化成も進出

5)第二期計画

大協和石油化学の採算悪化
  同じ後発の東燃石油化学が8万トンに対し、大協和 4万トン

大協和石油化学・渡辺社長:
  エチレン 10万トン構想
  それに見合った誘導品計画の検討指示
   協和発酵製品の原料転換から総合石油化学に

1964/5 MITI説明

  エチレン 100,000t、プロピレン  60,700t、B−B留分 35,000t
  アセトアルデヒド +11,000t、オクタノール +10,000t、アセトン +31,000t、MIBK+ 8,000t
  酸化エチレン 20,000t、エタノール 25,000t、LDPE 40,000t、アルキルベンゼン 12,000t、
  スチレンモノマー 15,000t、アクリロニトリル 10,000t、ブタジェン 12,900t,
  MEK 10,000t、ベンゼン 16,300t、トルエン 26,700t、キシレン 18,300t

  (絵に描いた餅との批判)

新増設構想ラッシュ
 大協和石油化学 100千トン増設
 三井石油化学 千葉に120千トン (岩国大竹に拡張余地なし)
 住友化学    千葉に100千トン (新浜手狭。新立地として名古屋→静浦→千葉)
 日本石油化学 横浜本牧に100千トン構想(オレフィン外販センターからの脱皮)
 三井化学/東洋高圧 大阪泉北で100千トン計画
 関西系企業(丸善石油、宇部興産、帝人など) 堺に85千トン
 昭和電工  鶴崎 100千トン
 東燃石油化学 増設 83千トン→143千トン
 化成水島  増設 45千トン→120千トン
 出光石油化学 増設 73千トン→100千トン

MITI 調整不能に
   ↓
MITI 「官民協調精神」
 1964/11 石化協で説明
         官民協調懇談会(当局と業界が同一の資格で委員を出し、投資調整)
 1964/12 官民協調懇談会 発足   

1965/1 懇談会 「エチレン製造設備新増設の方針について」
  ・1967年度 所要エチレン能力 145万トン
         既認可分       110万トン
         増加能力        35万トン(1965-66年度) 
    これに基き、三井石化千葉  12万トン
            住友化学千葉  10万トン認可
        加えて大阪石油化学(三井化学/東洋高圧)と昭電鶴崎に
        条件が整い次第、10万トンの認可

  ・20万トン体制
    「将来センターはエチレン生産能力を20万トン以上に拡大するものとし、
     用地・用水・輸送などの立地条件がこれに即応する可能性を有していること」  

大協和石油化学
  当面の認可を見送られるだけでなく、将来も20万トン拡大の見通しなければ対象外

6)三菱油化との提携構想

MITI 大協和に同情

三菱油化(吉田正樹・企画部長)との提携案
  三菱油化:四日市工場 20万トン増設希望
          誘導品計画が揃わず、とりあえず10万トン

  →輪番投資案

三菱油化案
  自社先行で20万トン建設
  エチレンを大協和に融通
  大協和の建設後、同量を返済
  但し、現実の決済は売り切り・買い切り

三菱/大協和 1966/5 調印(MITI課長 保証人としてサイン)  

   ・大協和は三菱油化の20万トンエチレン建設に協力
   ・油化は完成後、大協和に市場競争力を十分配慮した価格で
    年間3万トンを下回らないオレフィンを融通
   ・期間は大協和が他の手段でオレフィン調達ができるまで

   *「他の手段」というだけで、「大協和の20万トンエチレン建設」の表現なし
   *「大協和の完成後に融通量と同量の返済」の表現なし
   

「幻の輪番投資」
立会いのMITI課長の後の証言
  ・精神は輪番投資
  ・大協和側の企業力の問題(1〜1.5年後に計画あれば認可した)
  ・その後三菱油化の鹿島計画具体化で輪番投資立ち消え

三菱油化(吉田社長の後の証言)
  ・輪番の意識なし
  ・大協和の要請で、10万トン計画を変更して20万トンにした。 

7)大協和石化の20万トン計画実現への検討

EO・EG計画
   SD技術導入検討
   →既存メーカーのニューカマー反対(「国産技術なら別」:反対のための反対)

   →日本触媒の協力(八谷社長:「名義貸し」)
      協和発酵:DOP用に原料無水フタル酸を日触から購入している関係

     (同様例:住友化学千葉計画に日触がEOG 5万トンの名義貸し)

SM計画

  大日本インキのSM・PS計画(興銀斡旋)
     大日本:センターへの出資希望
     SM計画量は15千トン(経済規模3万トンに満たず)     

  日立化成のSM進出計画
     親会社の日立(大協和のエチレン建設担当)を通じ説得

  → 興銀仲介でSMの共同事業化

8)大協和石化再建策

国内乱立での売価低下→赤字の増大

 赤字の原因(オレフィンか誘導品か)についての大協石油と協和発酵の堂々巡りの論議

 

興銀案:オレフィン製造部門と誘導品製造部門の分離
       エチレンセンターにし、他の誘導品企業も誘致

       (設立時に大協石油が提案し、協和発酵が拒否)

誘導品会社「協和油化」
  1966/1 設立(資本金10億円、協和発酵 60%/大協石油 40%)

三菱油化との契約(3万トン引き取り)履行体制
   これをやれないとエチレン増設は無理

「AA計画」
   当初は酢酸計画
      グルタミン酸ソーダの原料用
   →アセトアルデヒド増強計画
       チッソと20〜25千トン供給契約まとまる。
         

1968/4完成 翌年末には125千トン(単一工場としては世界最大に)

9)その後

    MITI 「エチレン30万トン基準」

 (連載324で終了) 

   新大協和石化設立については高杉良「小説日本興業銀行」に詳細記載あり。 

 


旭ダウ

 

旭化成 1946年から2年以上労働争議

新生「旭化成」 ベンベルグ絹糸、レーヨンの次に何をやるか。
 ポリアミド繊維=ナイロンか、塩化ビニリデン繊維=サランか
     (サラン:1933年ダウが開発 VCプラスチックと称す)

 塩化ビニリデン 原料塩素あり、アセチレン用カーバイドは近くの電気化学から入手可能
 ナイロン 石炭→コークス→副生石炭酸→ナイロン(三井には石炭あるが、旭化成になし)

宮崎企画担当常務が決断  
日本でのダウとのJVを計画

呉羽からもダウに合弁提案

1952/7 旭ダウ設立 資本金4億円(50/50)
 延岡に塩化ビニリデン5t/dのチップ製造工場
 鈴鹿に5t/dの紡糸工場建設

繊維としての欠陥

3年半で累積損失1億円、在庫処分損失8億円 旭化成が負担決断
 (のち、食品包装材料として復活)

1957/4 川崎でPS国産化(原料輸入) 事前に市場調査
日本石油のエチレンセンターに参加、SM国産化

5年後にHDPE

旭ダウ    
    スイス・ダウ・へミーから高圧法PE技術導入交渉
  AGFOのイムハウゼン法(日東化学等が交渉)がベースだが、工業化実績あり

1960/8 技術導入契約

1962/1認可(以下の理由で認可が遅れた)
  ・商業的に確立しているかどうかの確認要
  ・1コンビナート1誘導品の原則(過当競争回避)
    東燃石油化学コンビナートで日東ユニカーと旭ダウがPE計画